2009年5月18日月曜日

ブログ移行のお知らせ

当ブログは、日本救護団に移行いたします。

日本救護団URL:http://kyugo.exblog.jp/

今後とも、よろしくお願いいたします。

2009年5月17日日曜日

盟友岡山矢掛の佐藤征夫さん


明治大学応援団の同期の佐藤氏が病気になった。七ヶ月も入院し、二度手術し、地獄の三丁目から戻ってきた。
 癌だ。37キロまで目方が落ちたそうだ。電話をしても、「オイ、コラ、ペテン師、元気にしておるか」の声が聞こえなくて、情けない思いをした。応援団が整列をする、一番前の列には三年坊、次が二年坊、一番後ろが一年坊で、佐藤氏が一番背が高いので右端、次が「はちのへ今昔」で、次は諸君の知らぬ人とならぶ。
 この佐藤氏は静岡県立富士高校の出身で、明治大学も工学部に籍を置き、応援団一の秀才だ。これが、酒飲みで平気で一升はいける。
 一年生の時の合宿が群馬県の妙高高原、列車から応援団が降りると、地元の群馬県の校友会が待ち構える。そこで駅舎を背に一列に並び、団旗を掲げる。こうしたときに一年坊は団旗を手早く出す者、団旗を掲げる旗手長に鎧のような皮と金具で出来たベルトを体に装着する者、旗棹に竿頭をつけ、あらかじめ旗手長からの指令のある、大団旗を結びつけ、一年坊はそれを三名で捧げて、左端で待ち受ける旗手長に「大団旗よろしくお願いします」と気合のこもった声をかける。団長が列の前に立ち、交友会長らと共に並ぶ観衆に頭を下げる、同時に団旗も地面すれすれまで降ろされる、旗手長の顔には朱が注がれる。大団旗は畳で十六畳もある。棹がしなる。棹は籐で重ねられ、漆黒の漆が施されている。棹の直径は6センチもある、それが旗手長の腕力でグンと引き起こされる。棹の野郎が、その力に負けて、クンと泣き声を上げる、団旗は紫紺、団長が観衆を背に向き直り、さあ、校歌だ。
 日本三大校歌の一つとされる大正九年、作曲、山田 耕筰、作詞は児玉花外による白雲なびく、駿河台、眉秀でたる若人がを、団長の「天下に冠たる明治大学校歌」の腹に響くような声を待って、吹奏のコンダクターのタクトが振られ、三角錐の団旗の竿頭に陽光がキラリと映える。団長の大きく鷲が翼を広げるような明治大学特有な華麗なテクが展開され、おお、明治の時に胸の前でMの字を作る。
 それから、地獄の合宿の開始だ。佐藤氏は体力があり、兎跳びもこなす、腕立てなんぞは三百も四百も平気な顔だ。毎晩、校歌、応援歌指導があり、また、明治大学にはやたらと応援歌がある。第一応援歌「紫紺の歌」、第二が「血潮は燃えて」 第三は「紫紺の旗の下に」 第四は「勇者明治」 第五は学生歌の「都に匂ふ花の雲」、よくもまああるもんだ。それも一番から長いものだと五番もある。
 それを真剣に覚えた時代もあった。合宿の最終日、納会で佐藤氏は酒を飲みすぎて素っ裸にされ風呂場で夜明けを迎えた。酒豪で先輩連も舌をまいた。
 この男は一級建築士をとり、身に過ぎた女房を娶り、岡山で暮らしている。女房は美容院を経営、それが繁盛して、佐藤氏は俗にいう髪結いの亭主、人もうらやむゴルフ三昧。人生六十年を遊んで暮らしている。
 なかなか、こうした人生カードを手にする者は少ない。皆、人生の辛酸にあえぎ、女房子どもの頸木(くびき・人生の自由を奪うもの)に悩まされ、いやいや日々を送るを常とする。ところが佐藤氏は人生を遊んで暮らした。
 こんな話がある。一年を二十日で暮らすいい男、これは江戸時代の相撲とりだ。これより少ない時間で一年を送るのが、一年を三日で暮らす御酉様(おとりさま・酉の市のこと)。おとりさまは、ばくち打ちの神様だ。佐藤氏はその神様の上を行った。一年を遊んで暮らすいい男。それも貧乏たらしく暮らすのじゃない。信号機のある交差点を思い浮かべろ。四辻にビルが建っている。その二ヶ所がかみさんの稼ぎで購入だ。
 そのビルの二階に明治大学の校旗が掲げられている。応援団中毒がここに現れている。ヤクザもテキヤも暴力団も、それがどうしたといえるのが応援団中毒だヨ。
 それでも、佐藤氏はキチンと大学を卒業され、建築事務所を開設されたが、「はちのへ今昔」はいい加減で、月謝が払えず中退だ。応援団も中途半端だが、人生の応援団、「日本救護団」を構成し、その団長になったゾ。
 佐藤征夫さん、地獄の三丁目からの帰還おめでとう。そして、岡山に「日本救護団」の支部を作って一緒に、世間を蹴飛ばして、また、肩を組んで歩こうナ。おお、明治その名ぞ吾等が母校、おお、 明治その名ぞ吾等が母校と大声上げて。

2009年5月16日土曜日

三日町にあった丸光1


丸光の話をする。こう書いたら佐々木聡は、丸光が話をしたと錯覚する。藤川優里市議の話をすると書いたら、藤川優里市議が言ったと錯覚しキイキイ言って騒いだ。
 盲信した佐々木聡は、このことを週刊誌に語り、連休に東京から週刊誌が来た。藤川優里市議から頼まれて書きましたか?
 そんなことはない、「はちのへ今昔」が独自に書いただけだ。この「はちのへ今昔」の文字も来週からは別のブログで「日本救護団」に変わる。今、移動作業中だ。
 さて、丸光だが、八戸に進出してきたのは昭和四十三年六月二十八日。この進出で、二十三日町から三日町に繁華街が移動した。この百貨店の総帥は佐々木光男。創始者は丸山とか丸岡光男とでもいうのかと考えていたが、佐々木だとヨ。どこかで聞いた名だナ。
 この進出年に佐々木は死んでいた。前年に六十三で逝去。
 佐々木はどうして八戸に出店したのか、それを探る。
郡山店を除く他の四店が、いずれも海岸線に沿った都市である。出光興産の出光佐三が敗戦直後の混乱のとき、内地はもちろん外地から引揚げてきた大勢の社員達を救済する手段として、ラジオ修理を全国的組織でやったことがある。その際営業所として選んだ場所が殆んど海岸沿で、業界が再興されたときそれらが全部出光の貯油基地に一変した。
「国策として昭和三十七年制定の全国総合開発計画に基づく新産業都市は有望。都市立地として、港と鉄道を同時に持っている街は発展性がある。東北本線等中央幹線に沿った都市は先ず、中央大手が狙って進出を試みるであろうから先手を打つ意味において海岸通りの脇線を結んで固めておく。」
結果としてみた場合、東北の太平洋岸を貫く国道四十五号線の完成により、丸光は仙台・石巻・気仙沼・釜石・八戸が見事に一本の線に連なった。
 青森県八戸市。東北地方の人々は別として八戸と書いて「ハチノヘ」と正確に読むひとは少ない。しかし、唄に夜明けたカモメの港、船は出てゆく南へ北へ、鮫の岬は潮けむり、のうた(八戸小唄)で名高い三陸漁場随一の港。うみねこで有名な蕪島。名作映画「幻の馬」の出生の地。さらに「忍ぶ川」の作家三浦哲郎の出たところと並べてくるとはっきりしてくる。
 青森県の南東隅に位置する叙情的なこの街も昭和三十九年。新産都市の指定をうけるや俄然時代の脚光を浴び、活気あふるる工業都市へと変貌を遂げつつあった。
 しかし街の急速な発展とはウラハラに、商業面での立遅れが目立っていた。
 既に佐々木の手許にある出店構想には、この都市の部分に赤で大きく二重丸がしるされてあった。
 そんな或る日、ひとを介して耳よりな相談が佐々木のもとに届いた。八戸きっての有力者である金入氏が新しい商業開発に並々ならぬ意慾を燃やし協力者を求めているという話である。
 佐々木が早速社員を現地に派遣して調べさせてみると、噂に遼わず金入氏は熱心な商業振興推進の先鋒であり、しかもそのために八戸きっての繁華街の中心部に在る自らの土地をその場所に提供しても差つかえないという意気込みであった。
 着々と進む新産都市づくりの力強い街の状況と睨みあわせ、商業発展の限りない可能性をみてとった佐々木は一も二もなくこの話を受けた。
 昭和四十一年四月には株式会社八戸丸光を設立。釜石店の完成をみてから僅かに九ケ月目というスピードであった。
 しかし一時はトントン拍子に進むかにみえたこの出店計画も、目抜きの場所によくある土地買収問題で難行した。大部分は金入の土地であったが、佐々木の店舗構想は更に大きなものであったために、隣接の土地をなんとしても手に人れねばならなくなってきたからである。
 父祖伝来の土地であったり、それぞれ長い間商売を続けけてきた歴史もあり、現に発展を目前にして居住者の土地に対する執着は並大抵のものではない。門前払いを幾度も味わいながら牛歩の如くねばり強く、着実に話を進めた。
 山積する難問題対処に、これまでの出店にかつて例をみなかった現地折衝駐在社員を家族ぐるみで常駐させた。当時のもっとも重要な最後の詰めの段階に任に当っていた佐藤功は、田舎における警察官派出所を通称駐在さんと呼ぶが仕事の内容は違っても、その苦労がよく分ると云っていた。
 結局難問題解決し漸く建築敷地面積二、七〇〇平方米、の八戸市はもちろん仙台以北最高最大の百貨店が登場。
 続

大番1

連続テレビ小説といえば「おはなはん」、これは1966年の一年間放映。これで全国に名が通ったのが樫山文枝、ほんとうはこの役は森光子が演ずるはずだったが、運命の女神のいたづらで、森が乳腺炎、代役が樫山に、話の筋立てがよく、大当たり。視聴率は56・4%。脅威の大ヒットだ。
この連続テレビ小説の第一作が獅子文六の「娘と私」。これもいい味を出した。1961年の一年間テレビドラマ。この獅子は劇作家、九州中津の出身、当然同郷の大先輩の福沢門を叩き、慶応大学へ進学。業界小説の第一人者。その獅子が書いたのが「大番」株屋の話だ。これが実にいい味を出しているが、冗長な部分が多い。それを省略し圧縮したものを分割掲載。
大番 1
その年の八月二十八日は、ひどく暑い日で、日盛りの午後一時三十五分に、姫路発の鈍行列車が、東京駅へ入った時には、機関車も、汗みずくで、フーフーと呼吸を喘いでいた。
吏京へ着いたら、職を見つけるのは、造作もないだろうが、それにしても、誰かの世話になった方が早道だろうと、ふと、俵子長十郎の兄のことを思い山したのは、昨夜の汽車の中だった。
 長十郎の兄は、弁五郎といって、東京の日本橋のソバ屋で、働いてるという。ソバ屋という店は、鶴丸町にも、姫之宮市にもないが、ウドン屋のようなものであることは、弁五郎が帰省の時に、本人の口から聞いている。日本橋という場所の、そういう特殊な店で働いているからには、訪ねていけば、すぐわかると、思っていたのである。
 ところが、改札係りは、忙しそうに、「そういうことは、広場の交番で訊きなさい」と、次ぎの旅客の渡す切符に、手を出した。
 広場という語も、交番という語も、彼には、初耳であったが、そのとおり真似て、人に訊くと、駅前の巡査の立ってる場所に、辿りつくことができた。
「え?日本橋の橋かね?それとも、日本橋区かね?」若い巡査だったが、親切に、丑之前の相于になってくれた。
「さア、どがいですやろう」
「日本橋の橋だったら、わかりいいが、日本橋区となると、広いからね。せめて町名でもわからん限り、教えようがないよ」
「なんぼ、広うても、ソバ屋いうたら、すぐ、知れますらい。日本橋の方角を、教えてやんなせ」
「君、東京は、ソバ屋が、非常に多いんだよ。日本橋区だけだって、何百軒あるんだか、知れやしない。それだけの目当てで、訪ねていくのは、ムリだよ……。一体、君は、どこから、何の目的で……」と、巡査は、職務的な訊問を始めた、
 丑之助は、包み隠さず、一切を迷べた。所持金が、八十幾銭ということまで、話したが、家出の原因だけは、ボカして置いた。
「君のような、無鉄砲な男が、時々やってきて、交番を困らせるんだ。どうだね、旅費は、何とかしてやるから、このまま、郷里へ帰らんかね。.肉親も、心配してるだろうし、第一、東京で宿無しになったら、どんな人間でも、不良化するからな。警察の厄介にならんうちに、郷里へ帰り給え……」と、型のような説諭が、始まったが、この陽気な家出人には、無効だった。
 「そがい、いいなはらずと、せっかく東京へ出てきたのですけん、早う教えてやんなせ」
 丑之助は、確信を捨てなかった。日本橋、ソバ屋、俵子弁五郎と三つの条件が備わっているのに、いかに東京が広いといっても、目的を達しない道理がないと、考えていた。百軒近いソバ屋を歩いたが、今日探せなければ野宿してまた、明日探せばいいと考えていた。茅場町裏のあるソバ屋へ入った時に、天プラでも揚げてるのか、芳香が特に烈しく、彼は、まったく抵抗を失い、弁五郎を訊ねることも忘れて、ベッタリ、椅子の上へ、腰を下してしまった。
「入らっしやい」女中が、注文を聞きにきた。
「ウドン、一杯、やんなせ」
「おウドンは、何に致します」
「何でも、かんまんです、十銭のを」
 彼は、ソバ謎を歴訪してる間に、もりかけ十銭という字を、どこの店でも見ていた。
 運ばれたウドンかけを、彼は、驚くべき速さで、食べた。なんという美味であるか。汁まで全部吸ったが、とても、一杯では、我慢ができなかった。三杯、統けて、丼をカラにした。
 八十銭あるわ。もう一杯食べても、何とかなろうわい。
 四杯目を、注文した時に、人ロから、積み上げた空のセイロを片手に、ハチマキをした出前指持ちが、帰ってきた。
「オータ(喘きの間投詞)、あんた、弁五郎はんやないかい!」
 丑之肋は、イスを撥ね飛ばして、立ち上った。
 丑之助は、勝利を味わった。
 見なはれ、やっと見んけれア、わからんもんや。わしア、弁五郎を探し当てたやないか。
 誰にともなく、彼は、心の中で叫んだ。
 ところが、やっと採しあてた俵子弁五郎は、帳場で眼を光らせてる、主人の手前もあるのか、至って非友情的な態度で、
 「お前や、何しに、東京へきよったんぞ」
 と、頭ごなしに、叱りつけた。
 丑之肋は、一向に怯まず、頗る人に会った嬉しさを、満面に表わしながら、大きな声で、出奔の顛末を、話し始めた。ソバ屋の店先きとしては、異様極まる風景だから、二、三の客も、女中さんも、忍び笑いをして、見物している。
「おい、弁どん……」
 果して、帳場に坐ってる主人から、声が掛った。
「お客様のご迷惑だぜ。そんな話しは、裏へ行ってしなさい」
 弁五郎は、ソレ見ろという顔つきで、シブシブ、丑之助を連れて、裏口へ回り、釜場の熱気が、ムーッと流れてくる路地で、立ち話を始めた。
 「なんちゅう、トッポ作かいね。アテもなしに、国を飛び出してきよって……東京はな、今ひどい不景気やけん、職なぞありはせんぞ。量見変えて、早よ、国へ戻れ」
 俵子弁五郎のいうことは、結局、東京駅前の巡査と、同じなのである。
「そがいにいわんで、この店でええから、わしが働けるように、頼んでやんなせ」
 「いけんてや。お前のような田舎者が、自転車乗って、よう出前に歩けやせんわい」
「それでも、弁やんも、最初は、田舎やッつろ」
 丑之助も、負けていなかった。ウドンを三杯食ってから、一層、腹がすわってきたような、気分なのである。
「とにかく、わしア、お前の世話はできん、国へ戻れや」
「ほたら、職は自分で探すけん、それまで、ここへ泊めてやれんなせ」
「阿呆やな。そんな勝手が、雇い人のわしにでくると思うとるんか」
 丑之助のネバリが強いので、弁五郎も、声高に、争ってると、
「弁ちゃ,ん、ザル三つに、冷麦一つ、大急ぎで、xxさん……」
 と、女中が、出前を命じにきた。
「おい、ほんまに、量見変えないけんぜ」
 弁五郎が、店の方へ、立ち去った後で、さすがの丑之助も、これは、容易ならぬ事態が生まれたと、考えずにいられなかった。
 弁五郎、頼むに足らず。
 あの様子では、全然、丑之助を庇護しようとする意志が、ないらしい。彼も、東京へ出るうちに、すっかり、郷土愛を失ってしまったにちがいない。そんな男にすがっても、無益である。この上は、頼める人といったら、東京駅前の巡査だけである。あの巡査も、彼に帰郷を勧めるだろうが、既に販京の上を踏んでるのに、オメオメ、国へ帰ることはない。その決心を、あの巡査に話して、何とか、職業の道をつけてもらおう―
 そう思って、再び、東京駅へ引き返すべく、ズックのカバンを、肩にかけた時に、
 「あの、ちょいと……旦那さんが、あんたを呼んでますよ」
 と、また、女中が、姿を現わした。
 あ、そうか。
 彼は、先刻のウドンの代を、まだ払ってないことに気がついた。その勘定を、催促してきたにちがいない。こうなると、夢中で食ったウドン三杯の代金が、惜しまれるが、今更、仕方がない。
 女中に導かれて、熱い釜前を通り抜けると、帳場にたってる畳敷きがあって、そこに、主人が坐っていた。
「お前さん、何かい、東京で働きたくて、国を飛び出してきなすったのかい?」
 彼は、丑之助の頭から足の先きまで、ジロジロながめながら、訊いた。
 「はい、そうだすらい」
 「体は、丈夫そうだね」
 「はい、病気は知らんですらい」
 「年は、いくつ?」
 「十八だすらい」
 「どうだね、一所懸命、働く気があるかい」
 「はい、働くことやったら……」
 丑之助の瞳が、明るくなった、ソバ屋の主人は、どうやら、彼を雇い人れる気があるらしい。
「弁五郎に負けんで、働きますけん、どうぞ、使うてやんなせ」
「いや、あたしの家は、人手が足りてるんだ。お顧客さんから、小僧を一人頼まれてるんだがね。太田屋さんという株屋だが、大変、用の多い家だよ」
 「用の多いのは、かんまんですが、カブ屋ちゅうのは、何商売だすかいな」
 これには、ソバ屋の主人も、苦笑したが、さて、一口には説明がつかないのに、弱った。近代資本土義の申し子なんて、言葉を、彼は知らない。
「別に、悪い商売じゃないよ。まア、住み込んでみれば、わかるさ。といって、お前さんの仕事は、商売と関係はないんだ。店の掃除と、使い走りの小僧が、欲しいというんだからね」
「それやったら、一所懸命やります。あんた、さっち(是非)世話してやんなせや」
 丑之助は、顛を、ぺこぺこ下げ、そして、懐中に手を入れ、
「先刻のウドン、なんぼだすかいな、お払い申しますけん」
 と、ご機嫌をとるような声を出したが、
「お前さんから、金もとれないよ」と、主人は、横を向いた。
 そこへ、弁五郎が、出前から、帰ってきた。
「お前、こがいな所へ入り込んで、何ぞ」
 と、彼は、丑之助を叱りつけたが、主人は、
「そう、ガミガミいうもんじゃない。国の者の面倒は、見てやるもんだよ……。ところで、弁どん、坂本町の太田屋さんから、小僧を頼まれてるから、この人を世話しようと思うんだがね、あすこの旦耶が、お宅へ帰らないうちがいい、すぐ、連れてってやらないか……」
 その夕から、丑之助は、坂本町の現物店、太田屋に住み込む身となったのである。
 ほんとに、運のいい、丑之助だった。家出人が、東京へ着いて、その日のうちに、職にありつくなんて、滅多にあることではない。それというのも、日本橋区のソバ屋を、一軒一軒、尋ねて歩こうという根気に、運の神様も、根負けがしたのかも知れない。そして、頼りにした弁五郎が、意外に薄情だったことも、彼の好運に味方した。ソバ屋万久庵の主人も、弁五郎が普通の友情を示していたら、惻隠の情なぞ、起しはしなかったろう。
 そして、丑之助が、微々たる現物屋であるが、とにかく、株というものを扱う店に、ワーンジを脱いだということが、生涯の運勢に、関係することになったのである。
彼が、最初の奉公を、乾物屋とか、履物店とかで、始めたとしたら、恐らく、この小説は、生まれなかったと、考えられる。
 しかし、その晩の丑之助が、維からもチヤホヤされた、というわけでもなかった。
 「よし、置いてやるよ。ただし、月給は、五円しかやらないよ」
 太田屋の主人は、ゴマ塩の頭を、角刈りした男だったが、ロクロク、丑之助の身許も訊かないで、雇い入れをきめてしまった。まるで、駄犬でも、飼う時のような態度だった。
 五円の月給というのは、当時としても、低額に過ぎた。女中さんでも、七、八円から、十円の給料だったのである。しかし、そういう相場を知らない丑之助は、何の不服も、感じなかった。知っていたとしても、彼は、東京で、自分を雇ってくれる人に対して恩恵を感じたろう。
「それから、誰か、この男を、湯に連れてってやらないか。何だか、少し、臭うよ、この男は」
 主人は、本宅へ帰るために、履物へ足を下しながら、ニコリともしないで、そういった、店の者たちは、声を揚げて、ドッと、笑った。
 その時から、丑之助に対する軽蔑が、始まった。
「名前、何てえの?」
「赤羽丑之助だすらい」
「国は?」
「四国だすらい」
「モのダスライっていうの、やめねえか。気になっていけねえよ」ゝ
「やめますらい」
「まだ、やってやがら………君、万久庵の弁公の友達らしいな」
「友達の兄だすらい」
「何でもいいや。これから、弁公が働定とりにきても、おれの分は催促しないように、頼んでおくれよ」
「そら、いけんですらい、そがいなことは……」
 やがて、彼は、新どんという一番若い小僧と、銭湯ヘやられた。あんな大きな浴場も、風呂桶も、見たことがなかった。鶴丸町の森家の湯殿を覗いて、立派なのに、ビックリしたことがあるが、その比ではなかった。東京の偉大さを、痛感しないではいられなかった。
「おい、君、氷水飲んでいこう」
 新どんは、氷屋の前を通ると、丑之助を誘った。
「いや、わしは……」
 彼も、一日歩き回って、湯に入ったので、喉がカラカラだが、所持金のことを考えた。
「いいよ、オゴってやるよ」
 新どんは、事もなげにいった。
 二人は、氷アズキを、一杯ずつ食べた。
「わしァ、こがいにウマい氷水を、始めて、食べよりました」
 丑之助は、お世辞でなく、感想を述べた。
「驚いたね、君の国にァ、氷アズキないのかい。じゃア、今度、アイスクリーム、食わしてやらア。この方が、もっと、うめえよ」
 勘定を払う時に、新どんは、小僧服のポケットから、ジャラジャラと、五十銭銀貨をつかみ出して、その一枚を、抜き出した。丑之助は、横眼で、それを見ていて、ドキリとした。
 新どんの年齢は、彼と同じぐらいらしいし、店員のうちの最下位らしいが、それなのに、こんなに、金を持っていて、惜しげもなく、彼に氷水をオゴってくれた。察するところ、よほど、収入があるのだろう。彼の給料は、五円ときまったが、新どんの方は、五十円ぐらい貰ってるにちがいないと、羨ましかった。
 店へ帰ると、大勢いた店員の姿が見えず、残ってるのは、新どんより、少し年上に見える小僧一人だった。
「由どん、鈴木さんや、松本さん、もう帰っちゃったの」
 新どんが、訊いた。
「ああ、みんな、オタノシミだよ。おれは、このところ、大曲り(相場で損をすること)だから、店で飯を食うより仕方がねえや」由どんという小僧も、黒いセルの小僧服を着ていたが、上着は、脱いでいた。どうやら、小僧は、この二人らしく、以前、三人いたのを丑之助で、補充するのであろう。
 いつか、日が暮れて、飯時になった。店の片隅に、チャブ台が置かれ、サバの煮たのと、香の物だけが列んでいた。六十ぐらいの爺さんが、炊事の世話をして、女気はないらしかった。
 丑之助は、二人の間に畏まって、座を占めたが、飯を食い如めると、職を見つけて、安心したせいか、実にウマかった。汽車弁の白米も、ウマかったが、大きな飯ビツに充満している米粒の味は、また別だった。先刻、ウドンかけを、三杯も食ったのに、いくらでも入った。
 翌日から、丑之助は、丑どんになり、小僧の制服を着る身となった。 冬は紺のヘル地、夏は黒いセルの詰襟服で、黒いボタンがついてる。大会社の給仕の服だが、それを、株屋街の小僧さんに、数年前から、一斉に着用させるようになったのも、震災後の興隆気分と、何か関係があったかも知れない。それ以前は、角帯前垂れ姿で、呉服屋の小僧さんと、何の変りもなかった。続

2009年5月15日金曜日

弱者救済実践報告1 長坂保育園の巻

聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため、国・県・地方行政を斬って斬って斬りまくり、生活弱者・障害者及び高齢者の救護にあたり明るい社会を打ち拓く、これを信条として、「日本救護団」を立ち上げた。
 その実践が長坂保育園だ。これは根城にあるそうだ。存在を電話帳で知る程度だが、ここの待機児童が14名。保育内容が評価され、入所希望者が多いところだそうだ。
 これは子ども家庭課からの聞き取りで判明した。51億円が保育料として支出される。乳幼児は一月16万円だ。そうなると、一年間会社に行かず育児休暇で子どもを面倒見て、勿論、自分の子だから当然ではあるが、その間、16万くれてやれば、子どもは育ち、保育園での手荒な保育の心配もいらぬが、昨今の母親は猫より悪く、自分の子を殺すのもいるが、それはさて置き、幾許かの給料をあてにするより、16万円を一年間支払えば、保母の数を乳幼児に何人などの制限もなく、伸び伸びと子を育てられる制度こそ大事だ。
 妙に保育園に巨額な保育料を支払うより、子育て休暇で実母に金をやり、情愛のこもった保育をさせることだ。社会福祉法人の看板の陰で悪辣なことをし放題、野放し状態が現状だ。
 理事会は名ばかり、実体を知らせず理事の印鑑を自前で用意、総会を勝手に一名の参加者もなく開き、利益を国債にし、施設老朽化の立替に備えるは泥棒という。
 立替の原資は給料の中から出せ、この話をしていると今回の焦点がボケるので、これもシリーズで糾明だ。
 さて、長坂保育園は定員90名、この25%増を国が認めた。「日本救護団」団長の小川の友人、小泉が総理大臣をしていた時の話だ。
 90人の25%増は112・5人、それで八戸市役所は112人まで容れた。ところが0・5、これは切り捨てだ。半分でも人間だ。これを切り上げろと噛んだ。
○国からの保育料は25%を超えると出ないのか?
● そうではない
なら、切り上げで一名増員にしてやれ、直ちに今から、その手続きに入れ。明日は長坂保育園に行き、それが実行されたかを確認するぞ。
さて、コケコッコーで夜が明けた。ボツボツ長坂保育園に出向いて確認だ。
狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため今日も楽しく一日を送るゾ。高齢者になって、こうした楽しみがあるとは知らなかった、知らなんだ。

2009年5月14日木曜日

八戸市役所人事異動に異議あり

聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため、国・県・地方行政を斬って斬って斬りまくり、生活弱者・障害者及び高齢者の救護にあたり明るい社会を打ち拓く、これを信条として、「日本救護団」を立ち上げた。
子ども家庭課長の貝吹賢一氏が役所を退職された。身だしなみのいい、腰の低い、そして仕事熱心な紳士だ。この好人物を八戸市役所は失った。
 その理由は市民病院への異動。これに氏はやりのこした、積み残した仕事があると、異動を拒否した。これは当然の権利だ。
 大体、今回の異動の愚かなことは、万年赤字垂れ流しの市営バスの責任者を防災室長とし、嘘ばかり抜かした防災室長をバスの責任者にした。これをデンスケ賭博という、右に左に置き換えて、市民の目玉をごまかした。
 大体、男には二種類ある。男っぽい男に女っぽい男だ。オカマの話じゃない。男の話だ。大木がある。夏には大きく広げた枝の下で、人々は暑さをさけて憩う。にわか雨には木陰で雨宿りだ。遠くから見る人には、ランドマークとして、心の拠り所にもなった。
 貝吹賢一氏はまさにそれだった。この課は51億円の保育園への補助をする、市役所でも指折りの支出が多い課だ。その保育園は社会福祉法人、これらが定期総会もせず、隠した所得で国債を購入、無税を悪用しシコタマ悪銭を貯め込んでいる。
 これらを解明し、不届きな社会福祉法人糾弾の狼煙を上げるのが今、そのための「日本救護団」だ。諸悪を潰し、金の流れを透明にし、庶民の難儀を救う。
 補助金は支出行為にそれぞれ、領収書を添付しなければならない。積年、役所はこれを見過ごし、業者と癒着を繰り返した。
 今までは月刊誌、ブログで糾弾したが、これからは都度、街頭で宣伝カーで糾明していく。もっと、庶民に我々「日本救護団」の運動を知らしめる必要がある。昨日から、「日本救護団」は複数で行動している。佐々木泌尿器科の倅が、「はちのへ今昔」は暴力団と二人で市役所を脅かしていると書いたことがあったが、一人でも世直しが出来ると盲信していただけだ。そんなことで世の中は変わらない。人が嫌がることを徹底して行動し、相手に存在を認識していただかなければ、ゴミ、塵の類でしかない、あるいは無いほうが喜ばれる。ところが、人間の面白いところは自ら行動するところにある。
 相手に認識してもらうことから始まる、それにはうるしさい、面倒だの顔に現れるささいな表情から悟ることができる。相手の認識度が深まったのだ。武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業で、拡げる努力は並大抵じゃない。
 さて、ランドマークになれるような大樹、大木は台風にも立ち向かう。うまく凌げればいいが、ダメなときは倒れる。ところが柳はナヨナヨして風を受け流し、台風も難なくこなす。これが女っぽい男だ。その場をなんとか取り繕い、その場で生きることに執着する。だから、ああでもないこでもないと、相手に迎合しながら、立場を理解させる。
 大樹は折れるときは倒れる、柳は残る。貝吹氏は大樹だけに折れる。人事異動を再考すべきではなかったのか。人事課の考えに間違いはなかったのか。既定路線を押し通すことで咎めが出た。それが、辞任だった。惜しい人材だった。何十年もかけて役所は人物を育てる。それが最後の最後で折れた、倒れた。いや、倒したのサ。
 総務部長の猛省をのぞむ。

2009年5月13日水曜日

「はちのへ今昔」廃刊

ながらくお見せしたが、間もなく、このブログは閉鎖し、世直し政治結社「日本救護団」を立ち上げる。
 月刊誌、ブログを通じ、行政の矛盾にぶち当たり、これを是正することこそ、己が稼業と知り、政治結社の届けを昨、五月二十一日青森県選挙管理委員会に提出。公認の政治結社「日本救護団」が誕生。
 これからは、「はちのへ今昔」単独の動きではなく、団員ともども行動する。街頭宣伝車を大型ベンツと定め、ただいま工場にて改装中。6月からは街頭にて、主義主張を訴え始める。
「日本救護団」の趣旨は団則の中に記載されている。
日本救護団団則
第1条(名称・所在地)
  本団は、日本救護団と称し、主たる事務所を青森県八戸市に置く。
第2条(目的)
  本団は、生活弱者・障害者及び高齢者の救護を目指し、その実現にむけあらゆる政治活動を行い、あわせて青森県政、八戸市政の発展と県民、八戸市民生活の向上を図り、さらに団員相互の親睦を深めることを目的とする。
第3条(事業)
  本団は、前条の目的を達成するために次の事業を行う。
   1 講演会、座談会等の開催
   2 団報等の発刊及び配布
   3 関係諸団体との連携
   4 その他本団の目的達成のために必要な事業
第4条(団員)
  本団は、第2条の目的に賛同し、入団申込書を提出した者をもって団員とする。
第5条(役員及び選出と任期)
  本団に次の役員をおく。
  団長、副団長、幹事、会計責任者、事務局長、監事。
団長は総会において選出し、それ以外は団長が任命する。役員の任期は2年とする。ただし、再任を妨げない。
第6条(団議の種類・招集)
  団長は、毎年1回の通常総会その他必要に応じ、臨時総会、及び役員会を招集する。
第7条(経費)
  本団の経費は、団費(年額5000円)、寄附金その他の収入をもって充当する。
第8条(団会計年度及び団会計監査)
    1 本団の団会計年度は、毎年1月1日から12月31目までとする。
    2 団会計責任者は、本団の経理につき年1回監事による監査を受け、その監査意見書を付して総団会議に報告する。
 附則 本規約は平成21年5月10日から実施する。
 
趣旨に賛同のかたは45・3344「日本救護団」まで連絡を乞う。庶民の声を国・県・八戸市に必ず届ける。