2008年12月29日月曜日

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう2


にしあり・ぼくざん 文政四年八戸湊、笹本豆腐屋の倅、曹洞宗僧侶となり明治期の廃仏毀釈に仏教護持の立場で政府と対立。明治三十四年八十一歳、火災で焼失した能登の総持寺を鶴見に移転する基を作り、永平寺管長をも務め明治四十一年(一九一○)没。三年後が没後百年。これを機に西有穆山の姿を現代に蘇らせ、南部人の魂を見せたい。殊に母親なを(八戸町西村源六の妹)の存在なくして偉大なる穆山は存在しない。というのも、慢心し故郷の僧侶になろうと帰郷するも、母の力強い諭しで再び江戸へ出て日本一の僧侶となった。
 さて、前回に引き続き、吉田隆悦老著の本より、穆山が得度を受ける場面から開始。
菩提寺長流寺で得度式を挙ぐ
 笹本家の菩提寺は八戸市類家にある曹洞宗長流寺であります。当時の長流寺の住職は、十六世の霊水金竜和尚様でありました。万吉(穆山幼名)は御両親と一緒に菩提寺、長流寺に行き、金竜和尚様に得度の式(小僧になる式)を行って戴き名を金英と授けて戴いたのであります。時に天保四年六月二十一日でありました。金英の金は御師匠様の金竜の一字を戴いたもので金英上座(じょうざ・曹洞宗の僧階のひとつ)はこれより七年間金竜師匠様の訓董(くんとう・香をたいてかおりをしみこませ、粘土を焼いて陶器を作りあげる意)徳を以て人を感化し、すぐれた人間をつくること)を受けたのでありますが、その人格的影響は大きなものがありました。それについてこれから御話致しましょう。
    金竜和尚の影響
 夢多き万吉少年は十三歳でようやく、その願望が達せられ長流寺十六世金竜和尚の教育を受けたのでありますが、その金竜師は、真に性質恬淡として機智(きち・その時その場合に応じて働く才知。人の意表に出る鋭い知恵。ウイット)円明、闊達(かったつ・度量がひろく、物事にこだわらぬこと。こせこせしないこと)自在な人材でありました。その性格と家風が金英上座に及ぼした影響は甚大であったのであります。
    雁鴨白鳥信士
 長流寺の門前に大変鳥好の爺さんがいて、始終和尚さんの所に来て仲よしでありました。鳶ある日、爺さんが、「和尚さん、私が死んだら、鳥に関係のある戒名をつけて下さい」と頼んでいました。やがてその日が来て、烏好き爺さんに引導を渡すことになりました。金竜和尚さんは、鳥好き爺さんの願いを容れて、雁鴨白鳥信士と戒名を授けました。そして葬式の引導(いんどう・迷っている衆生を導いて仏道に入らせること。また、死者を済度するため、葬儀のとき導師が棺前に立ち転迷開悟の法語を説くこと)法語(ほうご・高僧などが仏の教えを平易に説いた文)は 「唐にては鳳凰を神鳥として尊び、天竺の人孔雀を喜び、雁は長空千里高きを飛翔し、鴨は山陰沼沢に身をひそめ、白鳥雪に一如して飛んで雲の如し、大和の国は陸奥の里、淵竜山長流寺庭の梅の花、鶯法法法華経(ほうほうほけきょ)の功徳(くどく・善行の結果として与えられる神仏のめぐみ。ごりやく)によって、烏喝(からすかー)」と引導したということであります。
 この禅気に含まれたユーモアな風格が、感受性の多い少年金英上座の胸に深く刻みこまれたのであります。
 金英後の瑾英和尚の風格
 金竜和尚様の影響を受けた金英上座…後の穆山謹英禅師は至る所で臨機応変、自由自在の活作略のの教化活動をしておられますが、今、その一、 二の例をあげますと、禅師が東北巡教の旅をせられて、一の関、盛岡方面を廻っている時に、駕篭(かご)で次の会場に行く途中で、山中の急な坂の崖にさしかかった時、駕篭の底が抜けてあわや崖下に転がり落ちる危険状態となった、御供の者達があわてて「申し訳ありません」と御詫びすると、禅師は、すかさず、
 古かごの底のぬけると死ぬるとは
   所きらわず時をえらばず
と、歌って、一同を安心させ且つ感動させたのであります。
又、岩手県花巻市の松岩寺に、御巡教中の御話でありますが、住職が山号額の御揮毫(きごう・筆をふるう意) 書画をかくこと。揮筆)を御願したので、禅師は、よしよしと雄渾(ゆうこん・書画・詩文などが)雄大で勢いのよいこと。力強くよどみのないこと)な筆法で「松岩寺」(横書き)と書いて下さった。それを随行(ずいこう・お供)の者が縁側に乾かして置いた所、子供達が、その上を歩いて足跡をつけてしまった。住職は恐縮して、三拝九拝して禅師様に御詫びしたところ、禅師様はイヤイヤ心配はいらぬ、わしがご祈祷して清めよう、住職を静めて、
 足跡の絶えぬ寺こそ目出度けれ
   帰依(きえ・神・仏などすぐれた者に服従し、すがること)する人の多ければなり
と半折(はんせつ・唐紙・白紙・画仙紙などの全紙を、縦に二つに切ったもの。また、それに書かれた書画。半折)に書いて下さった。子供の足跡を生かして、ほめて、
申し訳ありませんと恐縮している住職を救ってあげたのであります。現在その、「松山寺」の額と、この歌の半折の掛軸とは立派に保存されて、花巻の松岩寺の寺宝となって輝いております。
 更に有名な御話は、達磨(だるま・禅宗の始祖。生没年未詳。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り九年間面壁坐禅したという。その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可・えかに伝えられた)と芸者が向い合っている絵に、賛(さん・画に題して画に添え書かれた詩・歌・文)をして下さいと頼まれて、
 「達摩さん.九年面壁何のその、わたしや十年うきつとめ、煩悩菩提の二筋に、誠の心の一筋を、 加えて三筋で世を渡る糸が切れたら成仏と客 を相手にのむ阿弥陀、済度なさるとなさらぬは それはあなたの御量見、外に余念はないわいな」
 と、画賛した。
 この名文句は、当意即妙、啓達自在、法情人情渾然一体、浄不浄一如、蓮華の妙法を自由自在、思う存分称賛しているではありませんか、
 十和田湖を愛し、おいらせ川を賛美して、天下の
国立公園を世界に紹介し、静かに十和田の蔦温泉に眠っている文豪大町桂月さんは、「吾々三文文士の到底及ばざるところ」と激賞したのであります。
 禅師のこのような大きなユーモアに富んだ力量は、少年時代に長流寺及び法光寺に於て師匠の金竜和尚さまに七年間、寝食を共にして親しく受けた感化の力が強く影響しているでのあります。
  良師に会わざれぱ学ばざる方よし
金英上座は、真によい御師匠さんに出会ったのであります。学問に於ても武芸、芸道に於ても、よい師匠さんにつくことが、第一歩の大切なことであります。況んや仏道修行に於ては、立派な正しい御師匠さんに入門することが肝要であります。師匠は明工であり、弟子は良材である事が大切であります。どんなに立派な材料でも下手な大工に使われては、本当値打ちを発揮することが出来ません。道元禅師は「良い師匠さんに会わなければ学ばない方がよい。先ず仏道を修証するには正しい師匠さんに会う事が必須条件である」と、正しい仏法を学ぶ者の心得として厳しくおしえております。金英上座のお母さんが、八戸地方には極楽行の案内をするような立派な和尚さんがいない。と、いって五ケ年間も出家の願を許しませんでしたが、金竜和尚さんのような立派な力のある師匠さんに会うことが出来たのは、その出発点に於て幸福に恵まれたのであります。
師と共に法光寺に上る
 この良き師、金竜和尚さんは、南部地方最高の名刹、録所(地方寺院を管理する寺)の寺、三戸郡名久井の法光寺、第二十六代の住職となって栄転したのであります。長流寺は新井田の対泉院の末寺であり、有力寺院とはいえません。にも拘らず、長流寺より法光寺への晋山(しんざん・僧侶が新たに一寺の住職となること)は異例と見てよいと思います。それがそのまま金竜師の偉大な優秀性を証明するものと思います。
さて、金英上座も御師匠さんと一緒に名久井岳の中腹にある白華山法光寺に上り一層の修学に励んだのであります。時に金英十四歳でありました。
    法光寺とは
 法光寺は、東北本線諏訪ノ平駅から四キロの名久井岳の山腹にあり、現在でも山の中の一軒家でさびしい場所にあります。況んや天保五年(一八三四)の頃は電灯もなく、周囲は鬱蒼(うっそう)たる大森林地帯で野鳥珍獣が出没して肝を冷やすことしばしばであった。この寺は、平安朝の往古、敗戦の将が落人としてやって来てかくれ家として、隠遁(いんとん・世事をのがれて隠れること)生活の場として建てた真言宗系統の寺院であったが、鎌倉幕府の北条氏五代目の執権時頼公が、執権職を十七年勤めて、幕府の基礎を固めた後、病気したので出家して最明寺に閑居し、執権職を北条長時に譲ったが、なお幕政を見て、所謂最明寺殿として幕政に重きをなしていた。
 最明寺時頼公は政治に色々工風をこらし、様々の制度を設けてよい政治を執ったが、制度の改善と同時に、武士道精神の昂揚と、物品を大切にする倹約の精神を奨励した。謡曲で有名な「鉢の木」の物語は出家後最明寺時頼が、身分をかくして地方の民情視察の為に諸国を巡礼した時の話。この諸国巡礼の旅で奥の細道を辿り、奥州名久井村に来た最明寺時頼が旅僧の姿で、最初は名久井の観音寺に一夜の宿を求めた所、住職は「この寺は旅人を泊める寺ではない。これより上方の山の中腹に夢想軒という寺があるからそちらに頼んだらよかろう」と、ケンもホロロの挨拶でありました。旅僧は、トボトボ山道を教えられた方向に歩いてようやく辿り着いたのは、八甲田山の山脈と太平洋が夕焼け雲に赤く染められた夕暮時でありました。「頼もう!」と声をかけると出て来たのは六十歳を過ぎた老僧一人でした。旅僧は「諸国を行脚してこの地に辿りついたが、一夜の宿を願いたい」と丁寧に挨拶。老僧は気軽に「どうぞ御入りなさい。この山奥までよくぞ御出なさった」とやさしく声をかけて、草駐の紐を解いて手伝い、足をすすぐ水を洗足鉢に出して迎え入れ、「しばらく御侍ちなされ、薬石を進ぜよう」といって運んでで来たものが、米粒が游(およ)いであるくようなうすい御粥(おかゆ)に大豆を茹でて塩づけにした飯であった。老僧と旅僧の二人は色々話をしながら熱い御粥をすすり、夜の更けるのも忘れていた。
 夜も更けて山の冷気もきびしくなったので、旅僧を寝に就かしめ、老僧は食膳をかたづけて、自分も寝た。
 翌同旅僧が、目を醒まして、朝の勤経を済ませても住職か田て来ません。しばらく与えられた
室で侍って居たが、物音一つしない。変に思った旅僧は境内を散歩しながら、待に待ったが、住職が現われないので、本尊様に別れの挨拶をし、山を下る。急な坂道に差しかかった時、坂の下の方から、ハアーハアーと息をはずませ坂を登ってくるアジロ傘を見つけた。下る旅僧、上るアジロ傘、すれ違う時、互に顔を見合せる。
「御坊ではござりませぬか、お探し致しましたがお姿も見えず、ご本尊に礼を述べ、下りてまいりました」
「これはこれは、実は恥ずかしながら、米とてもなく麓に下りまして托鉢し、米を頂戴しましたので、今一度お戻り下さりませ」
「誠に有難き申し出なれど、先を急ぎますれば、これにてお暇を頂戴つかまつります」
と互いに礼を交わす。
住職が残念がるのを後にして、合掌しながら坂を下って行ったのであります。住職も仕方なく、力のぬけた足を引きずりながら寺に帰ってみると、茶の間に一扇が置かれて、その扇に矢立で書いたであろうと思われる感謝の達筆。
  鎌倉に呼び出され、見通し千石を戴く
 星移り、年かわって、旅僧のことなど忘れていた夢想軒の住職に、鎌倉幕府から呼び出し状が来た。住職は取るものも取りあえず、旅仕度をして、鎌倉に行ってみると、門番から案内役まで皆丁重な扱い。通された部屋は執権職の接見の間。しばらく経つと、最明寺様の御目通りであるといわれ、袈裟や法衣を取り替え威儀を正し控える。現われたのは、昨年一夜語り合った旅僧。その旅僧が最明寺時頼公その人。
 夢想軒住職平伏、最明寺時頼、「どうぞ、頭をあげて下さい、奥州の山中で話し合った時のように気軽に気軽に。あの折りは本当に助かりました。貴僧の御親切は心から敬服。改めて厚く御礼申します。ついては、あの夢想軒から東に向って見える限りの・田畑山林目通り一千石を寺の財産として御礼に差し上げたい、これはその証状です」と盃を賜り歓待される。
続夢想軒住職は、夢ではないかと想う程、驚き、且つ喜こんで御馳走になり、退散した。これが後に法光寺となり、真言宗より曹洞宗と改宗し戦前は田畑三十町歩以上、山林五十町歩以上を有する名刹で末寺(分家寺)は盛岡の永祥院、七戸町の瑞竜寺等青森、岩手の両県にわたり、多くの分家寺を持ち、幕政時代は録所の寺として地方寺院の管理と世話の両面をやったもの。現在六万一千四百二十六坪の境内に本堂、庫院の外、三重の塔を有する。
不親切な観音寺の僧侶は鎌倉からつかわされた使者によって、生きながら逆さまに埋められるという厳罰に処せられ、その僧は、夢想軒を逆うらみして、「三度まで焼き払って、恨みをはらしてやるぞ」といって死んだ。そのせいか、法光寺は、その後三度の火災に遭ったという。 続