2008年11月14日金曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん1


湊映画劇場から八戸工専のお役人へ 
湊・中山千里さん
 人生は不思議な場、大体、自分の思うままの人生は送れない、でも、懸命にあがいてもがく。まるで 夏の夜に吊ったカヤが夜中に落ちてきて、ワッ、こりゃどうしたものかと、立ち上がろうとしてもカヤにまとわりつかれて思うようにならぬもの。
 この中山さんの人生も、誰が書いたシナリオに載ったのか載せられたのか、苦労と努力の一代記、一度や二度の失敗で頭抱えて嘆くじゃない、朝の来ない夜はないと、未来と将来のある若者に教えている。
 仕事がうまくいかない、人間関係が嫌だとダメを数えるのが若者の特性、悩みがないのは死んだ人だけ、悩み苦しみ転職を考えたとき、この中山さんの話を読み返すといい。実に示唆(しさ・それとなく気づかせること)に富んだ味わいのある処世(世渡り・生きていく方法)術がかくされている。
 それでは始まり始まり。
 昭和七年、日本は満州国をデッチあげ、中国の北の一部を領土としようと画策、当然諸外国から猛烈な突き上げを食う。すでに日本は台湾、朝鮮(今の韓国・北朝鮮を指す=当時は韓国と称していたが日本が朝鮮と改めた)を領土としていた。そのうえ満州国のデッチあげでは世界各国は自分たちが過去にしでかした植民地政策を日本に真似されたくなくて大声で非難を開始。
 昭和六年、中国は領土を侵略されていると、国際連盟(今の国連の前身)に訴えた。国際連盟はイギリス人のリットンを団長とした調査団を派遣し調査を開始。その報告結果が出たのが中山さんの生れる一ヶ月前の昭和七年十月。
 人間は不思議なもので、求める所、求める時代に生れる訳ではない。生まれ落ちたところから懸命必死な努力が開始される。千里さんは吹上仲町の薪炭・味噌、醤油、酒を商う中山繁治、母トキさんの六人兄弟の四番目として誕生。父は明治三十四年創業の本徒士町の泉山醤油合名会社に丁稚奉公、技術を習得し味噌醤油を仲町で製造開始。当時は今のように都市ガスやプロパンの供給はなく、もっぱら薪や炭。味噌は販売するまで年限がかかる、俗に三年味噌とか五年味噌と寝かせる期限が長いが、醤油はその点短い。
 千里さんは吹上小を卒業するあたりで敗戦のゴタゴタで、新制中学に行かずに八戸工業高校の化学に進学。ここで一通りの学問を修めるが、バスケットボールに興味を持ち、その選手となりまして青森高校を33対21で破り、工業高校を第三回青森県高校総体で優勝校。その大会は八戸で開催、当時大きな講堂・体育館は八戸小学校か、新長横町のキャバレー銀馬車の隣の日米会館。この 日米会館で試合をした訳。
この、日米会館がこの千里さんにとんでもない事件を巻き込むとは、神ならぬ身、どう知るすべもないが、これは十年ほど後の話。
当時は進駐軍が水目沢(桔梗野の陸上自衛隊)にいてジープを走らせ娘と見れば声をかける、怪しげな行為に及ぶで、八戸も無法地帯。もともとアメリカ人てのは西部劇の時代からピストル早くぶっぱなした方が勝ちという、道徳も倫理もあったもんじゃない世界で長く生きてきたため、自分が正しいと思えば何でもあり。
 このアメリカ兵相手に大儲けしようと横須賀あたりのアメちゃんの扱いに慣れた業者が続々と集まり、水目沢はパンパンと呼ばれる私娼が跋扈(ばっこ・のさばりはびこる)した。
 そのアメリカ軍から八戸のバスケットチーム試合をしたいとの申し入れ。(上写真左端中山)急遽選抜チームを編成し水目沢に乗り込み試合。将校クラブで歓迎会開催、このクラブの立派なこと。水洗便所で小便をしようとするが、チンチンが便器の朝顔に届かない。背伸びして小用を済ませ、選手の松田秀男君とアメリカ人のチンチンはでかいんだと話したそうだ。チンチンがでかいんじゃない、背が高いんだ。その将校クラブで出たご馳走にドデンした。生れて初めてステーキを食った。こったら美味いもん食ってる奴と戦争して勝てる訳がないと納得。試合は互角。食事は合格の大満足。(左端天内・中山・泉山重吉・市川・兄中山昭一)
 そんなこんなで工業高校を卒業、当時の工業、商業高校は八戸市立、県立への移管は後年。八戸人も度量があった。町の発展は人材育成と市が学校を建てるんだから立派。八戸人魂ここにあり。
 盛岡電化という会社が小中野にあった。今のラピアの辺り、ここは砂鉄からチタンを製造。久慈から下北半島にかけては砂鉄が採れ、八戸にも砂鉄から鉄を製造する会社が何社も出た。
 この盛岡電気化学八戸工場で千里さんはチタ ンの含有量を調べる研究室に勤務、順調な社会人の一歩を踏み出した。仕事も面白く精勤していたが、世の中は一寸先は闇、二年後にこの工場で爆発事故が発生、工場は丸焼け。当然,職を失い、サテ、どうしようというときに母親のトキさんが智慧を出す。親戚筋にあたる泉山重吉さんが信頼できる青年を探していると、千里さんを連れて行った。(上・写真湊映劇開館)
 当時、泉山氏はロー丁で中央、第二中央劇場の二館を持つ気鋭の経営者。更に柳町の中道新太郎氏と計り湊映画劇場建設を視野に入れていた。中道一族は柳町の浴場経営で財をなした。資料の●●ページに専務として中道氏の名が見える。千里さんは第二中央劇場に寄宿し、映画経営のイロハを猛勉強、楽屋で寝ていると泉山重吉氏が「火事だ、火事だァ」と叫んで千里さんを叩き起こした。慌てて飛び起きて「火事は何処ですか?」と尋ねる。煙も火も見えないからだ。すると、「ただいまのは訓練です」とニヤリ。