2008年11月8日土曜日

八戸及び八戸人 3理美容の店バンブータケハラ 竹原庸彦氏


竹原氏は昭和十四年倉石村に父仁助・母ソヨの次男として誕生。父は村長を務め戦後公職追放を受け教育長で退職。この母ソヨさんが非凡な人で、竹原氏の生涯を方向づけた。この母は南部町の出身、生涯を通し足で現場を踏む、その場、そこの風を察知し、商売へと結びつけた。細腕繁盛記ってテレビ番組が昔あった。女主人が旅館経営をする苦労伝。覚えてる人は五十がらみだ。このソヨさんもそれを地で行った。
 昔は面白かった。人間年を重ねることが出来るのは楽しいことなんだ。やれ膝がいたいの、腰がだるいのと、今まで酷使してきた部品が音を上げるが、なに、死ぬほどのことでもない、有難いことだ。鶴田浩二も三橋美智也も六十代で死んだ。六十を越しても尚元気なのは、天から元気を授かったんだ。不平や不満を言わずに、ヨタやガタの来た体と上手につきあうことだ。
 この竹原氏の話は現代の若者に元気を与える。学校の成績がかんばしくなく、高校を中退しても、なに、死ぬわけじゃない、ほかにチャンと道が用意されている、一度や二度の挫折(ざせつ・中途でくじけること)や蹉跌(さてつ・つまずくこと)で嘆いて自棄(やけ)を起こすな。人生ってのは巧くいかない、思ったようにならないからこそ、生きてる味わいを感ずることができるもの。考えてもみろ。パチンコに行く、必ず大儲け、競馬に行く、これまた大儲け、三日町を歩くと大金を拾うじゃ、面白くもおかしくもない。たまに、そのような大儲けがあるから、当たるかな、当たらないかなと期待と希望が湧く、毎回、毎日、幸運ばかりじゃ生きてる喜びを知りえないんだ。
 不遇、不運は連続するように見えるが、それも色眼鏡、人生なかなか奥行き深い。
 さて竹原氏だが五戸高校に進学、兄貴も同じ高校、成績が優秀だったそうだ。どうしても弟は兄貴の後を行くだけに批判される。
 女教師がこういったそうだ。
「お兄さんはできたのに…」
 (中央母、右渡辺氏、左竹原さん)
その一言で高校に行く気をそがれた。教師ってのは教室ではどんな勝手な言葉を吐いてもとがめられない。なんてたって、隔離された個室、校長や教頭、教育委員会の人間なんてめったに来ない。だから、こうした心無い言葉を平気で陽気に喋る脳天気。
 生徒がそれがもとで学校をやめようがさぼろうが、教師の給料が減る訳もなし。今日も昨日と同じことを繰返す。それも何十年も。のんきな商売やめられない。
 そうした教師からのいじめを受け、竹原氏はぶらぶら、よくしたもんで、この人は人に助けられるように出来ている。ナショナルの松下幸之助、これは立志伝中の人物、この人の成功の礎が二股ソケット。若い人にはピンとこないだろうが、天井の電球から線を延ばしてラジオの電源を取るような器具。便利だが最初は商売の神様とよばれた松下も売れずに苦労。大正七年の頃の話。ところが、この二股ソケットを八戸近在に売って歩いた人がいた。城下にある名久井理美容商事の創始者。この人は努力の人で、自転車に荷物を積ん (渡辺師匠と弟子たち)
で八戸から倉石村や田子あたりまで、二股ソケットとバリカンなどの理美容道具を販売。
 倉石村の村長も勤めた父親と名久井さんは親しい間柄、竹原さん宅に宿泊し、隣村まで行商する。この人に母親が頼み込む。倅を床屋にしたい、八戸の理美容学校を受験させたい、八戸で下宿させなければならないが、あんた倅の保証人になってくれ。
 当時は床屋になりたい、美容師になろうという人が多く、百五十人の生徒募集に五百人も集まる程。名久井さんの保証が効いたのか竹原さんの学力が勝っていたのか、ともかく合格し大都会八戸に下宿。一年間の学習は瞬く間に過ぎ、(当時は一年で卒業)竹原さんは八日町のワタナベ、主人は十六日町の根市理髪館(根市茂吉、明治四十二年開業)で修行した有名な渡辺良一のもとに修行にでた。このワタナベの本店は六戸、田舎町で物足らずと、この主人は六戸を飛び出し大都会八戸に出てくる。藩政の時代から繁栄してきた八戸だけに、近郷の人には魅力があったんだろう。床屋には二つのタイプあり。一つはこのワタナベさんの(六戸修行時代・兄弟弟子と。左竹原さん)
ように技術を誇る、もう一つは目立たずにひっそり型。このワタナベさんは、青森県の床屋の技術大会で何度も優勝。それでも物足らずに岩手県でも腕試し。床屋  は国家試験、どこの県でも営業はできる。しかし。技術大会は、その県に登録していないと出場できない。ところが腕がむずむずしたんだろう。弟子が久慈に開店した。そこに籍を置いて岩手県大会に出場し優勝旗をさらった。が、ばれた。もともと青森の人間が腕試しとは言え岩手県の旗を持って行った。旗だけにはた迷惑だったんだろう。根性のある人だった、ワタナベさんは。この人は塩町にも支店をだした。店の名はアート理容室、近藤さんの経営する大黒湯の二軒隣。
 さて、竹原さんは六戸の本店で一年間修行、六戸は農業の町、お客さんは農家、昼は誰もこない。仕方ないので弟子の竹原さんも床屋が所有する畑で野良仕事。夕方からボツボツ来るお客さんを相手に技術習得。ようやく八戸八日町に勤務。低音の魅力フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が巷に流れる頃だ。
ワタナベは南部バス、十和田観光のバス発着場のまん前。バスの時間に合わせて調髪してくれという客もいた。なにしろ八日町には近郷近在からバスで集まる人で混雑。イヤァ賑やかだった。