2007年3月1日木曜日

デーリー東北新聞発刊の時代と「月刊評論」の世界

デーリー東北新聞の発行は昭和二十年十二月十五日。月十回発行、購読料は一ヶ月二円五十銭、一部売り十銭。つまり現今の百円が十銭にあたるか。

創刊号はタブロイド判四ページ。資本金十万円、今の金にすると一億円になるだろう。出資者は成田武夫、神田宏(神田重雄の五男、八戸中学から早稲田高等工学校に進学後、漁業、艀業に従事、番町の中央印刷の専務)、峯正太郎、大津毅、木村錠之助、田口豊洲、広田豊柳、穂積義孝、笹本嘉一、平野善次郎、金野豊作、工藤忠三、佐々木正太郎、木村正逸。この中から社長に神田宏が選ばれた。

穂積は田子町の出身、早稲田を卒業、昭和四年に読売新聞入社、昭和十四年上海「大陸新報」へ転ずる。十七年に帰郷し建設、貨物輸送、航空会社役員。穂積は終戦直後、直ちに行動を起こし、まず新聞用紙の確保に奔走した。当時、用紙の配給割り当てはGHQ(連合軍総司令部)の意向に左右され、GHQの了解を得ることが先決問題だった。GHQの許可を得やすくするため、紙面の半分を英語、半分を日本語で表記した半英字新聞を発行し、東北地方の進駐軍キャンプにも配布する計画だった。

穂積は同年九月、GHQに顔の利く知人ラジオプレスの広塚常務を東京から呼んで八戸市高舘に進駐していた米軍司令官ベル代将に用紙の配給を要請した。ベル代将はこれを快諾、十一月にタブロイド判で三万部の用紙割り当ての通知があった。十二月五日に情報局総裁河相達夫宛に正式な新聞用紙配給申請書を提出し許可。 ベル代将は「英字新聞は必要ない」、日本語による普通の新聞を発行することになった。当時、八戸市には印刷所が五ヵ所ほどあったが、このうち新聞印刷ができるのは同市番町五番地の中央印刷株式会社であった.同社は雑誌「月刊評論」を発刊した実績を待ち、平版活版印刷機十台、活字三セットなどを設備し、その規模は県内一だった。また、同社は戦時中、大湊軍事部の海軍軍需工場に指定されており、印刷用紙が現物支給されていた。

終戦でこれが払い下げとなり、同社は大量の紙を所有していた。この設備と用紙に着目し、戦前の新聞の復刊や新規発刊を待ちかけた旧新聞関係者が何人かいたが、同社はこれを断っていた。

穂積は中央印刷に印刷を要請。新聞印刷は毎日、数多くの活字を酷使するため、活字の摩耗を嫌い最初これを断った。しかし、穂積は早期に活字鋳造機を設置し、自社印刷へ切り替えることを約束、再三の協力を求めようやく印刷を引き受けさせる。
 さらに、中央印刷に近接する番町三番地のボロ家屋、旧奥南新報社を譲り受け本社設置。従業員を採用、創刊準備。穂積は並行して会社創立発起人と株主を募り、定款を作成するなど新聞社創立に向けての準備を着々と進めていった。

穂積が社長に就任しなかったのは、翌年、昭和二十一年四月の総選挙に日本民党から出馬予定のため。

お鉢が廻った神田とはどんな人物だったのだろう。未亡人から聞いてみた。

神田宏、大正三年生まれ、八戸中学から早稲田実業に進学、父は重雄(二代八戸市長、根室郵便局勤務後、湊小学校教員、水産界先駆者長谷川藤次郎の帳場を勤め明治四十四年鯨騒動では新井田川に身を潜め難を逃れる。二十五歳で湊村村会議員、昭和五年市長就任、十七年までの三期を勤めた)、戦争に出ることなく神田家の漁業などを管理。昭和十七年成田裕子と結婚、この成田一族が中央印刷を経営し、昭和十二年「月刊評論」を発刊、八戸に新聞以外の活字文化を開花させる。宏もこの「月刊評論」に加わり編集部門を担当。人が良く頼まれると嫌と言えない性格、常に新しいものに意欲を燃やし、貧乏暮らしをするも理想に燃えた人。平成二年没。

人は齢を重ねるだけでは老人にならない。理想を失った時にこそ老人になる。神田宏はそうした人で、青年の理想を最後の一瞬まで失わない男だった。

成田一族が経営した中央印刷の協力なく、デーリー東北新聞は存在しない。策士穂積は成田武夫を監査役に招聘、神田宏を社長に祭り上げる。人は人の協力なくして夢を現実に置き換えることはかなわない。

穂積は実を取り名を捨て、政界へ確実な一歩を踏み出す為、メディアたる新聞社を興す。時代が要求したことではあるが、先の読める男だったのだろう。すると、ここで成田一族とはどのような人物構成で、何の事跡を残したかが気になるところ。ここらは神田裕子さんの記憶を整理していただき、成田一族四姉妹から色々と掘り出す予定。東奥日報刊の「青森県大人名辞典」に成田一族は掲載されておらぬ。神田宏もしかり。こうなると「八戸人名辞典」刊行が待たれる。世の中は人が動かす場。その人を知らず何が人生か。

先人の労苦を知り、時代の一齣である我が人生の範とする、これこそ大事。

さて、今回の取材で判明した「月刊評論」がどのような紙面であったかを、お見せする。

デーリー東北新聞の話を続ける、創刊号の紙面は、一行十三字、一段五十五行、一ページ八段。縦書きの題字で、上部欄外に右から「紀元二六〇五年デーリー東北昭和二十年十二月十五日(土曜)創刊号」と表示している。一面に創刊の辞、神田社長の発刊の辞、金井元彦青森県知事の祝辞、祝辞寄贈芳名を掲載。二面は穂積会長の「民主々義日本の建設」国会と青森県議会記事。三面は千葉富江千葉女学校長の寄稿、佐々木泰南書道展、新有権者数などの雑報。四面は

婦人参政権座談会と女性投稿欄「女性論壇」。各面に二段から三段の広告が入っている。

 創刊の辞、発刊の辞には終戦直後の疲弊した政治、経済、社会情勢の中で新聞を新規発刊する意図、意気込みがあふれている。
この紙面はそのうちお見せすることにして、昭和十二年の「月刊評論」を語る。B4縦判で大ぶりな雑誌。

創刊号は●上水道敷設に関し果たして疑点なきや、●市は市民の財産を如何に算定したか●次回市会議員模擬メンバー●魚市場はこんな仕組みだ●田口和尚は鸚鵡ではない●小型映画界の権威橋本雄造氏●三戸の測候校長●八戸一流の商店に苦言を呈す●新春殿方洋服調べ●三戸地方一帯小正月の慣習●六十年ぶりに日の目を仰ぐ三本木原国営開墾事業●三本木に大ホテル建設の要なきや●情けない市議諸公●予算市会を批判検討する座談会●深夜の大塚横町を探る●県南より東京オリンピック選手を出せるか●県南中等校各部選手、卒業生と本年度選手●夜這いと家宅侵入罪●いんきん奇譚●水のない港の行船覚書●汽車時間表▲表紙オフセット四色・写真石井写真館撮影と盛りだくさん。

写真館の名が出たので整理してみる。

古い順に明治三十四年創業の瀬川義寿の高沢写真館、鷹匠小路、この高沢写真館の創始者は彦六、明治四十年、鷹匠小路、高野写真館、明治四十四年、番町の北山写真館、大正九年、鳥屋部町、青霞堂、大正十二年、小中野新丁、成田写真館、昭和二年、長者山下、大島写真館、昭和三年、番町、富士写真館、長者山、米田写真館、長横町、石井写真館、昭和九年、番町、中居写真館、昭和十年、十三日町、林写真研究所、十六日町、シラト写真館、昭和十一年、鍛冶町米田写真館支店、鮫、ウシホ写真館、小中野新地、小野三栄スタジオ、昭和十二年、平中、花写真館と陸続。

この頃は庶民が写真機を持たず、戦争もあれば記念写真を撮らないと戦死した時、記録も記憶もなくなる。つまり軍事産業と言えるだろうか。こんな暗闇の時代でも八戸は活き活きしていた。「月刊評論」は昭和十二年二月創業。当時の印刷・出版界は明治三十年、八戸印刷、北村益、長横町、明治三十三年、八戸新聞社、鈴木惣吉、八幡町、明治四十一年、奥南新報、小山田義郎、番町、大正九年、八戸毎日新聞、武藤勝美、番町、八戸荷札、金沢慶蔵、長横町、大正十二年、三八城公論社、稲川義忍、古常泉下、報知新聞、金沢正美、吉川印刷所、二十八日町、吉川亮、大正十四年、東北荷札、伊藤富松、昭和五年、八戸日報、下野末太郎、藤村印刷、藤村喜代治、長横町、丸の内印刷、原易三、八幡町、昭和六年、片子沢印刷、片子沢由蔵、常番町、昭和七年、森越印刷、森越亀太郎、鍛冶町、昭和八年、立花印刷、立花周三、小中野佐比代、、八戸報知新聞、金沢正美、下組町、昭和十年、浄国青年公論社、高橋松海、湊十王院、昭和十二年三八城公論社印刷部とある。「月刊評論」の印刷所は八毎印刷部とある。中央印刷は八戸毎日印刷と同じなのだろうか。

いくつかの疑問点を整理しなければならないが、「はちのへ今昔」もギョッとするような斬り込みを見せる。

八戸市一流の商店に苦言を呈す

むくれる前に御考慮ありたし XYZ

前略 早い話が八戸市一流の店で最もヒドい一つが「仙台屋」さんだ。いつ行っても店先が大繁盛で、人が黒山―でもないがーの如く居るのだから、配達に手が足らないのであろう。それに「大根十銭届ける」「ネギ五銭」じゃ配達甲斐のないのも解るが…。ひどい時には三時間位投げられる。急場に慌てて注文した品が三時間後に到着したのでは話にならない。大分腹を立てている向きもあるが、なにしろ八戸第一の信頼のおける店なだけに何と言っても仙台屋さんなのだから、この点を考えて、小僧を増員するなり、何とか敏速な方法を講じて貰いたい。

近来旅の人が沢山入り込んでいる八戸だ。旅の人達は五銭、十銭の電話買いは普通の習慣なのだから、八戸市の名誉?のためにも代表的商店として何とかしてほしい。

「葱二十銭大至急にね」

「ハアハア、只今すぐに」

が三時間になるのだから、そうでなく、手の足りない時は

「三十分御ゆうよ願います」

とか兎に角、時間的ペテン売りではなく、そこいらも紳士的にお互いに信用し合うよう、やって貰いたい。でないと、それぞれ、有力な競争店が出現した場合に「八戸の仙台屋さん」の長いノレンに相当打撃を与えることになりはすまいか。これは親しみある店であるだけに甚だ惜しい。御考慮を願う。

お届けの長いのに、七尾家具店がある。これなどは極端で。電話で再三の催促にもかかわらず二日も投げられる。これは少々ベラ棒な話で、商店にとって

「職人が休んだ」とか

「人手が足りないので」

などは何も弁解になるものではない。

既製品を買っても二日投げられるとなるとこれは少々考えなきゃなるまい。

商店は芸術家の原稿とは違う。

購買心理というものは妙にデリケートなもので、商店の頭痛の種もその見極めにあるものだが、八戸一流の七尾さんだとてあまりにあまりだとこれからの客はそっぽを向きます。それに、色々な家具店が相当八戸にもあるのだから、そういう点を、率先して改めてもらいたい。七尾さんが八戸の代表的商店であるからこそ敢えて苦言を呈する次第。

「くどう吉」

極めて、お世辞の良い店に「くどう吉」がある。あの世辞は、一面購買者の心を捕らえるようだが、しかし極めて危険である。

売らんかなの空お世辞に聞こえるからだ。

「あなたにこれを着せて八戸中を歩いて貰いたいようです。肩といい胸のあたりと言い八戸には惜しいスタイルだ」などとやられては顔では笑っていてもムッとくる。何言ってやがるんだ…と反感に似たものがグッとくる。

やはり誠意をもって、客と共に品とか柄とかを選んで、これなら、この人に合うという自信を持って薦めてもらいたい。余り美辞なお世辞をやられると、品質にまでフト疑いが起きて信用できない怖れがある。

殊に色々目の高い人達が八戸に入りこんでいる今日、ご用心が肝要。

関野薬局

これと又正反対にお世辞など薬にしたくない薬店―洒落ではないーは関野薬局。

「ゲバルトがあるかえ?」

「そこにある」

とご主人ニコリともしない。

「これつけてくれるね」

「持っていったらよかろう」

万事この調子。最初に行った時びはムッとする。何だこの野郎!と思う。

ところが、二度三度行くうちに、妙に親しみを感じてくる。遠慮のいらない気の置けない店だと思い始めて来る。それに悪気がないのだの品物は確かだから、客には無駄なお愛嬌よりは安心だ。「やあ親父…」そう言って親しんで行ける店である。しかも配達となると小僧連実に敏速で気が利いているのだから文句が言えない。これなど購買心理の裏を行く方法だろうが、これはこれで、又面白い店である。商法としての危険も多いだろうがヨキである。

伊吉書店

ひどいのは伊吉書店。田舎の本屋としては品物が相当豊富―但し、次第に都会化して行く八戸の読者階級を軽視するなかれーだが、お世辞も愛嬌も全くない。それで、親しめるかというと、どっこい。銀行へ借金の言い訳に出向いたみたいに重苦しい雰囲気だ。高座に頑張ってるご主人を見て

「閻魔様みたいだ」と評した失礼な奴がいるが、しかし、評するには何らかの理由があるのだろうから、宜しくご賢察を乞う。それに、配達は敏速にして貰いたい。

さて、最後は三萬デパートだが、八戸唯一のデパート三萬の名は余りにも有名だ。八戸として誇りの一つであろうが、それだけ、品質共他に苦情も文句もあるわけがない。

兎に角、八戸地方文化生活の水準を調査するには、三萬を調査してみれば、大体正鵠な結果が得られるだろうと思われる。

だが一言。―二階売り場の売り子さん達にー店員同士の私語や忍び笑いが、例え客の批評をしているのではなくとも愉快なものではない。暇にまかせて、こそこそ話をしてしていたり登って行った客をジロジロー例えジロジロでなくとも、そう感じられますゾー見回すのは不愉快至極、「私語を慎め」「忍び笑い絶対排撃」を実施されたし。

ご主人様に御一考を慮わす次第―

八戸山車祭を考える 観光資源と捉えるべき 最終

オガミ神社祭礼からオガミ新羅二社の祭礼ヘ

オガミ神社の祭礼はある時期から新羅と二社の社の祭礼へと変わる。この時期について郷土史家上杉修氏は『北方春秋』創刊号(昭和三一年)の「八戸祭りと大沢多門」の中で、「明治十七年、長者山新羅様の(ヒモロギ)が参加して二社になった」と述べている。

 また、これを裏付けるものにオガミ神社文書の明治十七年九月九日の祭礼行列帳がある。この行列帳の題名をみると「新羅・オガミ両社御祭礼行列帳」となっている。この前年の明治十六年は、前項で述べたとおり、祭礼の有無の確認ができないのと、前々年の明治十五年は、まだ「オガミ神社祭事」となっていることから、現段階で確認できる二社の祭礼の始まりは明治十七年とみてよいのではないだろうか。

 これに伴い新羅神社の祭礼の目玉でもあった武者行列の参加も始まったといわれる。昭和三一年八月二九日付デーリー東北に「三社まつり今昔」と題された記事が掲載されている。

 その中で「武者押し」について、「七月二十日の霊祭とは別に旧暦九月十九日に具足祭りといって数百人の藩士たちがヨロイ、カブトの出陣姿に身を固め勢揃いし隊伍を組んで新羅神社に参拝する行事があった。これは文政二年、八代信真のとき家老野村軍記が始めたもので…(中略)、この行事は幕末まで続けられたが、廃藩後は七月の霊祭に「武者押し」として合流した。明治年間には士族たちが各自先祖伝来のヨロイをつけ行列に参加し…(後略)」と述べているがこの記事では廃藩後というだけで合流の年代までは述べていない。明治二年の行列帳には旧藩士の名前が多数みられるが、彼らがヨロイを身に着け行列をなしていたのであろうか。

 では新羅神社が合流した明治十七年の行列帳はというと、そのトップに「騎士」という文字がみえるほか武者行列を示すものはみえない。「騎士」=武者行列なのであろうか。

 ここにもう一つ気になる史料がある。オガミ神社文書の「明治九年九月七日・オガミ御祭礼行列面附帳」である。この史料は祭社行列に参加した人たちの名前を書き留めたもので、その中に次のような部分があるので紹介する。

    (前略)

 一 神功皇后金子宗七郎 貸人

二十四人   新荒町瀧沢治平

         (以下人足の名前は略す)

十三日町大旗 富岡新十郎行貸人 九人

八日町笠鋒

 十人

学隊旗一流

騎馬具足隊

 (中略)

学隊大沢

 三人

騎士頭

逸見元膳

 (後略)

 この「騎馬具足隊」や「騎士」は何を意味するのであろうか。「騎士」が明治十七年の行列のトップを飾る「騎士」と同じと考えてよいのか。これに関して、さらにさかのぼり江戸時代の天保四年(一八三三)の「法霊御神事行列」をみると、その中に「打毬騎士」の名がみえる。これは騎馬打毬の格好をした武士の行列参加である。この表現からきた「騎士」であれば、鎧、甲冑に身を固めた騎馬隊や、徒歩武者の行列とは意味が異なるのである。

 もう一つの「騎馬具足隊」はどうであろうか。この言葉の表現からいうと「武者押し」、つまり「武者行列]に近いようにもみえる。とすれば、明治九年までさかのぼることとなる。

 このように限られた史料では、これ以上の武者行列の合流年代の特定は難しい。しかし、明治中頃にはすでにこの武者行列は老年会の協力を得て、古風を今に伝える出し物として、祭礼の中心

をになうまでの人気を博していたのは確かである。

三.オガミ・新羅・神明の三社御祭礼

 オガミ・新羅の二社の祭礼から現在の形となる三社への移行は、明治二二年(一八八九)といわれる。これについても前出の上杉氏は「明治二十二年に大沢多門が主唱して神明様のヒモロギが参加して、初めて三社になった」と述べている。そしてこれもまた同様にオガミ神社の文書「明治二十二年八月十六日三社御祭礼行列帳」の題名からも確かめられる。

 しかし、ちょうど二社御祭礼となった明治十七年以降この明治二二年までの間、つまり明治十八年から二一年にかけての祭礼の確認ができないので、必ずしも二二年とは言いきれない部分もあるが、現段階で確認できる最も古い年代が明治二二年といえる。

 これまで三社の合併については、明治二八年、大沢多門が中心となって日清戦争の勝利を祝い、祭りを盛大に行うため三社合併による祭礼を行った、といわれてきた。この明治二二年・二八年の同年に登場する大沢多門は、根井沢定右衛門と称し元八戸藩士であった。明治維新後、名前を改名し、明治五年八戸地方初の劇場を創設し、各種の興業を行うなど、明治になってからは芸能文化面でその中心を担った。そして八戸を代表する郷土芸能「えんぶり」を復興させた人物としても有名である。その彼が二社から三社への改変にも登場する。

 しかし、この三社となった説は、前出の明治二二年の行列帳や次の史料からみて、上杉氏の説の方が正しいように思われる。

 西町屋文書中に明治二〇年(一八八七)十一月七日から二七年(一八九四)一月一○日までの記録「日々雑誌」がある。このなかで明治二三年に次のような記述がある。

  御届

本月四日五日六日の間、例年の通り新羅神社及び三社合併例祭執行候ニ付、市街中御通輿相成候、総て旧例の通り執行侯間、此段御届申上候なり                     新羅神社祠官  石福寿備

  明治廿三年九月二日

   八戸警察署長

    警部吉見十一郎殿

 この記録からも、この頃にはすでに三社合併の祭礼が例年のとおり行われていたことになり、明治二一年説で間違いないといえるのではないだろうか。

 これらから、オガミ・新羅の祭礼に神明が初参加したのは明治二二年で、神輿本体の参加が始まったのが明治二八年ということになろうか。

四.三社大祭の変遷の様子

 こうしてオガミ・新羅・神明の三社合併による大祭が行われるようになり、その後祭りはどのような変遷をたどって現在に至っているのであろうか。これについては、祭り日程の変遷、行列コースの変遷と様子、山車の変遷、参加形態の変遷、華屋台の五点からたどってみることにする。

祭り日程の変遷

・旧暦七月二〇日からの三日間~明治四二年まで

 明治になり新暦を用いるようになっても、当初は旧暦の七月二〇日からの三日間を祭礼日としていた。

・九月一日から三日間~明治四三年から昭和三四年まで

 旧暦の七月二〇日をやめ、九月の一日から三日間と祭礼の日程を固定化したのは明治四三年(一九一〇)からである。これは奥南新報の明治四二年の祭礼広告に旧暦・新暦の併記がみられることから、この年までは旧暦にそった日程で行っていた。同じく奥南新報の明治四三年の記事には、九月二日・三日・四日(一日からの予定であったが雨天のため順延)に行った記録があり、これを境に翌年以降は九月一日・二日・三日の日程で開催していることが新聞記事から伺える。この日程は大正期もかわらず昭和三四年まで続いた。

・八月二一日からの三日間 昭和三五年(一九六〇)から五六年まで

 昭和三五年、これまで九月一日から行われてきた祭りを繰り上げ、八月二一日からと変更した。従来の九月一日は、立春から数えて二一○日目にあたり、この頃は晩稲の開花期にあたり、特に農家では台風などの災害に注意しなければならない日でもあった。そのためか、以前から日がよくないとされ、天候にも恵まれず、再三日程の変更を要望する声があった。

・八月一日からの三日間 昭和五七年から現在まで

 この日程への変更は、東北の三大夏祭りの一つ青森の「ねぶた」に日程をあわせることにより、もっと八戸三社大祭の知名度を上げ、広く多くの人に知ってもらう事を目的に行ったものである。この頃から神事よりも観光に重点を置いた政策がとられるようになる。

 八戸三社大祭は現在でも日程の変更を求める声が聞かれる。一方は、昔の秋祭りにもどす意見、一方は、観光客の誘致のためにも決まった土・日に定めるべきとする意見、これらは神事を重視した立場と観光を重視した立場にあるために起こるべくしておこる対立意見である。

行列コースの変遷と様子

 享保六年(一七二回、法官の神輿が初めて長者山の新羅神社へ渡御した際の行列は、

・お通り 法霊御宮~南ノ御門~三日町~荒町~新町(裏通りの町)~上大工町~鍛冶町~長者山へ

・お帰り 長者山~鍛冶町~大工町~新町~下大工町~二十八日町~八日町杜ノ辻~南ノ御門~法霊御宮へとなっている。(前図参照)。

 この行列のコースは、江戸時代を通じて変わらなかった。

 明治期もほぼ同様のコースで行われていたようで、明治三二年(一八九九)の八月三〇日「東奥日報」の記事に、行列の様子が次のように詳しく紹介されている。祭りは八月二五日から二七日までの三日間行われ、「各町附祭諸種の催し等にて市中の賑わい申し分なく、近県よりも観客群集し各宿屋は客室のなきに困窮せる程」の賑やかさを呈していた。

 その時の行列は、

・お通り オガミ神社~停車場通り~三日町~(大通り)~新荒町~上組町~(裏通り)~十六日町~鍛冶町~長者山新羅神社

・お帰り 長青山新羅神社~(裏通り)~六日町~柏崎新町~下組町~(大通り)~八日町~番町通り~オガミ神社

となっており、初日の行列は午後二時に出発し、式が終わったのは午後五時、行列は整然として屋台や手踊りなど万般の催しにて賑々しく終わったとある。お通りとお帰りの中日である二日目は、長者山にて騎馬打毬の催しがあり、市中では虎舞、太神楽、芸子手踊りなどが行われていた。

 この行列のコースの一部変更をみたのが、昭和七年(一九三二)であった。

 昭和七年九月一日付の奥南新報の記事によると、その表題に「けふから大祭順路を変更して今年の渡御際は長横町廻り」とあり、行列はお通りの時に変更され、おがみ神社~停車場通り上三日町~上組町~二十六日町(裏通り)~六日町~長横町~吹上~長者山

となっており、例年は二十六日町の裏通りを進み、十六日町から寺横町へ折れて鍛冶町を通って長者山へ渡っていたのが、十六日町を通り過ぎ、六日町で右折して、長横町~吹上を通って長者山へと至るコースに変更されたのである。

 この変更の感想を、同年の奥南新報の九月四日付の記事で、「今年初めて通ることになった長横町に行列が入った。見物人は無いわけではないが、家並みのいまだ完全に揃っていない町内のこととて、吹上まで廻ってみた感じは、大工町鍛冶町通りに比ぶべくも無かった」と述べ、さらに「祭りを見る人はやはり人出の多い、繁華なところに集まるらしい。祭事を執行する人はこの見物人の動きも見過ごしてはならないと思う」と再考を促している。この昭和七年には、消防組が附祭りの監督として行列に加わるようになる。

 翌年の昭和八年、これまでお通りとお帰りが通っていた大工町、鍛冶町の人々と長横町の人々の間で、コース変更のことでかなり激しい紛争が起こった。

その結果、お通りの行列は、おがみ神社を出、長者山でお休みせずに吹上、長横町を通り八日町で解散することになったのである。

三日目のお帰りは、鍛冶町に集合の上、大工町~寺横町を経て右折、六日町~朔日町~十一日町~下大工町~柏崎新町から左折~下組町~塩町~二十八日町~十八日町~八日町~三日町解散となった。

 この紛争について、奥南新報八月二八日の記事で次のように意見が述べられている。「毎年のように町内町内の希望でお祭りの順路が変更されることは、お祭りを執行する人々の心も落ち着かないことであろうし、又お祭りを拝む人としても同様のことであって、煩わしいことである。執行の期日といい、この順路といい猶考えるべきだ。」として、コースの変更等に疑問を投げかけている。

ちなみにこの年に参加した山車は十一台であった。

 これ以後、昭和三五年(一九六〇)に祭りの日程が大きく変更され、九月一日からの開催が、八月二一日から三日間の開催へとなった。

 そして、山車の大型化などからその行列のコースの見直し論も出始め、ついに昭和三七年(一九六二)、お通りのコースの上組町から常番町へぬける道路の道端が狭いという理由で、上組町~平中~町組町へと通るコースヘと変更となり、お帰りのコースも柏崎新町から下組町に出た順路を、東北タンク横から八戸郵便局前を通り大通りへ出て、二十八日町~十八日町~八日町解散となった。

 現在は、山車がさらに大型化され、裏通りを通っていた行列はその順路をはずれ、平中から通称「ゆりの木通り」の広い道路を通り、鍛冶町、長横町へは入らず、つまり長者山に立寄らずにそのまま解散となってしまう。

 このように、江戸時代から続いている行列形態ではあるが、当初のおがみ神社、神明宮、新羅神社の三社の神事祭礼に始まった行列は、次第に附け祭りの「山車」が主役となり、行列の道筋も新しい道路の開通に伴いコースに変化がみられるようになり今日に至っていることがわかる。

本稿の写真は相馬の野馬追いのホームページのもの。この野間追いは廃藩置県後、明治五年、旧相馬家臣団一同は、妙見社の野馬追い祭を存続させるべく、当局に野馬追原(雲雀ケ原)ならびに野馬の払い下げを請願したが許されなかった。翌明治六年、磐前県は国有財産となった野馬を民間に移管し生育の途を開こうとするも、神威を重んじ、民意を考慮し、県令の特使を小高妙見社の派遣し神眷解除を奏請し、これを捕獲民間に払い下げた。

野馬の消滅で「野馬追い」は形を変えて再興され、民間の馬を集めて行われることになった。しかし、旧家臣団の土着と旧在郷給人・郷士の存続という条件は旧相馬藩の士風と民情を大きく変更させることがなかった。野馬追い神事のこのような再興は、単なる伝統としてではなしに、いわば旧相馬藩社会の現実的な敬受、持続に支えられて実現した。(東北、北関東の諸藩 人物往来社刊)

各郷の騎馬武者勢が祭場に着くと、馬場清めの儀式の後、三軍合わせての宵乗り行事が行われる。
古式再現の荒々しい競馬の熱気があふれる

(お行列)
 午前9時30分、夏空にとどろく花火を合図に、三番螺、陣太鼓が鳴り響き、出発を告げる。
相馬太田神社に供奉する中ノ郷勢を先頭に、相馬小高神社(小高・標葉郷勢)、相馬中村神社(宇多・北郷勢)の順に総勢五百余騎。
総大将、執行委員長、軍師、郷大将、侍大将、軍者、組頭、螺役長・・・などの役付騎馬が整然と駒を進める。
 行列は陣螺・陣太鼓の合図により時に止まり、時に前進して隊列を整えながら、約三キロメートル先の御本陣雲雀ヶ原の祭場地へ。
 騎馬武者全員が甲冑をまとい、太刀を帯し、先祖伝来の旗差物を風になびかせながらの威風堂々にして豪華絢爛な戦国絵巻は、まさに天下無比の圧巻であり、文化財的逸品が揃う「お行列」は動く文化財展として好事家に野馬追をもう一度見たいと言わせる所以である。

(甲冑競馬)
 祭場地に到着した行列は、神輿を御本陣に安置し、式典を挙行。しばしの休憩をとった後に、勇壮な古式甲冑競馬が行われる。
古式甲冑競馬の開始を告げる螺の音。
 若武者たちは兜を脱ぎ、白鉢巻をしめる。駿足に自信のある馬にまたがり、先祖伝来の旗差物をなびかせながら風を切って疾走する。この甲冑競馬は、一周千メートル、十頭立てで十回行われる。
 指旗のはためく音、鎧、草摺の摺りあう音・・・。渾然となった音のかたまりが、砂塵が舞う中を走り抜ける。迫力と感動のシーンだ。

【神旗争奪戦】
 午後一時、山上の本陣から陣螺が鳴り戦闘開始の合図を告げると、騎馬武者達は馬を駆し、雲雀ヶ原に格好の場求めてたむろする。
 陣螺が鳴り終え、空中に炸裂した花火の中から二本の御神旗がゆっくりと舞い下りると、数百の騎馬は一斉にその方向へ。旗の下に群がり、鞭を振りかざしての奪い合いは、抜刀こそないが、まさに戦闘さながらである。
 御神旗をとった騎馬武者は高々と誇らしげに旗をかかげながら、本陣山の羊腸の坂を一気に駆け上る。この時のどよめきと喝采は、旗を得た者の最高の栄誉だ。
 こうして花火二十発・御神旗四十本が打ち上げられ、そのたびに旗の波が揺れ動く光景は一幅の戦国絵巻をも彷彿させる。

五百余駒の軍団、その旗指物の華麗なこと。死ぬ前に一度見てもらいたい祭が相馬の野馬追いだ。

この華麗な戦国絵巻は武田の陣備えで読むことが出来る。講談「三方カ原の戦い」から、旗指物を紹介。三左衛門信成は一言坂の頂にトウトウと登り上げ馬の四足を踏み止め、眉庇に小手をかざしてはるかに姫子山の麓に備えたる武田の陣頭眺むれば二千一組、或いは千人、八百人、八方四面にたむろをなし、其の勢おおよそ三万、五、六千。魚鱗、鶴翼(かくよく)長蛇形、虎頭(ことう)円月、簑手形(みのてがた)、鉾矢、雁行(がんこう)、一文字、真ん丸一行もがり落としに八門遁甲と備え固めし有様は兜の星を輝かし大袖小袖を揺り合わせ得物得物を飾りたて、弓鉄砲、槍長刀、鉾、太刀、黄糸、赤糸、逆沢瀉(さかおもだか)、紺糸、黒糸、桶川胴、萌葱匂に浅黄糸、白糸、青糸、段だら落とし、紅白二段、紫蘇芳(むらさきすおう)、雨色、錆色、翁形、胴丸、赤皮、五色糸、市松、白黒縅(おどし)、鎧の毛糸の品々は物数限りに定めなく、定紋ついたる旗の手は皆真っ先に押しいだしたり。

町衆の毎年作っては壊す怒濤の如き勢いは新しい流れ、相馬のは武士の勢いにて古い流れ、新旧の流れを見せる所に祭の醍醐味。神社の横暴を見て見ぬふりをするか、神社を抜いて町衆と武士集団の武者押しを中心とする祭に変えるかが思案のしどころ。

巡回路、実施日月、ここらも再考し、打球の静に対し騎馬隊の動を組み入れるなどの工夫も必要だろう。長者山でも長根グラウンドでもいいが、武田の陣備を次々と見せるマスゲームは古さの中に新鮮さあり。古きをたずね新しきを知る。武士の旗指物は一度作ればいい。経費少なく効果大。    神社だけでは祭りはもたない。市役所は多額の補助を山車製作に補助。神社がそれを代行できるのか。神社だけで民衆の心はつなぎ止められる時代は消え去った。神社とて祭の参加の一粒と考え直し、参加させて貰える喜びを感じよ。どうしても主導権を握りたいなら、単独で祭を実行せよ。大衆、民衆、氏子からもそっぽを向かれて神社も仏閣も存続しないことを肝に銘じよ。大衆と時代と共にあることを認識しないと、時代から置いていかれる。江戸の昔からある祭、見える今に捕らわれず、数百年の流れを想起せよ。

読者投稿のページ

「地方行政と談合」

 公共事業の競争入札に関する談合疑惑は、全国でも珍しい事ではない。

「談合なくして、民間企業の生き残る道はない」と言っても過言ではないだろう。それは、歴史的存在感のある業態でもあるからだ。身近な所で公認のごとく平然と行われてきたからだ。しかし、社会環境の変化と共に表面的に形が変わり、あたかも談合など無いと象徴するかのように装い、その裏では巧妙な手口で密かに現在も行われている。

 私は民間企業を定年退職してから、市役所を訪れるのは一年と四ヵ月振りであった。市民広場右手の舟をかたどった噴水に懐かしさを感じた。庁舎正面を入ると右は市民ホールであるが、市民課や年全課を訪れる人達の一時の憩いの場でもあった。軽快なバックミュージックは、静かで安らぎを与えてくれる。そんな時、二階の窓が開きたばこの臭いが鼻をつく、そして、ジャラジャラ、ジャラとマージャンパイをかき混ぜる音がきこえてくる。紛れらなくマージャン熱戦中の気配である。いくら暇でも勤務中にマージャンは無いだろう。これは何なのか確かめてみる必要性を感じた。

 好奇心の強い私は、市民課側の階段を上り、その部屋をのぞき込んだら何と記者クラブの連中だった。手際よくパイを指で操る姿こそ、強かなプロ意識と情報収集その道のベテランたちだった。四人のメンバーは、愚痴めいた調子で勝手気ままに、方言を交ぜながら語っていた。偶然ではあるが仕方がない、私は聞き耳を立て、その概要を聞き込んでしまった。その日から私は身も心も多忙な日々を送ることになるとは予想もしなかった。

 平成十三年十一月、地元有力新聞社の編集長宛てに一通の封書が郵送されて来た。その内容は、八戸市が発注する公共事業工事の入札に関する投書であった。つまり「たれこみ」である。内容は、二日後に行われる市内二丁目の道路補修工事の競争入札に関し、指名業者十四社すべてが落札予定金額の情報を入手している、そればかりではない、落札金額や落札業者までが決まっていると言う。これには納得行かない、と言うものだ。

 某新聞社は、市役所にこの件について取材を試み打診したというが、打診した相手は誰なのか、役職や氏名は不明である。

 その頃、某会社の電話が鳴り響く、入札担当者同志の会話が始まる。いつも午後六時半ごろである。

 「もしもし、順番だから仕方ないよ」「違約金はショベル賃貸料の名目で請求書をまわしといて」「一回目だめなら1,5下げていくよ_」「次の親はあんたなんだから、よろしくね」「今回は研究会なしでいくよ」「この数字で大丈夫かい」「会長からのお達しだから良いんじゃない」「あの場所はヤバイよ」「ファックスはボツだよ」「OK」

○この会話を要約すると次のようになる。

 発注者(市)は、指名願い書を提出し、あらかじめ入札参加に認定された業者の中から、工事内容や規模等によって選定されるが、種別毎に個別に指名される。このグループは、落札する業者を順番制に決めているようだ。しかしこの場合諸事情による話合いによって、落札当番でない次の業者が落札することになったようだ。この場合、本来落札予定だった業者に対して、別名目で所定の金額を支払うシステムのようだ。つまり、ショベルカーの賃貸料として請求書を出して、経費として扱い支払ってもらう仕組みだ。又、落札予定業者が入札書に金額を明記し、札入れしても発注者側の落札予定金額に達しない場合は、再度入札を行う場合もあるので、次からは金額を一回目より1.5%下げる。当て馬業者はそれより高い金額で入れる。但し、(一回目より)高ければその業者の入札権は失格となるから緊張する。研究会とは、その地域や業界によって呼び名が異なるが、この場合は、この物件の入札参加する業者だけ一同に集合し密接な打合せをすることであるが、今回はこの集会はやらないとの連絡のようだ。特にこの件についてファックス等書面による連絡は一切しないよう注意している。最後に、落札予定全額を落札予定者自身が見積もり算定したが、予定価格より高いようだが大丈夫か?と云う意見に対して、会長(談合を什切っている人)からの情報だから指示どうりやれば間違いないよ…                        と云う内容である。

 この様なやり取りで何百万と云う取引が容易に成立する。この仕組みは単純な例であり、だいぶ皆から堂々と行われてきた談台統制による業態活性化の方法として注視されてきたのは事実であるが、これはほんの一例であることを承知しておくとよい。

*この内容は平成3年ごろから15年ころまでのものである。

*その他の内容

 1 市職員に毎月「靴下」が東京のデパートから送られてくる。

 2 担当者には、「高級スーツオーダー券」が送られてきた。

 3 業者は落札価格を、どのようにして入手しているか。

 4 議会議員の有利な特権と応用について。

 5 下請け業者と大手会社の見えない関係について。

 6 家一軒新築ぐらい容易い御用です、どうぞご遠慮なさらずに。
 7 天下りが条件だった、今、その人はあそこに居る。

この投稿は深い所をえぐっている。少々古い所もあるが、今だから喋れるのだろう。八戸市民の誰もが秘していた事実。続々と白日の下に晒されるか。次回を期待するのは編集部ばかりではない。

南郷文化ホールで市に損をかけた職員に懲罰は?

議員も気付いた利用者の水増し

スポーツ・文化施設特別委員会議事録から

●山名委員この3万人というのは、ホールも含めた施設全体の利用者数ということですか。

●境藤南郷事務所長 そうでございます。

● 山名委員 そうしますと、そもそも今まで公民館の方で使われていた利用者数がそっくりこちらに来てということになってしまうと、公民館そのものは全くゼロという積算にならなければならないですか、そうしますと公民館の方の維持管理というか、そういうものはどうなるのですか、公民館は廃止しようと考えているのか、そこら辺はどうですか。

● 境藤南郷事務所長 今まで使っていた公民館のホール部分が文化ホールに全部行ってしまったら、公民館はもぬけの殼になってしまわないかということだと思いますが、主なものについては文化ホールの方にということですか、そのほかに、今までやっている事業のほかに、文化ホールを利用するための事業を計画して、新たな事業等については文化ホールの方でやっていきたいと。今まで公民館ホールを使ってやっていた全部を持っていくということではなくて、公民館ホールの方で開催した方がベターなものは公民館ホールの方で開催する、そして文化ホールの方は新たな事業を計画して取り組んでいくというような考えでございます。

● 山名委員 その新たな事業というものは、どの程度見込んでいるのですか。

●山名委員 南郷公民館は平成十六年度で入館者数九千人、南郷文化ホールはこれに対比した3万人ということではないのですか、違うんですか。

●境藤南郷事務所長 先ほど申したように、今まで公民館でやっていたもののうち、文化ホールでやった方がよいというふうなイベントについては文化ホールで、その部分は重複しているとは思います。

●山名委員 いや、大ホールの入館者の数が3万人ということなんですか。

●境藤南郷事務所長 文化ホールの方の入館者が3万人と。

●山名委員 文化ホール全体の数なのですか、大ホールの数なのですか。

● 境藤南郷事務所長 文化ホールと申しますとホールしかないんです。公民館は文化ホールもありますし、そのほかの部屋もありますけれども……〔「小部屋もいろいろつくらないんですか」「会議室はつくらないのでしょ」と叫ぶ者あり〕会議室等もありますか、今ここの3万人という利用者数は、あくまでも新たに建設される文化ホールの利用見込み数でございます。

● 山名委員 そうしますと、平成十六年度の大体3倍を見込んでいるということですよね。それ自体にすごい無理があるのではなかろうかという感じがするわけです。道路公団でも何でも、道路をつくるときは最大台数の車が走ることを想定してつくるんだけれども、ところが、いざつくってしまえば、その半分も走らないというようなことが往々にしてある。まさに今の文化ホールの入館者見込み数もそのきらいがあります。

 それは今考えていることは、こちらの方で企画をして誘致をするということなのだろうけれども、そもそも大部分が今の南郷公民館でやられていたものを主にやると、それプラスアルファということですから、例えば9300人が2000人ふえたとか3000人ふえたとかというような計画ならまだわかるんだけれども、失礼ながら、6000人か7000人の人口のところでその3倍を見込んでいるということ自体が、根拠か薄いのではないかと思っていますが、どうなのでしょうか、かなり無理しているのではないですか。

 ●境藤南郷事務所長 希望は大きな方がよいと、それに向かって行政マンは日々努力していかなけれぱならないということか根本にあることは、委員も御存じかと思いますけれども、そういう意味で頑張っていくしかないと思っております。

こんな薄弱な論理に金を投入することが悪い(編集部)

● 山名委員 希望的観測で頑張っていかなければならないという薄い根拠のもとで、私たち行政をチェックする側とすれば、非常にお粗末な計画であると言わざるを得ないと思うんです。今答えた以上の答弁は引き出せないだろうと思いますから、それはそのように受けとめながら、判断材料にさせていただきたいと思います。

●小笠原委員長 他にございませんか。

●大館委員 今の意見と同じなのですが、平成16年度は9330人の利用人数で、件数は188件ということだと、1件当たり50人未満ですよね。そうなると、大ホールで、その300人、500人集まる。今までも公民館で最大250人が入るわけです。その最大250人が入る中で、満杯になってやったイベントというものは、1年にどれぐらいの件数があるのか、まずそこをお知らせ願いたい。

 それから、例えば3万人の入場者数を見込んでいるわけですが、これは私の個人の意見ですが、最初の一、二年は、イベントでも何でも一生懸命に企画すると思うのですが、二番煎じで3年目、4年目と言うと、また同じものだと、客もだんだんじり貧になってくるような気がするんです。初年度はそれぞれ皆さんが頑張ると思うのですが、その辺のことも踏まえて、もう1回御答弁願いたい。

●境藤南郷事務所長 月別に調査してみましたら、平成16年度ですが、4月分で23回の利用件数で人数が752人、1回当たりの平均が33名程度の利用人数となっておりましたが、4月においては行政側で主催した教育大会に150人ほどの利用者があった実績がございます。

 5月については17件の件数で506人の利用者かあって、1回当たり約30人の入館者ということですが、5月の人数で一番多かったものは、老人クラブの総会があって、135人集まっております。

 6月については学校関係ですが、村内中学校理科講演会ということで250 人の参加者があります。そのほかに同じ学校関係ですが、高校の進路研修会ということで1回につき110人の入館者がありました。そのほかに政党の南郷支部の国政報告ということで150人、6月は計3件の100人を超える開催がありました。ちなみに6月の人数は874人、1回当たりが43人です。

 7月に参りますと17件の使用かあって781人、1回当たりの人数か45人。7月においては

日本民謡協会県連合会西塚支部民謡大会ですが、450人の入館者がございます。

 8月については、サークルで一南郷ソーランというソーランがはやっています-YOSAKOIソーランの関係ですが、南郷ソーラン南組に109人の人館者となっております。

8月は8件で204人、1回当たりは25人ということになっております。

 9月に入りまして、同じく南郷ソーラン南組か107人、それから行政の関係で総合健診を開催しております。受診者の人数が472人、これを3回行っていて、1回当たり157名、9月

の合計は17件で784人の人隠者で、1回当たりか46人。

 10月においても総合健診がございました。これを6回行っておりますが、6回で1124人の入館者、l回当たりか187人。日本猿軍団の公演があって200人を収容しております。10月の合計は17件で1489人、1回当たりが87人となっております。

 11月に入りまして、南郷村の産業文化まつりに400人、同じく産業文化まつりの歌謡愛好会の主催の関係で300入、そして保健講座に170人ということで、11月には16件の開催があって入館者が1033入、1回当たりが65入。

 12月ですが、健康講座、これは行政の関係ですか、275入、ふるさとづくりの研修会に120人、老人クラブの連合会、これは高齢者の芸能発表ですが、170人、12月で12回の件数です

が、741入の入隠者かあって、1同当たりの平均が62入ありました。

 1月に入って成人式、それから行政関係の説明会かあって200入、社会福祉協議会の福祉

大会に200入、1月の合計がHィ牛で751人の入館者かございまして、1回当たりか68入。

 2月に入りまして、三八子ども会の研修会に211入、2月の合計が件数で20件、人数で628

入、I回当たりか32人。

 3月ですか、これは合併ということで、閉村式に300入、同じ3月に行われた共同保健計画に150人、たばこ耕作協力会の総会で200入、3月の合計で10件の開催に対して787人、1回当たり78入と、毎月1回及び2同程度の100入、200入を超えるような使用実績はございます。

●小笠原委員長 3万人以上の見込みは。〔「いいですよ」と叫ぶ者あり〕

●大館委員 今、入館者数を大体見ますと、200人を超えるものは何回もないと、あとは100人前後で推移しているというようなことです。それに対して、入館者数3万人を見込んでいるというようなことは、イベントを毎月四、五回でも企画していかないと3万人に到底到達できないだろうと。では、その四、五回も、キャパシティが6500から7000弱の中で、参加する人は限られてくるのではないかという気がするのですか、その中で3万人という数字をはじき出した根拠と言うんですか、それを息の長い事業で継続していけるのかどうか。単発だとできると思うんです。それを毎年継続して、本当に可能かどうか、その辺がちょっと私から言わせると、なかなか学校の学習発表会を全部大ホールを使ってやれと各学校を引っ張ってきたり、もうここだけを集中的に使えと、各学校の体育館は使うなというぐらいまでやらないと、私は何か利用者がふえない気かするのですが、その辺の見込みが、先ほど山名委員からもありましたか、すごく高い数値で目標を設定しているような気がするのですが、その辺をお願いします。

● 工藤文化課長 かつて3万人を積算した根拠ということだったのですか、ちょっと旧南郷村の資料をいろいろ調べてみたのですか、具体的なものはなくて、やはり目標という意気込みだったように思います。ここに掲げた資料は、3万人を達成するためには、この部分の事業を起こさなければならないというようなことは、作業を通して見えてきたのかなと思っております。

 また、継続できるかということですが、この事業を継続するためには、それなりに誘致するための事業費かかなりかかるということと、そういったことを展開するためにいろいろプロデュースするための体制も必要なので、かなり本格的な備えをしないと、なかなか旧八戸市の方からも集めるということを考慮しながらということを考え合わせて、もう当然やっていくということは考えているのですが、かなり本格的な体制づくりをしないと、やはり3万人の事業を維持していくことは大変なことだと考えられました。

文化ホールを実数以上の虚偽の数字を重ね、無理やり建設が必要だと言わしめる根拠は何か?

それは旧南郷村時代から図書館横に、この文化ホールを建設したいという願望を、八戸市との合併にともない協議会がこれを取りいれた経緯あり。

つまり、旧南郷村は八戸市と合併してやるという中で、せめても我が方にはこの程度の恩恵あってしかるべしの意見が出たのだろう。これを具現化するために、いいかげんなデッチ上げの数字を並べた。それを議員に指摘されオロオロ答弁がこれだ。

議員は本会議ばかりでなく、このような委員会に配備され、一日三千円が支給される。勿論議員報酬以外に出るのだ。発言もしない、居眠りこいてても貰える。欠席者もいるが、仕事なんだから出ろと言いたい。

この文化ホールは不必要の意見がデーリー東北新聞「こだま欄」に掲載された。南郷区まで八戸市民が出掛けるのは夏だけ。冬は行きたくない場所。箱物を建てたツケが八戸市にも廻ってきている実状の中、建設すべきでないの意見を無視して、着工されるが、その建設費用の見積もり方法に間違いがあり、杜撰設計、いいかげんな発注で予算不足が判明し、再度応札業者を求めなければならない?

一体全体、どこがどう間違ったの?

南郷村が建築の基本を企画。これは南郷図書館に隣接する計画。すでに図書館は建設された。図面は書かれてあり、おおまかにこんなものがいいだろうとの、子どもの図画のようなものができていた。

これを元に設計図を書かせようと入札させた。総工費を七億三千万円と決めた。当然、この金額は設計図を書く業者には伝えられている。おまけに設計業者が談合したと言う情報がデーリー東北新聞に寄せられた。

これを調査すべく調査会が八戸市役所に設けられ、調べたところが判らなかったそうだ。

そこで、設計図業者を入札したところ、次のような結果だった。

ここで判明したことは、デーリー東北新聞に情報が寄せられたとおりだった。

この応札結果を見れば、石川設計、川島隆太郎、キャデック、久慈、東建設、杜、U&Aの七社が同じ1157000円と異常。そしてクジでU&Aが落とした。

南郷事務所はこのU&Aに七億三千万円で建設できる設計図をひけと命令したそうだ。

ところが設計図を引き始めた段階で、音響を良くしろだの、舞台をああしろだのと、注文を南郷事務所が入れたそうだ。

つまり、当初の基本設計図面には音響などは書いていない。これは図書館の隣に書いた図画だ。この図画が曲者で、何処かの大学の先生が、チョコチョコとやっつけた代物。

それに南郷村の職員がU&Aにいろいろ勝手な寝言を注文した。もともと七億三千しかない金に注文をつけるから、金額は上昇する訳だ。

寝言、うわごとを聞いているうちに金額が上昇した訳。その設計図をもとに施行業者を決めなければならない。

八戸市役所の建設部が、その図面を見ると部材単価に間違いがある。それをU&Aに言ったそうだ。八戸市の単価で計算すると、七億三千に納まらない。

するとU&Aはごにょごにょ言って逃げたと言う。ここらの表現は歯切れが悪い。と、言うのもU&A業者は東京が本社、青森が事務所で筆者が追っていかれない距離。

金がふんだんにあれば徹底調査も出来ようが、なにしろ本が売れないので、経費がかけられないから、勢い市役所の職員の言葉をそのまま書いている。

だから歯切れが悪い。

初雪や根岸の里の侘び住まい、それにつけても金の欲しさよ

すまじきものは貧乏だ。

さて、このU&Aの設計図に無理があると知りつつ八戸市役所は工事発注した。

設計図に間違いがあることを知りつつやった。

間違いだぞと、八戸市役所は設計業者に伝え、再度図面を書かせるべき。

これが間違い。

U&Aの設計図で工事すれば、音響が全く出来ない計算になる。

当然、その不足額を準備しなければならないが、建築課は大丈夫だと踏んだ。

今まで入札させても、大体八割程度。U&Aが計算間違いをしても、七億三千の八割落札なら、何とか音響も出せると悪だくらみをした。

ここで八戸市役所は応札業者の中から駿河建設に箱を作らせる契約。

ところが、この駿河建設が落札した金額は九割五分、ここで予算不足を痛感しなければならない。当然補正予算の対象だが、ボケの建設課は放置。またもオマケがついて、駿河がしないと言い出す。お前がスルガと言ったのにしないは何事!

ここで建設課は喜んだ。今度は八割になるだろう。

オマケのオマケはスルガはしないがで入札参加ができない懲罰までついた。

山梨側で見る富士より静岡側の富士の方がいい。

かいで見るよりスルガ一番というゾ。

つまり八戸市役所はどうせ業者は仕事が欲しくて来る。安い価格でも仕事をすると踏んだ。

ところが談合課徴金、損害賠償までむしったから業者は半分になり、生き残ったところは正規の価格を提示。それが九割五分だよ。役所が積算した価格に自信がある。何たって役人が計算。間違いもない。本当は建設屋でも水道業者でも百で落札するべきだ。役所が計算してるんだ。

税金も役所が計算して百取るんだ。それを八十は悪だくみ。業者を殺そうとしているんだ。八戸の業者は死に絶えたヨ。生き残った会社も殺そうとするのかネ。オッカネエところだ役所は。自分たちの給料は下げないが他人のは下げろじゃ、役所も男を下げるナ。ところが業者の叛乱にあって九十五。業者も役所の安売り強要に窮鼠猫の例え。

U&Aに損害賠償をするか、市に迷惑をかけた職員は損害を賠償しろ。

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 1

山田洋次監督・主演・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう

八戸の三大偉人と言えば安藤昌益・西有穆山・羽仁もと子を指す。安藤は秋田の産、後の二者は八戸産。その西有穆山(にしあり・ぼくざん)の百回忌が三年先。

八戸図書館の郷土資料室で西有穆山関連の書物を出してくれるように依頼。すると「西…なんですか。西有ですか、どういう字です?」と問われた。二十歳代の青年、「知らないのか?西有穆山を」「ええ」

情けなくって涙が出そうになった。還暦を過ぎたあたりから涙もろくなった。

かつて青年会議所を中心として「安藤昌益国際シンポジウム」が開催されたことがあった。もう二十年も前になろうか。哲学者安藤の名が、デーリー東北新聞始め多くの新聞に載り、市史編纂の三浦氏もTVに登場。安藤ブームが沸き起こった。

八戸の名が全国に響き渡ったぞ。

安藤の哲学は難解。そして時代が遠い。西有穆山は幕末に生まれ、廃仏毀釈に敢然として立ち上がった。仏教界全体が一つの炎と化して団結し明治新政府と烈しく渡り合った。刀と力が物を言う時代。西有は一命を賭して各宗門が送りだした俊才達と検討を重ね政府をねじ伏せた。

湊の豆腐屋の倅だ。この倅が如何に偉大であったかを、「はちのへ今昔」はシリーズを組んで何度もお伝えする。

西有穆山の銅像は旭丘の市営バス操車場の隣に建つ。誰もお参りもしない。建っている人物すら知らないのだから仕方もない。

そこで西有穆山の勉強。この人から教えを頂いた多くの僧侶がいた。長者山裏の大慈寺の和尚故吉田隆悦氏の著書を軸に記してみる。

西有穆山は、文政四年(一八二一)八戸市湊町本町、豆腐屋笹本長次郎の後妻の長男として誕生。幼名、万吉。母、なをは、万事よくゆくようにと、一生懸命に育てた。

 或日豆腐作りの手を休めて、万吉にお乳をやっていたなをが

「お父さん、来て下さい、万吉が何かにぎって放しません。指の間から光がでています」

と叫ぶので長次郎さんが行ってみると、何かをしっかりと握りしめてなかなか放しません。

何時の間に、何を握ったものやら、小さい指の間から、ピカピカと光が出ています。

怪我でもをさせてはいけないと、お父さん、お母さん二人がかりで小さい指を一本づつおこしてようやく中のものを取ってみると、それは、豆腐の材料の豆でありました。どうして光ったのでしょう、とその豆をよく見ると豆にシワがよって観音様の姿をしている。仏の長次郎といわれるほどのお父さんは、その豆の観音様を仏壇に供えて、万吉を抱いているお母さん一緒に

「どうぞ万吉がマメで丈夫に育つように御守り下さい」

と心から御祈りしました。

 その頃、湊村に玄伯さんという占い師がいました。豆の観音様の不思議なこともありましたから、笹本夫婦は、万吉を見てもらいました。玄伯さんは顔、頭、手を色々観ておりましたが、

 「まったくよい相だ、家業を継げば、地方第一の事業家、政治家になれる。又、学者や和尚になれば、天下一の名僧知識になれますぞ、大事に育てなさい」

と喜んでくれました。

こうして御両親のゆき届いた愛情によって、まるまると育ち、三歳になった万吉は、母親の生家八戸市二十六日町の西村源六家に養子にやられました。

 万吉は浜通りの風の荒い湊村から城下町の気風のよい八戸町に移り、伯父夫婦の愛情こもった養育ですくすくと大きくなり、六歳の春を迎えた。ところが、世の中でよくいう、ヤガネッ子(八戸弁で妬むとか嫉妬する子)が生れて来たのであります。西村源六夫婦には永い間子供が出来ないので甥の万吉をもらって実子のように愛情をそそいできた。子を育てる愛情により、養母の身体に変化を生じる種が授かるといわれるが、万吉の場合もそれであったのでしょう。西村夫婦に男子が誕生。夫婦の喜びようは一通りではない。

 これを見た万吉は、

「私はこの家に居るべきでない、赤ちゃんがこの家の宝であり、私より大事なものだ」

と、一人考え、一人心に決めて西村夫婦に無断で、トボトボと四キロ半の道程を歩いた。その途中には一軒の家もない田圃やリンゴ畑のさびしい罪人を処刑し、首を切った下組町や佐比代街道を通って湊の生れた家に帰って来た。実母のなをさんはビックリして、

「どうして帰って来たか?八戸(西村家)で帰れといったのか」

とたずねると、万吉は、

 「いや、そうでない、向うに坊やが生れたから僕の用がないんだ」

と、ハッキリ、絶対八戸には帰らないという。実母なをは、八戸の西村家に走ってゆき、どうしても帰らないというので、と申し訳と詫びを並べて諒解を得た。

 これより万吉は、親戚の者は勿論のこと、隣り近所の人々に「あの子は普通の子ではないよ、一度も歩いたことのない八戸から湊まで、仕置場(処刑場)のある佐比代を通って一人で帰って来たそうだ、なんでも、人相見が観た所、人相から手相から普通の子と違っている、神童とか、観音様の申し子だといったそうだ」という話がひろまった。

 生家に戻り、万吉の働き、と勉強は、真に機敏で明確適切、親類の者は勿論、出入する人々も皆、「長次郎さん所には良い跡継ぎが出来た」

と、万吉が家督相続すると思うようになりました。万吉八歳、先妻の子、つまり腹違いの兄が両親、親戚から

「どうちあれは、万吉と比べると出来ない、気のきかない奴でこまる」

と話しているのを陰で聞き、これは兄が気の毒と思った。

文政十二年(一八二九)万吉九歳の春。

母と共に八戸町、母方菩提寺、願栄寺に彼岸参り。願栄寺本堂の中で地獄極楽の掛図を見て、

「お母さん、これは何だの」

と、人間が鬼に舌を抜かれている図、釜ゆでの図を指して聞いた。母は、

「それは悪いことをした人々が、行く地獄、赤鬼、青鬼に仕置きされる所、可哀相なことだ」

と答える。

「では、こちらはなんだの」

と、天女が飛びんで楽しい音楽が奏でられている極楽の掛図を指す。

「それは善いことをした人々が行く所」と答える。

「ではお母さんは、どっちへゆくの」

とジッと母の顔を見つめた。

「お母さんは決して悪いことはしまい、と務めてはいるけど、お前達子供可愛さに、知らず知らずの間に、お父さんにも世間様にも嘘をついているから、お母さんは地獄に行くことでしょう」

「お母さん、地獄にゆかずに極楽に行くことも出来るでしょう、どうすればお母さんが極楽に行けるの?」

と再び問うた。

母は、しばらく考えた後、

「万吉、昔からな、一子出家すれば九族天に生ずというように、親戚から一人の立派な御坊さんが出れば、お母さん、お父さんばかりでなく九族といって、親戚の者が皆、極楽の天上界に生れかわり、幸福になることが出きると申しておるよ、でもこれは、仲々むずかしいことだよ」

と訓した。

この後、万吉は時々ボンヤリ考えている日が多くなった。十歳の天保元年(一八三〇)考えた末、「母を極楽にやりたい、兄さんに父の後をつがせたい。それには自分が出家し立派な坊さんになることが一番よい」と決心。

 万吉の生家笹本家の向う隣りに、淡路屋という八戸藩主御用掛の酒屋があった。四国を平定し、豊臣秀吉と共に関ケ原の合戦に参戦した長曽我部元胤の子孫が落人となって八戸に来て経営していた。身分を証す品々を所持していたところから、南部藩主より苗字帯刀、二階建住居を許され、御用商人を勤めた。

この淡路屋に万吉少年が通って勉強した。というのは、淡路屋には書物が沢山あったから。こうして勉強すればするほど万吉は、何としても出家することを許してもらうと決心、天保二年(一八三一)十一歳で出家したいと申し出た。けれども両親は万吉の願をきき入れない。しかし、万吉は淡路屋の本を借りて無我夢中で勉強する。

天保三年、十二歳となり知識も体力もつき、自信を持ち

「四年前から決心しました。どうぞ出家を許して下さい。許さない理由を教えてください」

と、強く両親に迫った。仏長次郎と呼ばれる父親は、許してもよいと思った。が、母なをは

「万吉や、この地方のお坊さんたちは、皆地獄参りの先達をするような人ばかりで極楽参りの案内者はいない。だから駄目です」

といって聞きいれない。

 天保四年、十三歳の或朝、両親を前にして、

「万吉は必ず立派な出家になります。どうぞ出家させて下さい」と懇願。とうとう母は、

「偉ぶったり怠けたりせず、日本一の僧侶となることが出来るのなら許します」

と許可。

笹本家の菩提寺、類家の長流寺で得度。住職は金龍和尚。小坊主となった万吉は金英と名を改めた。天保四年六月二十一日。
これが西有穆山の第一歩。

小中野は女なくしてもたぬ街、その女が消えて灯も消えた 最終回

小中野生まれの三人の人生を記してきたが、いよいよ戦後の話。それにつけても大正生まれの人々の労苦は並大抵じゃない。昨年、五戸のハルピンと言う中華料理屋のバサマを掲載、この人はソ連侵攻、中国内戦に遭遇し、妹、弟と生き別れ、中国人の夫を得るも、必ず生きて日本の土を踏むと決意。暇を見ては生き別れになった場所に、妹、弟の姿を探し求める。

「十年も前です、ここで日本人の妹と弟と分かれ分かれになってしまいました。どうぞ、どんなことでもいい、知っていることがあったら、お願いです、私に教えてください」

地に頭をつけんばかりに、涙をこらえることもできずに異国、中国で哀願しなければならないのは辛い。まるで、氷雨の中、裸足で外に追い出されたるが如き胸中。大地を踏みしめる足もと寒し。

杖とも柱とも頼った母は開拓団の地で自決、父は満州で応召され、死んだか生きたかも不明。姉妹と弟が故国に引き揚げんと必死になって、大人の後を追うが、少し離れ、だんだん置かれ、とうとう姿が見えなくなり、失ったのは日本人たちの姿ばかりか途方。

中国人同士、覇権を争い銃弾飛び交う市街戦の中、日本人の子ども三人が頭を低くしながらさまよう。後を見たら、妹、弟がいなかった。こんな境遇に立ち至り、困惑、困窮せぬ者一人とてなし。

必死に妹がいませんでしたか、見ませんでしたかとの涙声に、中国人たちも袖を濡らす。
人情紙の如しと言う譬(たとえ)もあるが、人として生まれきて、この日本人の姉の姿を認めれば、異国の人も心を動かさぬ者とてなく、額あつめての相談、思案。

そんな時、一人の女が走り来て、ひしと抱きつく。姉の泣き声を聞いて、もしやと思って走ってきたのだ。しばし、抱き合い共に泣けば、中国人たちも分かれた辛さと再会の喜びを分かち合い、涙ののちには歓声挙げて祝福。

遠い日本の親戚よりも、ここ中国の北の街、異国の人々の存在ばかりが頼もしい。そんなこんなの苦労の果てに、一時帰国し、そのまま永住、中国人の夫は怒った、オットそうはいかないと。それでも金を送り続け、二人の男子を日本に呼び寄せ今は幸せに暮らしています。

こんな苦労も今の若い者たちは知らないけれど、これも日本人がたどった道。

ようよう日本に帰った小中野三人組も、食うための努力を開始する。

加藤そば屋の万ちゃんは古巣の教育畑、三戸地方教育事務所で視聴覚教育を担当し、子ども達に映画を見せてあるく。守備範囲は広く、青森県南全域をくまなく歩く日々。映写機ぶら下げて、バスであちこち歩く、巡回映写会担当官。これでオマンマにありついた訳。

こんな仕事なんかしなくたってソバ屋でおまんま食ったらよかべと思うのが素人の浅ましさ。当時、物資は統制経済(国が物資を管理し自由販売をさせない)で、ソバ屋にソバ粉が来ない。ならうどん粉でどうか? うどん粉も外国から来る、アメリカから来るから、アメリケンでメリケン粉、これとて統制品の最たるもの。つまりお手上げだヨ。それで、世を忍ぶ仮の姿で官吏を務める訳だ。

この加藤ソバ屋が、市役所裏の「おきな」ソバ屋と成るのだが、これには少々深い訳。

それは、ある日のことだった、昭和二十九年に統制が解けて、ソバ屋に万ちゃんが復帰した。その時にお袋がしみじみ言った。これからは八戸に出ないと困る時が来ると。
このお袋の洞察力は鋭い。加藤ソバ屋で小中野にしがみついていたら、とうに倒産していたことだ ろう。なにしろ、小中野は二つの法律でぶちのめされた珍しい街。

一つは天下の悪法、売春防止法、これが昨今、幼い子どものあそこを見ようなんて、チンポの立たなくなった爺が、小学校一年生のを覗いた。この男の前職は小学校長だとヨ。聞いて呆れるはこれを指す。

商売で見せるさせるが無くなったのでこうした嘆きが出る。売春は立派な産業、もう一つは二百海里で漁業がダメ、今まで余所の国から盗んだ魚、それが盗めなくなってアウト。これも政府がしっかり交渉すればセーフの筈。

その母親の言を入れて市役所そばの中居写真館の一画を借りて加藤ソバ屋から「翁」へと名称を替えて心機一転は昭和三十七年、ここを中央食堂、島川氏が買って、「翁」は現在地を購入し新築する訳。それからはソバ屋の四代目に納まり鳴りを潜めて商売渡世。

植木さんの場合は、命からがら日本について、さて、何をしようかと思案、こんな時にこそ力を貸すのが友、藤金タクシーの藤田幸三郎氏、この人が駐留軍が高舘の飛行場跡に来た、そこで車の運転手を捜している、直ぐ行ってみろと教えた。金網で囲まれた駐留軍の基地、アメちゃんたちが大勢ウロウロ、何、植木さんはたじろがない。何たってシンガポールで捕虜になり、キングスイングリシュで生活、米国英語は訛がひどい、俺の耳は本場の英語と力むけど、何、植木さんは英語は聞くだけで喋れない。

アメちゃんの将校がテスト、飛行場で運転試験、植木さんはジープに乗り込み、シンガポールで運転してたように、勢いよく車をジー、プーと走らせ合格、なにしろ乗った車がジープ。

そこで今日から働けと、即採用、当日より労働だ。そこにいて、結婚し、今度は市役所で運転手を欲しがっていると長横町の歯科医橋本氏が教えて、市役所勤務。無事に勤め上げると今度はRR厚生会で駐車場の管理人に来てくれと、辞めた当日から引き出され、それもようやく辞めさせていただき、今はすっかり好々爺、男はいつも身綺麗にと、幾つになっても英国紳士ならぬ八戸ダンディー、小柄な好々爺が街をテクテクしてたら声をかけてごらんヨ、必ずそれが植木さんだ。

さて、真打ちは野田さん、消防に勤務したナ。この義侠心に富み人情に厚い、男の中の男一匹という、時代が違えば侠客という存在。

男ぶりはいい、声に凄みがある、腕っ節は立つ、あそこもデカイ。風呂屋のタイルを舐めると言う程、湯舟の近くの奴が湯をこぼすと、入り口近くで身体を洗っていた野田さんが「熱い!」と叫んだそうだ。
小中野三大マラの持ち主、更に凄いのは、昔の侠客が消防士になったから、怖れを知らない。恐いと言う字は我が辞書には無いという根性の持ち主。消防士全体が命知らずの集団、当然、それ火事だとなれば皆装束に身を固めて赤い車でサイサイレン鳴らして飛び出す。水をかけるのが商売。ところがこの消防士が一番嫌なのが電気、水をかければ感電する。なんたって百ボルトじゃない、上の電線は三千三百の高圧、それがトランスで変圧されるが、その前の生の電気が走っているんだ。それが火事になって垂れ下がる。トタンの屋根だと電気が途端に走るぞ。八日町の嵯峨って肉屋があった、八右衛門の所を借りてたらしい。嵯峨の店を探してもみつからない、なにしろ昔の話だヨ。

先着の消防士がオタオタしてる。野田さんが怒鳴った、

「何してる、屋根に上がれ!、上がって値打ちがあるのが消防士とマージャンだ」
屋根に電気が走ってて感電死すると、大声、何、電気ぐらいで震えるなと、梯子を屋根にかけるが、電気でショート、火花が走る、ショートでびくびくするな、俺はサードだよと、平気な顔で屋根にあがり、のたうち廻る三千三百ボルトの黒くて太い(なんだか、どこかで見たようなもの)電線を掴んで放り投げ、勢い良く筒先から水を放って鎮火。

昔はこうした豪傑が消防に居たナ。消防三羽烏と呼ばれたのが一番、野田、二番が西村、三番が福士、この人達は皆刀が趣味、生まれる時代を間違  ってお袋の腹を蹴った人達。世が世ならいっぱし  の親分で渡世したろうに。

当時、小中野に名物男がいた。大久保弥三郎は少し時代が前だが、寺下建設の寺下岩蔵、広田真澄、前者は参議院議員、後者は市議、明治四十四年生まれ、水産高校の教諭から昭和二十二年初当選、連続十期務め平成五年没、この人の選挙は清廉潔白、銭も無いから自転車で外套の襟立てて街頭演説。それでも十期当選、八戸市議の長老、谷地先次郎さんだって六期、いかに凄いかが判明。この寺下、広田両氏が小中野少年野球を育てる。
侠客野田親分は少年野球のための用心棒、グランドにふらふら入り込んで、野球の邪魔をする奴を懲らしめる役。グラウンドの整備に汗を流す。寺寺下が金を出し、広田が智恵を出し、野田が汗を出した訳、この少年野球が日本で二番、つまり準優勝。往時の新聞を見せる。それは昭和二十七年のこと。当時のメンバーは右・佐藤、遊・風張、捕・橋本、一・玉川、左・高橋、三・池田、中・鈴木、PH・中村、二・月館。投・藤本。

全日本少年野球大会優勝戦

八戸インディアンズの敢闘空し

五対三 呉の軍門に降る
全日本少年野球大会は東北代表八戸インディアンズと中国四国代表呉三津田をもって優勝を争ったが、八戸インディアンズは敢闘空しく五対三で西海の雄呉の軍門に降った。この日後楽園球場には数千の観衆が詰めかけ、前日八戸軍と準決勝で一対○と惜敗した横浜代表全西潮田の応援団が「昨日の敵は今日の友」とばかり八戸に応援、少年野球らしい微笑ましい風景を描きつつ午後一時十八分八戸先攻で試合開始、へき頭佐藤(洋)中前安打を放って気を吐いたが頼みとする藤本投手が相手呉代表の三試合にたいし、すでに三試試合を完投しシャットアウトしているだけに、さすがに疲労の色を見せ、立ち上がり悪く、一回表二点を先取され五回、六回また一点づつ、八回さらに一点を加えて五点を奪われた、しかし八戸は七回裏二死ながら満塁のチャンスを逃したあと八回表で田口投手の疲れに乗じ、選球し無死四個の四球を奪って一点をかえし玉川の中前安打でさらに二点四対三にまで迫ったが、その裏で一点を返され、いよいよ最後の攻撃となり、二死満塁一打同点の波乱に富んだゲームを進めたが、頼みの綱玉川の一打捕邪飛に終わり無念の涙をのんだ。

これら八戸野球少年がどうしているかと、野田さんに訊くが、耳が遠くなって判らない、少年たちの中、月館さんは「はちのへ今昔」の編集長の親戚、月金の倅、三年前に亡くなった。後は誰も判らない。読者諸兄で知っている人があったら連絡を乞う。
さて、愛すべき野田さんの消防でのエピソードも色々あるが、年代がハッキリしないので文字にしにくい。判っていることだけ記して終わりにする。 

野田さんは小中野と湊の境、粋な女の通う橋、柳橋の傍で骨董屋を開いた。誰にも売らない、誰からも買わないという妙な店。孫と二人で店番ならぬ孫番で楽しく暮らしたヨ。
この人ほど、夫婦愛、人情愛に溢れる人はいないというゾ。目は霞んで歯は抜けて、耳も少々ならず遠いけど、これは食い過ぎるな、嫌な事を見聞きするなと身体が教えるんだ。この人は手先が器用で何でも作る。それがことごとく一流、彫刻から凧、額、表装と何でも来い。軽自動車を改良し、今のキャンピングカーにして全国津々浦々を漫遊。飯岡の助五郎という嫌な侠客、それと戦ったのが笹川の繁蔵、有名な平手酒造(ひらてみき)て言う用心棒が登場する天保水滸伝、利根の川風袂に入れて、月に竿さす屋形船、玉川勝太郎の名調子の時代に、野田さん生まれてたら、人は死んでも名を残したろうにと残念至極。そんな千葉県にも足を伸ばした。今は奥さんが少々体調不良、それを優しく看護して、病院へ連れて歩く足代わり。それにつけても、大正生まれの人々にご苦労をかけたことです。安倍に代わり御礼を申し述べます。それにつけても小中野の盛衰は烈しかった。この凋落(ちょうらく・花などがしぼみおちること。また、容色がおとろえること。おちぶれること)の原因は女がいなくなったことが最大。昭和四年に八戸市に合併し、八戸の社交場、歓楽街、紅灯の巷(こうとうのちまた・いろまち。花柳界。遊郭。また、歓楽街)として名声を誇ったが、戦後状況が一変、前号で紹介した八戸町を中心とした歓楽街が長横町から新長横町、朝日町へと延伸。中心街に飲食、宴会が移行し、当然、安価な隠れ売春、もぐり淫行が発生。いついかなる時代が来ようとも、売春は絶滅しない。身体検査もしないその手の女の子宮か膣に強烈な黴菌が繁殖し、それが蔓延したのがエイズ。定期的に検査を義務づけないから被害が拡大。

人類最古の職業が売春。これが絶滅する筈もない。インポ爺とメンスの上がった婆が通した天下の悪報、売春防止法を撤廃しないかぎりに恐ろしい黴菌は根絶できない、患者は増加の一途だ。

八戸の爺が筆者に言った。最近英治が恐い。何処の英治だ? あんたも英治じゃないか? 俺は真だ、アンタの英治は何処の英治だ? 湊か? 病気の英治だよ。何のことはない、エイズ。

小中野にストリップ小屋があった。常現寺へ抜ける通り、名前がデラックス東北、弘前、仙台と三軒をダンサーが掛け持ち。近くのアン美容室で髪をセット、ピン一本外すと髪の毛がパラリと落ちる仕掛けにしてくれと頼まれたそうだ。

小中野隆盛の元は八戸市から分離独立し、紅灯の巷宣言をなし、町営のストリップ小屋を経営し、売春宿を復活、県条例の撤廃が必要だが、小泉内閣当時の特区、売春特区を利用するんだヨ。

魚を利用した安価で美味い料理を出す。おいらん鍋、女風呂って名前の料理、金精様を祀って金精煎餅、昔からあったな、鉱泉煎餅てのが、小中野は金精様、色町、遊廓、花柳界で復活する以外にないだろう。つまり、王政復古ならぬ「おう、性復古」だよ。

鮫の三浦仲さん、信念の人、万人の幸せは平和から美容師一筋道

人は人によって伸ばされ励まされる

人生は不思議な道場、自分では、それと気付かぬが同じ事を繰り返す日々、幾つになっても稽古、稽古。稽古とは(昔の物事を考え調べること。学んだことを練習すること)千日(三年)をもって鍛(たん)といい、万日(三十年)を以て錬(れん)という。

鮫の駅前に三浦仲さんという笑顔のステキな可愛いおばあちゃんがいる。この人は美容師、現役ではりきっているけど、生まれは昭和二年、今度誕生日がくると八十才におなりだ。
昭和生まれも八十才になった、と思うと感慨無量。つい昨日まで若いつもりでいたのだが、歳に勝てない足腰痛いで、八戸美容組合支部長を長く務め、更に県の組合理事長職も全(まっと)うされた三浦仲さんも、馴染みのお客様だけを相手にノンビリ雑談、しんみり昔話を語ります。

ところが、この仲さん、女なれども弁舌さわやかにして、人々の胸をえぐる話をされる。「はちのへ今昔」が、その昔、表紙を色刷りし、今より三倍も売れていた。その当時、筆者も本誌をひろめたく理・美容組合にお願いし市内の床屋、美容室に「はちのへ今昔」を置いてくださいと懇願。よろしいと両組合が快諾し、各店に「はちのへ今昔」が置かれるようになった。今から八年も前の話だ。

その時から三浦仲さんを知るようになったが、この人に演説させると、右に出る者なしの巧さ。

 仲さんのは言語明瞭、意味鮮明ときているから聞く人は納得し説得される。この人が政界に出たら世の中良くなるだろうとつくづく思った。ところが世の中は妙なもので、なって欲しい人が出ないで、なりたい人が出るのが選挙。「したい人よりさせたい人を」という標語があるが、この仲さんはまさにそれ。

と言うのもこの人には信念があり、それが口を開  かせる。全国津々浦々に神社仏閣は山ほどあるが、仲さんは名だたる神社仏閣にしか足を運ばれない。そして只の一度たりとも我が身の幸せを念じたことがない。いつも願うのは同じ言葉、それは「世界平和」。

というのも、この人のたどった足跡を見れば判る。

それでは、三浦仲さんの人生スゴロクをたどってみよう。
下田(現今はおいらせ町)の農家の五女として誕生、幼い頃から母親、姉妹の髪をいじることに興味を持ち、髪結いさんになろうと心に決める。昔は美容師なんて言葉もなかった。仲さんが十歳の頃、八戸の髪結いさんはどうなっていたかと言うと、明治三十七年開業が糠塚下屋敷の佐々木スケ、明治三十九年が朔日町の櫛引ヤス、鍛冶町の舘合トメ、大正六年、小中野中道の松橋シモ、大正八年、小中野佐比代、中道トメ、六日町、板橋てつ、大正九年、八幡町、水梨タミ、大正十年、六日町、中村結髪所の中村貞、大正十三年、鮫、杉橋アサ、大正十四年、鮫、吉田リサ、大正十五年、長横町新山美粧院の新山はな、この美粧院はいい名前だ。はなさんにお目にかかったことがあるが、この人も八戸の立志伝中の一人、小中野佐比代、佐々木カヨ、昭和二年、大工町、植村もと、昭和四年、朔日町、金沢え、小中野佐比代、竹沢マツ、昭和六年、小中野佐比代、中野ソノ、北横町、村尾トメ、鮫、山田キエ、昭和七年、小中野佐比代、織笠ナミ、昭和九年、小中野中道、富田ナツ、鮫町松苗場、宮崎みい、昭和十年、六日町、中村サダ、小中野中道、吉田オリ、昭和十一年、小中野新丁、夏堀キク、小中野浦町、平船チヨと続く。これら美容師連に師事し免許を取得する組と、東京、仙台の美容学校で免許取得組とに大別されるが、三浦仲さんは東京組。

なんで下田の娘が東京に出ることが可能かとの疑問を持つのは大変によろしい。そこを解説すると、仲さんに姉、その人が東京葛飾の柴又近く、堀切菖蒲園のそばに嫁した。十月十日を過ぎると飛び出すのが赤ん坊。そのお産の手伝いに仲さんが出た。
ここは東京の下町、小津安二郎が撮った松竹映画昭和二十三年作、不朽の名映画、「東京物語」、長兄の医師を演じたのが山村聰、実に渋い役者だった。この医者の診療所兼居宅があったのが堀切。東武線沿いに荒川が流れる、風情溢れる町。ここに折角出てきたのだからと、持ち前の負けん気魂の持ち主仲さんは、当時東京一と称された美容学校に学ぶ。この学校は大正十五年、新宿区四谷にオリエンタル美容研究所を創設した真野房子が新技術を新生日本に広めるべく、最新の美容指導集団を結成し、新宿区西大久保に真野高等美容女学校を創立したのが昭和二十五年、ここに仲さんが飛び込んだ。真野は熱心な燃える瞳を持つ仲さんに惚れ込み、自ら厳しく指導。また仲さんもなかなか骨あるところを見せ、優秀な成績で東京都の美容師免許を取得。

教える側、受ける側の呼吸がピッタリすると、予想以上の成果が上がる。真野先生は仲さんを手放そうとせず、新宿伊勢丹近くの店、次は飯田橋の店と放さない。仲さんも都会の水がすっかり気にいって、月日は夢の如く。

これを心配した仲さんの母は、「ハハキトクスグカエレ」と自分で電報を打つ。危篤どころか少々具合が悪く、八戸市内の一松堂種市病院に入院、十日も過ぎると慌ただしく東京へ、そんなこんなを三回も繰り返すうち、母の薦めもあって鮫に店を出す。母としては可愛い娘を手もとに置きたかったのだろう。

鮫の店は借家、呉服屋の二階を借りたが、東京帰りの凄腕の美容師がいる。鮫に店を開いたゾと噂が噂をよんで、朝四時から開店を待つ婦人たち。女心だ、誰よりも美しくなりたいと血道を上げる、まるで白雪姫のお母さんのようなもの。磯仕事を終えた人達、加工場、イサバのかっちゃたちが仲さんを育てた。

当時東京帰りの美容師は二人しかいなかったそうだ。そして昭和二十七年に八戸理容美容学校を創立する、三浦さんも役員に入れと強談判。そして、八戸の理・美容家たちが卵たちを手取足とりながら指導。第一期生のうち三人が三浦先生の店で働く。
こうなると仕事は忙しい、お客さんはたてこむ、嫁入りの相談がきて、花嫁仕度をさせる、それに

お客さんはたてこむ、嫁入りの相談がきて、花嫁仕度をさせる、それにはカツラから衣装まで自前で先生が揃えて貸し出す。

つまり現今のホテルがする仕事を美容師さんが担当。入る金も多いが出る金も莫大。それで飯炊き婆さんが毎日来る。新郷村まで馬車、泊まり込みで花嫁さんを作ったという。

昭和三十年代までは牛・馬と人間は仲良く暮らしたもんだ。今は何でも農協から借金して揃え、農家はアップアップしている。鉄の馬に鉄の牛、草を食わずに油くうからアブラッかしい。毎年春先になると老農夫がトラクターの下敷きになって亡くなる。馬は倒れても起きあがるが、鉄の馬はウマくない。

仲さんもなまなかじゃない金を稼いだ。お弟子さんも沢山、十本の指では足りない、ゴメン、指貸してと隣の人に頼みこまにゃなりません。みなさん現役で活躍中。仲さんの名はむつ湊から階上に浸透し、近郷近在から評判を聞いた人が集まる。だから、毎晩遅くまで仕事になる。小さな店だったが溢れかえるほどになり当然、自分で店を建築。
東京に憧れ若くして新宿の町で修業し、美容師としても活躍、いつか又、あのむせかえるような都会の雑踏のなかで店を開きたいと念願。すると、どうでしょう、東京世田谷の砧に売り地があると教えてくれた親戚。いつかはと思っていた念願がかなうと、借金で購入。

妙なものでいつしかこれが噂になり、私たちを棄  てる気かと、談判したのがお客様。商売人はお客様あればこそ。

ああ、私は間違っていた。支えてくださるお客様を粗末にすれば罰があたると思い直す。するとこの話が方々に伝わり、息子に下宿として貸して欲しいと話は次々、お陰をもちまして借金返済。そんなこんなをしているうち東京の地下が急激に高騰。これがバブル。買いたいという人が現れ、思い切りよく売却。するとスルスルと地価が降下、いい目をみた数少ない一人が仲さん。何、大枚な税金払えばたいして残っていません。国家は網の  目、洩らすことなく絞ります。

それでも仲さんサバサバしていて、お金を残そうと思うことが間違い。毎日汗して稼ぐからお金も尊い。不動産を売買して稼ぐのは邪道とキッパリ。
美容組合の話をすると、当時組合員は三十名程度。美空ひばりが盛んに活躍する頃、島倉千代子がデビユーする前年の昭和二十八年、仲さんは入会。

当時の支部長はロー丁の板橋さん、次いで朔日町の金沢さん、十六日町の山谷さん、尻内の前田さん、根城の平山さん、そして三浦仲さんは十一年真剣に務めまして、その一本気の性格を慕って組合員も沢山増えましたとも。

若い頃から技術習得に銭は惜しまず、東京、大阪、北海道札幌、仙台と技術講習会に、主宰者が居なくとも、受講者には必ず三浦の顔ありと言われる程。全国大会の美容コンテスト、優勝はしなかったが様々な賞を獲得。日本ヘアデザイン協会会員、広島から出て、東京新宿に美容学校を開いた真野さんは山野愛子、メイ牛山などより古く、そして著名だった。その学校の卒業生の仲さんも、今年は八十におなりです。
この歳の廻りを気に留めて、長年お世話になった鮫地区の人々が、安心、安全と暮らせますようにと、仲さんが心に決めていた三部作、つまり鮫駅前の整備、鮫小学校生徒による図画作品の掲示、最後に幸運の七福神を祀(まつ)りました。七福神は船に乗り来る。つまり鮫の港にはなくてはならぬもの。江戸の昔は初夢を見るために、この宝船の絵を枕の下に置いたという。その絵には勿論、七福神が描かれていますが、更に上から読んでも、下から読んでも同じ言葉が書かれています。「ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな」これを回文といい、幸福廻り来るの意味もあり。八十歳のお祝いを、傘寿(さんじゅ・「傘」の略字が「八十」と読めるところから)と言います。仲さんは若い人に、こう言います。「努力するなら花を咲かせるような努力をしよう、苦労をするなら実を結ぶような苦労を」と、生涯をひとり身で過ごした仲さんに、郷土の偉人、西有穆山を思い重ねるのは筆者一人だろうか。妻も無ければ子も持たず凛(りん)とした人生を仏教界全体の為に明治新政府と敢然(かんぜん)と渡り合い、仏教全体を護持(ごじ)された西有禅師は、単に曹洞宗という宗派を超え、行きすぎた政府にブレーキをかけた。 仲さんは女の細腕一本、人生一筋道、美容界で腕を磨き、はさみ一丁で堂々たる人生を切り開いた。苦労して身につけた技術は誰も盗んで持ってはいかぬ。金だの物は泥棒や火事の前にはあっけなく消える。仲さんの母親は、身についた知識・技術は生涯の宝、世の中は一時の位を表すようなもの、「いつまでも有ると思うな親と金、無いと思うな運と災難」、更に、今乞食をしている人も一時(いっとき)の位で乞食をされた、何時、いかなる時に元の裕福な暮らしができないとも限らない、だから落ちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるるで、お乞食さんにも、物や金を投げてはいけないと諭(さと)された。

仲さんのお母さんは偉大だった。昔の人はこうしたことを折りに触れ、時に当たり教えたもんだ。この母の言葉を生涯胸にたたんだ仲さんも、御歳八十。知人、友人、そして長年、仲さんを支え続けてくださったお客様とともに傘寿の祝いを開きます。

厳しかったけど楽しい人生を送られた仲さんに、おめでとう、そしてありがとうと伝えたい。「はちのへ今昔」がお声をかけます、そのとき又お目にかかりましょう。

悪ガキばんざい

新制中学校一年生特別教科

「修と弘、二人出てきなさーい!」モンペ先生の声はいつもより、大きく教室に響きわたる。牛乳ビンのような分厚い眼鏡の中からにらまれては、これぁ蛇と蛙の関係だ。教壇に上げられるのは叱られるか?褒められるかどちらかだが、どうも、褒められる雰囲気ではない。顔をお互いに見合せ「なにしたっけ?」だが、どちらも憶えはない。教壇にのせられ同級生に向かせられて、さらし者。

 この名物の男先生は日頃モンペと作務衣そして日和下駄だった。春夏秋冬、大雨以外は頑固にこの姿で通した大尽であった。

これは戦後、児童の教育も六三三制になってから四年が過ぎたころの風景になる。経済も高度成長期とやらで、なんとか究極の空腹からは逃れるようになったが、満足するまでにはなっていない。

「このふたりーーっ!ゆうべ、湊座にストリップショーを観に行ってたーっ」えーっと級友たちの声と奇異な視線を感じて躰を小さくする二人、学校で毎日行われる朝礼の風景の一場面だ。弘は「まーさか?」修「あっしまった見られていたか?」

「だが?なぜ」あんなに苦労をしてやっと潜りこんだのに。「手ぬぐいで頬かむりして分からぬはずだ」言ってみれば子供の浅智恵だった。変装が完全とおもっていたがバレていたのか。

先生は追い討ちの言葉を続ける「コイツ等、口笛まで飛ばして喜んでいた」「しょっしがんねー」(はずかしくないのか)同級の女生徒達が囁いた。

「なに?そこまで言う先生も行ってたべな」修が弘に耳打ちした。ちょっと気が楽になったが・・・それでもドキドキしている。

終戦前には先生は聖職と言われていたが。「先生こそそんな処に行くのは考えられない」とおもっていたふしがあった。性職だべナ?

わんどぁ悪ガキのレッテルは充分に承知していたが、さらに安くなる評価のシールの重ね貼りは嫌だ。子供だってそれなりのプライドがある。仲間に爪弾きにされたり、いじめられる原因になるのはこの現代でもおなじだ。

悪いことをしたときの、この先生の「仕置き」は必殺業がある、方法はこうだ。大きな手で後ろから首を掴む。細い首には指の長さはまだ余る。素直に謝るか反省の態度を見せれば軽く済むのだが・・・・強烈だ。いつも頑固なわんどぁだって簡単に言うことを聞くわけがない。指をグッと締めれば息ができない。柔道も達人の先生は失神する直前までの頃合は知り尽くしている。この方法は下手をすれば窒息し死ぬこともある危険なものだが現代の教育の現場ではとても実行できないものだろう。喉を絞ったあげくに腕を持ち上げる、苦しくなりつま先で立つが間に合わない。目玉が白黒になるってこのことだ。

仕置きを覚悟した。首を締められ酸欠「星空の世界?」を見れて恍惚状態になってしまうが、それを期待しての変態の趣味はまだ?ない。

我が町は昔から漁業が盛んで、それに纏わるひとの出入りが多く繁栄を極めた。その業種は、商店ばかりではなく、娯楽の面でも数多くあって、遊興でも栄えた。そのなか芝居小屋は時代とともに映画舘になり時としてほかの興行を兼ねて営業したものだ。ストリップショーもそのひとつ。

漁業の街は繁栄を重ね遊興の場所は不夜城だった。今おもえば決して経済的に恵まれていたわけでもないが頑張れば、頑張っただけ楽しめた。

横丁の屯所の向かいに湊座はあった。

浜が時化(しけ)て漁に出れない日は漁師の一時の休養になる。魚の群れを追いかけ昼夜を問わず働く。チャンスを逃せば大きな銭を拾えない。そして板子一枚下は地獄の世界。何もかもが命懸け。明日の命を望むより、今生きている喜びをと、江戸っ子のセリフではないが「宵越しの銭は欲しくもない」とその気にさせてしまうのだ。

毎年、何隻かの遭難があり海神への人身御供(いけにえ)のように多くの漁師が死ぬ。明日はわが身と刹那的な感があった。

この頃、浦町、新地はまさしく生きていた。

漁があり、懐が温かい者はこちらへ繰り出すが、漁が外れの者もいる。外れは、街はずれの屋台の支那ソバ屋で酒を呑んでクダを巻くか3本立ての映画を観るかだが、この時代も銭の「分捕り合戦」だった。こんなシケた野郎からも財布の底まで掻きさらってしまおうとした興行師もいたものだ。

女の裸を見世物に高い入場料をとる。まあ、色街の座敷に揚ることからみれば代用食?までいかぬが馬鹿な男の欲情をかきたてるひとつの手段だ。

現代ではこんな岡場所もなくなり興奮できる場所はパチンコ屋にとって代わったようだ。進歩もなくみなINポか?(笑)

入場券はどうした?買ったのか?このガキ達。

現代では、ヌードショウーと呼ばれるが当時はストリップショーと呼ばれていた。 修の家では知り合いの興行師から度々映画や特別興行の入場券を貰うがそれを修は二枚掠めとってきた。

現代の価格にすれば映画舘の入場料の数倍にもなろうか?当然、子供料金はない。

でも、ふたりの悪ガキはどうしてそこへ入ることができたか? 十八歳未満入場お断り と大きく書いてある。まだ、五年早い。そのままの姿で入ろうとしたが子供こどもしていてバレた。「ダメ」と追い出されてしまったが好奇心の旺盛なふたりは、それで諦めるはずはない。

さあ、どうしようか?入場券のモギリのおばちゃんが交代するのを待った。「またの失敗を恐れて?」と考えた。

弘は中学生になったが成長が遅れて躰が小さい。クラスで並んだら前から2番目の背丈で口の悪い教師は「小学生が混じっている」と嘲笑する。未熟児でもなく、ましてや栄養不足でもないがこんなのもいるのが世の中だよ。ウドの大木と言う言葉も知らぬかこのセン公、ねずみだって噛むぞ。

一日四回の好演?がもう、最終回。諦めるのか、いやいや。

大人の恰好を作るのに大きなジャンパーに古新聞紙を丸めてアンコにする。躰を大きく見せる方法だが・・・・どうやら出来上がったのは貧弱な漁師風だが、まだ背丈は足りぬ、大きなゴム長ぐつの底に新聞紙の詰め物。なんと涙ぐましい努力だろう、ここに、小さな大人?ができあがった。

躰の大きな修は顔に炭を塗り手ぬぐいで頬かむりし軍手をはめて、ゴム合羽で完成?した。おお、どう見ても立派な大人の漁師だ。そりゃそうだ、小学生のころからイカ釣り船に乗っていたからなー、漁師は板についていた。

ここまで草した文字を眼にして「なんと貧困な」とおもうだろうが、此処の栄華な時代は現代の町並みや人を見ても、とても想像はつくまい。

新井田川を挟み商店の数々があり、そしてあらゆる業種があったものだ。

年を通じて何かにと漁がある。春は鰊船が北海道から生積みしてくる。他県船も数多く入港する。

季節の移り変わりにより揚る魚種も異なるが此処の沖には潮目と言う「宝の山」があった。イワシ、サバ、イカ、マグロ、タラ、キンキン、サガ、サメ、鰈などが大量に揚る。昔は鯨も獲れた。

北の魚の旨さに惹かれて九州あたりからの船団もくる。そのヤン衆(アイヌ語で倭人の悪の呼び名らしい)達から銭を奪いとるにはあの手この手、奥の手だ。

話しはまたどこかに曲っていった。戻そう。

まだ、十三歳のガキは成熟した女の裸を見ても興奮の種類はまた、別のものだろう。つい最近まで母親と風呂に一緒に入っていたのだから、それをちょっと思い出すほどではなかったろうか。

苦心?惨憺しやっと潜ったのがぎゅうぎゅう詰の野郎たちの世界、そのなかにガキが二人紛れ込んだ。薄暗いなかにキョトキョトと落ち着かず。目立たないわけがない。先生はそれを見てた。

現代のヌードショーとやらは初等性学科?を卒業して以来、学ぶ機会がなく知らぬが風の噂では品格もなにもなくなってしまった感がある。なにもかもモロ出しのようで人体解剖図?を想像してしまうようだ。あの時代はオケケは出てはダメとバタフライを貼りつけ、乳首さえそのままではダメと金銀の星型の切り抜きを貼っていた。「なーんだ、なんにも見るとこないんじゃん」と今の若者だったら言うだろう。「嗚呼なんと奥ゆかしい時代であったか」と口にしたら笑われるだろうか?

教壇に上げられた二人はすっかり仕置きを覚悟して戦国時代の武将の心境になった。首をさすりながら断首の覚悟。

先生、黙って黒板になにやら描き出した。白墨(いまではチョークと呼ぶが・)を色交えて鮮やかに、巧みだ。当然だ、美術が専門で絵画から版画、陶器製作、木工では八幡馬の製作まで学校教育にとりいれた。「このふたり、いい機会を作ってくれた」先生はニコニコとしている。

「?????なんで褒められるのか・・・?」

さっぱり分からん。

黒板の図をみてた級友「なんでぇ?コミヤってのは?」「すらねぇーでぁ」子供でもこれだけの数のなかには大人のような知識があるものもいる。

そんな奴は只ニヤニヤしているだけだ。「卵の巣て?なんのことでぇ?」「コーガンて●玉のこどが」教室は俄かにインスタントおとな?ができあがった。

戦後アメリカ式の性教育の執り入れを盛んに謳っていたが短期間で実現できなかったもののようである。図に→子宮とある。至急も特急も同じかとこんがらかっているのもいる。男の躰の構造、女の躰の仕組み、精神性、ホルモンから病気の果てまで・・・延々と二時間もかけ、いわゆる性教育が始まったものだ。

好奇心の一番旺盛な成長期に、しかもいきなりである。一種のカルチャーショックだったろう。

別世界が開けたものもいれば、もう知り尽くしていると自認しているマセたものもいた。

昔は知識が遅れてこれほどのものか?と言うなかれ、聞いた話しだが大先輩には豪傑がいた。尋常小学校の五、六年生だったが毎日の通学路は遊郭街の真中を抜ける。キッカケは知らぬが途中の遊女と抜き差し?のできる(できないはあるが)仲になってしまった。「サツマノカミ」ただのりだ。ほぼ毎日、学校教育以前の課外授業を受けていた訳だ。少し早い時差登校だ。「羨ましい」と言うなかれ、“花は早く咲けば早く散る”このモサは成人して間もなく人生も卒業したと。嘘のような本当もあるもんだ。いやー話しが逸れた。

現代のヌードショーはすっかり様代わり 解禁、解禁といってどこまで行くのか行ったのか?
知らぬことである。大人の男たちの興奮を誘う立て看板を目にしても中学一年生の時に女の裸を見る学校?を卒業した昔の悪ガキは立ち止まることもなく無表情で通りすぎる。古稀のすぎた老爺のささやかでちょっぴり苦味のある想い出のひとこまである。    完

東奥日報に見る明治二十八年の八戸及び八戸人

明治二十八年の東奥日報マイクロフィルムは一月から六月までしか八戸図書館に保存されていない。

二月十日

劉公島占領の公報

二月八日午後六時五十五分東京発

我が艦隊の為に劉公島は取られたり又遠鎮遠の沈没せられたるは確実なり

是に於いて全く威海衛を陥る

大日本帝国万歳

陸海軍万歳

第二師団万歳

敵艦撃沈の詳報

六日午後四時伊東連合艦隊司令長官よりの公報によれば四日夜我が第一第三水雷艇隊は日没後敵艦隊を襲撃し定遠を壊し靖遠の底を破る我が水雷艇隊も大なる損害を受けその内機関部員皆死したるものあり五日夜第一水雷艦隊は東防塞より進撃して鎮遠威遠及び砲艦一艘を沈めたり

二月十三日

日島砲台の撃破

二月十日午後七時五十八分東京発

去る七日午前七時百尺崖の我が砲台より発したつ砲丸は日島砲台の火薬庫に命中し之を破裂せしむ残る所は劉公島のみ

八戸町の祝捷(しゅくしょう・勝利を祝うこと)

三戸郡八戸町有志者には去る十一日の紀元節を卜し中学分校内に祝捷会を催されたり来会者には裁判所郡衙(ぐんが・郡の役所)警察署監獄署収税署の職員一同より市中の主立った有志者銀行会社員等百数十名正午に集まり階上なる式場に臨みぬ発起人総代として郡長井上跳蛙氏開会の辞を述べ両陛下の万歳を三唱し次ぎに帝国万歳を唱え一同之に和し登壇せるは判事八木沢彰六郎氏にして厳然たる大礼服を着し祝辞を朗読せられ次ぎに福田祐記氏の演説及び種市良一氏の祝辞あり次ぎに登壇せしは浦山助太郎氏にして氏は厳粛なる語調を以て大本営へ奉祝の電文を発せること併せて第四旅団長伏見宮殿下へも同じく祝電を発することを満場に諮りしに拍手喝采を以て直に可決しそれより電音は発せられぬ之にて式を終え階段を下り体操場なる宴会席へ至り○白を挙げて互いに祝い十分の歓を尽くして散せしは夕方近く日は西山に傾くなりしと

真宗各寺の美挙

三戸郡八戸町願栄寺及び本覚寺同郡是川村清水寺上北郡野辺地村西光寺の各住職申し合わせ此の頃野辺地村に於いて市中を托鉢し其の得たるもののうち金二円五十銭を軍人遺族扶助料の内へ差し加えられたき旨を以て同村義勇会へ寄付し金一円を先般山東省に於いて名誉の戦死を遂げたる第二師団の勇卒上北郡浦野舘村小笠原助松氏の遺族へ吊祭料として送付方野辺地村長角鹿良右衛門へ委託致される由にて角鹿村長も深く諸氏の美挙を賞讃し直に送金の手続きを為し○○なる謝辞を為したりと言う

逃亡娼妓の科料

青森町柳原遊廓青湾楼抱えの娼妓高尾てふは両三日前同楼芸妓の小町、小徳なるものと逃亡を企てたる所小町、小徳の両芸妓は直に取り押さえられ高尾は去る十三日仙台に於いて取り押さえられたる由なりしが小町、小徳の両人は娼妓にあらざる廉を以て何事もなかりしが高尾丈は娼妓取締規則違反にて昨日青森警察署に於いて科料一円に処せられたり

貸座敷の営業停止

当地柳原の貸座敷花遊楼事松岡白吉方にては何故にや今度営業免許を取り消され同楼抱えの娼妓六人には何れも同地の松葉楼へ道具を運搬しありたり

貸座敷の税金不納

当地柳原貸座敷の内には例ながら税金遅納がちにて再三の督促に応ぜざるより営業を停止されんとしたるもの三、四軒ありこのたび漸く上納に及びたるも今後不納のものは猶予なく直に営業を停止すべしと言う

密売淫の拘留

青森町大字大町二十九番戸料理屋営業国谷ナミ方止宿の西津軽郡鰺ヶ沢生まれ菊谷アサと言えるは去る五日晩密売淫をなしたる罪で五日の拘留に処せられ家主は一円二十五銭の科料に処せられたり

公認の売春があるということは、税金を支払わない売淫を取り締まらなければ国が治まらない。このため密売淫を取り締まるが、果たして誰が密告したるものか。した男が吹聴したのか、巡査が足で調べたのか、それにしても、女がしていないと言えば証拠もないだろうに、座敷を貸した料理屋が罰金に処されたのは、昭和の御代の管理売春なるもので、これは明治の頃から言われていた訳か、フムフム。

既決囚護送

八戸裁判所にて処刑を受けたる八戸町三浦寅吉は私書偽造詐欺取財重禁錮五ヶ月罰金七円監視六ヶ月にて三戸町玉井才寿は殴打創傷重禁錮四ヶ月にて八戸町似鳥藤喜は賭博犯にてその他二名のものは昨日八戸より逓伝となり荒川監獄へ廻されたり

八戸国立銀行の訴訟事件

数年前より起こりし八戸百五十銀行頭取大久保平蔵氏に対する旧株主との間に起こりたる去る二十五年二月不当決議取り消し事件は去月二十五日大審院に於いて双方代理人対審ありたる末一部は破棄、一部は棄却されて今や全く旧株主の勝利に帰したりと

源代議士魯国商況視察員を訪問

代議士源晟氏には当期議会開会以来本県各代議士と共に青森開港案に付き熱心し其の一たび同案を議会に提出するや当局者を初しめ各代議士の間に奔走して之が通過を計り居ることなるが尚今回魯国商況視察員の来朝しおれるを機とし去る二十五日源氏の令息圭蔵氏(魯国神学士)を通辞として同視察員ニコラス・ザプーキン氏を築地の旅館に訪問して日魯貿易に関する意見を叩きたるに同氏は大に之を喜び種々の談話を為し今や西比利亜鉄道全通の期も一両年に迫りおる次第にて其の際西比利亜の如きは主に日本より需要品を供給せられざるべからず○して其の需要品は鉄、銅、硫黄等の類にして従って先ず之が貿易港を要することなるが予は本邦浦塩○○港と接する青森湾の如きは最も適当なるものと信じおることなれば近々同湾の視察かたがた北海道を漫遊する筈なりと述べられたる由にて源氏も貿易の必要を○んし且つ青森港は之の関しては適切の良港なるを以て同港をして対魯貿易港となさんとの建議を議会に提出したる事を語られしにザプーキン氏は痛く満足を表し尚今後共十分な尽力を以て其の目的を達するの勉められんことを希望したりという

窃盗被告事件の言い渡し

三戸郡八戸町工藤祐一というは年齢十六七の書生にて兼ねて東京に遊学しおりしか一旦帰郷し再上京せんと思い立ち下斗米長次郎の妻となりおれる叔母に此の事を謀りしに一も二もなく拒まれたりと一念凝っては押さえる能わず自己の祖母も同家に同居しおりしを以て其の衣類五十余点と外に小箪笥にありし長次郎の懐中時計金子及び自己の懐中時計を持ち出し質入れして百余円の金策を為し上京せんとせしが事発覚し青森地方裁判所八戸支部に於いて重禁錮三月監視六月に処せられたるを不当とし函館控訴院に控訴し去る二十五日公判開廷去る二十七日同院において被告は持ち出したるも前判決の如く裏手の塀を乗り越え忍び入りたる証拠なく且つその所行は悪意に出ざるものにあらずとて即判決を取り消し更に無罪を言い渡されたり

養父殺しの宣告

三戸郡八戸町上野としは昨年養父を殺害したる犯罪にて既に青森裁判所において謀殺罪に問われ死刑の宣告を受けたるが本人之を不当とし函館控訴院へ控訴したるものなるが其の宣告は愈々来る十八日なりという

八戸出身近衛兵の予餞会

八戸出身の近衛予餞会は東京上野桜雲亭において開かれたる由なるが来会者は源代議士、船越宣美、富田梧楼、大久保平蔵、工藤新助等数十名にして旧藩主南部子爵のも家従を率いて臨席たり原十目吉氏は開会の趣旨を述べ源、富田両氏の外福田祐英氏は学生総代として演説を為し七戸浪男氏は兵士総代として答辞ありきという

当地柳原貸座敷青湾楼長谷川才太郎方にて娼売りたる積もりにて雇われ来る松永おせん(二十六年)と言うは嘗て同楼を逃亡してその後種々の手段もて同楼を引き揚げ東京へ戻った後無辜の同楼主等を私書偽造その他にて告訴したるなどしたる者なるが今度はお廻りとして長谷川才太郎よりおせんは詐欺取財の廉を以て訴えられたりと言う今右に関する始末なりと言うを一寸記さんにも此のおせんは以前は東京は浅草公園の唄い女にて小元と言いしものの成れの果てなりと言えるが当時吉原仲の町の引き手茶屋信栄の世話になりその後下谷区数寄屋町へ待合い茶屋を開業せしも道楽にて身は持てず遂に昨年閉店し同年十二月二十一日日本橋区通二丁目の旅人宿蓬莱屋にて同区檜物町十七番地長谷川房吉外数名の斡旋にて当地の青湾楼へ金五百円の前借りにて住み込む事を約束出来本年の一月三日に東京を発して同楼へ到着し内金二百五十円は既に受け取り残金は鑑札の下り次第に渡す契約にて鑑札の下るを待ちおる内同月十日午後二時頃同楼抱娼妓高尾外一名の者と同家を脱出…略