2009年5月10日日曜日

司馬の東條英機

東條英機(一八八四~一九四八)という名には、滑稽感がともなう。
 むろん、昭和史という暗澹とした時代を、いっそユーモラスにみたいという後人の衝動から出た滑稽惑であって、歴史の惨禍はそれどころではない。
 まして東條その人に諧謔精神があったわけではない。このひとにそんな高度な批評能力をともなう感覚などはそなわっていなかったし、たとえば明治時代の小学校教員のようにまじめで、篤実な小農のように働き者というだけの人だった。
 そういうひとが明治憲法による日本国をほろぼしたことは、たれでも知っている。
 しかし同時に、たれもそうは思っていない。東條が日本をつぶすほどにえらかった、などとは、むかしもいまも、たれもおもっていないのである。
 ドイツの場合、ヒトラー一人に罪をかぶせることができるが、東條はヒトラーほどの思想ももたず、魅力ももたず、また世界を相手に戦争をしかけるにしては、べつだんの戦略能力ももっていなかった。
 その程度の人が、憲法上の(慣習もふくめた)あらゆる権能をにぎって、決断ごとに日本を滅亡にむかわせた、というのが、昭和史の悲惨さである。かれ自身、自分がやっていることが亡国につながるとは夢にもおもっていなかったのである。みじめこの上ない。
 机というものは単に木製か鋼板製の物質にすぎない。ただ、日本では、官僚組織における机が、権限とそれなりの思想をもっている。厚生省某局某課の課長の机がその人の行動をきめるのであって、その机を前にしている個人の思想はさほどに機能しない。
 日本史には、英雄がいませんね。
 といったアメリカの日本学者がいて、じつに的を射ているとおもったことがある。この場合の英雄とは、始皇帝とかアレグザンダー、シーザー、ナポレオンといったもので、強烈な世界意識と自己への崇拝心、旧来のすべてを破壊してあたらしいものをおこす者、さらにはカリスマ性と戦法の一新という要素などをもつ存在のことかとおもえる。
 ともかくも、東條は前述の意味での机にすぎなかった。ただ、かれはある時期以後、首相の机と陸軍大臣の机と参謀総長の机をかきあつめ、三つの机の複合者としての独裁権をえた。ヒトラーの場合、ワイマール憲法を事実上停止することによって国民革命を遂げ、その政権を成立させたが、東條は明治憲法下の一軍事官僚という机にすぎず、その机が明治憲法下での内閣を組織し、明治憲法の手続によって対米宣戦を布告し、戦争を遂行したのである。すべて天皇の名においてやった。
当時、無数の小東條がいた。陸軍はその巣窟だったし、それに迎合する議会人、官僚や言論人、あるいは無数の民間人がいた。
 その種の時代的気分が、寄ってたかって憲法における統帥権の悪用を可能にしたといっていい。
 陸軍に秀才信仰というのがあった。日露戦争の陸戦をなんとか切りしのげたのは、そのおかげだったということを、陸軍そのものが組織をあげて信じていた。当時、各軍の軍司令官や師団長というのは年寄りで正規の軍事教育をうけなかった者が多く、これらに対し、そのそばに陸軍大学校を卒業した参謀長や参謀をつけ、結果として、他の多くの因があったにせよ、勝利をえた。
 以後、陸軍は秀才主義をとり、津々浦々の少年を選抜して陸軍幼年学校に吸収し、さらに中学四年修了者をふくめて陸軍士官学校にかれらを入学させ、卒業のときの成績順をもって生涯の序列とした。カーストのようなものだった。
 さらに少尉任官後、一定年限をかぎって全員に陸軍大学校の受験資格をあたえ、ごく少数を選りぬいて、高級用兵に関する学術を習得させ、参謀と将軍を養成した。この場合の卒業席次も、その後の栄進に影響した。
 東條を成立させたのは試験によるそういう制度だけだったといえる。
 かれは、べつに国家を支配したり、大戦争をやってのけたりするうまれつきの器質をもっていたわけではなく、ただ履歴によってうまれただけの人物だった。大正四年(一九一五)、歩兵中尉のときに陸大を卒業し、以後、その基礎に立って官歴をへた。数度の部隊勤務があ
ったものの、ほぼ中央でのポストを経、昭和十二年(一九三七)関東軍参謀長、その翌年は陸軍次官、昭和十五年、第二次近衛内閣のときに陸軍大臣になり、いわゆる昭和軍閥の頂点にたった。
 かれはあるとき、言葉のやりとりのなかでのことながら、「ヒトラーは兵卒あがりである。しかし自分は陸軍大将である」といったことがある。
 軍人の社会は、一般社会からきりはなされたところで成り立っている。束條がこの官歴のなかで、人間世界の過去と未来、さらにはその交点にあって進行している現代というものを、ときに歴史規模で、ときに国家や人類に責任をもって見つめるという成熟した知性、良識、あるいは哲学などを養った様子はなかった。
 かれは、子供っぼかった。ヨーロッパでいえば、聖歌隊の優良少年のように、教会のすべてを信じるというぐあいで、日本国を一個の聖堂とみて、その神秘をあどけないほどに信じていた。その点、善良ということばをつかいたくなるほどである。
 しかし、軍事専門家としても宰相としても低能に近かった。
 いったい、東條の資料をみると、何を考えて生きていたのかと呆然とする。かれが日中戦争(一九三七~四五年)をはじめたのではないにせよ、陸軍の要衝にいたとき、中国大陸では戦争が泥沼におちいっていた。宣戦もしていないのに、戦争状態をつづけていたのである。
日本は事変とのみ名づけ、このためにぼう大な戦費と兵員を中国大陸に送りつづけており、終わるめども立っていなかった。
 帝国主義は本来、利益計算の上に立っている。
 あなたは、国家としてどんな利益を中国からひきだすつもりだったのですか。と、もしここに東條その人がいるならば、きいてみたいところである。中国からひきだせる利益などなにもないのに、陸軍は、頭脳のない戦争機械のようになって自他の人間を殺しつづけていた。
 その上、中国との戦争を一方でやりながら、その間、関東軍(旧満洲)が独走して、べつな場所でソ連軍とのあいだでノモンハン事変(一九三九年)をおこしてしまった。陸軍は、国力の消耗についての計算など、まったくやっていないようだった。
 ノモンハンでの相手は、ヒトラーとともに、二十世紀が生んだ悪魔ともいうべき、スターリンなのである。かれは西方のヨーロッパ問題にぞんぶんに鼻をつっこむために、東方での後顧の憂いをのぞいておこうという政略判断から、この辺境問題を重視し、当時のソ運でもっとも有能とされるジューコフ将軍を起用し、かれが要求するままにふんだんな兵力と火力と機械力をあたえた。
 ついでながら、ジューコフは兵卒あがりの将軍だった。名将というものはうまれつきのもので学校教育によって生産できるものではないということの典型のような存在であった。
 関東軍はソ連軍についての実態をほとんど察していなかった。当初、軽悔さえしていて、このため兵力の逐次投入という戦街上の禁忌をおこない、死傷七〇%を超えるという惨憺たる結果をまねいた。
 日本陸軍では、関東軍が最強とされてきて、世界一だという自負心まであった。この事変によって、日本陸軍は、自らの装備がおそろしく旧式だということを、敗北によって気づかされた。しかもなんの手もうたずに、さらなる対英米戦争に突入するのである。東條はじめ陸軍の首脳が、正常な軍事専門家だったとはとてもおもえない。
 私事になるが、ノモンハン事変の昭和十四年には、私は旧制中学生で、すでに新聞を読む年齢だったが、この事変についての敗北も実相も伝えられたことがなく、どの記事もなにやら勝ったらしいという印象だった。このことだけでなく、総じて煙のようなリアリズムの時代だった。
 さらに小さな個人的経験をいうと、大阪城にちかい府立清水谷女学校の前の坂をのぼっていたとき、電柱にノモンハンの敗戦を公表せよといったふうな駄菓子っぼい色彩ビラが貼られていて敗戦という文字が私をおどろかせた。日本軍はむかしから不敗であるという神話をきかされていただけに、中世のキリスト教徒が聖母マリアの醜聞でもきかされたように思えた。
 (敗けたのか)
 と、少年の頭にも、そのことがまんざらデマでないような気がした。このときから五年後に、私は当時ノモンハンで凄惨な敗北を喫せざるをえなかった安岡戦車団の後裔の連隊に属するということになり、ようやく日本の戦車団の敗因が、物理的なものであったことを知った。こちらの戦車の装甲が薄く、砲が平射砲でなく、貫徹力がにぶかったことによる。むろん戦車の数が比較にならないほどすくなかったし、さらには、その程度の戦軍団でさえ、戦いの途中で上部の命令によって戦場からひきあげてしまい、あとは裸の兵士たちが草原に残された。兵たちの多くがソ連のBT戦車と火カのえじきになった。軍がこの戦場から戦車をひきあげたのは、全滅してしまえば、せっかく育成されはじめた戦車連隊の種子が絶えてしまうことをおそれたためであった。
 ついでだから、中学生当時のちいさな記憶を述べておく。当時、学校教練というものがあって、現役の少佐一人が配属され、その補助者として、予備役の中、少尉や准尉が歩兵訓練を施していた。そのうちの古ぼけた准尉のひとりが、「よその国には自動小銃というものがあるが……」といった。小銃ではあっても、機関銃のように、引鉄をひきっぱなしで五、六十発も連続発射できるものを自動小銃という。これに対し、日本の小銃は、ボルト・アクションとよばれる構造のものだった。
 一弾ずつの操作で遊底(ボルト)をうごかして弾をこめ、一発うつと、また空薬莢をはね出さねばならない。この日本陸軍の携帯火器の主力をなす三八式歩兵銃といわれるものは明治三十八年(一九〇五)の日露戦争の末期に制定されたもので、ほかにノモンハンの年の昭和十四年(一九三九)に制式になった九九式が併用されていたが、両者は原理も構造も大差がなく、要するに自動小銃の出現によって一挙に古道具になってしまったものなのである。といって、日本はそれを廃棄していっせいに自動小銃にしてしまうような経済力はなかった。
 「そのほうがいいんだ」と准尉はいった。おそらく師団に講習でもうけに行ってきかされた内容にちがいない。
 その理由はだ、一発ずつ遊底操作をすることで心をしずめることができるからだ、とかれはいった。
 いいか、射撃の要は、風なき日の古池の水面のように心がおちつかねばならん、一発ずつの操作があってこそ、それが可能である。自動小銃だと、狙撃のいとまがなく、弾がばらついてしまって効果がない………
 要するに、日本の小銃のほうがいい、と准尉はいう。旧式であればこそ、あるいは弱点をもてぱこそ人間は精神的になりうる、という神学としか言いようのない昭和時代の日本陸軍の思想は、軍隊でない学校教練の場にもあらわれはじめていた。