2008年12月5日金曜日

八戸市が倒産した昭和三十一年 1




八戸市が倒産した昭和三十一年 1
三橋美智也の惚れて、惚れて、惚れていながら行くおれに、旅をせかせるベルの音、つらいホームに来は来たが未練心につまづいて、落す涙の哀愁列車の文句がラジオから流れて「哀愁列車」の大ヒットをみた年。
一月十五日大坂の美空ひばりショーで、押しかけた観客が将棋倒し。死傷者十名。
四月十九日グレース・ケリーがモナコ国王と結婚。
五月九日日本登山隊ヒマラヤのマナスルに初登頂。
売春防止法成立。太陽の季節映画化。
大宅壮一「一億総白痴化」とTV番組批判。
十月二十八日大阪通天閣再建。
昭和三十年代は歌謡曲全盛、大津美子が「ここに幸あり」を当てる。結婚式などで盛んに歌われた。
嵐もふけば 雨もふる
女の道よ なぜ険し
君を頼りに 私は生きる
ここに幸あり 青い空
この大津は愛知県豊橋出身、小学校三年生で心臓に穴が開く病気。歌を歌うと健康にいいと歌を始めた。昭和二十八年、「上海帰りのリル」「お富さん」の作曲者渡久地政信の門下生になる。高校一年生の大津は、土曜日の授業が終わると上京、日曜日にレッスンを受け昭和三十年、十七才で歌手デビューし東京アンナで紅白出場。「ここに幸あり」作詞 高橋掬太郎 作曲 飯田三郎。人生経験のない大津は躊躇。作詞の高橋は「いままで(上八戸高校春の甲子園準決勝進出・八戸駅街頭)
の日本の女性はとても耐えてきた、これからは幸せになって欲しい。そんな願いを込めて作った、君の若さをぶっつけ大空に向かって歌ってくれ」との言葉でレコーディング。そして大ヒット。ところが何があるか分からないのが人生。昭和五十五年クモ膜下出血。「大津さん、早く元気になって素敵な歌を聴かせて下さい」との励ましの言葉で回復。
 人間うんと褒められるのは照れくさいが少々褒められるとその気になるもの。この大津をみていてもそれがわかる。気合で病気が治るとも言い切れないが、病は気からの言葉もある。人間一度は死ぬが、あせってあの世に行くことはない。元気で毎日、美味いもの食った奴が勝ちだ。
 三橋は連続してヒット。
りんご村から
おぼえているかい 故郷の村を
便りも途絶えて 幾年過ぎた
都へ積みだす 真っ赤なりんご
見るたび辛いよ
おいらのな おいらの胸が
前回、三橋の項で書いた筆者の文に少々思い違いあったので訂正。北海道の江差追分名人の三浦為七郎が伯父、母サツも地元の民謡歌手、5歳で初舞台。9歳で全道民謡コンクールで江差追分で大人を抑え優勝。神童としてリーガルレコードで吹き込み。鎌田連道から三味線を習い、白川軍八郎に師事。(上八戸高校甲子園準決勝進出帰郷)
戦後、歌手を目指し上京、エノケンやロッパへ弟子入りを試みるも門前払い。やむなく知人宅に身を寄せ、綱島の風呂屋でボイラーマンをしながら民謡の弟子を取り生計を立てる。 その弟子がNHKのど自慢で優勝、レコード吹込みで伴奏するが、指導のため一節歌うとディレクターの耳に留まりスカウトされ歌手の道が開ける。
エノケンもロッパも大損したもんだ。この三橋も六十五歳で死んだ。人間六十を越したら、毎日が儲けものだ。
永遠の青年と呼ばれた鶴田浩二も「好きだった」を歌う。
好きだった 好きだった 
嘘じゃなっかった 好きだった
こんな一言 あの時に
言えばよかった
胸にすがって 泣きじゃくる
肩のふるえを ぬくもりを
忘れれられずに いるのなら
鶴田浩二から、こんな言葉をかけられたら気絶する女もでたろうに。鶴田の略歴をしらべてみる。
大正十三年東京都大田区生まれ、実の父から認知されず私生児、母が再婚し小野姓を名乗る。父の仕事で大阪に移住。十四歳で高田浩吉劇団入団。十五歳で「会津の娘達」で白虎隊の役、撮影中に肺炎にかかり入院。退院後大阪此花商業に入学。十九歳関西大商科に入学、昭和十九年海軍飛行科予備生徒として横須賀海兵団入団、二十歳横須賀海軍航空隊少尉で敗戦。浜松で食料品店経営の父母のもとに復員。浜松で高田浩吉と再会し、再び劇団員となり大学卒業し、結核のため薬を飲むが副作用で左耳が難聴。このため左手を左耳にあてながら歌う独特なポーズ。二十五歳で「フランチェスカの鐘」で初主演。二十七歳平凡人気俳優一番。二十八歳興行権をめぐり暴力団に脅され大阪で怪我。三十一歳野球で東京代表として国体出場。三十三歳から不調、三十九歳の任侠映画まで鳴かず飛ばず。四十七歳『傷だらけの人生』出演、同主題歌が日本レコード大賞。六十歳NHK人間模様「シャツの店」に出演。慶応病院で肺の不調発見。入退院を繰り返し六十二歳肺ガンで死去。いい男だったねぇ。

愛ちゃんはお嫁にで鈴木三重子がキンキン声を張り上げた。
さようなら さようなら
今日かぎり 愛ちゃんは太郎の嫁になる
おいらの心を知りながら
でしゃばりおよねに手を引かれ
愛ちゃんは太郎の嫁になる
と、大した曲でもなかったがヒット。
曽根史郎が若いお巡りさん
もしもし ベンチでささやくお二人さん
早くお帰り夜が更ける
野暮な説教するんじゃないが
ここらは近頃物騒だ
話の続きは明日にしたら
そろそろ広場の灯も消える
小さな親切大きなお世話だ。
コロンビア・ローズはどうせひろった恋だもの、拾ったものは交番に届けろ。
島倉千代子は東京の人よさようなら、この歌は変な歌で、
海は夕焼け 港は小焼け
涙まじりの汽笛が響く
アンコ椿は恋の花
風も吹かぬに 泣いて散る
東京の人よ さようなら
こういうんだが、大島アンコも東京都に属してる。それなのに東京都の人が東京の人よサヨウナラか?
青木光一「早く帰ってコ」、山田真二「哀愁の街に霧が降る」三十二年は石原裕次郎が登場。
さて、八戸市内は、東奥年鑑から。
赤字財政で市政全般に行き詰まりをきたした岩岡市政は財政再建を軸に一八○度の転換をよぎなくされるなど波乱の多い三一年度となった。五月七日の臨時市議会で地方財政再建促進特別措置法適用申請を議決しついで自治庁が同月十日に八戸市を再建自治団体に指定、ここに本県では同法適用第一号となり、自治行政における政府干渉を甘受する体制となった。法適用の経緯をあげると岩岡市長はじめ八木橋助役、石橋収入役、田村総務部長ら市理事者は財政の赤字一億四千万円を穴埋めするため毎月の資金繰りに苦慮し三○年夏、すでに財政再建の方法を検討していたが、結局地方財政再建促進特別措置も止むを得ぬという結論に達していた。しかし政府融資の赤字一億余円はひも付き融資であり、政府の自治干渉も相当厳しいものであることが予想されるので岩岡市長は、発展途上の市政推進を阻害されはしないかと心配。
 一方市民の指弾を受けないだろうかという二つの理由で早急に態度を表明することが出来なかったようである。このため再建適用打ち出しの時期と市民を納得させる宣伝方法、つまり市の財政実態をいかにして市民各層に知って貰えるかが当面の問題になっていたが、一応時期は三月予算市議会以後と決め臨時市議会を四月二七日に召集したのもこうした思惑にあったようである。
 破綻寸前の苦しい財政運営を背景としながら岩岡市長は市政振興五ヵ年計画を立案して少しでも公約を実現しようと努力したが、遂に骨抜きの五ヵ年計画となり、さらに棚上げの状態となっている。財政再建計画策定は指定日(五月一○日)現在で七ヵ年解消を目標にした計画を財政課が中心となってまとめ、六月中に自治庁の計画審査を終え七月に市議会の議決を経て再建実施の第一歩を踏み出す。財政再建計画の基本方針は、赤字再建債一億円、この利子三四七一万円、合計一億七六七一万円を七ヵ年に償還する。財源としては、
① 人件費節約六五○○万円
定年制実施で五十人が退職すると一ヵ年に一五○○万円、六ヵ年で九千万円になる。このうち退職金二五○○万円を差し引いた額六五○○万円。
② 一億円に対する政府の利子補給一○○○万円
③ 特別会計への繰り出し金抑制で六三○○万円
水道、公益質屋への繰り出し金は三三年度で一応切れる。
④ 政府の公共事業補助の引き上げで節約できる額一四○○万円
⑤ 利子節約三二○○万円などとなっているが、六月現在で地方公務員法改正案が国会で継続審議となったため勧奨退職に切り替えて計画を作成したものである。三一年度当初予算は均衡予算を編成し地財再建法適用後は運営面で軌道に乗せる方針を基に作成されたものである。二九年度当初予算五億一二○○万円に比べれば一億一二○○万円ハネ上がった六億二四一○万円を三月二十四日の市議会で可決した。