2009年5月1日金曜日

デーリー東北新聞起原 3


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。演歌の大道を貫いた作曲家戦後間もなく大ヒットを飛ばした歌謡曲が並木路子の「リンゴの唄」。この人はこれ一発で元祖一発屋と呼ばれた。
戦争が終り、空襲の心配もなくなり、ゆっくりと眠れる当たり前の世の中になり、人々も唄を歌う余裕もでた。
そこでレコード界も新人歌手発掘に注力。こうした流れが青森県にも来た。それが、この広告。キングが審査員に上原げんとを連れてきた。この人は青森県出身。本名・上原治左衛門、青森県西津軽郡木造町生まれ。 
 上原の父は金物屋、楽器やレコードも商い、民謡を拡声器で流す。上原は木造中学時代、マンドリンクラブを結成。二十歳の上原は作曲家を志し上京、郷里の先輩作曲家・明本京静を訪ねるが、門前払い。作曲家になる決心は更に燃えた。チンドン屋、サーカスでクラリネットを吹き、流しの演歌師となり仲間二人で全国放浪、ついには北海道からサハリン(樺太)まで。1937年、仲間の兵役召集により、新たなコンビを組むこのが上野松坂屋の万年筆売り場の岡晴夫、上原が世に出る大きな転機となる。 1939年、最果ての北の国境までさすらった体験をもとに作曲した「国境の春」がキングレコードから、岡晴夫の歌とともにデビュー。「上海の花売娘」に始まる一連の「花売娘シリーズ」がヒット、一躍人気作曲家へと駆け昇った。 美空ひばりの「港町十三番地」、島倉千代子の「逢いたいなああの人に」などを作曲、1965年、全三千曲を遺し、五十歳で死亡。