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2009年1月11日日曜日

たしかにあった南部鉄道2

五戸は藩政時代に代官所があった。山坂ばかりの妙な町だが、気風が八戸人とは微妙に異なる。我は我、他人(ひと)は他人のような矜持(きょうじ・自分の能力を信じていだく誇り。自負。プライド)を感ずる。
 この五戸人たちが金を出し合い、八戸の小中野まで、いや、更に種差海岸まで鉄道を敷こうと努力した。昭和二十五年の話だ。
 株主数二千五十三名、五戸が千百五十二名、三戸が三百二十名、田子が百七十三名、上北が百六十六名、八戸はわずかに百四十四名。いかに五戸人が熱を入れていたかがわかる。しかし、五戸でも政党に二分し、反対側は一円も出さなかったそうだ。
 どうも、青森県全体、あるいは三八地区がそうなのかは明言できぬが、狭量なところを見受ける。俗に言う足ひっぱり、八戸では筆者は何度も体験、いや、その連続の中で生息している。他人が気づかぬことを喋ると、「それはワも考えていた」と同調なのか、自己顕示(じこけんじ・自分の存在をことさらに目立たせること)なのか、八戸では至る所でこの言葉を聞く。他人がすると面白くない、足を引っ張るだけでは足りなくて、蹴倒す、踏みつけるは当たり前、狭隘な地で、誹り罵った相手とも顔を合わせる。すると、その場はうまく繕う。妙な奴らだと思ったのは八戸地区だけに許可の下りた、地域限定の携帯電話、米屋と車屋だけがうまいことやろうとワに相談もしないで始めた。誰が加入するものかと、回状は回さないが、言葉が次々に伝わり、時代が全国型携帯電話になったこともあるが、加入者伸びずに閉塞。
 人生はただの一度の場、やりなおしは利かない。考えただけでは糞の役にも立たない。それを実行するかしないかが問われるのが娑婆世界。ご託を並べて、やれない理由を挙げるが、人生は言い訳、自己弁護、自分に同情する場ではない。
 するかしないかが大事なのだ。出来た出来なかったは、その精神の発露の結果だ。
 たしかに鉄道は小中野まで行かなかった。だが、それを成そうとした精神は尊い。歴史に、もし、はないが、もし、尻内(八戸駅)から小中野まで鉄道が通っていれば八戸は大きく変わっていたことだろう。時代を読み、手 を打つことは誰にも許されてはいない。それをなしながら完成に至らなかったことは残念の極み。
 南部バスに勤務された五戸の安藤さんの案内で、今回は南部鉄道に勤務された浪打泰さんからお話を伺った。鉄道・バスの切符は浪打さんが所有されているもの。
 五戸の人々にとって南部鉄道は心のふるさとに間違いはない。その証拠は東奥日報の二千年十月二十日夕刊に南部鉄道の歌が地域住民に歌い継がれているとある。
 人間の思いというのは不思議なもの、父母を偲び先祖を尊び墓石に頭を下げる。盆や彼岸には供え物をする。心の発露が形に現れる。なくした物はいとおしい。だからこそ、南部鉄道の歌がいま持って歌われる。
蒼前ケ丘の朝早く
気は澄み渡る大空に
一気は高く汽笛こそ(ひときわ高き汽笛こそじゃないの)
五戸鉄道停車場よ
鉄道はなくても、名こそ流れてなお聞こえけりってなもの。
 さて、今回南部鉄道の話をしてくださった浪打さんは昭和十年生まれ、昭和二十九年に南部鉄道に入社。新人は車掌が最初の仕事。
 なんてったって、南部鉄道は十二キロ、尻内からは国鉄に繋がる。この国鉄の切符も販売していたから、売り上げは大変なもの。この売り上げはいったん南部鉄道が管理し、それが締め支払いで国鉄に送られる。一円でも合わなければ公金横領になる。なにしろ国鉄は官営、国鉄の売り上げは公金な訳。
 浪打さんは車掌の次には、この公金を扱う調査課で活躍。南部鉄道の切符は硬い券、昨今はヘナヘナした切符の柔らかい券に変わったが、昔はこれ、この硬い券に駅ごとに違った鋏を入れる。だから、発行駅と違った鋏が入ると、違法をしたことが判明。
 昔、国鉄が省線と呼ばれていた時代があった。そこの駅員は津波のごとく押し寄せる乗客の切符に鋏を入れながら、定期券の日付と区間を見定める。体を斜めにして、鋏をリズム良く動かし、視線を手元にやるしぐさは、いまの若い者に見せたいほど。まさに職人技。名人達人の部類に入ったネ。
 いまは自動改札で棒が降りるが、あんなのは押し通ればいい。ブーだのピーだの鳴るのは機械の勝手。無理に通れば無賃乗車、タダノリだ。
「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」藤原俊成を師とした歌人、平の忠度(ただのり)は勅撰集(ちょくせんしゅう・天皇の命令で詩歌、漢詩を集める文集)に私の和歌が選ばれることがありましたら、と、師に歌集を手渡す、難をおそれて詠み人知らずとして千載集に前の句。一ノ谷の戦いには箙(えびら・矢を入れて携帯する容器)に和歌をしたためた短冊を結びつけていたという。その句は「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」
この忠度は薩摩の守だったため、タダノリを洒落て薩摩守という。渡河のため船に乗った僧侶、船賃請求され、薩摩守と応える、その心はと問いかけられ、タダノリと答える。川守も洒落たもんだネ、フウーンとただで通す。風流を解する人がいたもんだ。それを真似て捕まる坊主が狂言に描かれる。忠度は風流人、昔も今も戦争は嫌だ。アメリカは日本の徹底抗戦に原爆で対抗、無辜(むこ・辜は罪の意・罪のないこと。また、その人)の広島、長崎の民を二十万人も殺戮(さつりく・むごたらしく多くの人を殺すこと)。この原爆は台風何個分に当たるかという言い方がされたことがる。いまアメリカはたった一個の台風で七千人が死んだと大騒ぎ。広島・長崎は一瞬で二十万人が融けた。自分のしたこと忘れ、やられたことだけは忘れないのが強者の論理。戦争は嫌なこった。
 さて、南部鉄道の切符は名古屋にあ った日本交通印刷が製造。金券だけに粗雑な扱いはできない。南部鉄道には無人駅があり、車掌は車内で切符を販売。
 尻内・五戸間は百円、昭和四十三年当時の百円は高価。日本一高い料金だったかも知れませんヨは安藤陽三さんの弁。浪打さんは総務から営業畑へと転じ長距離バスを東京へと走らせる。時代が大きく変わったんだ。国がレールの代わりに道路を施設し、バス会社がそれを利用し、狭隘な地域路線から大都市への輸送手段となった。南部鉄道は十勝沖地震で路線が寸断され、鉄道を廃止、バス部門だけになった。自動車社会になり、庶民がみずから車を運転するようになった。そして交通戦争で年間一万人を超す死亡者を出すようになった。庶民が加害者の側に廻る恐ろしさを発生。運転はプロに任せるのが安心。だが、バスは乗らない時によく来るが乗りたい時はなかなか来ない。これが不便なところ。ところが、自分で運転する車社会になって人の気質が変わったように思 う。まず待つこと忘れた、次に我勝ちになった。一時停止は守らない、速度違反は平気でする、恐ろしいのは飲酒運転。歩いててさえヨタヨタする、それなのに車を運転するは狂気の沙汰(さた・しわざ)。
上の写真は川村文雄さん提供、父君が志戸岸駅の駅長を務められた。機関車の前に積まれているのが、関東方面に移出されるマサ、瓦屋根の下に敷かれる屋根材。五戸からは材木、木炭、肥料などの需要があり、貨物部門は結構稼いでいたそうだ。
ところが、材木は輸入、マサは新建材に代わり、木炭は昭和二十年代後半に出てきたプロパンガスに押され次第に需要減少。時代が旅客、貨物共に悪い方向に向かった。それでも鉄道の赤字をバス部門で埋めながらなんとかくるが、とどめを刺したのが十勝沖地震。
昭和四十三年五月十六日午前九時四十九分、南部鉄道は盛土部分が崩れ、全線運行停止。当時の東奥日報は南鉄、地震と経営難で廃止、地震のため路盤決壊、土砂くずれで全面的不通となった八戸市尻内―五戸町間の南部鉄道(三浦道雄社長)は、線路がずたずたに寸断され、被害は予想以上に大きく、開通のメドが立たず、赤字路線だけに再開は危ぶまれており、このまま廃止の声も出ている。被害の大きいところは七崎―五戸間の三・五㌔で山腹を縫うように走っているため地滑りをまともに受け志戸岸駅近くでは数カ所に渡って線路が宙吊りになっている。被害は二億円と計算されるも、赤字のため合理化対策を検討中の被災。年間九十万人の足がなくなると混乱を招くおそれもある。
結局、南部鉄道は廃止になった。
志戸岸駅近くの宙吊り線路
当時の鉄道員の服装、使用された切符など、後になってしまうと皆目検討がつかなくなることどもも、当時の従事者たちの努力で少しづつ判明。まだまだ、様々な史料があるとおもうが、この「はちのへ今昔」を見て、こんなのもあると出された時は、追加として読者諸兄にお見せしたい。一応はこの2で南部鉄道の話は終了。
大正十五年二月二十一日、五戸鉄道株設立
昭和四年尻内―上七崎間開通
昭和五年尻内―五戸間開通
昭和六年自動車旅客運送開始
昭和十一年商号を五戸鉄道と改称
昭和十二年三本木、五戸間旅客自動車業買収
昭和十六年三戸、八戸間旅客自動車業買収
昭和二十年南部鉄道と改称
昭和四十五年南部バスと改称。
川村文雄さん提供の写真を見ていただく。

今は昔、五戸人の心のふるさと、南部鉄道花盛りの頃、

2009年1月10日土曜日

たしかにあった南部鉄道1


藤沢茂助を尋ねて五戸の図書館に足をのばした。八戸と同様に明治期の新聞を探した。しかし、五戸では地元新聞は発刊されていなかった。現在も同様。見えている事象もやがて見えなくなる。確かに居た人も居なくなる。栄枯盛衰、有為転変(ういてんぺん・この世は因縁によって仮にできているから、移り変って、少しの間も一定の状態にないこと。世事の移り変りやすいこと。有為無常ともいう)、形あるもの必ず崩れる。千年生きた人間見たことない。見えるうちに記録しないとすぐに忘れる。(これがテーマで八戸今昔が発刊された。)
 人間てのは百二十までは生きられるように出来てるって、固く信じてる人がいる、たしかにそうも思えるが、電池と同じで全部使い切るとお陀仏。電気で心臓が動いている。心臓の鼓動にかぎりがあるそうで、早打ちの人間は早死にする。年中どきどきしてるかがやき者(八戸弁・臆病者、冷たい水に手をつけると指がかじかむことをかがやくというそうで、半可通(はんかつう・通人ぶること。よく知らないのに知っているようにふるまうこと。また、そういう人)の筆者はかがやく? きらめくと同意かと思ったナ、これをきらめき者と覚えて使った、笑われたが自分でもおかしかった。八戸弁はおもしれい(これも八戸弁)。昭和二十六年の商工名鑑に次ページの地図が載った。見にくいので解説する。八戸市役所、八戸市警察署、国警八戸地区警察署などの所在地が右肩に番号をつけて案内されている。ここに予定として五戸から尻内を経て、南尻内、櫛引八幡宮、田面木、県営競馬場、八戸高校、長者山をまわり、南部吹上、南八戸、小中野、そして第二期予定線
として鮫までが記されてある。
壮大な計画で驚嘆したことがあった。誰がこんなホラを吹いたのだろうと思っていたが、予定線は実地測量もされ、南部バスに青図が保管さ れていた。測量主任技師に内田勘六の名。
 
五戸の町をまったく知らない筆者に水先案内人を紹介してくださったのが、五戸図書館でアドバイザーをされ人脈厚い大下由宮子先生、古典文学を楽しむ会の主宰者。今年、十月から楽しむ会を再開される。水先案内人は五戸在住の安藤陽三氏、このかたは南部鉄道に勤務されていた。会津藩士安藤市蔵の末裔(まつえい・その血筋・名籍を伝える何代もあとの人)。この安藤市蔵は宝蔵院流槍の名人、吉田松陰(幕末の志士。長州藩士。杉百合之助の次男。兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾しようかそんじゆくで子弟を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。(1830~1859)が会津で安藤市蔵の屋敷に泊まると記されてある。この安藤陽三氏が高橋熊雄さんを連れてきてくださった。高橋さんは陸軍経理学校出身、ここには秀才の誉れ高い者が集まった。戦争はある種のそろばん合戦、兵を動かすには金が必要、何千人が三食をどう食うか、その運搬には、調達はと経理数理に強い男がいないと、途端に窮する。
 現代は経済戦争、人・物・金をどう動かすかが問われる時代、短期間で資金回収を要求される過酷な時代。いつの時代も数字に強い人は優遇される。
 高橋さんの父君は五戸でタクシーと乗り合いバスを経営されていた。戦時中統合され五戸バスとなった。
南部鉄道の創立は大正十五年二月、当時は南部電鉄と呼称、電気は利用しなかったので電の字が取れる。
バス、タクシーの戦時統合は昭和十六年、十八年の二回実施された。十八年に八戸、田子、三戸、戸来等の各バスを買収。
初代社長三浦善蔵は資本金五十万円を集め昭和五年四月尻内・五戸間を開通させる。ここで歴代社長を列記。
初代 三浦善蔵  大正十五年~昭和十九年
二代 三浦種良  昭和十九年~昭和二二年
三代 三浦一雄  昭和二二年~昭和二六年
四代 浦山助太郎 昭和二六年~昭和二七年
五代 苫米地義三 昭和二七年~昭和三○年
六代 山内亮   昭和三○年~昭和三五年
七代 三浦道雄  昭和三五年~平成元年
八代 三浦雄一  平成元年~平成三年
九代 川村広美  平成三年~
初代三浦善蔵は屋号ヤマタマと呼ばれる醸造家三浦重吉の長男、五戸町長、五戸水力電気、五戸銀行、五戸電気鉄道を創業、尻内を起点として、
五戸を中心に秋田方面へ横断する電化の鉄道施設をもくろんでいたが、変更を余儀なくされ、五戸、尻内間十二キロで開通。妻は七戸盛田達三の伯母、養子が階上正部家から入った三浦種良、県議や町長を勤め二代南部電鉄社長。
三代社長、三浦一雄(くにお)、政治家三浦道太郎の長男、八戸中学同期に夏堀悌二郎、東大法学部卒、岸信介と同期、農商務省勤務、昭和十七年翼賛選挙で当選、戦後公職追放、南部鉄道に拾われ糊口を凌ぐ(ここうをしのぐ・かろうじて生計を立てる)追放解除で二七年衆議院当選。三三年岸内閣で農林大臣。十和田湖開発に尽くした祖父泉八のために宇樽部に記念碑建立。
四代社長浦山助太郎、浦山太吉の養子、明治二九年津軽鉄道入社、三六年東京市街鉄道入社、大正元年桂川電力入社、満州、台湾の電力を開発し電力の鬼、松永安左衛門とならび電力界の長老として高名。昭和六年橋本八右衛門の懇請で八戸水力電気の取締役、昭和十年、八戸銀行頭取となり金融恐慌で倒産を再建。
五代社長苫米地義三、上北郡藤坂村出身、肥料会社五十余に関与し昭和十一年八戸銀行頭取、敗戦を期に政治家を目指し、昭和二一年衆議院当選、片山内閣で運輸大臣、芦田内閣では官房長官。二六年サンフランシスコ平和条約調印に参加。七十を越え参議院当選。実業家としての評価も高い。(前写真平和条約にむかう一行)
六代社長山内亮、大正二年長苗代村会議員、上長苗代村長、昭和二年衆議院議員、昭和十七年八戸市長、二七年県購買農協組合連合会長に就任し破産同然を再建。
七代社長三浦道雄、五戸生まれ、法政大学経済学部、海軍経理学校、海軍主計大尉、昭和二三年県会議員。
多士済々の顔ぶれ。この顔ぶれのなかで三浦一雄に注目されたい。この人は農林大臣を務めるが、公職追放の中で南部鉄道に拾われるが、追放解除をにらんで、衆議院返り咲きをねらう。このとき、昭和七年に発足し、のち十八年に南部鉄道に合併された八戸市営バスの切り離しを当時の市長夏堀悌二郎と約束したと言われる。夏堀と三浦一雄は八中同期、三浦は政界復帰をねらう。つながる条件は確かに揃ったが、サテ真相は?
 青図にあったのは小中野までだが、計画は鮫を通過し種差までのようだった。目論見書には次のごとし。
八戸延長を計画するまで
北奥の首邑八戸市の発展に対応し、これを促進させる意義から交通改善の要望にこたえるべく昭和二一年以来計画をすすめ本年五月着工しました。
工事計画の内容
目的 旅客および貨物の一般運輸
軌間 一○六七米(国鉄と同じ)
路線 尻内矢沢~館村田面木~八戸市糠塚~吹上町~小中野町一一キロ
延長線はいつ完成するか
第一期工事尻内~吹上町間九・五キロは二五年六月着工。二六年十月完成。第二期完成吹上~小中野二キロは二七年三月完成。
総工費はどのくらいか
二三年四月から二五年五月までの測量。設計及び準備工費一千百八十九万七千円(支出済み)二五年六月より十二月までの用地、橋梁、土工費その 他五千九百九十一万六千円、二十六年一月より十月までの敷設並びに諸設備費、二千七百五十九万七千円、同年十一月以降の吹上町~小中野町工事費五千七百四十二万円。総工費合計一億五千六百八十三万円。
工事の進捗状況、測量設計は大略を完了。用地買収は路線予定地の中心田面木、吹上地区を主に進められ、工事の難関馬淵川鉄橋は橋桁材料到着をまって着手の時期にあり、軌条等施設材料の入荷も順調に行われております。
資金調達はどうして行われるか
総工費概算一億五千万の内、第一期工事所用資金八千七百五十万円は今回増資の五千万円とすでに借り入れ決定の興銀、青銀協調融資二千五百万円、その他つなぎ資金をもって充当の計画です。
五千万円増資の目的と募集要領
今回増資の五千万円は第一期工事の一部測量監督費、土木工事費、橋梁費等に充当され全額固定設備費にふりかえられるものです。申し込み株式単位は十株単位、ただし最低応募株式五十株、申し込みは株式申込み書二通、印鑑届け二通に一株につき五十円の申し込み証拠金を添えて取扱店(青森銀行八戸、湊、鮫、五戸、三戸、剣吉、田子各支店、青和銀行八戸支店)に申し込むことになっています。
 高橋さんは昭和二十一年入社、当時のことを見ておられる。
「この計画が出たころは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん・大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米・ソの対立を背景として、1950年6月25日衝突し、それぞれアメリカ軍を主体 とする国連軍と中国義勇軍の支援のもとに国際紛争にまで発展した戦争。53年7月休戦、日本は前進基地となり米軍の物資、用役の調達で特需景気が起きて、壊滅的だった経済界が復興する引き金になった)で日本の物価が上昇し資材の確保が難しくなりました。それでもかなりのレールや枕木が野積みになっていました」
「どうして、これがダメになったんですか」
(上写真昭和三十年元旦、南部鉄道事務職員たち、安藤陽三氏提供)
「そのへんははっきりわかりません、当時は鉄道部門もバス部門も黒字でした」
「人員も大勢抱えていましたか」
「ええ、総勢で八百人おりました」
「戦後間もなくの入社だと労働争議もありましたか」
「私は総務でして、労働法を研究させられました。私鉄総連が強硬な要求をしてきましたが、中央と五戸とでは条件がちがいます。無理な要求をして会社が無くなってはなんにもなりません、私は労働組合の書記長をさせられたこともありました。そんな気持ちですから、おだやかな労働運動でした」
「多くの従業員がいると、昔のことですから、ソロバンで給料計算、経理はたいへんでしたでしょう」
「給料日の三日前くらいから残業、残業で大変でした、一台でしたが計算機もありました、手動式 でしたけど」
「ハンドルをグルグルと回して、また逆回しを何回とかいうアレですか」
「そうです、人数が多かったので、ソロバン片手に忙しかったもんです」
「鉄道はいつぐらいまで黒字でしたか」
「はっきり覚えていませんが、昭和三十五年までは黒字でしたネ」
「するとバス部門は、そのあとも良かったんですか」
「ええ、昭和四十七年くらいまでは良かったですよ」
「どうして赤字になったんでしょう」
「他社との競合、それと自動車化の時代の二つでしたネ」(上写真五戸駅、初代社長三浦善蔵像前、安藤陽三氏)十勝沖地震で南部鉄道壊滅は次号、ますます佳境に入る南部鉄道、南部バス、五戸人の魂は八戸人より壮大。(続く)