2009年5月17日日曜日

盟友岡山矢掛の佐藤征夫さん


明治大学応援団の同期の佐藤氏が病気になった。七ヶ月も入院し、二度手術し、地獄の三丁目から戻ってきた。
 癌だ。37キロまで目方が落ちたそうだ。電話をしても、「オイ、コラ、ペテン師、元気にしておるか」の声が聞こえなくて、情けない思いをした。応援団が整列をする、一番前の列には三年坊、次が二年坊、一番後ろが一年坊で、佐藤氏が一番背が高いので右端、次が「はちのへ今昔」で、次は諸君の知らぬ人とならぶ。
 この佐藤氏は静岡県立富士高校の出身で、明治大学も工学部に籍を置き、応援団一の秀才だ。これが、酒飲みで平気で一升はいける。
 一年生の時の合宿が群馬県の妙高高原、列車から応援団が降りると、地元の群馬県の校友会が待ち構える。そこで駅舎を背に一列に並び、団旗を掲げる。こうしたときに一年坊は団旗を手早く出す者、団旗を掲げる旗手長に鎧のような皮と金具で出来たベルトを体に装着する者、旗棹に竿頭をつけ、あらかじめ旗手長からの指令のある、大団旗を結びつけ、一年坊はそれを三名で捧げて、左端で待ち受ける旗手長に「大団旗よろしくお願いします」と気合のこもった声をかける。団長が列の前に立ち、交友会長らと共に並ぶ観衆に頭を下げる、同時に団旗も地面すれすれまで降ろされる、旗手長の顔には朱が注がれる。大団旗は畳で十六畳もある。棹がしなる。棹は籐で重ねられ、漆黒の漆が施されている。棹の直径は6センチもある、それが旗手長の腕力でグンと引き起こされる。棹の野郎が、その力に負けて、クンと泣き声を上げる、団旗は紫紺、団長が観衆を背に向き直り、さあ、校歌だ。
 日本三大校歌の一つとされる大正九年、作曲、山田 耕筰、作詞は児玉花外による白雲なびく、駿河台、眉秀でたる若人がを、団長の「天下に冠たる明治大学校歌」の腹に響くような声を待って、吹奏のコンダクターのタクトが振られ、三角錐の団旗の竿頭に陽光がキラリと映える。団長の大きく鷲が翼を広げるような明治大学特有な華麗なテクが展開され、おお、明治の時に胸の前でMの字を作る。
 それから、地獄の合宿の開始だ。佐藤氏は体力があり、兎跳びもこなす、腕立てなんぞは三百も四百も平気な顔だ。毎晩、校歌、応援歌指導があり、また、明治大学にはやたらと応援歌がある。第一応援歌「紫紺の歌」、第二が「血潮は燃えて」 第三は「紫紺の旗の下に」 第四は「勇者明治」 第五は学生歌の「都に匂ふ花の雲」、よくもまああるもんだ。それも一番から長いものだと五番もある。
 それを真剣に覚えた時代もあった。合宿の最終日、納会で佐藤氏は酒を飲みすぎて素っ裸にされ風呂場で夜明けを迎えた。酒豪で先輩連も舌をまいた。
 この男は一級建築士をとり、身に過ぎた女房を娶り、岡山で暮らしている。女房は美容院を経営、それが繁盛して、佐藤氏は俗にいう髪結いの亭主、人もうらやむゴルフ三昧。人生六十年を遊んで暮らしている。
 なかなか、こうした人生カードを手にする者は少ない。皆、人生の辛酸にあえぎ、女房子どもの頸木(くびき・人生の自由を奪うもの)に悩まされ、いやいや日々を送るを常とする。ところが佐藤氏は人生を遊んで暮らした。
 こんな話がある。一年を二十日で暮らすいい男、これは江戸時代の相撲とりだ。これより少ない時間で一年を送るのが、一年を三日で暮らす御酉様(おとりさま・酉の市のこと)。おとりさまは、ばくち打ちの神様だ。佐藤氏はその神様の上を行った。一年を遊んで暮らすいい男。それも貧乏たらしく暮らすのじゃない。信号機のある交差点を思い浮かべろ。四辻にビルが建っている。その二ヶ所がかみさんの稼ぎで購入だ。
 そのビルの二階に明治大学の校旗が掲げられている。応援団中毒がここに現れている。ヤクザもテキヤも暴力団も、それがどうしたといえるのが応援団中毒だヨ。
 それでも、佐藤氏はキチンと大学を卒業され、建築事務所を開設されたが、「はちのへ今昔」はいい加減で、月謝が払えず中退だ。応援団も中途半端だが、人生の応援団、「日本救護団」を構成し、その団長になったゾ。
 佐藤征夫さん、地獄の三丁目からの帰還おめでとう。そして、岡山に「日本救護団」の支部を作って一緒に、世間を蹴飛ばして、また、肩を組んで歩こうナ。おお、明治その名ぞ吾等が母校、おお、 明治その名ぞ吾等が母校と大声上げて。