2008年11月13日木曜日

八戸三日町の話

ご挨拶
協同組合三日町銀座三栄会理事長
月館宇右衛門
 協同組合三日町銀座三栄会が大正十三年、八戸大火の直後あの焼土の中から立ち上がり、八戸商業の中心地であるとの自覚のもとに、その復興を目指して創立されてから、今年で五十周年を数えることになります。
 その半世紀にわたる間には、昭和初期の経済パニック、戦時の物資の欠乏と統制、戦後の混乱、ドルショック、石油ショックなど数々の出来事がありましたが、この試練を経てこんにちの繁栄を見るに至ったのであります。
 現在私たちの周囲をとりまく情勢は新幹線、東北縦貫道、むつ小川原開発など、まことに前途洋々たる材料に満ちあふれておりますが、目下、石油ショック以来の物価狂乱のため、総需要の抑制、金融の引き締めなど、私たち商人としては、誠にやり難い困難な時代に遭遇していると申さねばなりません。
 しかし私たち会員は、過去において幾多の非常時を切り抜けてまいりました経験と勇気を生かし、必ずこの苦難を克服し、やがて市民の皆様のご期待にそえますよう、粉骨砕身することをお誓い申し上げます。
座談会 三日町を語る
買い物公園をつくりたい
出席者
大浦岩松(元松和本店店員)
太田福弥(八戸丸光)
工藤政次(根友商店)
鈴木操(八戸商工会議所専務)
関野勇(せきのドラッグストア)
田名部勇(レストランマルフク・司会)
月館宇右衛門(銀座三栄会会長)
 
田名部 協同組合三日町銀座三栄会創立五十周年記念の座談会ということですが、まず会長の月館さんからお願いします。
月館 銀座三栄会五十周年にちなんで、その歩みを振り返り更に若い人たちの感覚で今後の見通しを捕らえるということで本日の会を開きました。まず初期の三栄会創設の動機のことを大浦さんにお尋ねします。
焼け跡からの出発
大浦 年月日が不明で浦山三千彦さんと話しまして、八戸大火後の十月ですね、全市灰になったわけですから、私は当時松和本店、油屋主体の店におりましたが、三栄会ができる頃までは、八戸の商店街は吊るしランプで全部商売していました。大火後、いくらか電灯もつきまして、全部ではなく裸電球ふたつに、あとはランプが四つ程度、もちろん、灯油はそうとう安い時期でしたが、電気は高いという先入観がありました。あの火事では八戸市民、旧市内、ほとんど気抜けの状態になりまして、商人も消費者も気迫が失せ、ゲンナリしてしまったんです。新材が手に入らない時代でしたから、残材がほとんどで、八戸周辺から古い家を買って解体し、バラックを建て、古いトタンで囲いをして、とりあえず商店は物を売る場を確保しました。でも、購買力が全くありません。衣料品なんか眼中にない、焼けて裸になっても、先ず自分の住まいというのが頭から離れません。これではならんと三日町の商店主が集まり、東京の銀座にならって派手な気分で盛りたてようと、銀座三栄会となりました。
田名部 設立が大正十三年十月、翌十四年にはじめて夜店が催されましたね。
大浦 発足当時はまだ協同組合になっていません。運営にあたっては新しいアイデアが必要と青霞堂の浦山三千彦さんが企画、発案し、それを役員が審議し実施しました。
関野 当時そのようなことは他の町内もしていましたか。
大浦 三日町だけでした。
田名部 商業組合があったそうですが。
大浦 荒町から二十八日町までの店が加盟し慰安旅行など親睦を主にしていましたが、売り出し、景品付き一等、二等などは三栄会が先鞭をつけました。これを刺激として他の町内も売り出しをするようになりました。三日町の商店主は相当の冒険をしましたが、それが八戸の発展の基礎になりました。
パニックの頃
田名部 月館さん、昭和四年に市政施行になり、五年には銀行取付騒ぎ、いわゆるパニックですが、当時はどうでしたか。
月館 たいていの銀行が休業しました。中小企業は相当影響を受け、出張販売などをしました。錦座で連合の売り出しをしたり、三戸、一戸へ団体で出張したり、深刻でした。
田名部 観桜会がはじまったのはその頃ですか。三日町への影響はどうでしたか。
月館 三八城山でしたから、その隣はずっと陰気だったわけです。で、バーや飲食店が出張してサービスしましたから相当…。
田名部 いい意味で影響があったんですね。商店街にも。
協同組合に
田名部 戦後になると夜店を継承した七夕が始まり二十九年の十二月にアーケードの完成があるわけですが、このアーケードはどういう発想からできましたか。
鈴木 函館の大門通りでアーケードを作ったからと商工会議所に招待状がきた。当時の会長の伊吉さん、副会長の文明堂さんらをお誘いして見学に行きました。いろいろ聞いて、ツキウさんが推進して、それが協同組合になるきっかけになりました。
工藤 金を集めるためにどうしても協同組合にしなければならなかったんです。とにかく個人には銀行がお金を貸さなかった。
鈴木 他所では一部アーケードが欠けたりするんですが、八戸は郵便局や銀行がアーケードつくりに協力してくれました。
月館 村井医院のところが欠けていましたが、完成したのは二十九年でした。
田名部 効果はどうでした。
工藤 よくなりました。雨、雪、暑いときには日陰になり、三日町というより買い物をするお客様のためにもなるということでしました。アーケードそのものは昔のコモセの近代化されたものです。
大浦 コモセは三日町が一番広く五尺五寸ありました。今のアーケードのようなものです。十三日町あたりは三尺五寸、狭かったんです。三日町に来ると自由に三人はすれちがいできる、表側の店は雪がひどかったんですよ。対面販売ですから、腰をかけているでしょう。で、吹雪がプープー吹き込んできて充分話ができない。だから一間ぐらいの桟に障子を張ってエゴマの油をひき破れないようにしてたてました。真ん中に大きくその店のマークをつけて冬の期間中三日町の両側にずっと建てておくわけです。
田名部 油紙ではないんですか。
大浦 全然ちがいます。渋を塗ったところもありますが、店が暗くなるので、ほとんどエゴマ、十年油ですね、アーケードは東北では仙台についで八戸でした。
三日町の道路のこと
鈴木 あと三日町が率先してやったのは、今はもう使えなくなった、水飲みの水道をつけたことです。ただ八戸の場合、残念なのは歩道が狭くてせせっこましい感じがすることです。さきほどの観桜会によって三日町は非常に潤った。四月から五月にかけて、三八城山へ行った帰りに三日町に繰り出す。秋にしても、共進会が八戸小学校の全校舎を使って展示会、即売会をやったもんです。戦前、三日町、八日町へかけて二米弱のせきがあったんです。荒町の方から水がどんどん流れてくるんです。当時の水はきれいでしたから、そこを舞台に消防演習をしたもんです。
工藤 私も子どもの頃三輪車で三回せきに落ちました。泥だらけになり叱られました。
大浦 当時は何かあれば市と警察へも陳情しなければなりませんでした。せきを小さくし二年くらい経ってから舗装した。簡易舗装じゃなくコンクリートで不便でした。
工藤 側溝が狭くなり車道が広くなったんでしょう。
大浦 そうです。そのときに、商店が一米くらい引っ込んだんです。前は馬車三台並べば車道は一杯でしたから。せきを店よりにしてその分両側で二米車道が広くなった。今でも歩道は官地ではなく商店のものと言っていますね。