九月五日付
穆山和尚の生立(五)
飢鐘の後程とかく金龍和尚病に罹リて容態危うく見えければ、師思いの金英は只ひたすらに嘆き悲しみ観音堂に籠りて三七日の断食をなし、人々みなこの誠に感じ合りしとなん、しかれど天命のがれ難くや師の坊程なく身まかりければ、金英はそれより土地の医師某に就きて漢学など学び居たれど学業の進むにつれ良師なきをかこつの情切なり、今ならば都に出るも容易けれど其頃はなかなかの大事にして独り思い煩うのみなりしが、かくては果てじと心を決し、父母にも告げずソト海岸に至り便船せんとなしけるに、折好く一艘の帆前船がかりてあり、天の助と打ち喜び種々にいひ拵へて乗込み、我事成れりと思う間もなく空模様俄に怪しく船出すべうも見えず、風はいやが上にも吹きまさリ雨さへ凄く降りいでれば迷深さ舟子等は口々に「実にも龍神は血脈(御守の一種)を欲しが給うとか、お坊定めてそれを持ちつらん、俄かの暴れもその為めぞ、われらが命にも開るとお坊疾々立ち去り給へ」と金英の弁解を耳にも入れず追立つるに途方に暮れて居たる折柄、実家より追手の人来り泣く泣く引き返されぬ
斯くて金英は寺に帰り心ならぬ月日を送りてありけるが、十九といへる春の頃奥州の都なる仙台へと志し、二人の友と陸路をとりて出で立ちぬ、懐淋しき懸出しの雲水三人ここ彼処の寺院に泊まり行くうちに種々の奇談あり、或時は前夜よリ一度の食事もなきで嶮しき三里の山坂を打ち越えるに、荷物は重し空腹なり、ようようの思いにて里へ出たれど物売る家もなきに、只ある農家に至り年嵩なる友を頼みて内に入らせ、待てども待てども出来らず、門辺に立てる金英等はほとほと待ちくたびれ早やたえられずなりし頃、友は満面に笑みをうかべ小走りにいで来るを見るより、さては首尾よしとこちらも同じく笑みを含み何を得て来たりしと問うに、友は俄に萎れ生憎残飯は僅かにて三人には足らず、余のみ食にありつきたりと気の毒げに語るにぞ人情は迫る所に急なるものかと金英等はいまいましくもまた可笑しく、再び重さ足を引きて他家に至り空腹をいやしたりとなん、仙台にては松音寺といふに一歳あまり修業してやがて江戸に上りぬ、この間も書籍に乏しく写本して学びたるなど昔日の不便今の我々が思ひ寄らぬ事のみ多し