2009年5月11日月曜日

司馬の東條英機2

 のちに、戦争の末期、右のような銃さえ十分ではなくなり、東條英機によって民間人の竹槍による訓練が奨励されるようになった。東條は、右の陸軍准尉以上に陸軍准尉的だった。
 たとえば、軍事の専門家なら、東條がいくら陸軍軍人とはいえ、当然、対米戦争を決断するにあたって、日本海軍の成りたちとしての本質や実力も知っているべきだったろうが、ほとんど無知にちかかった。
 当時の日本海軍についてひとことでいえば、長期戦には耐えられなかった。日本海軍には固有の戦法があって、仮想敵国の主力艦隊が日本近海(日露戦争でいえば、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストック港にむかうべく入ってきた対馬海峡)に接近したとき、総力をあげて(連合艦隊を組んで)これを迎えうち、撃滅するというものだった。くりかえすと、日本列島付近でまちぶせして主力決戦をするということである。
 ひろい太平洋で戦うようにはできておらず、従って、連合艦隊は一つきりのセットしかなく、一会戦で消耗すれば、それっきりのものであった。
 もともと、当時の日本としてはそれでよかった。大海軍というのは、国威などという国家的虚栄でもつべきものでなく、地球規模の植民地をもつ大帝国(十六世紀のスペインや十九、二十世紀初頭の英国)にとっての実用品というべきものだったのである。
 植民地大帝国は、世界じゅうの植民地を結ぶ商船隊の保護なくして成立しない。
 ただしアメリカ合衆国の場合は、本国じたいが長大な海岸線をもち、かつ大西洋と太平洋にわかれているために、大艦隊は最低二つのセットが必要だったし、それに二十世紀初頭、フィリピンを植民地にしたために、そのぶんだけ海軍力をふやさざるをえなかった。
 日本の場合、かつてのスペインや、盛時の英国のような地球規模の植民地があったわけではない。
十九世紀末、日露戦争の前段階、ロシア艦隊に対抗するために大海軍を建設せざるをえなかったのである。
 日露戦争でロシア艦隊を沈めることに成功したあと、日本としては二十世紀後半の英国のように海軍を縮小してもよかったのだが、軍の縮小は軍を構成する職業軍人の首切りを意味するため、抵抗が多く、とうてい不可能だった。幸いというわけでもないにせよ、日露戦争の前後からアメリカがフィリピンに対して本格的な統治をはじめたために、日本海軍は、仮想敵をアメリカにかえた。しかもその仮想敵は、日本海軍が思うようなコースをたどって日本列島にやってくることになっていた。
 つまりかつてバルチック艦隊が沖縄の列島沖をへて対馬海峡に入ってきたように、来たるべきアメリカ艦隊も、フィリピンを中継基地として北上してくると見、そうあらねばならぬとしていたのである。
 この机上の仮定は、海軍の存亡を賭けたほどに牢固としたもので、その仮定をマスタープランとして、二十世紀のはじめごろから、建艦をし、戦術をたてた。
 たとえば、潜水艦にしても、ドイツのUボートやアメリカの潜水艦のように通商破壊が主任務ではなく、日本の場合、フィリピンから北上するであろうアメリカ艦隊を、日本への途中、海面下でまちぶせしてすこしずつ艦艇を減らさせ、のちにおこなわれる艦隊決戦のときの敵兵力を軽くしておくというために存在した。
 このように、軍事という一面からみても、戦争というもののおろかしさがわかる。敵が都合よくフィリピンからやってくるなど、妄想のようなものであった。
 しかし妄想を公算の大きさというあいまいな言葉に置きかえられると、いかにも妥当性を帯びる。
 この妥当性の上に海軍の基本戦略がたてられ、予算のかたちで国民に税負担が強いられた。それが、基本としての日本海軍というものであった。
 この基本戦略は、太平洋戦争がはじめられる二年前の昭和十四年でもなお維持されていたことは、海軍大学校に入った知人からきいた。兵棋演習においてくりかえしシナリオが演じつづけられていたという。あたかも、日露戦争の再演だった。
 兵棋演習というのは、駒を進退させているうちにほぼ両者の実勢がわかる。敵味方が。主力決戦をして、日本の損害が四割ですむ場合もあったし、ときに六割の損害をうけて敗北することもあった。つまり勝っても負けても日本海軍そのものが半身不随になるわけで、連合艦隊がそれっきりしかないためにそのあとの戦争の遂行などはできなくなってしまう。
 要するに、日本海軍は、世界を敵にまわして戦うようにはできていなかった。
 ついでながら、兵棋演習を裁定し、評価する戦術教官のことを統裁官という。さきにふれた私の知人の海軍大学校学生が、内心、戦争はその後もつづくのに、この主力決戦で幕というのはどういうことだろうとおもい、あるとき統裁官にきいてみたという。
「これでおわりでしょうか」
「これでおわりだ」と、統裁官はいった、という。さらに知人が質問をかさねると、統裁官は一段と大声で「これでおわりだ」と言いかさねた。おそらく実態を察せよ、ということだったのだろう。
 東條は長年、軍で衣食してきた。たとえ陸軍といえども軍事の専門家である以上、海軍の基本的な形質を知るべきだったとおもえるが、とてもそういう知識をもたなかった。たとえ海軍がその実態を陸軍に教えなかったからといって、この程度の把握は自分の頭でまとめることができるのである。
 結局、かれらは、太平洋戦争をやった。
 日本にとって戦争をする国家としての資格を欠いていたのは石油を産出しない国であるということだった。二十世紀のある時期から、軍艦も陸軍の車輛も石油でうごきはじめるようになっており、このため戦争を継続する以上は産油地である南方のボルネオその他をおさえる必要があった。そのためにぼう大な陸軍兵力を南太平洋の島々に展開せざるをえなかった。
 この大作戦は、日本陸軍の伝統的用兵思想とも相反するものだった。伝統的用兵思想とは、明治三十年前後、陸軍参謀本部でつくられ、かつ日露戦争で成功したため、昭和になってもその用兵上の型が牢固たる習慣になった。
 日本陸軍の型というのは、まず攻勢主義であることだった。
 ついで、兵力を集中して短期決戦によって敵の野戦軍主力を撃滅するという思想だった。短期でなければ補給がつづかない。
 これらについては、日露戦におけるいくつかの大会戦が、その成功例になっていた。この慣習化した思想のためには、敵主力が都合よく一定の戦場に集中してくれないとこまるのである。むろん、海軍と同様、敵がこちらの慣習用兵の注文に応じてくれるわけではない。が、海軍と同じように、それを願望した。
 つまりは、陸軍の場合も、敵が注文に応じてくれるという願望の上に基本用法がなりたっていた。
 さらに、短期決戦であるためには、日露戦争における日本の首脳がアメリカ合衆国の大統領を仲裁役にひきこんだように、いつの場合でも中立的な友好国を用意しておく必要があった。
 中立的な友好国を得るには、世界の嫉妬心や猜疑心あるいは人道主義的世論を刺激することは極力避けねばならないが、軍の謀略による満洲帝国の樹立(昭和七・一九三二年)や、中国本土に兵を入れて四方を駆けまわらせ、中毒患者のようにその事変をやめることができなかったことなどから、日本は国際的に孤立した。
さらには、日独防共協定(昭和十一・一九三六年)を結ぶにいたって、わずかな友人を得て大量の敵をつくった。つねに仲我国を想定しておくという戦略思想は、軍人のほうから忘れた。満洲事変から日独伊三国同盟にいたるまで、すべて陸軍が主唱し、主導した。
 東條やその陸軍仲間が陸軍大学校で学んだ用法は、すでにその実をうしなっているはずだった。たとえば昭和十四年のノモンハン事変のソ連軍の新戦法によって、くじかれた。ソ連軍は、日露戦争の敗北についての戦訓をよく研究し、あたらしい野戦形式をとっていた。
 このことについてややくわしくいうと、日露戦争における満洲の平野での数次の大会戦では、日露ともに鷲がつばさをひろげたように横に展開し、たがいに対峙した。たとえば遼陽会戦では双方二万人以上の損害を出しながらも、ロシア軍が後退してくれたことによって日本軍が勝った。