2008年12月31日水曜日

昭和30年八戸で活躍した人々3


尻内青果市場 小笠原嘉 
八戸青果 小関長一  二十六日町 電365
福井青果 福井ヨネ  八日町   電2960
畑内商店 畑内善一郎 十六日町  電366
●食肉
千葉精肉店  千葉得寿  八日町  電360
やま正精肉店 佐々木正義 六日町  電1523
重茂精肉店  重茂得一  窪町   電668
さが食肉店  嵯峨弥能助 十六日町 電621
下直精肉店  下田直三郎 上鮫    電526
田村精肉店 田村哲郎  小中野新丁 電1187
二ツ森精肉店 二ツ森毅  小中野新丁 電801
いそや食料品店 高橋幸一 柳町    電478
近江精肉屋  近江昭三  久保    電162
●塩干魚藻類
石仁乾物店 石橋宇兵衛  六日町   電486
久保田商店 久保田幸作  六日町   電595
大久保太郎商店 大久保太郎 小中野新丁電652
夏久商店  夏堀久二郎  久保    電47
畑中商店  畑中末吉   久保    電660
青山商店 青山晟    小中野新堀 電1377
泉山商店 泉山徳蔵   中居林外中居 
島守屋商店  春日与三郎  北横町  電432
●鮮魚
佐々木鮮魚店 佐々木石松 柳町 電2093
左館鮮魚店  左館米蔵 鍛冶町 電1977
関橋商店   関橋まつの 小中野新丁 電267
中平魚店   中島平助 六日町 電615
楢山魚店   楢山八郎 六日町 電2061
沼周魚店   沼田周一 類家縄手下 電1078
福真魚店  福田真一 六日町  電272
松井魚店  松井良助 六日町  電208
柳谷鮮魚店 柳谷イソ 小中野新町 電288
若狭商店  若狭ヨシ 本町   電573
江戸屋   栗橋千一郎 下組町 電782
榊魚店   榊永三郎  鮫本町 電1835
戸田魚店  戸田栄一  六日町 電207
村山善五郎 小中野北横町    電75
●酒
河内屋      橋本源三郎 八日町 電79
合同酒精八戸工場 牧浦好之助 売市 電947
楢館酒店   館安太郎 鮫新富町  電1659
八戸酒造  松橋喜之助 稲荷小路  電113
八戸種類  橋本八右衛門 八日町  電1
福井酒造店 福井富治 二十三日町  電58
村井酒造八戸支店 村井松三郎    電403
中村商店 中村専太郎  尻引前山  電962
楢館商店 楢館弥三郎  岩泉町   電120
●醤油・味噌・納豆
泉山醤油 泉山佐一郎 上徒士町 電27
岩常醤油 岩岡常蔵  六日町  電216
甲文醤油 山田富冶   下組町   電347
下亀醤油 下斗米亀次郎 売市杉山  電788
高村醤油 高村吉郎   二十八日町 電2663
松和醤油 橋本和吉   六日町   電301
岩徳本店 岩岡徳兵衛  六日町   電617
能庄   加藤庄五郎  十六日町  電1023
幸太屋  大野辰三郎  柏崎新町  電1436
●茶
竹の園茶舗 沢向平之丞 小中野新町 電1607
丸金屋茶舗 加藤喜一  十八日町  電1366
●漬物
大浦商店 大浦長五郎 六日町 電1065
●清涼飲料水
山一商店 山本一郎  常海町 電258
●製氷冷蔵 
旭製氷冷蔵    沼田吉雄  影前田 電691
太洋冷蔵    井上清治  昭和町 電1148
東北冷蔵    夏堀正作   日出町 電658
日本冷蔵八戸工場 鈴木一勇  日出町 電428
八戸製氷冷蔵 橋本八右衛門 三島下 電2560
八戸鱗光冷蔵  秋山熊五郎  昭和町 電524
湊製氷冷蔵 工藤元吉 下河原  電1168
恵比須冷蔵 坂本武 恵比須浜  電650

2008年12月30日火曜日

三日町の話5

昭和四十五年十一月六日 デーリー東北新聞
押すな押すなの大盛況
「長崎屋」八戸店オープン
買い物客が七万人
八戸市の商店街にとって「黒船」の第二弾ともいうべきチエーン・ストア「長崎屋」八戸店が六日花花しく開店した。開店と同時に色とりどりの風船が上げられたり、高校のブラスバンドが「開店」のプラカードを持って商店街を行進するなど、おまつりなみのにぎやかさ。この一日だけで、約七万人の買い物客があったと見られ、商店街には同店から出された紙バックを持つ市民がいっぱいだった。
 開店は午前十時だったが、この朝六時ごろから行列が始まった。同市北糠塚の主婦、金浜トミさん(六一)らは近所の人たちと誘い合って最前列に陣取っていた。開店の直前には、同店から約二百米はなれた東北銀行八戸支店を飛び越える行列ができ、約三千人が開店を待つほど。午前十時、何百という風船が放たれ、市内のK高校のブラスバンド演奏の景気づけでオープン。同時に行列が店内に吸いこまれた。
昭和四十五年十一月二十六日 デーリー東北新聞
シリーズ企画10 トップに聞く
その2.・八戸市の企業
実った中央進出の悲願
ねばり強さを身上に
株式会社中央スーパー森山千年春氏
森山千年春氏ちねはると読む。四十三歳。会社員を経て「セルフサービスもりやま」を八戸市町組町に開業したのは昭和二十六年、二十四歳のときであった。それから十九年、時勢を見る目の確かさと、不屈の努力で、いま同市内に五つの店舗を構えるまでに至った。株式会社中央スーパーと社名を変えて法人化したのはさる三十八年だが、こんど長崎屋地階に店をオープンして「ようやく社名通りに中央へ進出、これからが本番です」と意欲をたぎらせている。小柄な体のどこにそんなファイトを隠しもっているのか、烈々たるものがある。それでいて如才がない。
大盛況だった「長崎屋」オープン
―なかなかお盛んで、「長崎屋」オープン当日はたいへんなご盛況と聞きましたが。
森山 おかげさまで、お客様からは好評をいただいております。オープンした初日は私たちの予想をはるかに上回り、店内十台のレジを通したお客様の数は一万人に達しました。ガードマンがお客様の流れを整理したわけですが、さばききれずに何回もエスカレーターを止めるやら、お客さまの
昭和四十六年十月六日デーリー東北
第四の大波かぶる地元商店街
ニチイ明日オープン
売上横ばいのなか 商戦激化…不安顔も
八戸の商店街にとって、「丸光」「緑屋」そして「長崎屋」に続く四番目の大型域外資本ニチイ…いよいよ明日七日「八戸ショッピングプラザ」として開店するが、これを迎える地元資本はまたまた大きな試練に立たされている。これまで大型店進出のたびに商圏を拡大してきた同商店街ではあるが、このところ売上の伸び悩みが目立っているといわれるだけにこのニチイの開店をどううけとめるか注目されている。
きめの細かな経営が勝負に
商店街にとって初めての試練、それは三年前の「丸光」「緑屋」進出だった。それまでは「殿様商法」が堂々とまかり通り、買い物客には不評このうえない商店街だったが、この二つの大型店から受けた刺激は大きかった。中には、かなりの打撃を受けるデパートや商店もあった。しかし、商店街全体から見ると、商圏の拡大…という思わぬ副産物があり、一部を除くと売上はむしろ上昇の一途をたどってきた。
 大型店が進出する前の商圏といえば、八戸市とその周辺町村に限られていた。それが「丸光」「緑屋」によって北は十和田、三沢の両市がスッポリ、南は岩手県の種市、軽米、一戸、福岡、金田一、浄法寺の各町村まで商圏内に入り、今では商圏人口五十五万人に膨れ上がっている。それまでは、たとえば十和田市からわざわざ買い物にやってくる…などということはほとんどなく、逆に八戸市から青森、盛岡にでかけることが珍しくなかった。
 しかし、こうした商圏拡大の中で、閉店に追い込まれた店も少なくない。最も大きかったのは、一昨年秋の丸美屋デパート。理由がさまざまあったとはいえ、大型店に押されて売上が低下したのが最大の原因。そのほかO洋服店、T洋服店、I服地店などが相次いで商店街から姿を消した。「八戸ショッピングプラザ」つまりニチイはこのような状況の中で開店するわけだが、これ以上の商圏拡大は無理といわれる昨今だけに、地元資本にとっては「丸光」「緑屋」以来の試練に立たされるのは確実。とくに昨年来の不況が響いてか、このところの売上が頭打ち状態2なってるといわれ、ここにまた一つ大型店となれば、頭打ちどころか落ち込むところも出てきそうな気配が感じられる。
 事実、ある商店では「これまで中央の大型店が開店するたびに、新しい客が増え、それだけ売上が伸びてきた。しかし、これからはそうはいかないと思う。キメ細かな経営が必要になってくるのではなかろうか」と不安そう。ともあれ、それぞれが特徴を出した経営方法をとることになろうが、これまで以上の激しい商戦が展開されることは間違いなかろう。
昭和四十六年十月八日 デーリー東北新聞
 商店街のワクを広げる
八戸ショッピングプラザめでたくオープン
午前中で二万の人出
青森ニチイ(武田貞助社長)が運営するニチイチェーン八戸ショッピングプラザが七日、華々しくオープンした。この日、開店前から長い行列が出来、午後にわか雨に見舞われたが、初日とあってまずまずの人出。これまで三日町中心のこじんまりした商店街がわくを広げた感じを与える開店だった。
 午前十時の開店に二時間前から行列ができるほどだった。それが開店直前には約二千人の列となり上々の人気。十時丁度、ノロシを合図に橋本和吉松和本店社長夫妻とニチイ・チェーンを代表して西端行雄ニチイ社長夫妻がテープカット。同ビル着工から数えて十ヵ月商店街注目の中でめでたくオープンした。
 午前中天気に恵まれたため、周辺町村からの買い物客も含めて約二万人の入店者を数えた。この勢いに乗って、同店では閉店までに八万人ほどの入店者を見込んでいたが、午後のにわか雨で客の出足はにぶりがち。しかし、夕方には勤め帰りのサラリーマンやOLなどが「下見」をきめ込んで入店、盛り返した感じだった。
 さて、どの程度の売上となったか…青森ニチイの備谷寛二八戸支店長は「ニチイ・チェーンの他店に比べると、スタートの人出はそう多くなかった。ウイークデーと一部農繁期にかかったためらしい。しかし、客の切れ目がなく、レジの休むヒマがなかった」と話しており、初日としては人出、売上ともまずまずのようす。
 ところで「八戸ショッピングプラザ」のオープンは同市商店街に少なからぬ影響を与えそうだが、この日だけを見ても商店街のわくが一歩広がった感じ。これについて中央のあるコンサルタントは「安いばかりが能ではない、地元の商店も、もう一度消費者の立場、つまり原点に立って経営を考えれば、とくに恐れることはない」と話していた。
昭和五十五年四月二十日 デーリー東北新聞
どっと四万人の買い物客
八戸スカイビルが開店
早朝からお祭り騒ぎ
イトーヨーカドー八戸店(広江克己店長を核テナントとした青森県内で最初の市街地再開発ビル・八戸スカイビル(八戸市十三日町)が十九日午前九時三十分開店、四万人の買い物客が押しかけてにぎわった。日本のビッグチェーン・イトーヨーカドーの開店は八戸市の商業界に新たな活気を呼ぶとともに早くも「価格戦争」を引き起こしている。
激化する「価格戦争」
 午前七時には早くも一番乗りをねらう買い物客が順番待ちをし、開店の「お祭り騒ぎ」は早朝から始まった。同八時三十分ごろから急に人の数が増えはじめ、開店直前には四列に並んでちょうど八戸スカイビルを一周する約二千人の人がきが出来上がり、店員やガードマンは人がきの整理と交通渋滞の解消に汗だくだった。
 午前九時半を期して正面玄関前で広江克己イトーヨーカドー八戸店長、小瀬川吉三八戸第一市街地再開発組合理事長、越後谷仲三八戸市都市開発部長、消費者代表の大串道子さんなど十四人がテープカット、ヨークデキシーバンドのファンファーレが高らかに演奏され、打ち上げ花火と風船が乱舞する中を「一番客」がどっと店内にくりこんだ。
 イトーヨーカドーの商品量、センス、飾りつけ、店内設備などはさすがはビッグチェーンと思わせるものがあり、買い物客をうならせていた。また、開店記念セールということもあって価格もかなり安く、開店後も人の流れはヨーカドー目指して切れ目なく続き、初日の買い物客は約四万人、売上額は目標の八千万円を突破した。
 店内にはヨーカドーの商品や陳列、価格を見ようとする他店の担当者も大勢つめかけていた。
 イトーヨーカドー八戸店は同社九十四番目の店舗。同社は関連企業を含めた五十五年度の総売上額目標を一兆円においている。八戸店もその戦略の一翼を担い、初年度売上目標を衣料二十一億円、住居関連十四億円、食品十九億円としている。しかし、弘前店の昨年度売上が百億円を超えていることから、八戸店もそれに近い数字となるとみている関係者が多く、既存店にとってはヨーカドーは大変な脅威だ。
 既存の大型店やスーパーは一斉に大売出しを企画してヨーカドーに対抗していたが、同日の客の減少は歴然としていた。ただ、地元百貨店の三春屋は呉服の六割引きをはじめ家庭電気器具、衣料、食品をかなり値引きして正面からヨーカドーに対抗、いつも以上の客を集めていたのが目立った。
 イトーヨーカドーの開店によって八戸市の商業界は大きく変ろうとしている。その陰では早くも「価格戦争」がエスカレートする気配を見せ、このままだと倒産企業も出るのではないかと心配されている。
 なお、八戸市への域外大型店の進出は四十三年の「丸光」「緑屋」、四十五年の「長崎屋」、四十六年の「ニチイ」に次いで五店目。

2008年12月29日月曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう2


にしあり・ぼくざん 文政四年八戸湊、笹本豆腐屋の倅、曹洞宗僧侶となり明治期の廃仏毀釈に仏教護持の立場で政府と対立。明治三十四年八十一歳、火災で焼失した能登の総持寺を鶴見に移転する基を作り、永平寺管長をも務め明治四十一年(一九一○)没。三年後が没後百年。これを機に西有穆山の姿を現代に蘇らせ、南部人の魂を見せたい。殊に母親なを(八戸町西村源六の妹)の存在なくして偉大なる穆山は存在しない。というのも、慢心し故郷の僧侶になろうと帰郷するも、母の力強い諭しで再び江戸へ出て日本一の僧侶となった。
 さて、前回に引き続き、吉田隆悦老著の本より、穆山が得度を受ける場面から開始。
菩提寺長流寺で得度式を挙ぐ
 笹本家の菩提寺は八戸市類家にある曹洞宗長流寺であります。当時の長流寺の住職は、十六世の霊水金竜和尚様でありました。万吉(穆山幼名)は御両親と一緒に菩提寺、長流寺に行き、金竜和尚様に得度の式(小僧になる式)を行って戴き名を金英と授けて戴いたのであります。時に天保四年六月二十一日でありました。金英の金は御師匠様の金竜の一字を戴いたもので金英上座(じょうざ・曹洞宗の僧階のひとつ)はこれより七年間金竜師匠様の訓董(くんとう・香をたいてかおりをしみこませ、粘土を焼いて陶器を作りあげる意)徳を以て人を感化し、すぐれた人間をつくること)を受けたのでありますが、その人格的影響は大きなものがありました。それについてこれから御話致しましょう。
    金竜和尚の影響
 夢多き万吉少年は十三歳でようやく、その願望が達せられ長流寺十六世金竜和尚の教育を受けたのでありますが、その金竜師は、真に性質恬淡として機智(きち・その時その場合に応じて働く才知。人の意表に出る鋭い知恵。ウイット)円明、闊達(かったつ・度量がひろく、物事にこだわらぬこと。こせこせしないこと)自在な人材でありました。その性格と家風が金英上座に及ぼした影響は甚大であったのであります。
    雁鴨白鳥信士
 長流寺の門前に大変鳥好の爺さんがいて、始終和尚さんの所に来て仲よしでありました。鳶ある日、爺さんが、「和尚さん、私が死んだら、鳥に関係のある戒名をつけて下さい」と頼んでいました。やがてその日が来て、烏好き爺さんに引導を渡すことになりました。金竜和尚さんは、鳥好き爺さんの願いを容れて、雁鴨白鳥信士と戒名を授けました。そして葬式の引導(いんどう・迷っている衆生を導いて仏道に入らせること。また、死者を済度するため、葬儀のとき導師が棺前に立ち転迷開悟の法語を説くこと)法語(ほうご・高僧などが仏の教えを平易に説いた文)は 「唐にては鳳凰を神鳥として尊び、天竺の人孔雀を喜び、雁は長空千里高きを飛翔し、鴨は山陰沼沢に身をひそめ、白鳥雪に一如して飛んで雲の如し、大和の国は陸奥の里、淵竜山長流寺庭の梅の花、鶯法法法華経(ほうほうほけきょ)の功徳(くどく・善行の結果として与えられる神仏のめぐみ。ごりやく)によって、烏喝(からすかー)」と引導したということであります。
 この禅気に含まれたユーモアな風格が、感受性の多い少年金英上座の胸に深く刻みこまれたのであります。
 金英後の瑾英和尚の風格
 金竜和尚様の影響を受けた金英上座…後の穆山謹英禅師は至る所で臨機応変、自由自在の活作略のの教化活動をしておられますが、今、その一、 二の例をあげますと、禅師が東北巡教の旅をせられて、一の関、盛岡方面を廻っている時に、駕篭(かご)で次の会場に行く途中で、山中の急な坂の崖にさしかかった時、駕篭の底が抜けてあわや崖下に転がり落ちる危険状態となった、御供の者達があわてて「申し訳ありません」と御詫びすると、禅師は、すかさず、
 古かごの底のぬけると死ぬるとは
   所きらわず時をえらばず
と、歌って、一同を安心させ且つ感動させたのであります。
又、岩手県花巻市の松岩寺に、御巡教中の御話でありますが、住職が山号額の御揮毫(きごう・筆をふるう意) 書画をかくこと。揮筆)を御願したので、禅師は、よしよしと雄渾(ゆうこん・書画・詩文などが)雄大で勢いのよいこと。力強くよどみのないこと)な筆法で「松岩寺」(横書き)と書いて下さった。それを随行(ずいこう・お供)の者が縁側に乾かして置いた所、子供達が、その上を歩いて足跡をつけてしまった。住職は恐縮して、三拝九拝して禅師様に御詫びしたところ、禅師様はイヤイヤ心配はいらぬ、わしがご祈祷して清めよう、住職を静めて、
 足跡の絶えぬ寺こそ目出度けれ
   帰依(きえ・神・仏などすぐれた者に服従し、すがること)する人の多ければなり
と半折(はんせつ・唐紙・白紙・画仙紙などの全紙を、縦に二つに切ったもの。また、それに書かれた書画。半折)に書いて下さった。子供の足跡を生かして、ほめて、
申し訳ありませんと恐縮している住職を救ってあげたのであります。現在その、「松山寺」の額と、この歌の半折の掛軸とは立派に保存されて、花巻の松岩寺の寺宝となって輝いております。
 更に有名な御話は、達磨(だるま・禅宗の始祖。生没年未詳。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り九年間面壁坐禅したという。その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可・えかに伝えられた)と芸者が向い合っている絵に、賛(さん・画に題して画に添え書かれた詩・歌・文)をして下さいと頼まれて、
 「達摩さん.九年面壁何のその、わたしや十年うきつとめ、煩悩菩提の二筋に、誠の心の一筋を、 加えて三筋で世を渡る糸が切れたら成仏と客 を相手にのむ阿弥陀、済度なさるとなさらぬは それはあなたの御量見、外に余念はないわいな」
 と、画賛した。
 この名文句は、当意即妙、啓達自在、法情人情渾然一体、浄不浄一如、蓮華の妙法を自由自在、思う存分称賛しているではありませんか、
 十和田湖を愛し、おいらせ川を賛美して、天下の
国立公園を世界に紹介し、静かに十和田の蔦温泉に眠っている文豪大町桂月さんは、「吾々三文文士の到底及ばざるところ」と激賞したのであります。
 禅師のこのような大きなユーモアに富んだ力量は、少年時代に長流寺及び法光寺に於て師匠の金竜和尚さまに七年間、寝食を共にして親しく受けた感化の力が強く影響しているでのあります。
  良師に会わざれぱ学ばざる方よし
金英上座は、真によい御師匠さんに出会ったのであります。学問に於ても武芸、芸道に於ても、よい師匠さんにつくことが、第一歩の大切なことであります。況んや仏道修行に於ては、立派な正しい御師匠さんに入門することが肝要であります。師匠は明工であり、弟子は良材である事が大切であります。どんなに立派な材料でも下手な大工に使われては、本当値打ちを発揮することが出来ません。道元禅師は「良い師匠さんに会わなければ学ばない方がよい。先ず仏道を修証するには正しい師匠さんに会う事が必須条件である」と、正しい仏法を学ぶ者の心得として厳しくおしえております。金英上座のお母さんが、八戸地方には極楽行の案内をするような立派な和尚さんがいない。と、いって五ケ年間も出家の願を許しませんでしたが、金竜和尚さんのような立派な力のある師匠さんに会うことが出来たのは、その出発点に於て幸福に恵まれたのであります。
師と共に法光寺に上る
 この良き師、金竜和尚さんは、南部地方最高の名刹、録所(地方寺院を管理する寺)の寺、三戸郡名久井の法光寺、第二十六代の住職となって栄転したのであります。長流寺は新井田の対泉院の末寺であり、有力寺院とはいえません。にも拘らず、長流寺より法光寺への晋山(しんざん・僧侶が新たに一寺の住職となること)は異例と見てよいと思います。それがそのまま金竜師の偉大な優秀性を証明するものと思います。
さて、金英上座も御師匠さんと一緒に名久井岳の中腹にある白華山法光寺に上り一層の修学に励んだのであります。時に金英十四歳でありました。
    法光寺とは
 法光寺は、東北本線諏訪ノ平駅から四キロの名久井岳の山腹にあり、現在でも山の中の一軒家でさびしい場所にあります。況んや天保五年(一八三四)の頃は電灯もなく、周囲は鬱蒼(うっそう)たる大森林地帯で野鳥珍獣が出没して肝を冷やすことしばしばであった。この寺は、平安朝の往古、敗戦の将が落人としてやって来てかくれ家として、隠遁(いんとん・世事をのがれて隠れること)生活の場として建てた真言宗系統の寺院であったが、鎌倉幕府の北条氏五代目の執権時頼公が、執権職を十七年勤めて、幕府の基礎を固めた後、病気したので出家して最明寺に閑居し、執権職を北条長時に譲ったが、なお幕政を見て、所謂最明寺殿として幕政に重きをなしていた。
 最明寺時頼公は政治に色々工風をこらし、様々の制度を設けてよい政治を執ったが、制度の改善と同時に、武士道精神の昂揚と、物品を大切にする倹約の精神を奨励した。謡曲で有名な「鉢の木」の物語は出家後最明寺時頼が、身分をかくして地方の民情視察の為に諸国を巡礼した時の話。この諸国巡礼の旅で奥の細道を辿り、奥州名久井村に来た最明寺時頼が旅僧の姿で、最初は名久井の観音寺に一夜の宿を求めた所、住職は「この寺は旅人を泊める寺ではない。これより上方の山の中腹に夢想軒という寺があるからそちらに頼んだらよかろう」と、ケンもホロロの挨拶でありました。旅僧は、トボトボ山道を教えられた方向に歩いてようやく辿り着いたのは、八甲田山の山脈と太平洋が夕焼け雲に赤く染められた夕暮時でありました。「頼もう!」と声をかけると出て来たのは六十歳を過ぎた老僧一人でした。旅僧は「諸国を行脚してこの地に辿りついたが、一夜の宿を願いたい」と丁寧に挨拶。老僧は気軽に「どうぞ御入りなさい。この山奥までよくぞ御出なさった」とやさしく声をかけて、草駐の紐を解いて手伝い、足をすすぐ水を洗足鉢に出して迎え入れ、「しばらく御侍ちなされ、薬石を進ぜよう」といって運んでで来たものが、米粒が游(およ)いであるくようなうすい御粥(おかゆ)に大豆を茹でて塩づけにした飯であった。老僧と旅僧の二人は色々話をしながら熱い御粥をすすり、夜の更けるのも忘れていた。
 夜も更けて山の冷気もきびしくなったので、旅僧を寝に就かしめ、老僧は食膳をかたづけて、自分も寝た。
 翌同旅僧が、目を醒まして、朝の勤経を済ませても住職か田て来ません。しばらく与えられた
室で侍って居たが、物音一つしない。変に思った旅僧は境内を散歩しながら、待に待ったが、住職が現われないので、本尊様に別れの挨拶をし、山を下る。急な坂道に差しかかった時、坂の下の方から、ハアーハアーと息をはずませ坂を登ってくるアジロ傘を見つけた。下る旅僧、上るアジロ傘、すれ違う時、互に顔を見合せる。
「御坊ではござりませぬか、お探し致しましたがお姿も見えず、ご本尊に礼を述べ、下りてまいりました」
「これはこれは、実は恥ずかしながら、米とてもなく麓に下りまして托鉢し、米を頂戴しましたので、今一度お戻り下さりませ」
「誠に有難き申し出なれど、先を急ぎますれば、これにてお暇を頂戴つかまつります」
と互いに礼を交わす。
住職が残念がるのを後にして、合掌しながら坂を下って行ったのであります。住職も仕方なく、力のぬけた足を引きずりながら寺に帰ってみると、茶の間に一扇が置かれて、その扇に矢立で書いたであろうと思われる感謝の達筆。
  鎌倉に呼び出され、見通し千石を戴く
 星移り、年かわって、旅僧のことなど忘れていた夢想軒の住職に、鎌倉幕府から呼び出し状が来た。住職は取るものも取りあえず、旅仕度をして、鎌倉に行ってみると、門番から案内役まで皆丁重な扱い。通された部屋は執権職の接見の間。しばらく経つと、最明寺様の御目通りであるといわれ、袈裟や法衣を取り替え威儀を正し控える。現われたのは、昨年一夜語り合った旅僧。その旅僧が最明寺時頼公その人。
 夢想軒住職平伏、最明寺時頼、「どうぞ、頭をあげて下さい、奥州の山中で話し合った時のように気軽に気軽に。あの折りは本当に助かりました。貴僧の御親切は心から敬服。改めて厚く御礼申します。ついては、あの夢想軒から東に向って見える限りの・田畑山林目通り一千石を寺の財産として御礼に差し上げたい、これはその証状です」と盃を賜り歓待される。
続夢想軒住職は、夢ではないかと想う程、驚き、且つ喜こんで御馳走になり、退散した。これが後に法光寺となり、真言宗より曹洞宗と改宗し戦前は田畑三十町歩以上、山林五十町歩以上を有する名刹で末寺(分家寺)は盛岡の永祥院、七戸町の瑞竜寺等青森、岩手の両県にわたり、多くの分家寺を持ち、幕政時代は録所の寺として地方寺院の管理と世話の両面をやったもの。現在六万一千四百二十六坪の境内に本堂、庫院の外、三重の塔を有する。
不親切な観音寺の僧侶は鎌倉からつかわされた使者によって、生きながら逆さまに埋められるという厳罰に処せられ、その僧は、夢想軒を逆うらみして、「三度まで焼き払って、恨みをはらしてやるぞ」といって死んだ。そのせいか、法光寺は、その後三度の火災に遭ったという。 続

昭和49年の八戸三日町7


上海楼
「はいろう、ハイロウ、上海楼」のCMでおなじみの店。店内が広いのでゆっくりした気分で食事ができる。









正寿司
寿司はなんといっても、職人のキップが一番。そこで紹介したいのがこの店。まずは一度ご試食あれ。









槻門商店
三日町角に明治の頃からある槻門。現在はタバコ屋さんとして、日々変わっていく三日町を見つめている。











中華、和食の二つの店舗。お昼と夕方はいつも大入り。中華店は大衆的に、和食店は落ち着いた雰囲気。









中村印房
小さな店は一般のハンコヤさんと同じだが、その技術は超一流。特にゴム印を一日で作ってくれるのは重宝。










ツルヤ
三日町は女性洋品の店は多いけれど、ここはただ一軒の紳士服専門店。スーツの質と量はバツグン。










プランタン
熱帯魚が青い水槽の中で泳ぐ、ゆっくり落ち着ける純喫茶。商談やデートには最適の店。










バーバーロードス
理容室というより、おしゃれな男性のためのサロン…という雰囲気です。専任のアドバイザーとヘアの相談を。










コンドルホール
八戸のパチンコ人口は、十万人を軽く超えていると思われるが、八戸にこの業界の先鞭をつけたのがこのホール。










松山ジュン美容室
八戸ではまだまだ男性美容室が少ないのですが、松山先生はその若手のリーダーとして注目されています。









東洋有線放送
街頭宣伝やスナックなどでおなじみの有線放送。そのレコードの数は会社でもはっきりつかめないほど。

2008年12月28日日曜日

昭和49年の八戸三日町6


大平薬局 
店へ入ると、いらっしゃいませ、と笑顔で迎えてくれます。創立は昭和十二年五月。壁際と中央のガラスケースに、医薬品全般と化粧品が並べてあります。女店員のさわやかな応対で、いっそう清潔感が漂う薬局です。お隣のルモンドは四十八年の改装後木目も鮮やかな北欧風に変身。明るいさざめきと笑い声のあふれる、しゃれた喫茶店です。


レストランマルフク
昭和二十五年に八戸初の地下商店として営業を開始した時は、市民の注目を一身に集めたといいます。そして、三十四年に現在のマルフクビルが竣工し、以後の三日町を中心としたビル建設の先鞭をつけたのです。レストランマルフクは、大衆的雰囲気と広々したスペースで、買い物の人たちの休息の場として、最適の店といえます。




ニューバッグモリタ 
いつでも、どこへでも気軽に旅行できる近頃です。でも、そのときどうしても必要なのがカバン。そして、流行やデザインにうるさいあなただったら、スーツにも、ジーンズにも、それぞれマッチしたカバンを選びたくなるはず。それだったらこの店です。十三日町本店のほか、市内に三箇所の支店をもつこの店の制服は、そのセンスのよさが評判なことです。



笹川 
歩道に面したウインドウを見るたびに「どんな豪華な洋服であっても、和服の絢爛さにはかなわない」という言葉を思い出します。山紫水明、花鳥風月の趣を、四季折々に着るということで、肌に感じてきた日本人のこころ、ゆったりと落ち着いた店のたたずまいのなかに、その心を見るような気がします。和装小物にも、その鍛え抜かれた目が行き届いています。


ぽえむ
濃紺の制服がオフィスそのままの静かな雰囲気に溶け込んでいます。まさしくぽえむのポエムたるムード。









ぺたんこ
お好み焼きは本場大坂生まれのママご自慢の味の店。音に聞こえた食道楽の味を…とママの弁。









トンボ理容室
理容イスが十二台、従業員は十名、とすべてがジャンボ。開店二年余り、サービスのマッサージ機でリラックス。









仁愛歯科医院
今年の四月に開業。予診表など新しいシステムを効果的に採用しています。心おきなく、ハイ、アーン…

2008年12月27日土曜日

昭和49年の八戸三日町5






緑屋

 四十三年に八戸に進出してきた頃は、市内の商業界にいろんな波紋をなげかけたものですが、今では町にもシックリとなじみ、明るい三日町づくりに大きな力を示しています。店内は文字通り緑で統一され、お客にホッとした安心感をあたえてくれます。そして好評なのが入り口の休息所。ここをデートの待ち合わせに使っている人たちが最近はグンとふえています。

マルマツ 

三戸からやってきたこの店は、創業以来二十二年。三日町に登場してからもすでに十六年がたち、四十四年に現在のビルができて、今ではもう、老舗のにおいを感じさせるような落ち着きがでてきたように思われます。街の声を聞いてみると「掘り出し物がたくさんある」「どことなく昔がしのばれるような店で、親しみやすく気軽に買い物ができる」などに意見が集中しているのです。


大平カメラ 

「ごく平凡なことですが、心身ともにベストの状態であること、そして、笑顔を忘れないということを心がけております」と専務。新型が開発されるたびに、プロとしての知識と感覚が要求される、精密機械相手の商売。その言葉の重要性は十分に理解できます。写真は楽しむもの、思い出という人生のパートナーを受け持ち、その使命を忠実に果たしている、昭和二十二年に開店のお店です。

2008年12月26日金曜日

八戸市役所勤勉手当廃止、その金で雇用促進せよ2

秋田県が杉の間伐材をバイオエタノールにする技術を確立した。原油を外国に頼る必要がなくなる。緑が石油に変わるのだ。これには伐採、集材など技術が必要。その人材を育てる。さらに、生産コストを下げるためには間伐材を運び出す林道整備が急がれる。間伐材を運び出すのにコストがかかる。山には道がなく崖ばかりだ。この運び出しコストを低減するのが航空写真を使っての効率良い林道整備。戦後間もなく東京都が失業者対策事業としたのが通称ニコヨン、百円札が二枚、十円玉が四個、それでニコヨンだが、これは道路に簡易アスファルトを敷いて歩いた。筆者がハナを垂らしていたころこれを我が目で見た。現今は失業者240万人、これらを使役し全国にバイオエタノール生産林業を構築する。二百万人に月二十万円支給、これで年間四兆八千億円が必要となるが、杉は北海道を除き全国で伐採可能。三十年で育ち循環型で永遠のバイオエタノールが得られる。原油輸入額平成十八年で八兆八千億円。二割をこのバイオエタノールで補完すると一兆七千億円。都道府県ごとに精製所を造り自然から燃料を生産し、緑化運動にもなる。ガソリン税が年間3兆円(1999年)、これにバイオエタノールを販売した一兆七千億円を注ぎ込めば安定した事業となり、バイオエタノールが国の根幹事業となる。バラ撒きの二兆円はその第一弾の間伐材整備事業費とし、未来への夢の架け橋として使いたいものだ。昭和36年の林業人口は44万人、それが平成11年には7万人に激減。製材、製炭が減り山は荒れたが、時代が変わり国民が原油に頼る生活となった。杉の間伐材からバイオエタノールが取れることで様相は革命的に変化。外国に依存せずに原油を得られるのだ。タンカーが原油を運んだように山に間伐材集積用のワイヤーを張り林道まで運搬。ダイナミックな男の世界だ。国も林業家を育てようと長期の養成事業を開始、それが緑の雇用、67億円を投じるが、森を守り育てるから、バイオエタノールに目を向けるべき。雇用の裾野が拡がるからだ。雇用の拡充は工業ではなく忘れられた第一次産業なのだ。人間の知恵は無限。無から有を生むから世の中は面白い。世界大不況、されど国内に埋もれた宝を掘り出そう。地には無限の宝を秘める蔵あり。これが地蔵。天空にも広大な蔵あり、これが虚空蔵。いささかの不況、笑い飛ばしピンチをチャンスに変えることだ。

2008年12月25日木曜日

八戸市役所勤勉手当廃止、その金で雇用促進せよ1

精勤しようが怠惰に流れようが各課長はそれを指摘せず、平等に勤勉手当が支給される。その額七億五千万円。
 これで臨時職員を雇え。一人月額二十万で年間三百十二人を雇用できる。金額は低いが八戸市内には仕事がある。それは林業。秋田県が杉の間伐材をバイオエタノールにする技術を確立した。原油を外国に頼る必要がなくなる。緑が石油に変わるのだ。予想もしないアメリカ発の大震動。経済は低迷の限りだが、これを克服し日本に元気を取り戻すには「一口残(いちこうざん)」の教えに従うことだ。ひとくちの飯を残し他に与えよ。つまり、八戸市役所職員も平等思想で勤勉手当を貰わず、これを返納し「一口残」とし臨時職員を雇い、共に苦労を渡ろうの精神こそ必要。今風に言えばワーキングシェア。
この精神が日本全体に伝われば不況を好況に変えることができる。世の中は心持だ。ダメだと思うからダメになる。まだやり残したことがあるとの発想が世の中を変える。この発想が全国に伝われば地方行政から約四千億円の金が拠出される。国民と痛みを共に分かち合う時代が来たのだ。役人天国、賞与に手当て満額支給、官吏優遇民間冷遇、だから給与を引下げろと、減額を叫ばれる前に、出来るところから努力し雇用創出を捻りだすことに加担せよ。市議会議員も政務調査費を返納、議長も公用車を廃止しタクシー利用で民間に金を撒け。さらに小林市長も公用車廃止だ。自宅に帰るために運転手を一時間待機で運転は三分じゃムダのカタマリ。市長は歩いて帰宅せよ。時代が変わったのだ。率先して範を垂れろ。

2008年12月24日水曜日

学校評議員は役立っているのか

小中学校に評議員がいる。校長が適当に選任、五名以下と規定され、これらが不定期に集まり学校経営に助言を与えるとあるが、本当に役立っているのだろうか。
 これに年間三百九拾万円が投入されるが、メンバーを見ても似たりよったり。父兄は一名程度、他は近隣の安全協会や議員その他。これらが何をどのように伝えたかは報告書にはあるが個々の評議員の意見は明示されていない。
 まあ、ご近所付き合いを欠かさぬようにの代物(しろもの)程度、評議員は年間一万二千円の報酬、つまり月千円。それでいい知恵がでる訳がない。いかにも形式主義の役所の考えそうなことだ。
 これら評議員の意見を協働の町づくりに活かす方法がなかろうかと探ったが、公民館中心の町づくりより、肌理の細かい意見を聴取できるのが小学校中心。何故ならが公民館は中学校の学区単位に建設、これが22公民館の基本単位、小学校は47あるので細かいわけだ。
 市民のための八戸にするには役所まかせではいけない。まして教育委員会だのみは更に悪い。と、言うのは教育委員会には物知らず世故に疎い教員が幅をきかせる。これらの人物の最悪なるのは年末年始の酒酔い運転をみてもわかる。
 自分だけが偉い、自分だけが正しいと警察官が見ている前で同僚を殴った教師がいたそうだ。「はちのへ今昔」もこれを取材せよと唆されたが、これデーリー東北新聞が既報、そのため動かなかった。もっとも、週刊誌的に詳報を出す手もあったが、教師は物知らずで言葉を交わしたくもない。
 それが忠義面して役所に入り込む、市役所は政治の場、学校で威張るようなわけにはいかない。まして上司となり部下を持つようになると、このもの知らずが助長され、とんでもない発言が飛び出す。それがまた面白おかしい。
 物知らずが教育長を務める、それを茶坊主教員が後押し、だからここは慢性的な茶番劇が教育長が交代するごとに生じて、その混乱がまた腹を抱えさせる。ともかく教育委員会を調べれば調べるほど不可思議な場だ。

2008年12月23日火曜日

昭和49年の八戸三日町4






石岡商事



 家庭金物はかな釘一本から、業務用の厨房備品にいたるまで、その取り扱い品目は広範囲にわたっています。家庭金物の卸を始めたのが、昭和二十一年。それ以前は、酒類、かん詰、醤油の卸小売りで、創業は昭和十五年となっています。闇価格横行の時代でも、公定価格を守り続けた話は有名で、その公明正大な精神は、現在まで一貫されています。

クドウキチ



 八戸では二番目にネオンの灯がともったお店。昭和の初期にはモダンボーイの頭上を飾ったカンカン帽も発売していました。赤いアップルの紙袋を抱えている女性は、すべからくファッションに敏感である。ということは周知の事実。見るだけで楽しくなっちゃう…という女心を捕らえたニクイお店です。二階は健康的な喫茶店・ジローです。

橋源商店 



右から左へ読む店名を見てもわかるように、ここは三日町でも最も歴史の長い店なのです。明治二十五年に河内屋から分家して、糸の専門店としてスタートしたということです。いつもキチンと蝶ネクタイをつけているご主人は四代目。現在は呉服と洋品を商っていますが、「お客様本位」の商売訓は、創業当時から、けっしてやぶられることなくつづいています。

2008年12月22日月曜日

教育委員会学校教育課は学校を指導せよ


学校が大会に参加するので補助をする。補助自体は必要だが、その補助した金が何に消費されたかが大事。
 この報告書の提出を求めるのが役所の仕事。役所は管理しやすいように様式を定めて報告書を出させるが、この学校教育課はそこをいいかげんにして、統一した様式を定めない。ために領収書すら添付されない。
 白銀小学校の馬場義孝校長の領収書未提出分については、提出しないを正当化している。補助金を自分の財布から出したと勘違い。自分の銭なら鯛焼きを食おうが焼きソバだろうが領収書の提出は不必要。が、他人の金なら領収書を添付は小学校三年生でも知っている。
 こうした手合いが校長を勤めるのでは生徒の成長は望めない。自ら律するの気概がなければならぬが、昨今は教員の飲酒運転が目立つのも、こうした風潮の上にたつのだろう。 自他の金の区別をつけるは不文律だが、当然のことではないのか。

2008年12月21日日曜日

昭和49年の八戸三日町3





富士電気 現代の生活は、三栄会が発足した頃とは比較にならないくらいの便利さです。こんな生活の進歩は、とりもなおさず、電気の力であり、電気を利用した器具のおかげといえるでしょう。この水準の高い便利さを奉仕の心で届けるのが、富士電気のモットー。四十五年、中央ビル竣工と同時に入店して以来、この精神はかわりがありません。レコード部の充実も注目に価します。

武田スポーツ 現代人は運動不足だとはよく言われること。それでいながらレジャーということばはよく使われます。スポーツとレジャーをうまく結びつけて、心身の健康を得たいものです。ここ武田スポーツは、スポーツウェアの数量がバツグンに多いのが特徴です。この店が中学、高校生の間で人気が高いのは、その価格の安さにほかなりません。

つきう洋品店 昭和初期の銀行パニックの後、この場所に店を構え、それからは常に三栄会のリーダーとして活躍してきた店なのです。たとえば、八戸で最初のネオン、いち早くマネキンをいれた、ウインドウの効果を十分に生かしたこと…ETC。現在、洋品店は規模を縮小したものの、三十八年に味の名店街を作り上げ、三日町に多くの人を呼び込むために大きな役割を果たしているのです。

ツキウ時計店 近頃の時計屋さんは、昔と違って柱時計をあまり置いていないので、とても静かです。おなじみの月の中でモチつきをしているウサギのマークのこの店は、湊町に本店があるのですが、味の名店街ができる前から、つきう洋品店の中で営業をしていました。こじんまりした店内には、時計はもちろん、それぞれ魅力的な輝きの宝石が飾られています。

2008年12月20日土曜日

昭和49年の八戸三日町2






ヒガシ靴店 向い側の本店は、はば広い年代のお客を対象にした店構えですが、こちらは「ヤングシューズ」のキャッチフレーズのとおり、奥行きの深い店内には、若者の好みや流行をよく研究した、いろいろなデザインの靴がいっぱい。また、壁にはジェームス・ディーンのパネルをかけていたり、照明にくふうを凝らしたりで、徹底したヤング対象をうちだしています。

フクヤ 今年の夏のはじめ、カガミの壁面のこのお店がオープンしてから、三日町の街並みはファショナブルに変わりつつあります。店内は一、二階がレディス・ショップ「ファンファン」地下がメンズショップ「ベンハウス」特に「ファンファン」は八戸のヤングレディたちに大ウケの店なのです。なぜって、店内が華やかで、お花畑にいるみたいな気持ちでウットリしてしまうからです。

ハシブン 十三日町のハシブンがご婦人方と若者たちのために、ヤングタウンとして変りつつある三日町に出した支店。さすがにシューズショップとしては老舗のこの店、仕入れ態勢が万全で、たいへんな品揃え。かえってどれを選んだらいいのか決めかねてしまうくらいです。でも、なにも買わなくても、自由に店内をご覧ください、という姿勢ははっきりしているのです。

2008年12月18日木曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡10


佐々木聡が父親から受け継いだものは優秀な頭脳ではなく、卓抜した助平心。
平成五年一月に撒かれた怪文書から
市議・弁護士をまじえた乗っ取りグループ佐々木泌尿器科病院の実態暴露!
 佐々木桂一院長は一億八千万円相当の土地提供者を追い出し社会福祉法人ひばりの里を乗っ取り平然と居座り続ける。
佐々木桂一院長のプロフィール!
1 先ず金と女性には異常に目のない男。
2 別れた妻に一億円の手切れ金。
3 第二の妻(台湾女性)に結婚すると嘘を言ってダマシ、警察問題になり、台湾警察から台湾女性をブジョクするもはなはだしいと激怒されパスポートを没収される。五千万円の慰謝料を払って帰国した。
4 第三の妻にはヨネクラホテルの上に総額一億円の邸宅を買い与えて住まわせている。(今でも種市の男性専科浴場に出張とか)
 従って、お金の捻出方法として税金のかからない社会福祉法人ひばりの里を乗っ取り隠れた資金源にしている。許すな悪を!
医者はこんなに儲かるものか?
お金を見ればヨダレを流す市会議員を飼いならし、いつも弁護士を従え、元みちのく銀行支店長を使って福祉事業を乗っ取り、公金横領にも等しい儲け方をしている。
その医者の名は佐々木桂一君、岩手医大卒の迷医だそうだ。
悪事千里を走る!
そのメンバーは次の通り。
親分 佐々木桂一(佐々泌尿器科院長)
軍師 宮森弁護士(佐々木泌尿器科顧問)
家老 老女・佐々木和枝(桂一君の母、医療機器販売会社社長)
物見役 藤川友信(乗っ取りに数々の手柄を立てた節操のない市議会議員)
兵隊 金田章 (元みちにく銀行支店長、乗っ取り第一の功労者。一時90万円の給料に目がくらんだ哀れな男。現在ひばりの里の女性職員とアツアツ中)
兵隊 見上誠二(佐々木泌尿器科病院の事務長ひばりの里から多額の給料)
兵隊 地代所千尋(元佐々木泌尿器科の看護婦現ひばりの里婦長及び理事)
中略 
市民を代表する市議会議員の藤川友信君はまだ悪い。乗っ取りは人殺しに等しく孫子の代まで呪われることを知らない。
後略

読者諸君は佐々木親子二代、藤川友信親子二代を並べて見る機会にめぐまれた。乗っ取る側の得意顔、乗っ取られ吠え面かいた前田勇氏。彼が記した「乗っ取りは人殺しに等しく孫子の代まで呪われることを知らない」が現実のものとなった。それも仲間割れという形で。藤川優里市議は黙して語らず、粘着油圧豚はテレビにはめられないことないことを喋る喋る、まるで油圧シャベルだ。
佐々木親子は二代に渡り海外で活躍。
親父タイワン、倅はタイ、大した違いじゃない? ワンダフル。
 親父もタイワンでパスポートを取られた。倅は「はちのへ今昔」が書けば日本国内から出られない。同様にパスポートを官憲に取り上げられ国外に出られなくなる。
 いいザマだ。親子共々助平が過ぎればとがめが来るものだ。天網恢恢疎にしてもらさずだ。(天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪い事をすれば必ず天罰が下る意)。
 さて最後に江戸の昔の俗曲「鬼ごろし」を披露して長々つきあってくれた読者諸君にお別れだ。
 酒と女は気の薬サ
 とかく浮世は色と酒
 ささ、ちょっぴりつまんだ悪縁因縁
 なまいだァ、なまいだァ、なまいだァ
 お前のような美しいおなごと地獄へ行くならば
 閻魔様でも地蔵様でも
 まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ
 鬼ごろしィ
お退屈さま。

2008年12月17日水曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡9

さすがに2チャンネル掲示板も粘着油圧豚の勢いが落ちた。景気悪化で憤懣やるかたないのが佐々木聡に噴出。ところが、才能のある若者をこれらスレの中に見出した。
 一番は漫画で佐々木聡が藤川優里市議とおぼしきダッチワイフを抱いてローション塗らずにこわした。それを父親に直してというもの。絵が上手い、線が上品と秀逸、これはプロの仕業、うーん、唸るな。
 二番は聡という字は恥に似てる。三番は素人童貞、こんな言葉は知らなかった。うーん。これにも唸った。が、所詮、どこの誰だかわからない噂話、いちいち興奮したり憤慨してたら粘着油圧豚、命がいくつあっても足らないぞ。
 マスコミなんてのはタダでペラペラ喋る喋る時間つぶしの格好な餌、あるいは新聞は白地で出せないから埋め原稿のタダ記事を探すだけ。持ち上げられるだけ持ち上げて胴上げの末、地面に落とされ死んだ人もいた。粘着油圧豚も赤ッ恥かくだけでやめておけばいいものを、落ちてブヒブヒ泣くな。
 さて、抗議文の最終だ。
それと、この藤川親子の犯罪的企みに加担した「はちのへ今昔」小川真氏が医療法人仁桂会佐々木泌尿器科病院の中傷をしたいがために完全なる善意の第三者で全く無関係である元八戸市長で八戸市名誉市民の中里信男氏の名誉を15年前の議事録を改ざんするという実に卑怯極まりない手で傷つけました。しかもこれでも満足せず現八戸市長小林真氏への暴言を掲載しているのであります。小林市長に何の関係があるのでしょうか?更に不当に名前を出された衆議院議員大島理森先生のご親族であるB子氏もうつ病を併発し現在通院中です。どうしてこのように目に付いた者を手当たりしだいに誹謗中傷する行為を現職市会議員である藤川優里市議とその父であり元職の元八戸市議会副議長の藤川友信が企むのでしょうか。
確かに元八戸市会議員藤川友信氏は市会議員に立候補する前から犯罪行為にて金銭を強奪するのを是としてきました。藤川友信は八戸市選出の元県会議員滝沢章次氏の秘書をしておりましたが故滝沢章次県議が交通事故に巻き込まれた際、滝沢県議は相手方を許し”お互いの保険で修理しましょう”と立ち去りました。しかし犯罪者藤川友信はその美談を自身の金銭授受の絶好の機会と捉え事故の相手前村氏に滝沢県議に断りもなく接触し、県議の威光をちらつかせ相手方から150万円搾取しました。当然その金は犯罪者藤川友信が着服し、滝沢県議には報告していません。改めて言うと藤川友信氏は故滝沢章次氏の秘書でした。秘書の行為は極めて不条理ながら章次県議にふりかかってきます。藤川友信氏の犯罪行為で前村氏の周りでは生前には選挙運動では立ち入れないほどの状況だったのです。(現在も章次議員の後継者である滝沢求県議はこの件により下長地区で不当な風評被害を蒙っております)。これも既に前村氏の奥様から証言をいただいております。
続更に嘆かわしい事に藤川友信氏にはその弟の息子、即ち甥っ子で藤川優里市議の従兄にあたるCというという人物がいますが、この者は現役の山口組系暴力団員で現在、某刑務所にて二度目の服役中です。罪状は覚せい剤、暴力恐喝監禁であります。そう、藤川友信氏と藤川優里氏は暴力団関係者と大変に親しいどころか身内に暴力団関係者がおります。
藤川友信氏と藤川優里市議は選挙の前から服役していた犯罪者Cの件をも後援関係者や有権者の皆様に隠し通し選挙に挑みました。このような重大な事実を平然と隠蔽し有権者の皆様を平気で欺く上に、現役市会議員でありながら平然とハレンチ極まりないヌードになって市民の皆様の信頼を裏切り八戸市の恥をさらす藤川優里市議に対し即刻辞任勧告すべきです。でないと次は何をするのでしょうか?現職地方議員初のAV販売でしょうか?八戸市議会の権威と品位を守るには即刻発売を中止させ辞職させるのが妥当と考えます。
なお「はちのへ今昔」小川真氏はそのブログ内においてその名誉を著しく傷つけられた市民団体八戸オンブズマンと医療法人仁桂会佐々木泌尿器科病院常任理事の佐々木聡氏から名誉毀損で刑事告訴されて八戸警察署に受理されております。小川真氏、A市会議員、元八戸市会議員藤川友信、八戸市会議員藤川優里は司法手続きを理解できていないみたいでいまだに犯罪行為を重ねています。ですが、彼らが何と言おうと思おうと告訴は全部受理されており、捜査は進行中です。
現在、総選挙の足音もひたひたと近づいてまいりました。にも拘らず八戸市会議員藤川優里や八戸市会議員A、及び元八戸市議会副議長藤川友信が「はちのへ今昔」小川真氏に依頼して行った刑事事件である一連の名誉毀損、搾取は有権者の皆様に対しての裏切り行為、犯罪行為である事は疑いのない事実であります。
八戸市議会はこのような真に卑劣な暴力団、右翼関係者が行うようなやり方で刑事犯罪を重ねたり平然とヌードになりハレンチの極みにて八戸市と八戸市議会の恥をさらす現職、元職の市会議員たちを放置していいのでしょうか?この件について私、佐々木聡は八戸市議会吉田議長に対しましてこれらの市会議員に対する断固たる最終処分を要請し抗議文といたします。
この抗議文の中に藤川優里市議の親類にヤクザがいたと記したが、この人間は今学校に行っているそうだが、必ず学校から帰ってくることを忘れるな。学校から帰らない人間は一人もいない。
 もう一つ付け加えれば、貴君が記した「更に不当に名前を出された衆議院議員大島理森先生のご親族であるB子氏もうつ病を併発し現在通院中です」で当人から苦情を申し込まれていないのか? 厳重に苦情をねじこまれていると聞いたゾ。
 ないことないこと書けばとがめは来る。マスコミは役に立たなくなれば潮が引くように消える。が、貴君の吐いた言葉で貴君は追及されるのだ。貴君が出した告訴状、そして民事訴訟は決着をつけるまで延々と続く。マスコミが引こうが2チャンネルの話題に上らなくなろうが、結末を得るまでは進行するのだ。小学生の先生への告げ口と大人の世界は違う。ここを骨の髄まで知らせてやる。まして一月には「はちのへ今昔」が刑事告訴する。泣くな喚くな男じゃないか、テレビ局が見せた藤川優里市議のキツイ一言に落涙したが、貴君も父親と同様に出国できなくなる。そのことは記さないが、父親のことが記された怪文書を明日書いて、一連の粘着油圧豚を終了する。
両国橋の上で宝井其角が歳末で煤箒を担ぎ売る大高源吾に会う、ご存知赤穂浪士だ。いよいよ討ち入りが近く松坂町の吉良邸の偵察、が宝井は知らず、行商人にまで身を落としたかと思わず、
「年の瀬や水の流れも人の身も」と上の句、それに大高が「明日またるるこの宝船」。

2008年12月16日火曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡8

粘着油圧豚の論理の展開の凄さはまさに教祖級、少々矛盾があろうが、そんなことは少しも気にしていては教祖にはなれない。それを実践しているから偉大だ。
 大宅壮一がこう教えている。 
D 平気でウソがつけること。誇張もウソの一種であるが、特に誇張の能力ということは、「神さま」の重要な資格である。時と場合には、心にもないことをいわねばならぬが、人にそれを信じさせるためには、自分でまずそれを信じなければならぬ。この習慣は強心臓と訓練にある。
 昨日記した抗議文の佐々木聡の都合の良い言葉、A市会議員が不可解にも「はちのへ今昔」小川氏に言わせた「後援会長が自分の後援する藤川優里市会議員が言う事を聞かないからA議員に相談した」との下りですが、これはとんでもない虚言です。私自身も食事していたのは覚えていましたが目的がなんなのかは忘れていました。 忘れていましたは名句だ。こうでなければ教祖にはなれない。
 さらにアブラハム教祖はこう続けた。
しかしそれは大嘘であり私、佐々木聡はA市会議員から衆議院議員江渡聡徳先生が青森2区における選挙支援の話し合いをしたいと申し入れをいただき伺ったのです。
江渡代議士は十和田、八戸は選挙区ではない。つまり、これはタイの選挙に日本人が投票したいと騒ぐようなもので、出来ない不可能まるでダメ。平然とこうした矛盾を連続する嘘でつなげなければ天国への道、いや藤川優里市議への助平心の道は開けない。
 使徒アブラハムよ、汝の道は閉ざされ凍てついているが、肉体の鍵をかざし、やがてその困難な道の溶けることを心に願いなさい。そして毎朝ブヒブヒの祈りを重ね、身をつつしみ成就の日まで妄想と嘘を塗り固めることを誓いなさい、天国への道は遠い、しかし、ブヒブヒの祈りの言葉がそれを近くする。ゆめゆめ忘れることなかれ、ブータン。
 さて、抗議文の続きだ。この抗議文も長いんだ。ともかくユリたんを辞めさせてくださいと告発文に書いたように、この抗議文にもあるんだ。よっぽど憎いんだろうなア。粘着油圧豚。
 こちらは会った当日の接待費、これはA八戸市会議員が指定した(証拠のメールと領収書を八戸署に提出済み)、銀座の料亭「せきてい」11万1千9百5円、その後に行った銀座のクラブ「ボン」にて21万6千9百円を私が負担したにもかかわらずA市会議員はその地位にあるまじき事に上記の12万8千7百14円を何も関係ない私の父から恐喝し搾取いたしました。八戸署にも証拠提出済みですが議会でもこの事実「2区選出の国会議員と八戸市会議員が国民から金銭を強奪同然に支出させ銀座で豪遊し、その上日当、交通費まで要求した議員にあるまじき行為」を追及していただきたいと思います。

東京弁護士会と八戸弁護士会にこの事件を相談した結果、A市会議員にも小川真氏との共謀による搾取が成立するとの回答を得ましたのでA市会議員A市会議員をも刑事告訴するべく手続きを進行させております。

そして「はちのへ今昔」小川真氏はこの一連の誹謗中傷事件は元八戸市議会副議長藤川友信と現八戸市会議員藤川優里が企画立案し小川真氏に依頼したと小川氏本人がブログにて記述しております。八戸市民の為に尽くさなければならない元職と現職の市会議員がこのような根拠なき不当な名誉毀損を企み実行する、いったいどういうつもりなのでしょうか?八戸市において市会議員であるなら、あらゆる法律は適用されないとでも思っているのでしょうか。

2008年12月15日月曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡7

佐々木聡の肝っ玉の小さいことを証明する。10月20日、「はちのへ今昔」ブログに藤川優里市議のよわった困った後援会で無届の後援会のことを記した。もともと藤川優里市議は後援会を持たない。政治資金団体の名に後援会を使えば、後援会が存在するが、彼女のは藤娘会、その代表は藤川優里市議自身。
 粘着油圧豚の佐々木聡の存在などハナからない。ハナは最初の意味。この資金管理団体の代表には普通は議員自身がなるもの。選挙違反ではこの代表が追われる。資金の流れの解明のためだ。
 変な奴に財布を握らすような愚かな者は一人もいない。まして粘着油圧豚、何を言い出すか、何を迫るか分かったもんじゃない危険な存在。まるでガソリン運搬車でタバコを吸うようなもの。危険、危険。
 ところが、この男が2チャンネルで騒いで藤川優里市議に火をつけた。が、粘着油圧豚の本性を出し、ヒジテツ。これは肘で鉄砲を打たれたということで、ふられて泣いてさめざめならぬブヒブヒと。
 ボクをふるとは許せない、ユリちゃんを叩こうと決意。そこでボコボコにしようと思うものの、もしやもしやで、又ふりむいてくれないかしらと、気持ちは揺れる柱時計。黒い玉が右左。
 いろいろ画策すれど「はちのへ今昔」にやんわり諭されたのに逆上、ありもしない熱を噴いて、藤川優里市議と彼女の父が「はちのへ今昔」に金を渡して、私を叩きに来たと妄想をたくましくする。
 何度も言うが藤川優里市議はみたことがあるが会話をしたことはない。父親の友信は顔を見たこともない。まして銭など貰うはずもない。くれてもいらない。粘着油圧豚からは刑事告発も民事訴訟もやってとる。普通刑事告訴の決着を見てから民事に移るもんだ。ルール違反ならこっちもその理屈で行く。
 さて、佐々木聡はこの10月20日の記事で慌てた。そのとき奴はタイにいて、これを読んでタイヘンだ。と、山日にFAXを送って、これを大島代議士、田名部参議院議員、小林八戸市長、それと八戸市議会議長に手渡しするように依頼。その文書が手に入ったので掲載。これを読むと小学生が担任の先生にユリちゃんがボクをいじめた。「はちのへ今昔」のジジイと一緒にと告げ口しているのがよく分かる。
 さて、じっくりとご覧(ろう)じろ。
抗議文
議長 吉田博司様
医療法人仁桂会 佐々木泌尿器科病院  
 常任理事 佐々木聡
「はちのへ今昔」小川真氏と現八戸市市会議員A氏は共謀し医療法人仁桂会佐々木泌尿器科病院の誹謗中傷を小川氏の「はちのへ今昔」ブログに掲載し事実無根の事柄を並べ全く無関係である佐々木泌尿器科病院長佐々木桂一氏の名誉を著しく傷つけ並びにその常任理事である佐々木聡氏の名誉も座視できぬほど不当に傷つけました。

現八戸市会議員で自民党党員のA氏は「はちのへ今昔」小川真氏とその共謀した中傷を持って無関係な医療法人仁桂会佐々木泌尿器科病院より現金12万8714円を(手数料735円を除く)を奪取。それにはこの両名に「はちのへ今昔」ブログにて引き続き誹謗中傷に満ち溢れている連載記事を載せられるのを恐れ、また坂本議員の威圧的なふるまいに心底恐怖を抱いたせいで要求通り支払わざるを得なかったせいでありますが、現金を要求通り支払ってもまだ「はちのへ今昔」小川真氏はブログにおいて中傷を続けております。そしてA市会議員は私の父から現金12万8714円を搾取した後に携帯メール(偽造不可能)で「自分が「はちのへ今昔」に言いました」と送信してきました。これは既に八戸署に証拠として提出済みです。

A市会議員が不可解にも「はちのへ今昔」小川氏に言わせた「後援会長が自分の後援する藤川優里市会議員が言う事を聞かないからA議員に相談した」との下りですが、これはとんでもない虚言です。私自身も食事していたのは覚えていましたが目的がなんなのかは忘れていました。しかし、その前日と後日に送信したメールがあり行った目的は「元八戸市会議員藤川友信の為にA後援会に選挙協力を依頼するため」だったのです。全くその話をこうまで歪曲するとはA市会議員というのは本当に有権者の皆様を代表する資格があるのでしょうか?
更にA議員が私佐々木聡が「是非連れて行ってくれ」と主張したと公然と虚偽の作り話を議長、その他の議会関係者に述べている事実を確認いたしました。しかしそれは大嘘であり私、佐々木聡はA市会議員から衆議院議員江渡聡徳先生が青森2区における選挙支援の話し合いをしたいと申し入れをいただき伺ったのです。
これは証拠もあります。そもそもこちらは江渡聡徳防衛副大臣に会えるから50万円近く払うつもりはありませんでした。しかし副大臣が同席したのでA市会議員の面子を思いはかばって支出したのです(A市会議員は議員歳費を金融業者に差し押さえされているそうなので)、まさか八戸市会議員たるものが恐喝、搾取などするとは思えませんでしたし。

八戸の東横インがM椀グランプリ



週刊新潮に載った八戸のいい話。
八戸市役所の下、長根リンク近くに床屋がある。名前をバンブータケハラ。その若旦那の女房が東横インの支配人、根っからの八戸人。
 この夫婦は働き者、共に稼ぐが亭主の腕は絶品、センス満点、欠点を探せばひげそりがあまりうまくない。が、髪を任せると八戸で一番か二番。ところが昨今、客の転勤などで少々下降ぎみ。
 ところが、この女房が頑張り屋で東横インの支配人、各店の腕を上げようとグランプリを考案、その優勝を獲得。もともと東横インの朝飯は無料。それに椀ものに腕を振るえとグランプリ、それを獲得したのがタケハラ・恵美子支配人考案のせんべい汁。
「ニンジン、ゴボウ、トリモモなどの具だくさん」と鼻を高くした支配人の弁。
 このせんべい汁、知るか、知らぬか知りません、でも友人知人がホテルを探すとき、ちょっと耳打ちの価値があるのを君やシルまい。

2008年12月14日日曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡6


フライデーの最新刊12月26日号に粘着油圧豚アブラハムが載った。素晴らしい! これで一躍全国区に佐々木恥が躍り出た。これだけ叩かれても平然と生きていくには佐々木恥は教祖になる以外に道はない。
 教祖の根源を貴君は秘めている。その才能に目覚めて大宅壮一が記したごとく、教祖の資格十分な貴君は、その道に進みなさい。その道は険しくそして狭い。滅びに至る門は広いが地獄に落ちる。
 大宅は佐々木恥にこう教える。
E 被虐趣味をもたねばならぬこと。自分たちには敵が多く、その敵は極悪非道で、しかも強大で自分たちはひどく苦しめられていることを、くりかえしくりかえし強調することが大切である。だいたい何かの信者になるものは、多かれ少なかれ被虐性をもつもので、なるべく自分を不幸な、虐げられた立場におく、実際そうであるよりも、そう思い込むことに快感を感じるのである。売卜者が、相手の身にせまっている災厄をなるべく大きくすることが効果的であると同様に、来たるべき戦争の危機や災害などについても、できるだけ大袈裟にいった方が、言う人の予言者的、救世主的性格を高めることになる。
 叩かれることはキリストが世の人の罪を代りに背負ったごとく、汝、佐々木恥は皆の恥を一身に負った。自分が苛められることで藤川優里市議が浮かびあがる。汝の気高き魂はここに昇華された。
 汝は同じような苦難を受ける者たちのために立ち上がるべきなのだ。何故なら汝は選ばれしものだからなり。
シラ記を上梓したイエズス会はこう教える。
多弁の危険
軽々しく人を信じる者は浅はかであり、
罪を犯す者は自分自身を害う。
悪を喜ぶ者は罰を受け、
むだ話をきらう人は心が軽くなる。
耳にした話をけっして繰り返して語るな。
そうすれば、おまえは損をすることはない。
友についても敵についても、何も語るな。
おまえが共犯者にならないかぎり、それを明かすな。
さもないと、おまえの話を耳にした人は、おまえに用心するようになり、
おりがあれば、おまえに憎しみを表わすだろう。
聞いたうわさは、胸におさめておけ。
安心せよ。胸が張り裂けるものでもあるまい。
愚か者は秘密を抱えて苦しむ。
あたかも子を産む女が苦しむように。
愚か者の腹に隠されている秘密は、
ももの肉に突きささった矢のようである。
 それにつけても、昨日こんな電話があった。
「佐々木聡は東京銀座で何か問題を起こしたようですよ」
エッ、それはもしかしてA市議、代議士と飲食したものか? 彼のブログの「はちのへ今昔」被害者の会の8月29日号に「肝心の自分が連れて行ってタダで食わせろと要求した銀座の料亭「せきてい」と銀座のクラブ「ボン」の代金を彼の病院に支払わせたことを忘れていますな。どちらも領収証も拝見しました。高い!市会議員はお気楽極楽ですな。
とあるので払ったとばかり思っていたが、教祖、真実はいかに?

昭和49年の八戸三日町1

昭和49年の八戸三日町
昔の町並み(大正から昭和初期)
槻門商店
杉野セトモノ店
マル井洋品店
中村菓子店
大沢時計店
ハシトク
三井菓子店
つきや洋装店
アオムラ玩具店
煙草元売所
楢館家具部
三日町郵便局
第五九銀行八戸支店
つきう洋装店
若松旅館
杉本旅館
クドウキチ
橋源呉服店
松和油店
松和本店
南山車屋
村井医院
坂本薬局
福井バナナ
小森茶舗
西塚商店
大長商店
第五九銀行
弘前相互銀行これらをご存知のかたは七十年配、町の顔は時代と共に変化するが、現在はひどく壊されてしまった。誰に? 結論を言えば八戸市役所にだ。それらのことどもを時代を追って証明する。昭和四十九年の町を銀座三栄会の記念誌から紹介。
フタバ薬局 清潔なウインドのこの薬局は、ヤグラ横町町内だと思っている人、認識を改めてください。ここはお役所の帳簿ではちゃんと三日町ということになっているのです。このフタバ薬局は、昭和十二年の創業で、以来ずっと同じ場所に店を構えているのです。最近は息子さんが漢方薬に興味を持ち、その方面の充実が見うけられます。

木村書店三日町支店この店は歌人木村靄村が、昭和初期に小中野町に開いた木村書店の支店で、二十年ほど前からヤグラ横町で営業していましたが、四十三年に槻門菓子店のあとに現在の店舗を移したのです。 昨年閉店しましたが、ここの二階にあった「さんふらわ」は、連日若者でにぎわい、ここを場に、あらゆる創作活動が活発に行われたのは記憶に新しいことです。

せったい洋装店 間口はそんなに広くはないものの、店内はディスプレイがたくみで、豊富な商品を効果的に見せているのです。どちらかというとドレッシーな感じの洋服が多く、ちょっとオスマシのあなたにはピッタリのお店。どういうわけかこのお店、看護婦さんたちに人気があるということなのです。そのへんの秘密をあなたも探ってみてはいかが。

セッタイ時計店 ごく普通の小さな時計屋さんですが、みなさんはこのお店のアーケードの上の看板を見たことがありますか。右から「大、店、澤」とあり、「店」の上には時計のマークがあります。実はこれを大澤時計店と読むのです。つまり、このセッタイ時計店の建物は、三日町でも古いほうで、むかしはいっていた時計屋さんの名前がそのままあるわけなのです。

  







服地のシャネル フランスのデザイナーと同じ名前のこのお店、別に紗とネルしか売っていないわけではありません。それどころか、最新流行のプリント、あざやかな、あるいは落ち着いた色や柄の服地がいっぱいのお店です。八戸には服地専門のお店が少ないのですが、このお店に寄れば、きっと自分の気にいる服地に出会えることうけあいです。

2008年12月13日土曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡5


昨日の「はちのへ今昔」ブログのカウンターは過去最高の12062を記録。いかに粘着油圧豚に憤懣(ふんまん・いきどおりもだえること。発散できずに、心中にわだかまる怒り)を持つ2チャンネル書き込み生諸君がいたことを証明。2チャンネルの存在も佐々木聡が「はちのへ今昔」被害者の会のブログに記載したので知った。
粘着油圧豚はジュゲムになった。これは寿限無と書き、落語家の前座噺、長生きできるよう生まれた自分の子どもに和尚から目出度い名前を聞き、それを全部つけた。佐々木聡の粘着油圧豚もアブラハム、告発豚野郎、油ギッシュ君、キモ面、恥の上にハムの後援会長、ヌル豚、キモ豚、油ブタ、家畜に、変態、珍獣八戸油豚だとよ。これだけ臭い名前をつけて貰えた日本人は佐々木聡だけ。有難く頂戴しろ。
その粘着油圧豚が「はちのへ今昔」に送ってきた有難いお札ならぬ民事訴訟がこれ。常識ある奴なら、刑事告訴をすれば、その決着を待つもの。ところが粘着油圧豚は刑事告訴をしながら民事も討ってきた。これは変則。
こうなると有難い訴状のお札に俄然張り切るのが、「はちのへ今昔」の真骨頂。追い込まれた時、男は布団かぶって寝ちゃダメ。ああ、ありがたい、こんな歳になってもお座敷がかかったと、唐傘皺(からかさじわ・歳を重ねると縦に出るシワ)に化粧を塗り込むババア芸者の心持。天にも昇るはこれを指す。
読者諸君、「はちのへ今昔」は名誉毀損で訴えられた。こうなりゃ何でもありで、いわずに済ませてやるも武士の情けと黙っていたこともボロボロ出る。いいか、一度告訴されるとその後は何言っても名誉毀損にはならない。何故、もともと訴えられているからだ。
これは速度違反で捕まった、その日ならその後捕まっても違反は問われないと同じことだ。二度目に捕まったら前のキップを出せ。すると、いいから行けとなる。昨今は物知らずの警官もいるから本部に問い合わせろと教えろ。
さて、お待たせしました。粘着油圧豚は昨日はパニクっていたと連絡があった。「はちのへ今昔」が八戸オンブズマンの動きを知り尽くしていることに恐怖を感じたのだ。
「はちのへ今昔」は自慢じゃないが、東京・浅草橋のヤクザの事務所に拉致されたことがある。その時、口にピストルを突っ込まれた。八人のヤクザに取り囲まれ、堂々の論陣でその場を逃れた。後日、上野警察がそれを聞き込んで拉致したヤクザの事務所を確認、首謀者二人を逮捕。面通しの部屋がふさがっているから、マジックミラー越しじゃなく確認してくれ。いいですよと、二人のヤクザの居る部屋に行った。腰縄打たれ、手錠の端は机の脚につながり、「こいつらかね」の質問に「ええ、間違いありません」と答えた瞬間、二人のヤクザが大声上げて「小川さ~ん」と同時に泣いた。世の中はいろいろだ。布団にくるまる時、頬がゆるんで、今日も面白かったなとニヤリ、かくほど左様に毎日面白いと思える奴が勝利者。今年後半は佐々木聡の粘着油圧豚のおかげで楽しめた。さらにお座敷までかかって、嬉しい楽しいで気が狂って座りションベンちびりそう。
はてさて、八戸オンブズマンは粘着油圧豚に半分の八十万円をつままれた。半分の八十万では事務所維持ができない。つまり電話代もまともに払えない。だから山日はタイに電話をするのも金がかかるからフンダンにはつかわない。何て言ったって相手はタイに居る、そこに電話をかけるじゃ大層金がかかる。
そこで事務所経費削減で、要点だけを告げるようになる、政治資金規正法違反、個人献金の証拠、伊保内グループ、銀行口座、入金者に礼のメールが証拠、これでどうだ、いける、タイに居る粘着油圧豚はタイの政情不安で帰国できない。それでは時期を失すると佐々木聡と連名で八戸オンブズマンが告発した。
 十分な金、ふんだんな金を山日に渡していれば、ここらの問題を電話で十分に検討したろうものを、ケチが災いして二進も三進も(にっちもさっちも・どのようにしてもうまくいかないさま)いかない夏の溶けたアスファルトに靴底をつけたようなもの、これから逃げるにゃ靴を捨ててハダシで走ることだ。少々熱いけどな。それも貴君が撒いた種、刈るのは自分しかいない。心を定めよ。
 父親亡きあとの貴君が藤川優里市議に囁いた甘い言葉、理事長の席に着くは一つは無理、医療法人の理事長には医者しかなれない。合法的非合法で盗った「ひばりの里」は社会福祉法人でそこの椅子には座れる。そんなできるかできぬか分からぬ寝言は聞けないと市議の方が一枚も二枚も上、藤川優里市議の父親を侮辱する言葉を吐き続けるような卑劣な油圧豚に誰がついていく者があるか、けだし(蓋し・まさしく)名言。
 昨日、八戸オンブズマンの山日が電話で、そのことは書かないでくれと頼んできた。それを書かれれば粘着油圧豚は社会的に抹殺される。どうかそれだけは勘弁しろという。
八戸オンブズマンの寝言を聞く立場に「はちのへ今昔」はない。と言うのもこの八戸オンブズマンも筆者を刑事告訴しているからだ。
しかし、急いで開示しなければならない訳ではない。今回は書かない。が、気が変わればいつでも書く。今回を最終回とするつもりでいたが、八戸オンブズマンの意見を今回は容れる。書けば粘着油圧豚は出国できなくなる。
藤川優里市議を五月ごろ、八戸の水産科学館マリエントでチラッと見た時に、妙な影を曳いているなと感じた。そのどす黒い影はいまだに消えない。その影が彼女に囁き時折アレっと思うような言動、行動を示す。筆者は坊主をやっていた時、六本木ヒルズの近く、麻布十番で大道で手相を観ていた。人相・観相は本人が喋らなくとも明確に告げる。この藤川優里市議は地下でマグマがうごめいて噴出する場を探しているように見える。
その兆候はここにある。9日の八戸市議会である議員が「このバッシングの中で公務を怠らず、 注目の中、この壇上から凛(りん)として、質問をされた藤川優里議員に敬意を表すものであります」と、藤川市議を擁護する声を上げた。が、それを余計なことだと議事録から削除を求めたのは誰あろう、藤川優里市議だ。この女にへばりつく妙な影、それが彼女に言わせている。が、それを勿論藤川優里は少しも知らない。
さて、万華鏡のようにさまざまなことを散りばめる「はちのへ今昔」。粘着油圧豚に情けをかけて又も黙った。粘着油圧豚、それを書かれれば国外に出られず、ブヒブヒと妻子に会えないと泣くことになるぞ。心しろ。書かないでくれと泣くな、書く書かないは書く人間が決めることだ。世の中には恐ろしい爺もいるんだ。貴君の周りでちやほやするような幇間(たいこ)、末社(まっしゃ・(大神(大尽)をとりまく意) 遊里で客のとりもちをする人)。ばかりじゃないぞ。
最終回と記したが、粘着油圧豚の様子をうかがいながら続く。

八戸信用金庫事件 続3

つまり事件を闇から闇に葬ってしまうのだ。公になれば、同様に八信から痛い目にあった人々が立ち上がり、横暴を許さないことになるのだが、誰も自分が猫の首に鈴は付けたくない。
 八戸人の特性で、蔭に廻ってコソコソと言うが、表面に立って堂々と言う者はいない。だから、少しも八戸は良くならない。皆が廻りの人を眺めて、一歩踏み出すのを確認してからオタオタと歩く。いい子になろうとばかりしているのだ。
 いい子は親にとっては都合のいい子でしかない。聞き分けが良いのではない、睨まれたくないだけだ。
 真実は一つ、だが、事実はそれを見聞した人の数だけある。
 筆者にとって真実は一つ、それは、東北財務局に直訴することだ。
 だが、長寿の田中氏は当事者ではあるが、事実に酔ってしまった。更に、気がいいために自分から時効の四億四千万円も返すと言った。
 だが、時効の物は返す必要がない。殺人犯人でも十五年逃げきれば時効になる。まして、民事の事件だ、人殺しをした訳でも泥棒をした訳でもないのだ。
  『時効なんて話は一生に 一度ですヨ』と筆者は長寿の田中氏に言うのだが、
  『それはそうですが、勝田常務もああいうので……』
と、態度は軟化してしまった。
  『それに、八信がやらない時はお願いします』と言われ、これは駄目だと判断した。
 つまり、出し遅れの借金証文のようなもので、鉄は熱いうちに打てで、昨年の五月末に東北財務局に直訴すれば、八信側は何等の防備の策がない所に、東北財務局の査察が入り、事実が全て明るみに出るのだ。
 これを一週間、あるいは十日待てば、八信はそれなりの策を打ち、証拠は隠滅されるのは間違いない。
 つまり、撃ち破る瞬間はこの時をおいて外にないのだ。
 だが、常人にはその瞬間が見えない。
 筆者のように絶えず官憲と戦った者だけが持つ勘がその時を知らせる。年輩の方に違うと交通違反の裁判で警察を負かした小川さんですかと問われる。今から二十年以上も前の話だが、その通りで、速度違反をして裁判に持込み、検事を打ち負かして筆者は無罪になった。
当時のデーリー東北は三面記事で 『有罪か無罪か』と大見出しで書き上げた。当然、無罪になった訳だが、堂々の論陣を張った。簡易裁判所の場合は弁護士なしで、本人が検事と裁判官の前でやりあう。
 これも楽しかった。人生は男を磨く道場だ。退くは死ぬと同意語だ。官憲は法律を楯にしてくる。その法律の執行が間違っていれば、速度違反をしていても無罪になる。
 ここで、速度違反の話をする暇がないので先にすすめるが、法律は諸刃の剣で、相手にもこちらにも効く。十分に法律を読んで備えることだ。
 さて、第三者の筆者の立場がまずくなった。長寿の田中氏は行くなと言う。強硬手段が田中氏を助ける最大で有効な手段だと信じている筆者は、どうするかの判断に迷った。
 こんな時は、やめるに限るのだ。
 共同歩調をとっていた者の足並みが揃わぬ時は引くに限る。そこで、東北財務局に行くのはやめた。八信の言い分を認めた訳ではない。長寿の田中氏の言い分に従っただけだ。だが、いつでも、この原稿は書くつもりでいた。
 長寿の田中氏の頭を叩いていた手で、撫でただけなのだ。八信の非道な手口がなかった訳でも無くなった訳でもなんでもない。一時、台風が騒ぎ、それが過ぎ去っただけの認識しか八信は持っていないだろう。
 その後の八信の動きを静観していてつくづくそう思う。
 八信と弁護士、長寿の田中氏の間で、借金証文を書き換えた。八信の手口は筆者が予想していた通りだ。そして、八信は長寿の田中氏の競売申請を取り下げた。
 この時も筆者は憤慨した。と、言うのも、取下げにかかる費用を長寿の田中氏に支払わせたのだ。競売を勝手に申請したくせに、取下げに関わる費用を支払えは理不尽だ。こんな馬鹿な話が世の中に通るのかと筆者は慨嘆したが、気のいい長寿の田中氏はそれも呑んだ。
 そして、プレイピア白浜を売却するように、八信の総力を上げて努力するの話は全くの反故になった。
 最近、デーリー東北の『こだま』欄や八戸テレビに、プレイピア白浜には桜の樹が千本だか二千本あり、景観地だとか、野草の宝庫だ、紫陽花の名所だの話が載り、
この地を八戸の名所とすべく、市役所が買い上げて欲しいの話が載ったが、市役所は買わないと 『こだま』欄で明言した。
 だが、この地は貴重な場所だ。と言うのも、プレイピア白浜の地は駅を所有している。八久線が存続すればの話だが。駅のある土地は貴重で、この地を生かす方法はないかと筆者は墓地を造りたいという希望を持つ人にも話をしたが、結局、墓地にするには余りにも勿体ないとなった。
 八久線の利用者が増えないと、鉄道の存続は難しい。八戸には屋内スケート競技場がない。駅を利用し、このような建物が建てば、新幹線から乗り換えて、至極便利な物が出来るのではないだろうか。
 サッカー場や野球場を複合的に持つ場所に、プレイピア白浜の地が利用されれば、八戸市民のみならず近郷近在の人々の役に立つだろう。色々な議論がされ、この地が活用されることを望む。
 さて、それでは、何でこの古い話を今頃になって筆者が蒸し返したか。それは、八信には積年の恨みがある。そして、この事件をうやむやにしようと言う八信の態度に腹が立っているからだ。
 長寿の田中氏は約定どおり支払いを開始し、八信とは良好な関係になってはいる。だが、世の中は不景気で、その約定とおりに行くかどうかは、今後の展開次第だろう。
 五年だか、三年以内にプレイピア白浜を売却することが田中氏に課せられている。だが、この景気では動きがとれないだろう。
 八信が総力を挙げて売却に力を貸すと言いながら、何もせず、田中氏にだけ、それを押しつけている。最近は長寿の田中氏の所にも筆者は顔を出していないので、どうなったのかは全く知らない。
 良好な状態に立ち戻った田中氏は、筆者に八信事件を書かないで欲しいとの要請をした。が、筆者は田中氏にこう言った。
  『八信の理事長が書かないでくれというなら書かない。新幹線が間もなく来る、八戸を一つにまとめ、大きな旗振りが出来るのは、八信の理事長だと信じている。八信が市役所に真先に新幹線用の金を寄付することを期待している。その金が呼び水となり、八戸市民が金を拠出し、駅ビルを建てるのに役立てるのか、それとも、八戸新幹線で三社大祭を見にくるようにとの観光宣伝に使うのかは市役所が決めることだが、その口火を切ることを八信に期待している。そのため筆者も出来ることなら、この事件は書かないですませたい』
 そして、筆者は、その旨を総務部長に伝達した。
  『八戸市民は新幹線が来るのに燃えない。それは商工会議所に指導力が欠如しているからだ。その火付け役になることを八信に期待している。その為には、八信を叩く訳にはいかない。理事長の口から、書かないでくれと言うなら、書かない』と言ったが、総務部長は、その旨は伝達する。
だが、面会は何時になるか判らないと言う。
 筆者は九十日待った。八信は筆者が書かないとたかを括ったのだろう。九十日と言えば、太陽が東から西に九十回昇って沈んだ。九十日経つと人間の体質も変わる程の日数だ。
 筆者は全て九十日を区切りとしている。それで、今回の記事となった訳。
 最近になって知った話だが、八信は筆者が東北財務局に行くと宣言した時に、相当慌てたそうだ。そして、何とか借金証文を再び書かせようと総力を上げたとのことだ。
 あのまま、筆者に走られた時は負けだと痛感していたそうだ。
 筆者の読みの通りだった。
 が、過ぎ去った年月は二度と戻らない。長寿の田中氏の人が良いことが八信には幸いしたのだ。
 だが、根性の悪い筆者が控えていることを八信は忘れたのだろう。あるいは、絶対に筆者は書けないとでも踏んだのだろう。
 大企業病と言う言葉があり、食中毒事件を起こした雪印のように、八信も病んでいる。総務部長が筆者の言葉を理事長に伝えなかったかも知れない。が、そんなことはないだろう。もし、そうだとすれば、今回の記事で叱責は当然のことになる。サラリーマンはそんな危険なことはしない。だとすれば、川勝理事長の判断が狂ったのだ。丁度、雪印の社長のように。
 世の中は人が動かす。何もせずに、百まで生きても、ただ生きただけで、活き活き生きたことにはならない。筆者は畳の上では死ねないと覚悟している。暴力団に口の中にピストルを突っ込まれたこともある。が、死ぬのは一度だと思っているから、少しも恐ろしいとも、長生きしたいとも思わない。
 この記事が掲載されたことで、気のいい長寿の田中氏の不動産が、再び競売になるような事態が発生すれば、『八戸今昔』は廃刊した後でも、三日町の街角で、筆者はビラを撒いてでも市民に知らせる。それが、筆者の信条だ。
 筆者の眼の黒いうちは、理不尽な行為は誰にも許さない。
 筆者は新幹線が来るのに何もしない八戸人に飽き飽きし、八戸を去る覚悟だ。FMラジオは商工会議所にとられ、憤悳やるかたなく、八戸人に新幹線が来ることで観光都市として再出発せよと、警鐘を鳴らすために、この『八戸今昔』を発刊したが、何も出来ずに新幹線が来る。新幹線が来てからでも駅ビルを建ててどこが悪いの声も聞こえてきたが、来る前に建つから意味と意義がある。新幹線が来たからと言って駅ビルに入る業者が直ぐに利益を上げるとは考えにくい。まして、開業してからでは、誰が入るだろうか。
 FMラジオで毎日のように、新幹線が来たらを呼びかけ、市民こぞって金を拠出し、駅ビルを建てようと、構想を立てた。日々の呼びかけが出来るメディアを握るこ
とで、八戸が良くなると信じていた。
 筆者抜きで商工会議所の肝煎で出来たビーエフエムも、同様に市民への呼びかけの好機を逸した。残念なことだ。
 大事なのは先を読む眼だ。これのないのは金のない以上に恐ろしい。
 八戸市民よ、『八戸今昔』の読者よ、筆者もどれだけ元気でいられるか判らぬが、理不尽なことに憤慨した時は筆者を想起せよ、そして、筆者を呼べ。観音経は観世音と我が名を呼べ、そうすれば橋のない所には橋を掛け、路のない所には路を造ると教える。そこまでの力は筆者にはないが、それでも出来る限りの努力はする。直接
の折衝は弁護士がするが、筆者は何もない所から何かを必ず生み出す。誰も気づかないことに必ず気づく。時代は若者の為にある。その導きをするのが白髪頭の老人の仕事だ。筆者はその努力を死ぬまで惜しむ事はない。そして今、手元に集まった情報を分析し理不尽な八信の次なる事件を解明しようとしている。     続く

この文章は二千年の時のもの。八戸市内の本屋に並び、かなりの反響があった。八戸信金は預金者の解約があるかもと備えをしたそうだ。しかし、所詮タウン誌、大した影響もなかった。そこで幹部諸君は安堵したが、それは直ぐに青い顔に変わった。それは大蔵省に「はちのへ今昔」を送ったからだ。
 その結果任期を満了せず川勝理事長は退職となった。異例なことだった。川勝は「はちのへ今昔」に川負けにされた。世の中はこうしたもんだ。勝ったと思いうかうかしていると、こうしたザマに会うもんだ。
 2008年は佐々木泌尿器科の倅が藤川優里市議にちょっかいをかけて、それを「はちのへ今昔」に咎められ、逆上して名誉毀損の告訴、さらに民事で損害賠償を三百万円請求。
 それが気に入らないので「はちのへ今昔」が連日、告発ブタ野郎、佐々木聡を掲載。昔は月刊誌、月に一度しか意見を述べられない。が、時代が変わった。ブログというものが出来、放送局と同じレベルに伸し上がった。動画も音声も可能、そして連日OK。これは文明の進歩だ。
 八年前と少しも根性は変わっていない。死ぬまで理不尽と闘う。闘う白髪の爺、それが「はちのへ今昔」。

2008年12月12日金曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡4

粘着油圧豚の佐々木聡がケチで銭を払わないため、藤川優里市議の政治資金規正法違反、ところがオンブズが降りて、とうとう一人告発となり、なみだ目で並みなダメになり、よわった困った佐々木聡に成り下がった。
 八戸オンブズマンが降りた件をテレビに聞かれると、「それは、わたしが確認したところ、一時期非難が殺到し、かなりめげていたんですけど。それは取りやめになりました」さらに「今週中は取りあえず様子を見ると。ただ、もしオンブズマンさんが撤回すると恥さらしになるわけですよ。彼らのためにもお控えなさった方がいいのではないかなと」付け加えた。
 これが問題の発言。恥と言う字は聡と言う字からハムを取る。恥はもともと佐々木聡の専売特許だ。他人のことを言える立場か。胸に手を当てて、いや、腹に手を当ててよく考えろ。この一連の藤川優里市議叩きの元はすべて佐々木聡にある。
 それもおのれのケチから出た。いいか、こんな話は貴君の父も教えないだろうから「はちのへ今昔」が教える。世の中はすべからく欲が支配する。有名になりたい、金が欲しい、女を抱きたいと色々あり、それを遂げるためにウロウロする。欲望を成就するために努力もし、資格も取る。ところが、親父が岩手県から出て、八戸で県人会を巧く利用し、中里、藤川友信と連携し、老人健康施設「ひばりの里」を合法的非合法で前田勇氏から奪った。この事で聡の父親は右翼から街頭宣伝車で糾弾され、銭を払って勘弁してもらった。その事実は十五年も前で、佐々木聡のチンチンにようやく毛が生えた頃、貴君はその頃八戸に居たのか居ないのかは知らぬが、父親の助平心が幼い貴君の立場を危うくした。
 この点、父親は一言も弁解できない。だから、貴君のような甘い人間、世の中は自分の思い通りになると思い込む人間が誕生した。いいか、世の中は必死の努力で日々の糧を得る過酷な場所、それを親父の引け目を悪く逆手にとり、父親亡きあとは自分が理事長になるからと、助平心に火をつけた。
 まてまて、人の話は最後まで聞くもんだ。辛い言葉の機関銃に曝されるのもおのが不徳というものだ。いいか、貴君が藤川優里市議にこうせまった。この言葉を書かずに済ましてやろうと、貴君が立ち上げた「はちのへ今昔」被害者の会でもメールでやりとりしてます、齟齬をきたしている事実はない? そんな貴君がキツイ言葉、あんなかたに誰がついていくと思いますかになみだ目の並み以上のダメを見せたのは貴君だ。
 いいか、この言葉は録音されているそうだ。藤川優里市議に迫って逃げられた原因の言葉の内容は二つ、一つ目は親父が死んだらボクは理事長です、タイの女房子どもは籍が入っていない、だからボクは独身です、結婚しましょう。第二はあなたを有名に出来るのはボクです、あなたのテレビ出演、DVD作成などの交渉権をボクに任せてください。
 これは伝聞だから、間違いがあるやも知れぬ。が、次の文言は録音されたテープから聞いた。八戸オンブズマンの山日がタイに居る佐々木聡との会話だ。
「藤川優里市議の一口千円の寄付金の証拠はあります、218件、入金に対して私が礼状のメールを送りましたから」「それでは証拠になりにくいんじゃないの」「うーん、青森銀行の八戸市役所支店の口座に入金されているんですけどね」「その銀行口座の入金状態が分からないの」「うーん、それはひばりの里の女性Aさんが管理しているんですよ」「その人から聞けないの」「うーん、あの人も伊保内の同郷ですからね……」
 藤川優里市議と佐々木聡がうまくいかない原因はここにこそある。彼女らは岩手県九戸郡伊保内(いぼない)、ところが佐々木聡にはイボが顔面にくっついてる。
 さて、どうして、入金状態も確認せず、今回の告発に踏み込んだのか、それは昨日も記したが佐々木聡のケチに原因がある。金を散じて愉快痛快に暮らすと人は寄るもんだ。ところが出すのは舌でも嫌、下のほうなら喜んで出すじゃ馬鹿にされる。
 オンブズマンの事務所経費は大した額じゃないから出しますといいながら出さない。父親に山日の製作した衝立を売却するも、半分を着服、ここが重要な今回のゴタ、八戸オンブズマンが告発から降りた元。 明日で完結(つづく)

八戸信用金庫事件 続2

この一連の長寿温泉の事件を十分に睨んだ上で、どうにもならなくなった事態を解決するために、又も東北財務局に足を運ぶことを決意した。資料は直接本人から聴取していただくようにし、状況をまとめ、前号に掲載した記事を作成し、昨年の五月末に東北財務局に持ち込む手筈だった。
 筆者はいきなり、東北財務局には行かない。それは余りにも非道だからだ。前回、東北財務局に行った時は、事件の当事者であったから、当然、この件に関しては東北財務局に行くゾと宣言した。
 その事件とはって聞くの? それは、金銭消費貸借託に違約金の利子が記載されておらず、空欄を一方的に八信が書き人れたことによる。金銭消費貸信託は複写にして双方が持つのが普通だが、借主の欄は空白で、八信が後からそれを書き入れた。こんなのは八信に言わせると当然だそうだ。それで怒った訳だ。
 今件も、記事を書いて、それを八信の営業推進部長の高橋氏に持ち込んだ。こんな話があり、筆者はこの件を東北財務局に直訴し、八信の非道なやりかたを調査して貰うと宣言。
 当然、八信は慌てた。もう去年のことで大分忘却の彼方になったので、詳しい日付は忘れたが、金曜日に行ったので、当然、次の日は土曜で休みだ。それを撤回して役員会議が開かれた。そして、何とか筆者の足を止めようと決定し、日曜日に長寿の田中社長のもとに勝田太三郎常務理事と河原木支店長が飛び込んできた。
 そして、何とか月曜日に筆者が東北財務局に行くのをとめて欲しいと、土下座をせんぱかりに頼み込んだ。これも手口なのだ。
 警察の刑事が被疑者を脅す係と宥める係がいるように、弾圧、懐柔をこのんでとるのが金融屋の常套手段。後で判明したことだが、佐藤部長も八信の手引き書通りに、ことを運んだだけで、気の毒な存在だったのだ。
 企業は誰しも、その存続を守らなければならない。そのため、色々な駆け引きをするのは理解できる。だが、余り、走り過ぎると咎めが出る。その咎めが出そうな雰囲気になる時は、新任の部長が現場の指揮をとる時、新任の社長が新しい体制を確立するため、子飼いの部下を前面に立ててラッパを吹くと、相場は決まっている。今回はそのどれに当たったかは、読者諸兄の判断に委ねる。
 八信に東北財務局に洗いざらいブチあけて、八信のやりかたを是正してもらうと言っただけで、長寿を助けてやって欲しいなどとは一切言わない。そんなことは筆者に関係のないことなのだ。気の毒な借主がいて、それを非道なやり口でやりこめる態度が間違っていると言っている。
 職業上知りえた秘密を守らない。借りた金は返すという言葉を受け取らない。返済計画書を作文だと見ようともしないやり口が汚いと言っているのだ。
 長寿の社長が道わないと、何度も足を運び、ともかく筆者に、月曜日には東北財務局に行かないように伝えてくれと長寿の田中社長に懇願したのだ。
 そんなことは筆者に言えばいいのだが、筆者は当然、行く行かないは私が決めることで、あなたが決めることではありませんと言うだけだ。
 そのため、長寿の田中社長に泣きついたのだ。
 なんとか、意にそうようにしますから、東北財務局には行かないでくれと、土下座をせんばかりに頼みこまれ、長寿の田中社長は根負けし、ピアドウのイトーヨーカドーで八戸テレビの芸能番組「八戸の芸達者さんいらっしゃい」の収録で企画・司会をしている筆者に、勝田常務もここまで言っているので行かないで欲しいと相談があった。この番組は人気番組で出演者が続出。
 筆者は八信の手口を知っているので、そんな話には乗るナと突き放した。八信は裁判にかければ時効になった四億四千万円は取れると言っているが、それは八信の言い分で、財務局がどう判断するかは判らない。
 つまり、長寿の借金がどの分類になっているのか、完全にコゲついた分類に人っているのか、それとも、何とかなるとの分類にあるのか、それは、監督官庁を動かさないと判明しない。それに借主の言い分を少しも聞かない八信のやりくちを直訴し、同様に八信に苛められている多くの人々を救済するべきで、長寿だけの問題ではないと筆者が説得するが、長寿の田中さんの意に添うようにするので、行かないようにしてくれの言葉が頭にこびりついている田中氏は何とか頼むの一点張。
 ここが、難しい所だ。勝田常務話が信用できるのか、常務たる者が今までの経緯を知らない筈はない。本部から派遣されている佐藤部長は八信を代表して来ている。
その人間との交渉が決裂している状況を役員が知らない訳はない。
 ここで、長寿の田中氏が強硬な態度をとれば、次の策として、専務理事が出て来る。それでも通らない時はいよいよ理事長の出馬だ。ケンカの時は相手の大将との直談判が大事。
 常務理事や、専務理事の出馬の段階で矛を治めるならケンカなんぞしない方がいい。だが、長寿の田中氏は尻に火が付いている。つまり、競売をかけられてしまっているので、王手を宣言されているのだ。
 ここが,筆者の立場と大きく異なる。
 筆者の場合は八信からも青銀からも一銭の金も借りていない。だから冷静に物事が見える。筆者は青銀や八信に金は貸していても、借りはない。
 銀行に金を貸していると言うと、吹き出す人もいるだろうが、金融屋は預金とか積み金とかの言葉を使うが、それは、取りも直さず金を貸していることなのだ。金を貸して下さいと言いにくいので、定期預金にとか、満期がきたらなどとの耳障りのいい言葉を使うが、返済期限がきたのでお返しさせて頂きますと言うのが正しい。
 立場を変えてみると見えないものが見えてくるようになる。
 長寿の田中氏に勝田常務理事は文書で書いたのではない。あくまで口約束なのだ。具体的にどうするの言葉もなく、タダひたすらに東北財務局に行かないで欲しい、行かないように伝えて下さいと繰り返すだけだ。
 これは時間を稼いで、長寿の田中氏の返済の意思がある内に証書を書き直そうとの魂胆が見え見えなのだ。
 金融屋に恥じとか、外聞なんて単語はない。自分が助かるためなら何でもする。丁度、借金地獄に陥った者が助かりたくて、親でも子でも売るようなものだ。
 何故、そんなことを筆者が公言するかと言うと、分積み両建てという言葉がある。これは定期預金を押さえて、満期が来てもそれを貸金の担保として支払わないことを言う。これを大蔵省は厳重にダメだと宣言。そして、それを指導もする。
 これを筆者がやられた。東京に在住していた頃で、借金で首が廻らなかった時だ。銀行の支店長に、それは違法じゃありませんかと問うと、違法でも何でもいいから支払わないという。大蔵省に行きますヨと言うと、どうぞだ。
 そこで、当時の大蔵大臣の秘書をしていた大学の先輩に面会を要求すると、銀行局へ廻された。かくかくしかしかと言うと、○○銀行ですネ、了解しましたので、お帰りになって下さい。お帰りになった頃には解決しますと、課長は自信たっぷり。
 狐につままれたような気で、自分の会社に戻った所、当の支店長が満期の預金と利息を持って待っていた。
  『私どもの心得違いで、今、頭取が大蔵省に呼ばれてお吐りを受けております』
 これほど左様に世の中の仕組みはしっかりしている。
 役人に業者は頭が上がらない訳だ。
 下は交通違反のもみ消しから、上は許認可の事業まで、全ては役人が牛耳っている。だから、筆者が最後の最後はお代官様、将軍様への直訴があると言うのだ。
 筆者は男を五十六年やってきた。間もなく五十七になるが、その間一度も女になったことがない。当たり前だと笑うだろうが、男を下げたことがないのだ。
 自分に非があれば、これは謝る以外に方法はない。だが、頭を下げたことは数える程しかない。八信には恨みこそあれ、借りは一銭もない。
 筆者は強硬だ。そして、長寿の田中氏も東北財務局に行く以外に方法はないと信じたのだが、ここが借り手と第三者との違う点だ。
 今まで漓もひっかけないような態度の者たちが、手のひらを返したように低姿勢になったのを、気の毒だと思ったのだろう。そして、その言葉にすがり、何とか事態を丸く治めようとしたのだろう。
 筆者は、田中氏に言った。
  『行かないのも一つの方法ですが、時効の件はなくなりますヨ、つまり、借金は棒引きにならなくなります。次に八信が出て来るのは、美味しいことを言って、貴方に期待を持たせ、借金証文を書き直させます。そうなると、新規の借金となり、四億四千万円は支払う義務が発生します。それでもいいんですか、東北財務局の判断を待ってからでも遅くありませんか』
 気のいい長寿の田中氏は、
  『勝田常務もああ言っているし、行かないでいただけませんか』
  『彼らは助かりたい為に、貴方に嘘までついてでも、私の足を止めるだけなんですよ、彼らの判断と東北財務局の判断は違う筈だ。役人は役人の倫理観があり、八信に非があれば指導監督する責任があるのです。その判断をして貰ったらどうでしょう』       {
  『いや、勝田常務も河原木支店長も、プレイピア白浜の売却に八信の全力を傾けて努力するとも言うので、あの物件が処分できれば、我々は風呂屋だけで十分に経営の立て直しが出来る。だから何とかなりませんか、東北財務局に行くのを止めて欲しい』
 ここが難しい判断になる。
 八信が言うのは助かりたいための便法で、嘘に決まっているのだが、地獄を見て来た人間に突然現れた地蔵様のように、思えたのだろう。ケンカの仕方を知らない人は、往々にして、この懐柔策にだまされてしまうものだ。 続

2008年12月11日木曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡3

アアだのコウだのつべこべぬかす佐々木聡は、理屈と口紅は後からつけるを実践中。テレビに煽動され、あることないこと喋りまくる。脳内に浮かんだ言葉を出さないと、まるで便秘症がなんとか腹の中の一物を搾り出さんと、もがくが如くに、ないことないこと喋る喋る。
 まるで零細企業の建設屋、いくら掘ってもシャベルじゃ間にあわない。小さくとも油圧シャベルじゃなきゃダメ。もっとも佐々木聡は油豚と呼称される程、間もなく油圧化するかも、ということは油圧豚か?
 さて、自分の物は舌でも出すのが嫌な油圧豚が考えたのは父親の財布。八戸オンブズマンの代表の山日は芸術家、木工を得手とする。その作品は立てれば衝立、横にすればテーブル。これを父親に売ったのか佐々木泌尿器科に買わせたのかは分からぬが、三百万を値切って百六十万で買わせた。
 原価を割った値段で芸術家は不満、インターネットで販売すればもっと高値がついたと愚痴、しかし、それでもいいかと腹をくくった。ところがここに落とし穴。
 売ってきたのは佐々木聡、金を芸術家の所に運んだのが半分の八十万。あとの半分はどうしたの? 「はちのへ今昔」の民事訴訟に金がかかって、アアだのコウだのとまるで競輪の逃げ。
 気のイイか悪いかは知らないが、芸術家も怒った。この男が怒るとまるで鬼、面相は変わる形相は変貌。それでも、もう少し待つかと気持ちをなだめた。
世の中、仲間割れの原因は金。まして分け前の分配ではかならずゴタる。それが八戸オンブズマンに降りかかっただけ。佐々木聡はヘノゴノ言いながらタイに移動。
こうなると不平と不満の八戸オンブズマンの事務所で代表は面白くない思いをつのらせた。ところが、今回の藤川優里市議と佐々木聡のゴタを今一度思い返してみると、当選議員は政治資金管理報告書の提出義務があることを思い出した。山日は落選でその必要はない、しかし、当選した奴には義務があるぞ。そこで、八戸オンブズマンの名前で青森県選挙管理委員会に藤川優里市議の報告書の開示請求を出した。
開示請求を出したら直ぐ返事が来る訳ではない。しばらく待ったら返事がきた。そこでタイの佐々木聡に電話をした。「もしもし、佐々木聡さん、藤川優里市議の政治資金管理報告書が手に入ったよ」
この続きはまた明日のココロだ。

八戸信用金庫事件 続1

2000年9月号
話題沸騰! 驚愕の八戸信用事件は本当のことかと電話殺到
「はちのへ今昔」は嘘は書かない。見聞したことだけを書くだけ
 前号は大反響。こんなことがあったのか、ハラハラ、ドキドキして読んだ、これが真実なら八信との取引をやめるなどの声も頂いた。八戸信金もだが、大体において金貸しは紳士面はしているが、本質的には町金融と等しい。今回の事件も、営業の平社員が散々に悪態をついたそうだ。
 しかしながら、金を借りている方は弱いので、何も言えない。それを知っててやるのだから根性が悪い。その男の名も知っているが、ここでは伏せる。
 アア、自分のことを言われているナと反省しろ。さもないと、次号に、その名を記すぞ。たかが集金人のくせに、ソファーに寝そべる、自分の裁量で競売申請が出来るなど、脅し以外の何物でもない。
 理事長がそれだもの、下の者は皆、推して知るべしだ。
 さて、この事件だが、弁護士は八戸信金の横暴な態度に群易し、どうにもならないと匙を投げた。こうなると、弱者救済の信念に燃える筆者は俄然張り切った。弱い者が最後に頼るのは監督官庁への直訴以外にない。これは江戸の昔から続く、お代宮様にお願い、あるいは将軍様への直訴で、これをすると、した者の命はないが、ある程度の効果は期待できる。現今は水戸黄門がいないので、この印籠が眼に入らぬかは、テレビの世界の絵空事だが、窮鼠猫を噛むのたとえで、真剣になれば必ず道が開けるように世の中は出来ている。
生きている間を真剣に生きずに、後で、ああすれば、こうしたらとレバとタラを言っても何の役にも立ちません。
 生きている間は苦しいことばかりで、死んだら楽になる。何にも考える必要がないからだ。その苦しさを身一杯に受けて、そこから一歩も退かずに、難敵にぶち当たって行くのが人間だけに許された根性なのだ。全て苦しむのは地球上にいる生物で人間だけ。ここが面白くて、何やら哀しい。金で苦しんでいる時は、この広い地球上で、こんな悩みに浮身をやつせるのは有難いと思うべきなのだが、実際に借金地獄に陥ると、自分の周囲の空気が稀薄になって来るのを感ずる。つまり、金魚鉢の中の金魚が、酸素不足で水面に口を出してパクパクしているような気になる。この辺りは、経験者じゃないと判らない、実に、えぐい世界の話だ。こうなると親も無ければ子も無いという、実に非情な心持ちになり、一時間でも長く助かりたいと、我が身のことばかり考える。
 人間だけにある金の世界で、非情になるは金のせいだ。金がこの世になければ、どれ程心安らかだろうかとも思うが、金を賭けずに競輪、競馬、パチンコ、マージャンをやっても楽しい筈もない。学問・確立の研究のために賭け事をするなら、それはそれで、金を賭けずにやるのも楽しいかも知れぬが、おおよそ凡人はそれでは満足できない。
 だが、子供の頃は、賭け事などしなくても、毎日が楽しかった。大人になると金の世界で呻吟する。これも妙だ。鐘に怨みは数々ござるの安珍・清姫じゃないが、誰でも金には怨みがあるが、こんな言葉もあるので苦しくなった時に、思い出すとどんなに辛くても、思わず笑えるゾ。
 それは、『世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り合いたい』というので、実に妙で上手い。一般市民は金が足りなくなると銀行に走るが、相手も、もともと自分の金じゃないのを貸す訳で、相当に審査も必要となるが、自分の眼が利かずに貸金がコゲつく。こうなると、他人の金を集めて貸している責任上、これは必死になって回収に走る。これは図式上そうなるのだが、大体は担保を取っているので、これを競売して決済する。
 これが問題と怨みが生ずる原因となる。担保と言うのは普通は自分の居住する家・屋敷を抵当に入れるから、競売による居住権の侵害で、いきなりホームレスになるので銀行に対するつらみは大きい。
 これも、自分の座っている座布団を質に入れるのと等しく、大方予想がつくものだが、誰でも自分だけは大丈夫だと、相当な面の皮を持った奴が多く、平気の平三で担保に入れるので、そのツケが廻ってくる。自分にとっては命から三番目に大事な家も、金融屋に言わせれば、ボロ屋でどうしようもないとなる。これも、その通りの話でしかない。住めば都だが、住まない人間にとっては、冷静な判断でしかないのだ。
 さて、弁護士もお手上げになった案件は、監督官庁に泣きつくのが物事の解決の糸口だ。それには、言葉だけでなく、十分の資料を作成し、それを持参し、相手の非を言わなければならない。大体、役人にとってはやりたくもない仕事なのだ。直訴などされない信用金庫の運営が当たり前で、事件だの事故が発生すれば、面倒な仕事が増えるだけだ。
 そんな役人根性の持主を説得し、重い腰を上げてもらうには十分な資料が必要となる。ケンカの仕方という本が三一書房から発行されたことがある。ケンカなんぞしないにこしたことはないが、いざとなれば、勝つ以外に方法はない。負けて元々なんぞの根性でケンカをしかければ、ロクな結果にはならない。八戸の酒蔵でそんなことをしかけた人もいたが、芳しくない結果しか待っていない。
 直訴する際に必要なものは、貸金の存在を示す資料、その返済がどうなっているかの証拠の外、暴言を吐いた証拠の録音テープなども重要だ。筆者は二十年も前だが、八戸信金の件で青森市にある東北財務局に行ったことがある。つまり、八戸信金としては、筆者は目の上のタンコブの存在。

2008年12月10日水曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡2

昨日、八戸オンブズマンが藤川優里市議の告発から手を引くと宣言。これで佐々木聡が一人告発となった。たった一人ぼっちで頑張れるのか? ケンカになった。仲間と共に斬りあいの場に刀を片手に出た。ところが後ろを見ると誰もいない。佐々木聡、大丈夫か? 日ごろ金をチョイチョイとくれていれば、兄貴、兄貴と取り巻きがおだてる。ところが、それは平和な時だ。いざ鎌倉となれば、兄貴、お先にどうぞ、あっしも後から行きますからと、深作 欣二、「仁義無き戦い」の田中邦衛扮するチンピラのようなもの。この佐々木聡は意外に肝っ玉が小さい。その証拠がある。しかし、今は示さない。刑事告訴に関係があるから。次第にこの男の心の揺れが明確になる。
 さて、この男と八戸オンブズマンのつながりを記す。オンブズマンを立ち上げたのが山日誠一、山田に一本足らない。藤川優里市議が当選した選挙の四年前にビリで落選。つまり、政治家になろうとして努力していた。顔の広い(面積も)男で方々に顔を出す。
 そこで藤川友信(藤川優里市議の実父)とも交流あり。この男の言うには、藤川友信との間で県議選で押すので市議選では協力するとの話し合いがあったそうだ。しかし、藤川友信は六千票も取れるので、本気で山日を押せばビリということもなかったと思うが、ともかく山日はビリ。
 つまり、藤川友信と面識があり、その関連で佐々木聡の父親(佐々木泌尿器科院長・ひばりの里理事長)とも知り合い。佐々木聡が藤川優里市議との関係がうまくなくなり、山日がオンブズマン立ち上げに参加させろと言ったのか、参加したいと言ったかは分からぬが、副代表となった。
 オンブズマンも資金源が欲しく佐々木聡の参加を歓迎したのだろうが、ここで誤算。佐々木聡はタダのものには乗るが、銭を出すことを知らないのか、出し惜しみをしたのか、ここでも関係がギクシャクしだした。
 大体、仲間になるのは簡単、タダで飲み食いできればすぐ仲間、飲ませぬ食わせぬなら即座に解消。簡単に仲間になったのが六月頭、三ヶ月もすると秋風で、佐々木聡がオンブズマンの事務所経費の負担をしない。当初は藤川優里市議となんとか関係修復を図ろうと、オンブズマンに入りこんだのだろうが、オンブズマンは藤川優里市議のおっかけではない。工業高校の生徒が自殺、女生徒が自損行為をしたなどと、色々と活躍。それに加えて佐々木聡は毎月タイ人の女房子どもに会いにいかなければならない、東京で一人暮らしはしなければならないと、八戸に居る時間が少ない。
 と、言うことは事務所経費を払う必要もない、何故なら自分が事務所に居る時間が少ないというのが言い分なのか、ともかく、当初の言葉と違う行動。これに当然不満を持つのがオンブズマン。少々温度差が生じた。
 このことを佐々木聡に申し入れると、アアだのコウだのと言を左右にする。それでも当初の約束を迫ると佐々木聡がこんな案を提供したそうだ。それは父親の佐々木泌尿器科から金を出させる方法。
 さて、その方法は明日のお楽しみだ。つづく

2008年12月9日火曜日

藤川優里市議のよわった困った佐々木聡1

昨日(8日)藤川市議の議会演説がテレビに流れ、つれてタイから帰国した佐々木聡がテレビに出演。藤川優里市議のあることないことを散々にブログに書き散らし、淫靡なDVDを作ったと酷評し回った佐々木聡が、テレビ局にこの映像を見せられ落涙。
 「だれがあんなかたについていくと思いますか」テレビ局が議会に向かう藤川優里市議を捕まえて佐々木聡への感想を聞いたときの言葉だ。この文言を聞いてテレビカメラの前で落涙したのが当人佐々木聡。よほど口惜しかったに違いない。
 この男、佐々木聡と、八戸オンブズマンが連名で藤川優里市議を公職選挙法違反で告発、ところが藤川優里の里を理科の理と書き間違えて、スゴスゴと引き下がり翌日再提出、ところが罪名が違うと今度は弁護士に書いてもらい提出。
 この件が知れると、インターネット愛好者が書き込む掲示板2チャンネルというのに、藤川優里市議擁護のスレ(スレッドフロート型掲示板と呼ぶ略称のようだ)が9本立った。一本は千の書き込みから成るので9千の物言いがあった。同様に「告発豚野郎」藤川ゆり議員を告発した、ハレンチ極まりない「元後援会長の佐々木聡(38)」の胡散臭い噂が4本立ち4000の物言いが上がった。
 どうだ、これで佐々木聡も一躍有名人。それなのに、藤川優里市議の一言で落涙じゃ、ふられた男の泣きべそと同じで、ざまあみやがれ。男を急速冷凍マッ逆さまで鵯越の逆落とし。平家一門が義経にやられたようなもの。不様、不様。
 この文句なら誰にもつける糞野郎、豚野郎、油豚、イボ豚と散々に2チャンネルで書かれた書かれた、中にも笑ったのが聡という字は恥に似ているというもの。確かに言われるとその通りだ。上のハムを取れば恥になる。頭のいい人がいるもんだ。
 そのハムじゃない聡、佐々木聡が「はちのへ今昔」を民事の損害賠償、名誉毀損で300万円支払えと、八戸裁判所に訴えを出した。警察には告訴状、これにも八戸オンブズマンも同様に告訴状を出したそうだ。それは藤川優里市議を襲撃したことがない。だから名誉毀損だと。それはそれで良かろう。そんなノミが食ったような話が名誉毀損なら、日刊ゲンダイは告訴を毎日受けなければならなかろう。
 痛烈な比喩、喩えが人々の耳目を寄せる。有名人佐々木聡は刑事告訴だけで不足と民事も討ってきた。300万の銭が必要になってきたのだ。
 佐々木聡は肝心なことを忘れている。攻めるのは絶えず自分の側だけだと思いこんでいるが、法律は諸刃の剣で自分も斬られるのを忘れているのだ。
 藤川優里市議のよわった困った後援会でも記したが、警察に相談に行った人物もあるが、今度は「はちのへ今昔」が相手に立つ。佐々木聡を刑事告訴する。今まではエヘラエヘラと愛嬌がある小僧だと黙認したが、民事告訴をされれば受けて立つ。裁判所からの呼び出しは12月15日、延々と民事は続くが、刑事告訴で証拠が揃えば一気に形勢は逆転。
 それが怖くてタイに逃亡するな。今年は出さぬが来年早々には告訴状を出す。楽しみに待て。

八戸市役所、遵法精神欠如2

316台の情報システム課が契約し、そのリース上がりのパソコンも探しに探してようやくあったそうだ。これは12月定例会で寺地市議が質問するはずだったが、途中で話が変わった。さらに昨日(8日)の再質問で小林市長は選挙違反だと妄語(もうご・うそをつくこと)、ろくに調べもせずアッチとコッチを繋いで妄想をたくましくして喋る。これは寺地市議の得意技。職員の手当てを言い出して立ち往生、自分が調べた数字が分からなくなり、その資料を机の下からゴソゴソと引き出し、ああ、これでいいのかとは何たるブザマ。これが民主の幹事長、民主には田名部和義市議がいる。この人の喋りは当を得るが、寺地さん、もう少し勉強しないと次に喋った一年生議員の藤川優里氏に劣る。この娘の写真を撮りたくて、普段はロクに記者席を埋めない記者諸君がワンサカ。
 また、藤川優里市議もいい喋りをする。堂々としている。タレントは他人の作った台詞を喋るが、議場の面白味は台本は自分が作る。ひな壇は舞台。若い者は何処までも伸びる可能性を見せるが、爺の出番は終わりだな。寺地さん、もう少ししっかりしなよ。
さて、リース期限の切れた物、この中から可動するパソコンを教育委員会に渡し、各学校に供与せよ。各学校には20台しかない。潤沢にパソコンを持ち、子等に操作のし過ぎで壊れるほど使ってもらいたい。
 越後長岡藩に小林虎三郎がいた。佐久間象山の神田お玉が池の象山書院に吉田松陰と共に学ぶ。松蔭は寅次郎、小林は虎三郎で二虎と呼ばれた。幕末、北越戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡に支藩の三根山藩(新潟県西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いとして米百俵が贈られた。長岡藩大参事の小林虎三郎はこの米を「分けろ」と詰め寄る藩士らに、長岡藩の気風「常在戦場」の書幅を背にして、小林虎三郎が食えばなくなる。その時腹がいくらかくちくなるだけ、しかし、この米を金に代え、子弟への教育に注げば必ず国を支える人材が出ると、藩士らに分配せず、国漢学校設立資金に充てた。これを山本有三が「米百俵」に著した。
 小泉元首相がこの「米百俵」の話を好んでした。これこそ為政者の心しなければならないことなのだ。今はどれほど苦しくとも、まだ見ぬ子等のためなら耐えられる、この根源的な問題こそ、生きる力を沸きたてることができる。
 これが八戸市役所にはない。勿論、県にも国にもだ。今の首相は目先しか見ることができない。情けない首相だ。怪我をカイガと読んだそうだ。脳をケガしてないのか。
 さて、この飛行機を飛ばしての契約を見てみよう。この飛行機の契約名称は「八戸市固定資産評価支援システム業務委託契約書」で三年間で総額一億三千万円となっている。相手先は東京の航空測量会支社パスコ。ここは中里市長時代から随意契約となり独占。ここにこそ問題あり。
 目的 固定資産税(土地)の適正課税を期すために行う。第12条に八戸市がパスコに貸す資料は①土地課税マスター、②家屋課税マスター、③固定資産電算入力マニュアルなど。
 ここまで入力して気付いた。これら資料は使用後返却するとある。本当に返されたのかと昨日(8日)に確認に出た。資産税課で①の土地課税マスターに付いて聞いた。これはどんな物なのかと。すると、それは「これです」と出されたものはMO(電子記録媒体)。「これはパソコンで見れるのか」「見れない、資産税課のパソコンでは読み取れない」「するとこれは誰が記録したのか」「情報システム課だ」「情報システム課が正確に入力したかどうかも確認せずにパスコに送付したのか」「……」
 これは特殊な言語で書かれているそうで、大型コンピューターでしか読めないそうだ。これが土地分、すると家屋分はどうしたのかと訊くと、ゴニョゴニョと意味不明。
 「パスコに送付した、戻ったの送付簿はないのか」「……」。
 29万件も入った個人情報がいいかげんな状態で送付され、戻ったの記録もない。しまいに度かに迷うぞ。そのとき黙って隠すのか、それともテレビカメラの前で頭を下げるのか。

2008年12月8日月曜日

昭和30年八戸で活躍した人々2

○八戸八幡町郵便局 八幡町 電858 局長田村彦太郎 局員対馬慶 萱守光枝 永沢正
八戸常泉下郵便局 古常泉下 電852 局長石岡佐蔵 主任大畑丑蔵 局員小笠原マサ 鎌田啓子 
○八戸小中野郵便局 新丁 電851 局長音喜多競 主事昆清次郎 局員音喜多チエ 音喜多彩栄 月館道子 蕨松雄
○八戸鮫郵便局 鮫二子石 電852 局長竹ケ原善左エ門 主事佐々木健次郎 主任高橋梧郎 局員竹ケ原和夫 高橋ます 沼館ふみ子 大村益博 
○八戸三日町郵便局 三日町26 電855 局長広沢朝平 主事柴田武一 局員滝沢昭夫 谷口登 小森良子 近藤黎 
○八戸湊郵便局 久保 電856 局長橋本忠吉 主任長谷川喜助 局員関川サワ 荒谷京子 藤原清志
○八戸吹上郵便局 類家縄手下 電860 局長扇谷隆男 局員小松銀次郎 佐々木アサ
○八戸荒町郵便局 荒町 電857 局長船越宣雄 局員長谷川静子 大村益夫 泉山三郎
○八戸白銀郵便局 白銀三島 電857 局長近藤貞子 局員石鉢なつ 木村秀子
○八戸種差郵便局 鮫棚久保 電種差60 局長田中寿三 局員田中綱吉 田中栄治 金田玲子 金沢みよ
○是川郵便局 是川細越河原 電861 局長横地果珊 局員吉川幸子
○尻内郵便局 尻内平中後 電尻内51 局長赤沢勝敏 主事清川常作 三浦幸次郎 小泉成松 主任堀子春松 高坂清治 大関富次 大島平五郎 小泉万蔵 局員中村省三 下澤節三 清川竹冶 清川冶男 福岡文司 田端慎衛 澤田郁朗 東海林順子 工藤てつ子 沢村みつ 引木市太郎 河目万太 小笠原勲 沢村豊蔵 松橋辰太郎 小泉清次郎 馬渡吉巳 田中岩吉 上野良一 
○水目沢郵便局 市川桔梗野上 電862 局長大島芳崎熈 局員横山金太郎 菅亮級 久保岩吉 
市川郵便局 市川 電百石51 局長木村達雄 局員木村たか 
○館郵便局 八幡五日町 電館60 局長山田源徳 主任長倉清 局員柳町陽子 伊藤重雄 三浦京子 栄田長一  
○八戸市役所市長岩岡徳兵衛 助役八木橋新太郎 収入役松本京吉 総務部長田村金次郎 庶務課長林弥一郎 課長補佐兼人事係長兼秘書係長平賀鉄丸 文書係長岩沢与五作 財産係長川畑徳三郎 課員奥寺勇次郎 明地孝吉 関口康与 西舘トシ 上村斎助 接待久 小屋敷好美 岩藤正女 岩間操 松橋広 田端喜八郎 類家チエ 佐々木重三郎 松橋英夫 荒井憲治 松尾資郎 下沢佐登美 田代義人 三上一郎 南館敏男 川口慶三 三浦孝一 山田正一 紫波ヨシ 三沢テル 佐々木スミ 藤原せつ 若松武男 釜石幸 二階堂澄子 鴨沢敦子 木村岩太郎 伊藤正雄 橘さだ 上野カホル
● 財政課 財政課課長大久保一良 課長補佐兼庶務係長中村与四郎 資産税係長加福武蔵 市民税係長名久井要一 予算係長小泉清吉 課員杉本勝美 石橋忠 村田昭二郎 田端善実 秋山孫孝 泉谷典男 高橋昭子 佐藤元治 津村孝一 岡田一男 田野岡武 大岡四郎 沼館蔵助 橋本建三 坂下公明 寺下節子 山下芳雄 木村正逸 夏堀一雄 鹿島進 関川真美 大島勇一郎 北川明 荒谷勇一 福井政美 阿部和子 小田チエ 田中増穂 川村英憲 川村隆美 城前由太郎 藤本繁秋 須藤哲男 平野信二郎 長牛利夫 宮崎雅夫 三浦忠一 三浦良春 赤坂行雄 駒場賢一
● 産業課 課長林俊夫 課長補佐兼商工係長中居幸介 農林統計係長和田義久 農林係長吉田孝吉 課員久慈徳三郎 田名部昭三 根元良夫 出町秀子 八木勇 田名部悌次 泉山健太郎 上野万蔵 関川弥之助 寺沢申松 武藤金治 阿部三千枝 佐々木清 西村嘉 蒔田健 木村源六 金子シズ 田村実 伊藤幸秀 堀川善雄 北川ヒデ 下村勇三 大橋玲子 
● 水産課 課長大山市太郎 課長補佐兼魚市場係長須藤正彦 水産係長五戸留次郎 課員坂本清 後藤俊春 藤川圭三 大久保賢一 小笠原忠雄 広田利男 高谷重郎 田村淑子 畑中寅蔵 鳥谷清蔵 種市武雄 清水清一 田名部松之助 
● 土木港湾課 課長大平功 課長補佐兼監理係長西舘忠夫 課長補佐佐藤彦四郎 建築係長成田松博 土木係長南部興次 港湾係長岡崎安志 職員松橋清次郎 宮川貫一 営田新三郎 坂本五郎 岡本光晴 田村みほ 田村光郎 大入元松 丸山清三郎 芝正之 浜中保三 今野定幸 豊島登 三浦毅 金谷清治 田向正志 福島一郎 遠藤久美子 田村吉雄 杉本増見 山田義三郎 田名部富次郎 
● 厚生課 課長清水丑松 課長補佐兼保険係長小瀬川秀太郎 清掃係長北川善助 厚生係長月館進 課員小山忠 二階堂時治 田中源太郎 金田チエ 福島通好 服部信正 石垣光雄 室岡一 橋本妙子 小野昭市 苫米地ミツ 栗谷川満 尾崎和子 村本静 松倉清六 矢野勝 丹野与吉 田名部倉造 鈴木賢二
● 市民課 課長佐々木正雄 住民登録係長坂本啓司 戸籍係長吉田惣右衛門 市民相談係長大沢久二 課員菅原信雄 菅原光広 苫米地三郎 大西兼蔵 関川茂 野里祐一 田村恭子 小林陽子 澁屋コト 大貝鎮子 藤原福治 西山金一 西舘トミ 下郡正夫 岩岡ツヤ 矢作光 村田ノリ 外山カヨ 村上須美 大久保君子 福田八重 高橋みちゑ 大橋アサ 鎌田康子 石橋保子
出納課 課長角岩雄 課長補佐兼徴収係長斎藤文太郎 経理係長正部家直美 用度係長川守田弥蔵 課員中村八朗 神代忠治 中居栄作 滝沢三郎 上野博央 近藤宝蔵 小野男次 島守正明 須藤兼太郎 山田栄一郎 津村保太郎 小林紀久雄 金浜吉蔵 晴山麻男 鳥潟勉 久保喜一 白石隆吉 高間館マツ 遠瀬チヨ 工藤ツマ 工藤有厚 小笠原つや 小沢田喜二 角タケ(つづく)

八戸市役所、遵法精神欠如1


八戸市は不要な飛行機を飛ばし、空中から写真を撮り固定資産税を集める。ところが、これが何の役にも立たない。
 知人が家を取り壊した。取り壊してもまだ税金がきた。それを気付かず二年払い続けた。その家の航空写真は撮られていた。当然家が壊され更地の写真も同様に撮影された。ところが課税された。
 この航空写真をもって地方税法408条の一年に一度家を調べろを代行すると断じたのが中村市長。そして落選。小林市長に替わったが、この市長を担ぐ職員の頭が変わらないから同様な間違いを犯した。
 つまり市役所を動かしているのは職員で市長は飾りでしかない。職員がでかした失敗を隠そうとするのが幹部職員。これらがなんとか逃げようと必死に画策。
 横っ腹に穴があいた状態なのを絆創膏で止める。それでも漏れると更に大きな絆創膏を貼る。この段階で文句、不平不満を叫ぶ人間を黙らせにかかる。いわく元上司や仕事関係、先輩後輩、幇間(たいこ・幇は助けると間でしらけた座をとりつくろうで殊更大きな声で励ますことからタイコ)、末社(まっしゃ・大神(大尽)をとりまく意) 遊里で客のとりもちをする人)でああだのこうだのと機先を制する策動。ところが「はちのへ今昔」はそれがいない。だから気に入らないことは書かれる。
 そして中村市長は滑り落ちた。
 小林市長になっても同じだ。市長は替わっても資産税課の職員が替わった訳ではない。一年に一度、家屋調査を職員、或いは臨時職員つまりアルバイトを使役して、実地調査をすればいい。三年に一度不必要な一億三千万円をムダに使うことをやめろ。
 この金をアルバイトに支払い、市民に還元するべき。ほぼ毎年選挙があり、ここでもアルバイトを雇用、これに市役所職員を使役し、源泉徴収をしなかったことを「はちのへ今昔」の指摘され、追徴金まで支払うハメに落ち込んだのをモウ忘れている。「はちのへ今昔」の指摘は鋭く、誰も真似ができない。この選挙のアルバイトも全てを市民にさせるべき。ここまで景気が後退したなか、細かい銭でも市民に返す努力が必要。平成十九年度は総額で一億三千六百万円に上った。
 これを市民に還元すれば最低でもそれだけの経済効果はある。それが呑んだり食ったりとなれば、飲食街はその分の売り上げがある。人件費として出る、仕入れ材料として金が廻るのだ。
 それをケチ(吝嗇・りんしょく・もの惜しみする)の塊の市役所職員に支払うから貯蓄に廻る。江戸っ子は宵越しの銭は持たないで、その日のうちに皆使う。貧乏人は貧乏になるように出来ている。が、貧乏人は金を廻すことを知っている。ケチの塊の市役所職員は人のいない廊下で労働金庫の通帳をソット開いてニヤニヤソワソワ。これが八戸のケチな職員。
 市役所職員は定年になっても一人三十万円の年金を受け取る、教員も同様、大体教員は職場結婚が多いから二人で毎月六十万も手にする。定年後、町をにこやかに歩くのが元官吏(俗にモトカン)、険悪な顔つきで歩くのが農民と元商工業者の自営者。
 息するのがやっと、水も呑めない状態だ。こんなことになったのも、彼等の生き残る状態を見過ごしたことによるが、これは忘れなければ別の項目で開示してみる。
 さて、830億円が毎年減ることなく入り、それを使わなければ来年は来なくなると、ケチの塊が張り切るのが税金だ。八戸の税収は830億円ある。これは一般会計だけ。そのほかにも特別会計ってのがあり、さらに22の別ポケットがある。ここに金を隠している。それが基金。
 これらを自由に駆使できる能力のある八戸市役所職員ならいいが、もともとケチ吝嗇の塊、金の使い方を知らない。金に管理されているようなもの。こんな人間に830億円預けてもロクな使い方を知らない。だから自分たちの手当てを適当な名をつけて消費。それが特殊手当てだ。
 他の課に比べて困難な仕事をしているからと、収納課は毎月不愉快手当てだ。これが奏功しているかと言えば、慣例化しているだけで意味が無い。やってもやらなくても同じ手当てならしないで貰う方がいい。大体において役人はこんなもんだ。彼等を手足の如く使う市長はそれなりの根性が必要。だが、この小林市長も本気か疑問。これについては彼の使用する公用車の項目で述べる。
 はてさて、こんな中で資産税に課税されるわけだ。この資産税は市税の七割を占める大事なもの。それがかくもいい加減な状態。
 自身で働くを放棄し飛行機で事足りるとする姿勢、これを新任の市長は何が何だか分からずに職員の言うままに認証。すると小林市長も中村氏と同様、地方税法を無視するのか。
 当時。「はちのへ今昔」は具体例を持たなかった。ところが今回は違う。明確に八戸市は建ってもいない家に二年間税金を支払わせた。そして、それを「はちのへ今昔」に指摘されるまで知らなかった。これは市役所は当事者としての能力の欠如でしかない。
 自身が地方税法を正しく執行せず、飛行機での空中撮影で事たりると断言した以上、こうした不祥事が起きるはずがない。ところが、現実にこうしたことはあった。それは「はちのへ今昔」が指摘した事柄だけではない。同様な不明朗な処理を隠していたに間違いは無い。
 と、言うのも八戸市幹部職員は事を明らかにしないように動くからだ。明確な問いに対してははぐらかすのが西副市長、聞いたことを聞かなかったことにする奈良岡副市長、詰められると前向きに対処すると言って後ろ向きになる部長。こんな者の集団が八戸市役所なのだ。
 所詮、今が乗り切れれば良しの表明でしかない。今は確かに過去から繋がる今だ。しかし、これは未来に、将来に繋がる今でもある。今を乗り切れればいいを、将来未来を見据えた今と解釈するべきで、今の困難は未来の楽、まだ見ぬ子らのために、今の人々が耐え忍び未来、将来への礎石となる覚悟が八戸市役所職員に欠如している。
 OA機器借り上げ料3億8千万円にしろ、各課が適当な契約をして、富士通のホストコンピューターを導入したのを根拠に、知識の不足する八戸市職員をダマシ適当な契約を交わし多額な金員を受け取った。これは八戸市職員の側に問題意識が欠如し、黒船に乗ってきたペリーと不平等条約を結んだに等しい。
 やっとそれに気付いたのが平成18年、情報システム課が各課のコンピューターに関わる契約内容の検討に介入するも、権限が付与されていないためザル。
 ここに権限を付与し目付け役とせよと、前記したが、西副市長のように「はちのへ今昔」をガス抜きしようとする奴ばらばかり。時間と手間をかけて調べた行為も、フムフムで聞き流す奴とは言葉を交わせない。
 幸いなことに工藤リーダーが八戸市役所にはおり、この大映の田宮二郎の周りに出没する悪役の面相に似た、一度見たら忘れられない風貌の男に良い仕事を期待したい。この男のコンピューターの知識は秀逸。
 316台の情報システム課が契約し、そのリース上がりのパソコンもようやくあったそうだ。これは12月定例会で寺地市議が質問する。この中から可動するパソコンを教育委員会に渡し、各学校に供与せよ。各学校には20台しかない。潤沢にパソコンを持ち、子等に操作のし過ぎで壊れるほど使ってもらいたい。

2008年12月7日日曜日

昭和30年八戸で活躍した人々1

○八戸人権擁護委員協議会 常泉下 電1449 会長杉森秀雄 委員大井二郎 田口豊州 森三郎 馬場継峯 根市米蔵 築田直竜 黒田政之進 長岡文英 三浦茂八 小阪ひで 斎藤利吉 柳沢熊次郎 岩織文弥 佐々木武冶 前川原末冶 中野渡喜代美
○三八城病院 山伏小路 電2201 院長泉山幸吉 副院長今井允 藤林鉄二 内科医長代理工藤次郎 医師長谷川正夫 中里道彦 小児科医長田中典和 外科医長斎藤清 松原宏 丹野愛一 耳鼻科医長佐藤邦夫 眼科医長高橋晴夫 歯科医長松川正元 薬剤長南山秀夫 薬剤師佐々木尚子 福井則子 歯科技工士田崎正男 レントゲン技師竹村久毅 木村久雄 助手大野節子 新田洋子 試験室技術士杉木久勝 助手畑中愛子 栄養士阿部レツ 内科助手浜松恭子 石田知 外科助手近藤久子 耳鼻科助手石田アサ 歯科助手北村泰子 調剤助手西久保ちよ 漆沢ひで 木村幸子 沼館とし子 清野玲子 石岡俊子 看護婦長赤坂チエ 副婦長田面きわ 婦人科主任看護婦中西トシ 耳鼻科同柳沢サダ 内科同小笠原ヌイ 外科同鎌田妙子 眼科同板橋のぶ 小児科同花田チヨ 歯科同佐藤京子 三病棟同中野ハナ 二同金沢ハツエ 一同岩館幾子 看護婦鹿内せつ 藤田光子 熊沢喜佐子 大橋敬子 安宅明子 柏崎スエ 角ミツ 米田和 畠山とみ 西野和子 宮本すみ子 勝田静子 熊野カツ子 平野ツヤ 下村栄子 菅原ヒサ 八重沢ウメ 栗本かよ 田中ハル 長根ヒサ 八代昌子 三浦国 近藤恭子 橋本アイ 吉田キクヨ 准看護婦槍沢礼子 滝田陽子 小林ミエ 田村知子 澤田百合子 竹原妙子 類家昭子 川妻幸子 原トミ 奥寺ツタ 大沢キナ 宮サイ 沼館静子 大沢イサ子 川畑和子 福士洋子 青山愛子 葛西マサ 青柳良子 南テイ 准看護学院教務主任大久保せい 教務係笹野八重子 事務長天摩信夫 経理課長佐藤正道 庶務課長元木松五郎 医務課長天摩春次郎 主事補高島邦子 職員中居ふさ 稲城こと 夏坂良助 角田充 関野うめ 谷山弘子 鴨沢みつ 田名部円之丞 片峰幸夫 工藤純史 高橋洋子 黒澤りつ 田村栄子 田端みや 上野広子 晴山武次郎 佐々木京子 中村福太郎 木戸口仁太郎 工藤良太郎 中山金之助 田村省三 田村繁雄 大久保常松 川寺田リヨ 佐藤トメ 見附サヨ 中田なか 庭田ヨシ 佐々木ハナ 三沢フジエ 田村とみ 林崎ちえ 吉田とし 吉田あい 長谷川シヅエ 山本清美 大津ウメ 島守トキ 加藤勝雄 佐藤さな 川守田雄蔵 中山正雄
○白銀農業協同組合 白銀州賀端 電849 組合長佐々木孫蔵 福田番澄 中村忠 荒川兼松 佐藤庄三 
○上長苗代農業協同組合 尻内鴨ケ池 電48 組合長大島勝利 理事小笠原惣二郎 大島仁兵衛 加藤留吉 大島道衛 田端幸次郎 松本要右エ門 監事上村徳三郎 田端隆信 三浦松蔵 小笠原清一 職員大島喜一郎 三浦正一 上村満 西塚コト
○上長農業協同組合 尻内三条目 電2938 組合長山内亮 専務松倉彦一 理事小笠原嘉 大島勇五郎 清川一喜 上野竹三郎 加藤二三 馬渡惣次郎 上野彦六 大関伊太郎 中道孫蔵 上村岩一郎 山本勘之丞 松倉芳郎 小笠原金幸 小田佐佐衛門 馬渡繁蔵 職員青田甚四郎 小笠原正基 馬渡一 上野キエ 高村ハル 明地美奈 上野兼冶 吉田竜三 大島源吉 上野松太郎
○是川農業協同組合 是川細越河原 電2938 組合長上野孫三郎 理事阿部正吉 中山兼吉 下館仁八 西田中孫三郎 細越由三 北城清吉 田端政吉 番沢叶右エ門 山下金蔵 監事是川美佐男 上野長松 田端金蔵 参事水野清三 職員阿部長二 山下栄吉 差波イサ 山下政男
○館農業協同組合 櫛引一日市 電館7 組合長館前長吉 理事矢崎勇治 杉本房吉 三浦佐吉 柳町長次郎 佐々木孫市 佐藤金太郎 若松喜太郎 田中嘉吉 山田要之助 山道菊松 監事三浦幸之助 寺沢要次郎 出町福松 職員石井二三 柳町嘉幸 松村保見 百目木洋子
○八戸郵便局 塩町 電870 局長長谷川文之助 庶務課長鈴木松尾 会計課長木村正路 郵便課長三上幸章 貯金課長三善長俊 保険課長城前福太郎 主事鬼柳武彦 野沢宗芳 木村正義 名久井秀夫 武部円次郎 宮原五郎 大橋一冶 横堀弘 澤山敏夫 宮本金太郎 佐藤太郎 中居松助 赤坂市松 都谷森茂 主任工藤由松 塚原茂 松浦芳造 松原一 堀子三太郎 前田末太郎 宮野百太郎 前田亀太郎 松川末松 田名部康友 泉山幸次郎 藤田勝蔵 久保繁蔵 工藤敏夫 近藤常太郎 奥瀬源吉 大入信三郎 熊野光夫 松浦克俊 竹井重男 前田岩太郎 軽米要吉 高橋正吉 紫波浪雄 高田小三郎 石手洗忠二 杉沢由蔵 中村宏二 佐々木幸一郎 局員鳥屋部芳蔵 田村岩太郎 下田又次郎 島守武 御村与五郎 金子操 中村初太郎 伊東博史 松山佐 大塚石蔵 久慈静江 町沢三之丞 松橋米吉 石田仙之丞 佐々木重三 中村たつ 澤藤長吉 松橋又蔵 澤田正名 高橋善吉 類家要一郎 中島和子 音喜多糸子 吉田善助 星野一雄 橋本治助 松田充 及川信一 東野節子 松ケ崎由松 山田直吉 岩館保盛 渡部直樹 清水頭恒次楼 家口石蔵 山谷藤吉 吉田タマ 慶長忠利 竹沢弘 宮川恒雄 官代次男 新井田清一 官代幸雄 古川善光 大山昇 上野雄輔 島守勝次郎 坂口新太郎 名久井喜一 佐々木庄之助 泉山慶太郎 月館権蔵 神山栄 曽根秀雄 石橋一男 下村金次郎 奥寺慎蔵 下村徳三郎 久保広志 川野正和 大塚勝和 斗賀圭助 中村光一 田端幸民 田名部定雄 大田省三 中村秀男 後村七男 天摩信哉 川村徹司 祐川栄佐美 田畑房雄 奥寺孝三 大橋吉雄 奥瀬定次郎 赤坂左耕 後村佐香栄 金田一富八郎 山田ハナ子 松ケ崎金作 城前芳美 大久保吉郎 類家正一 千葉栄二 源波昭三 小笠原達雄 千葉次男 小向てるゑ 藤島和夫 皆瀬成夫 大久保俊男 新井田さだ 金田一晃助 西金次郎 小林喜三郎 福尾今朝義 昆貞衛 中居林竹一郎 松橋惣次郎 古内文治郎 類家喜太郎 赤坂貞一 三浦栄一 明内孝一 松田恒夫 田中一義 阿部清 吉田和生 岩淵茂夫

2008年12月6日土曜日

八戸市が倒産した昭和三十一年 2




各課の予算案要求額が八億四四○○万円のぼう大な金額にのぼったため一ヶ月にわたって査定を行うなど苦心惨憺といった状態にあったが最終的には二○○○万円を削減した均衡予算にした。この内容をみると歳入の主なものは合併四ヵ村(上長苗代・館・豊崎・市川)の増加と市税の自然増八三七○万円及び固定資産再評価による税の一割増である。ただし各種の増税は盛られていない。歳出では民生安定と教育に重点をおき、前年度比では教育費三六○○万円、社会労働施設費二二○○万円の各増。さらに農漁振興のため産業経済費二六○○万円の増となっているが、主な理由は合併町村経費の増で、相対的にみると財産収入は極力少なくみつもり手堅い財源とし、消費的経費を節約したあとがみられていたが、予算執行後早くも一月目には各種補助金、負担金の打ち切りを言明、大幅な変更をよぎなくさせる予算となった。財政再建が最大の目標の同市では仕方ない措置である。三○年四月選挙で変革した市議会は、岩岡市長に対して野党の立場をとっていた堀野虎五郎氏(民主クラブ)が議長、広田真澄氏(民主クラブ)が副議長に当選、与党側が野党連合に完敗して以来保守系中立の民主クラブ並に北斗クラブへ支配力が移り岩岡市政は著しく難航する状態となった。市会議員改選前の「数の横暴」に対する反発がこうした形で現れたとみるむきもある。市議会の分野を見ると与党の交正会には後村、島浦、佐々木(孫)、林崎、久保、今井、苫米地、柾谷、石橋、秋山、大久保、吉田の一二議員政和会には田名部、京谷、橋本、上村の四議員、合計一六議席に対し野党は民主クラブ鈴木(七)、広田、坂本、林(健)、堀野、鈴木(義)、長谷川、小笠原の八議員、北斗会佐々木(隆)、高橋、大橋、河村、柳原、中村、泉山七議員、新政会大島、佐々木(正)、澤田、南山四議員、共産林(徳)の合計二○議席となっており、野党連合の場合は僅か二議席が与党に勝っている。
 このような市議会分野のため重要議案審議に際しては野党側にあって「是々非々」を標榜している北斗会をはじめ純野党の新政会などはスタンドプレーが目立ち各派交渉にいつも二、三時間の時間を空費しているようであった。
 特に甚だしかったのは地財再建法適用をめぐる臨時市議会で市当局が二時間あると資料の提出が可能であるというのに、「議会の面子」から十日間も引き延ばしたことがあった。その間正副議長をとっている民主クラブは市議会開会ごとに岩岡市長と意見の調整をはかり与野党の対決を極力避けているので今のところ民主クラブは与党色が強く岩岡市政は、民主クラブの協調で難局を切り抜けている。岩岡市政がまっさきに自民党に入党したのもこのためである。従って今後の市議会は大荒れに荒れることはあるまいと見ているが、再建計画のワクの中でどのように市政をもっていくかは民主クラブに負うところ絶大である。長根リンクで一月二一日全国高校スケート大会を開催、ついで一月二七日から三日間賑やかに開かれた第十一回国体スケート競技会で始まった今年はいろいろな意味で多彩な一年であった。消防機構改革に続き四月一日には厚生、市民、土木港湾、財政、出納、庶務、産業水産八課を統廃合して財政、税務、出納、庶務、厚生、市民、土木港湾、商工水産、水産事務所の八課一事務所に改め人事異動を実施した。また田村総務部長の第二助役昇格を津島知事の反対でこれを撤回したのは市長の信念のなさを暴露していた。直接市政に影響はないが、五月一八日米軍高館基地が全面返還され、その跡に自衛隊が駐屯して基地の町「水目沢」の構想もガラリ一変したことは特筆すべきことである。三○年十二月一日に是川村を併合したのにはじまり四月一日に市川、上長苗代、館の三村を併合しさらに豊崎村を編入して人口十三万千四百七十名から一躍十四万五千六百三十一名に増大した。豊崎村の編入問題は、五戸町に合併をのぞむ豊間内部落と八戸編入を主張する七崎部落など真っ向から対立し一年余に渡って紛争を続けたが、多くの問題を残したまま三十年十月二十日八戸市編入が実現し収まった。また編入新地域の北高岩地区(旧館村)が八戸市から分かれて福地村に合併するため運動を行ったが実現せずくすぶっている。水産都市形態から農村を加えて工業都市の三つの重大要素を含む産業機構にふくれあがった同市は、さらに砂鉄を原料とする工業を振興させるために中央工場の誘致運動を行っていたが、これが効を奏し、旧馬淵川対岸の三角地帯二十万坪に東北電力の火力発電所と日曹鉱業の二大工場を建設する運びとなり、敷地譲渡の手続きも進み五月二十四日会社側、同市、県の三者が譲渡の調印を行った。
 東北電力の火力発電所は五万坪の敷地に工費百一億円の巨費を投じて、出力七・五万キロの発電機二基を建設し十五万キロの電力を生産する。機械は再熱型汽機、水素冷却装置など新型のもので、熱効率は今までの二十%程度から三十六%を確保できるもの。工事は七月着工し工事中所要労務者十万人で三十三年に完成する予定。最終計画は七・五万キロ発電機四基計三十万キロの火力発電所にする。これにより各種産業は飛躍的に振興するものと期待が寄せられている。砂鉄工業は既設の日本高周波工業、東北砂鉄、盛岡電化、旭電化、中外鉱業の各工場では三十年度の鉄景気好転で工場設備を拡充する一方、日曹製鋼では三角地帯十万坪に砂鉄精錬工場を新設することになった。施設は解放ゼ式電気炉三基、鋳鋼機一基、焼結機一基を建設し銑鉄二・八万トンを生産するが第二次計画として密閉ゼ式電気炉一基と解放ゼ式チタンスラッグ用電気炉二基を作って最終生産量銑鉄五万四千五百トン、チタンスラッグ金属用二千五百トン、チタン白二千トン、副生粗鉄五千六百トンを年間生産しようとする。
 また市民生活の文化水準を向上させるため岩岡市長が公約していた八戸ガス会社は資本金五千万円で組織することになり、六月から八戸商工会議所に設立事務所を設置して六月十五日新大橋付近の敷地で起工式をあげた。今年度中には旧八戸地区及び小中野地区千戸に家庭用ガスを供給し三十二年度には湊地区及び本枝管を利用して千戸計二千戸に供給するものであり、熊谷義雄発起人らが中心となって株を募集八月十日に会社を設立することになった。
 建設省馬淵川改修工事竣工式は六月二日関係者三百人が集まって開かれた。馬淵川改修は昭和十二年着工総工費十三億四千百十三万円を投じ海岸から三キロの人口河川をつくり河口をつけかえる難工事を完了した。この結果八戸及び三戸郡下各町村の水田二千町歩が水害から救われたほか、例年浸水にみまわれた市の工業地帯は東北有数の工業地帯に変貌し、この受益を金額に見積もると農作物だけで十七億円にのぼるものと見られている。付帯工事の新大橋架橋工事は二十九年工事費一億百八十万円で延長三百米、幅九米、橋脚十二連のゲルバー式の近代的な橋を三月に完成、市内八太郎部落民は経済的に莫大な利益となった。また八戸―高館を直結する大橋は馬淵川堤防完成で橋の高さが堤防より低くなったので工費四千五百万円で三米のカサあげ工事を行い四月に完成。馬淵川改修工事事務所の計画治水工事の大半を終了したので、十九年にわたった治水工事の輝かしいページを閉じ、事務所を岩手県二戸郡福岡町にある建設省南部国道事務所へと移した。
 三○年の市議会で与野党攻防の焦点となった市長公約の学生寮建設は、川崎市小杉陣屋一丁目に敷地四百四十五坪を買収、財団法人育英会を組織し、敷地をこれに寄付し文部省認可も見通しがついたので総坪数三一八坪鉄筋コンクリート三階建てにし七十人収容する計画である。建設費二二二七万円のうち国庫補助金二一○万円公庫借入金九四○万円のほか一○七七万円は自己資金となるため建設期成会が主体となって自己資金分を寄付で募集することになり運動を開始。
これが昭和三十一年の八戸の出来事。このほかにも事件、事故、いろいろとあるが、余り煩雑になるので省略しているが、読者のなかで、私が載っている、あるいは、これを調べてくれなどがあれば、電話45・3344、FAX45・1600まで連絡されたい。今月号の中村市長法律違反など、自分の眼で見て足で確かめる。筆者も年金暮らし、誰に遠慮も配慮もいらない。こんな気の毒な話があるなど、筆者の行動を促すような話を待つ。それも、現場百回で、確かめて記す。
 泣き寝入りしなければならないこと、長いものには巻かれろに反発する人だけ連絡乞う。

2008年12月5日金曜日

八戸市が倒産した昭和三十一年 1




八戸市が倒産した昭和三十一年 1
三橋美智也の惚れて、惚れて、惚れていながら行くおれに、旅をせかせるベルの音、つらいホームに来は来たが未練心につまづいて、落す涙の哀愁列車の文句がラジオから流れて「哀愁列車」の大ヒットをみた年。
一月十五日大坂の美空ひばりショーで、押しかけた観客が将棋倒し。死傷者十名。
四月十九日グレース・ケリーがモナコ国王と結婚。
五月九日日本登山隊ヒマラヤのマナスルに初登頂。
売春防止法成立。太陽の季節映画化。
大宅壮一「一億総白痴化」とTV番組批判。
十月二十八日大阪通天閣再建。
昭和三十年代は歌謡曲全盛、大津美子が「ここに幸あり」を当てる。結婚式などで盛んに歌われた。
嵐もふけば 雨もふる
女の道よ なぜ険し
君を頼りに 私は生きる
ここに幸あり 青い空
この大津は愛知県豊橋出身、小学校三年生で心臓に穴が開く病気。歌を歌うと健康にいいと歌を始めた。昭和二十八年、「上海帰りのリル」「お富さん」の作曲者渡久地政信の門下生になる。高校一年生の大津は、土曜日の授業が終わると上京、日曜日にレッスンを受け昭和三十年、十七才で歌手デビューし東京アンナで紅白出場。「ここに幸あり」作詞 高橋掬太郎 作曲 飯田三郎。人生経験のない大津は躊躇。作詞の高橋は「いままで(上八戸高校春の甲子園準決勝進出・八戸駅街頭)
の日本の女性はとても耐えてきた、これからは幸せになって欲しい。そんな願いを込めて作った、君の若さをぶっつけ大空に向かって歌ってくれ」との言葉でレコーディング。そして大ヒット。ところが何があるか分からないのが人生。昭和五十五年クモ膜下出血。「大津さん、早く元気になって素敵な歌を聴かせて下さい」との励ましの言葉で回復。
 人間うんと褒められるのは照れくさいが少々褒められるとその気になるもの。この大津をみていてもそれがわかる。気合で病気が治るとも言い切れないが、病は気からの言葉もある。人間一度は死ぬが、あせってあの世に行くことはない。元気で毎日、美味いもの食った奴が勝ちだ。
 三橋は連続してヒット。
りんご村から
おぼえているかい 故郷の村を
便りも途絶えて 幾年過ぎた
都へ積みだす 真っ赤なりんご
見るたび辛いよ
おいらのな おいらの胸が
前回、三橋の項で書いた筆者の文に少々思い違いあったので訂正。北海道の江差追分名人の三浦為七郎が伯父、母サツも地元の民謡歌手、5歳で初舞台。9歳で全道民謡コンクールで江差追分で大人を抑え優勝。神童としてリーガルレコードで吹き込み。鎌田連道から三味線を習い、白川軍八郎に師事。(上八戸高校甲子園準決勝進出帰郷)
戦後、歌手を目指し上京、エノケンやロッパへ弟子入りを試みるも門前払い。やむなく知人宅に身を寄せ、綱島の風呂屋でボイラーマンをしながら民謡の弟子を取り生計を立てる。 その弟子がNHKのど自慢で優勝、レコード吹込みで伴奏するが、指導のため一節歌うとディレクターの耳に留まりスカウトされ歌手の道が開ける。
エノケンもロッパも大損したもんだ。この三橋も六十五歳で死んだ。人間六十を越したら、毎日が儲けものだ。
永遠の青年と呼ばれた鶴田浩二も「好きだった」を歌う。
好きだった 好きだった 
嘘じゃなっかった 好きだった
こんな一言 あの時に
言えばよかった
胸にすがって 泣きじゃくる
肩のふるえを ぬくもりを
忘れれられずに いるのなら
鶴田浩二から、こんな言葉をかけられたら気絶する女もでたろうに。鶴田の略歴をしらべてみる。
大正十三年東京都大田区生まれ、実の父から認知されず私生児、母が再婚し小野姓を名乗る。父の仕事で大阪に移住。十四歳で高田浩吉劇団入団。十五歳で「会津の娘達」で白虎隊の役、撮影中に肺炎にかかり入院。退院後大阪此花商業に入学。十九歳関西大商科に入学、昭和十九年海軍飛行科予備生徒として横須賀海兵団入団、二十歳横須賀海軍航空隊少尉で敗戦。浜松で食料品店経営の父母のもとに復員。浜松で高田浩吉と再会し、再び劇団員となり大学卒業し、結核のため薬を飲むが副作用で左耳が難聴。このため左手を左耳にあてながら歌う独特なポーズ。二十五歳で「フランチェスカの鐘」で初主演。二十七歳平凡人気俳優一番。二十八歳興行権をめぐり暴力団に脅され大阪で怪我。三十一歳野球で東京代表として国体出場。三十三歳から不調、三十九歳の任侠映画まで鳴かず飛ばず。四十七歳『傷だらけの人生』出演、同主題歌が日本レコード大賞。六十歳NHK人間模様「シャツの店」に出演。慶応病院で肺の不調発見。入退院を繰り返し六十二歳肺ガンで死去。いい男だったねぇ。

愛ちゃんはお嫁にで鈴木三重子がキンキン声を張り上げた。
さようなら さようなら
今日かぎり 愛ちゃんは太郎の嫁になる
おいらの心を知りながら
でしゃばりおよねに手を引かれ
愛ちゃんは太郎の嫁になる
と、大した曲でもなかったがヒット。
曽根史郎が若いお巡りさん
もしもし ベンチでささやくお二人さん
早くお帰り夜が更ける
野暮な説教するんじゃないが
ここらは近頃物騒だ
話の続きは明日にしたら
そろそろ広場の灯も消える
小さな親切大きなお世話だ。
コロンビア・ローズはどうせひろった恋だもの、拾ったものは交番に届けろ。
島倉千代子は東京の人よさようなら、この歌は変な歌で、
海は夕焼け 港は小焼け
涙まじりの汽笛が響く
アンコ椿は恋の花
風も吹かぬに 泣いて散る
東京の人よ さようなら
こういうんだが、大島アンコも東京都に属してる。それなのに東京都の人が東京の人よサヨウナラか?
青木光一「早く帰ってコ」、山田真二「哀愁の街に霧が降る」三十二年は石原裕次郎が登場。
さて、八戸市内は、東奥年鑑から。
赤字財政で市政全般に行き詰まりをきたした岩岡市政は財政再建を軸に一八○度の転換をよぎなくされるなど波乱の多い三一年度となった。五月七日の臨時市議会で地方財政再建促進特別措置法適用申請を議決しついで自治庁が同月十日に八戸市を再建自治団体に指定、ここに本県では同法適用第一号となり、自治行政における政府干渉を甘受する体制となった。法適用の経緯をあげると岩岡市長はじめ八木橋助役、石橋収入役、田村総務部長ら市理事者は財政の赤字一億四千万円を穴埋めするため毎月の資金繰りに苦慮し三○年夏、すでに財政再建の方法を検討していたが、結局地方財政再建促進特別措置も止むを得ぬという結論に達していた。しかし政府融資の赤字一億余円はひも付き融資であり、政府の自治干渉も相当厳しいものであることが予想されるので岩岡市長は、発展途上の市政推進を阻害されはしないかと心配。
 一方市民の指弾を受けないだろうかという二つの理由で早急に態度を表明することが出来なかったようである。このため再建適用打ち出しの時期と市民を納得させる宣伝方法、つまり市の財政実態をいかにして市民各層に知って貰えるかが当面の問題になっていたが、一応時期は三月予算市議会以後と決め臨時市議会を四月二七日に召集したのもこうした思惑にあったようである。
 破綻寸前の苦しい財政運営を背景としながら岩岡市長は市政振興五ヵ年計画を立案して少しでも公約を実現しようと努力したが、遂に骨抜きの五ヵ年計画となり、さらに棚上げの状態となっている。財政再建計画策定は指定日(五月一○日)現在で七ヵ年解消を目標にした計画を財政課が中心となってまとめ、六月中に自治庁の計画審査を終え七月に市議会の議決を経て再建実施の第一歩を踏み出す。財政再建計画の基本方針は、赤字再建債一億円、この利子三四七一万円、合計一億七六七一万円を七ヵ年に償還する。財源としては、
① 人件費節約六五○○万円
定年制実施で五十人が退職すると一ヵ年に一五○○万円、六ヵ年で九千万円になる。このうち退職金二五○○万円を差し引いた額六五○○万円。
② 一億円に対する政府の利子補給一○○○万円
③ 特別会計への繰り出し金抑制で六三○○万円
水道、公益質屋への繰り出し金は三三年度で一応切れる。
④ 政府の公共事業補助の引き上げで節約できる額一四○○万円
⑤ 利子節約三二○○万円などとなっているが、六月現在で地方公務員法改正案が国会で継続審議となったため勧奨退職に切り替えて計画を作成したものである。三一年度当初予算は均衡予算を編成し地財再建法適用後は運営面で軌道に乗せる方針を基に作成されたものである。二九年度当初予算五億一二○○万円に比べれば一億一二○○万円ハネ上がった六億二四一○万円を三月二十四日の市議会で可決した。