昭和四十五年十一月六日 デーリー東北新聞
押すな押すなの大盛況
「長崎屋」八戸店オープン
買い物客が七万人
八戸市の商店街にとって「黒船」の第二弾ともいうべきチエーン・ストア「長崎屋」八戸店が六日花花しく開店した。開店と同時に色とりどりの風船が上げられたり、高校のブラスバンドが「開店」のプラカードを持って商店街を行進するなど、おまつりなみのにぎやかさ。この一日だけで、約七万人の買い物客があったと見られ、商店街には同店から出された紙バックを持つ市民がいっぱいだった。
開店は午前十時だったが、この朝六時ごろから行列が始まった。同市北糠塚の主婦、金浜トミさん(六一)らは近所の人たちと誘い合って最前列に陣取っていた。開店の直前には、同店から約二百米はなれた東北銀行八戸支店を飛び越える行列ができ、約三千人が開店を待つほど。午前十時、何百という風船が放たれ、市内のK高校のブラスバンド演奏の景気づけでオープン。同時に行列が店内に吸いこまれた。
昭和四十五年十一月二十六日 デーリー東北新聞
シリーズ企画10 トップに聞く
その2.・八戸市の企業
実った中央進出の悲願
ねばり強さを身上に
株式会社中央スーパー森山千年春氏
森山千年春氏ちねはると読む。四十三歳。会社員を経て「セルフサービスもりやま」を八戸市町組町に開業したのは昭和二十六年、二十四歳のときであった。それから十九年、時勢を見る目の確かさと、不屈の努力で、いま同市内に五つの店舗を構えるまでに至った。株式会社中央スーパーと社名を変えて法人化したのはさる三十八年だが、こんど長崎屋地階に店をオープンして「ようやく社名通りに中央へ進出、これからが本番です」と意欲をたぎらせている。小柄な体のどこにそんなファイトを隠しもっているのか、烈々たるものがある。それでいて如才がない。
大盛況だった「長崎屋」オープン
―なかなかお盛んで、「長崎屋」オープン当日はたいへんなご盛況と聞きましたが。
森山 おかげさまで、お客様からは好評をいただいております。オープンした初日は私たちの予想をはるかに上回り、店内十台のレジを通したお客様の数は一万人に達しました。ガードマンがお客様の流れを整理したわけですが、さばききれずに何回もエスカレーターを止めるやら、お客さまの
昭和四十六年十月六日デーリー東北
第四の大波かぶる地元商店街
ニチイ明日オープン
売上横ばいのなか 商戦激化…不安顔も
八戸の商店街にとって、「丸光」「緑屋」そして「長崎屋」に続く四番目の大型域外資本ニチイ…いよいよ明日七日「八戸ショッピングプラザ」として開店するが、これを迎える地元資本はまたまた大きな試練に立たされている。これまで大型店進出のたびに商圏を拡大してきた同商店街ではあるが、このところ売上の伸び悩みが目立っているといわれるだけにこのニチイの開店をどううけとめるか注目されている。
きめの細かな経営が勝負に
商店街にとって初めての試練、それは三年前の「丸光」「緑屋」進出だった。それまでは「殿様商法」が堂々とまかり通り、買い物客には不評このうえない商店街だったが、この二つの大型店から受けた刺激は大きかった。中には、かなりの打撃を受けるデパートや商店もあった。しかし、商店街全体から見ると、商圏の拡大…という思わぬ副産物があり、一部を除くと売上はむしろ上昇の一途をたどってきた。
大型店が進出する前の商圏といえば、八戸市とその周辺町村に限られていた。それが「丸光」「緑屋」によって北は十和田、三沢の両市がスッポリ、南は岩手県の種市、軽米、一戸、福岡、金田一、浄法寺の各町村まで商圏内に入り、今では商圏人口五十五万人に膨れ上がっている。それまでは、たとえば十和田市からわざわざ買い物にやってくる…などということはほとんどなく、逆に八戸市から青森、盛岡にでかけることが珍しくなかった。
しかし、こうした商圏拡大の中で、閉店に追い込まれた店も少なくない。最も大きかったのは、一昨年秋の丸美屋デパート。理由がさまざまあったとはいえ、大型店に押されて売上が低下したのが最大の原因。そのほかO洋服店、T洋服店、I服地店などが相次いで商店街から姿を消した。「八戸ショッピングプラザ」つまりニチイはこのような状況の中で開店するわけだが、これ以上の商圏拡大は無理といわれる昨今だけに、地元資本にとっては「丸光」「緑屋」以来の試練に立たされるのは確実。とくに昨年来の不況が響いてか、このところの売上が頭打ち状態2なってるといわれ、ここにまた一つ大型店となれば、頭打ちどころか落ち込むところも出てきそうな気配が感じられる。
事実、ある商店では「これまで中央の大型店が開店するたびに、新しい客が増え、それだけ売上が伸びてきた。しかし、これからはそうはいかないと思う。キメ細かな経営が必要になってくるのではなかろうか」と不安そう。ともあれ、それぞれが特徴を出した経営方法をとることになろうが、これまで以上の激しい商戦が展開されることは間違いなかろう。
昭和四十六年十月八日 デーリー東北新聞
商店街のワクを広げる
八戸ショッピングプラザめでたくオープン
午前中で二万の人出
青森ニチイ(武田貞助社長)が運営するニチイチェーン八戸ショッピングプラザが七日、華々しくオープンした。この日、開店前から長い行列が出来、午後にわか雨に見舞われたが、初日とあってまずまずの人出。これまで三日町中心のこじんまりした商店街がわくを広げた感じを与える開店だった。
午前十時の開店に二時間前から行列ができるほどだった。それが開店直前には約二千人の列となり上々の人気。十時丁度、ノロシを合図に橋本和吉松和本店社長夫妻とニチイ・チェーンを代表して西端行雄ニチイ社長夫妻がテープカット。同ビル着工から数えて十ヵ月商店街注目の中でめでたくオープンした。
午前中天気に恵まれたため、周辺町村からの買い物客も含めて約二万人の入店者を数えた。この勢いに乗って、同店では閉店までに八万人ほどの入店者を見込んでいたが、午後のにわか雨で客の出足はにぶりがち。しかし、夕方には勤め帰りのサラリーマンやOLなどが「下見」をきめ込んで入店、盛り返した感じだった。
さて、どの程度の売上となったか…青森ニチイの備谷寛二八戸支店長は「ニチイ・チェーンの他店に比べると、スタートの人出はそう多くなかった。ウイークデーと一部農繁期にかかったためらしい。しかし、客の切れ目がなく、レジの休むヒマがなかった」と話しており、初日としては人出、売上ともまずまずのようす。
ところで「八戸ショッピングプラザ」のオープンは同市商店街に少なからぬ影響を与えそうだが、この日だけを見ても商店街のわくが一歩広がった感じ。これについて中央のあるコンサルタントは「安いばかりが能ではない、地元の商店も、もう一度消費者の立場、つまり原点に立って経営を考えれば、とくに恐れることはない」と話していた。
昭和五十五年四月二十日 デーリー東北新聞
どっと四万人の買い物客
八戸スカイビルが開店
早朝からお祭り騒ぎ
イトーヨーカドー八戸店(広江克己店長を核テナントとした青森県内で最初の市街地再開発ビル・八戸スカイビル(八戸市十三日町)が十九日午前九時三十分開店、四万人の買い物客が押しかけてにぎわった。日本のビッグチェーン・イトーヨーカドーの開店は八戸市の商業界に新たな活気を呼ぶとともに早くも「価格戦争」を引き起こしている。
激化する「価格戦争」
午前七時には早くも一番乗りをねらう買い物客が順番待ちをし、開店の「お祭り騒ぎ」は早朝から始まった。同八時三十分ごろから急に人の数が増えはじめ、開店直前には四列に並んでちょうど八戸スカイビルを一周する約二千人の人がきが出来上がり、店員やガードマンは人がきの整理と交通渋滞の解消に汗だくだった。
午前九時半を期して正面玄関前で広江克己イトーヨーカドー八戸店長、小瀬川吉三八戸第一市街地再開発組合理事長、越後谷仲三八戸市都市開発部長、消費者代表の大串道子さんなど十四人がテープカット、ヨークデキシーバンドのファンファーレが高らかに演奏され、打ち上げ花火と風船が乱舞する中を「一番客」がどっと店内にくりこんだ。
イトーヨーカドーの商品量、センス、飾りつけ、店内設備などはさすがはビッグチェーンと思わせるものがあり、買い物客をうならせていた。また、開店記念セールということもあって価格もかなり安く、開店後も人の流れはヨーカドー目指して切れ目なく続き、初日の買い物客は約四万人、売上額は目標の八千万円を突破した。
店内にはヨーカドーの商品や陳列、価格を見ようとする他店の担当者も大勢つめかけていた。
イトーヨーカドー八戸店は同社九十四番目の店舗。同社は関連企業を含めた五十五年度の総売上額目標を一兆円においている。八戸店もその戦略の一翼を担い、初年度売上目標を衣料二十一億円、住居関連十四億円、食品十九億円としている。しかし、弘前店の昨年度売上が百億円を超えていることから、八戸店もそれに近い数字となるとみている関係者が多く、既存店にとってはヨーカドーは大変な脅威だ。
既存の大型店やスーパーは一斉に大売出しを企画してヨーカドーに対抗していたが、同日の客の減少は歴然としていた。ただ、地元百貨店の三春屋は呉服の六割引きをはじめ家庭電気器具、衣料、食品をかなり値引きして正面からヨーカドーに対抗、いつも以上の客を集めていたのが目立った。
イトーヨーカドーの開店によって八戸市の商業界は大きく変ろうとしている。その陰では早くも「価格戦争」がエスカレートする気配を見せ、このままだと倒産企業も出るのではないかと心配されている。
なお、八戸市への域外大型店の進出は四十三年の「丸光」「緑屋」、四十五年の「長崎屋」、四十六年の「ニチイ」に次いで五店目。