2008年11月30日日曜日

八戸信金事件貸金四億四千万時効?2

今件の八戸信用金庫の時効事件については、長期の証書貸付で発生。頭の巡りの良い読者なら、前に掲載した内容証明の文書から、不払いを起こしたのは長寿温泉・プレイピア白浜の経営者田中長次郎氏とその妻ツエさんであることを知っているだろう。内容証明の文書からは六億七千万円と借入金額が明記されているが、本当はこの外にもあり、八戸信用金庫からの借入総額は六億八千五百万円の巨額。そのうちの四億四千万円が時効にかかってしまった。
 もっとも八戸信用金庫の言い分では、裁判をすれば勝てると言うのだが、自分たちが適法に措置をしていれば、裁判の席上で争うこともない。それをしていないため 筆者はこの事件を昨年(一九九九年)に知人から処理して欲しいと依頼を受けてからずっと見守り続けている。六月号の大特集の階上町長の疑惑も、地元新聞の東奥日報もデーリー東北も深く突っ込んでは書かなかった。新聞はニユース性を重んじるため紙幅に制限があり、事実関係を知っても深く突っ込んでは書けない。しかしながら月刊誌の良い点は締切り時間が十分にあるため、面白いとなると徹底した時間を割いて調査に調査を重ねる。そこに新聞と月刊誌の違いがある。
 今回の事件も書きたいナと筆がムズムズするのを押さえに押さえていた。しかしながら八戸信用金庫と田中氏が決裂をみないうちに書く訳にはいかず、口惜しい思いで半年我慢。とうとう五月二十日に決裂したため、一気にここで真相を暴露。この問題は監督官庁に持っていけば必ず指導が入り、馬鹿なことをしでかした八戸信用金庫に咎めは必至。万人の金を預かる番人の八戸信用金庫がヘマをやらかしている。それも五年以上も放置し時効を迎えたのを知らなかった大蔵省の責任も大きい。あるいは八戸信用金庫が隠しに隠していたのかも知れぬ。しかし隠しに隠していたとしても、監督官庁の指導・監督が至らなかったのは間違いない。庶民の金を預かるのは法律で決められた所しか出来ない。許可・認可の権限は大蔵省が握っている。バブルが弾けて多くの金融機関がメタメタ。その中でも八戸信用金庫はバブルの影響を受けていない健全経営の信用金庫だと言われてきた。しかしながら、このていたらくだ。我々の金は本当に安全に管理・運営されているのだろうか。疑問・心配・不安になるのは筆者だけではないだろう。お年寄りの年金受給、虎の子のへそくりなどを安心して預けられるの? 市内最大の金融機関だが、前森理事長が辞めてからおかしくなったとの声をよく聞く。前森さんは立派な人だった。筆者も知っている。しかしながら現今の理事たちは一寸ならず変だ。
大体筆者は八戸信用金庫には恨みつらみがある。今まで言わなかっただけのこと。今回の時効事件の時も、東京の星弁護士が借り入れた金額の返済計画案を作成している際に発見したもの。
この星弁護士は早稲田大学法学部を卒業し司法試験に合格した新進気鋭の若者。この人が中学生の時、筆者が家庭教師をしていたことがある。新宿から京王線が出ているが笹塚の駅の近くで豆腐屋を両親が経営。その長女を教えたのがきっかけで、この青年も教えたことがあり、筆者の顧問弁護士でもある。誠実な人柄で筆者とは正反対。温厚な紳士を絵にかいたような人。ところが交渉相手の八戸信用金庫の前・管理部長の佐藤一雄氏が一級品の頑迷固陋。
 交渉の過程で何を血迷ったか、『オイ、星さんョ、あんた本当に弁護士なの』の発言をやらかした。
弁護士を騙ったのなら言われても仕方がないが、当事者では交渉がつきかねる難問に弁護士が登場するは当然のこと。まして、星弁護士は今回とは逆の立場で銀行を守る仕事を数多く担当している新進気鋭なれども金融事件ではベテラン中のベテラン。銀行の動きは知悉している。大体借金が払えなくなった事案はバブル崩営以後、山とあり五万と存在。銀行は貸金はまけないが金利はゼロか限りなくゼロにして不良貸付はなるべく出さず、元金だけは必ず手中に収めるのが鉄則。八戸はバブルの影響を良くも悪しくも受けなかったとは言うものの、現今の不動産価格は上昇するどころか下落しているのは間違いない。
 星弁護士は温厚な性格のため、前・管理部長の佐藤氏の話にも激怒することはなかったが、八戸はなかなか凄い所ですネと苦笑。
時効の件を撤回しなければ交渉の席には付かないと声高に叫ぶ。時効にならないように管理していればよかったのだが、自分がしでかしたことを大声で叫び、それを撤回しろ、裁判すれば必ず勝てるは金融機関の言うべきことではない。さらにこの時効事件が、八戸信用金庫の言うように時効でないとするならば、ただ笑って、『そんな馬鹿なことは言わないで下さい、我々はこのように新たな証書で時効は防いでいますヨ』と提示すればいい。何も力んで大声を上げる、あるいは弁護士を誹謗するような言葉は紳士なら吐かないものですゾ。
 大声で叫ぶ、あるいは怒鳴る、桐喝するは手口として容認の範囲であるが、文書をもって、それを撤回しなければ交渉しないと郵送するに至っては、何を血迷った のだろうと疑問に思う程だ。
 『お岩、迷うたな』は伊右衛門の言葉だ。自分がしでかした残虐非道な行いを恥じる部分があるから、お岩さんが迷って出たように錯覚するのだ。見えないものに対する恐怖が行動に走らせる。
 次のページの文書は八戸信用金庫河原木支店長の蛭子勝美氏が弁護士宛に出したもの。この人も温厚な紳士だ。しかしながら回収不能となった貸金の処理はすべからく本部が握っている。つまり前述した前・管理部長の佐藤氏だ。今の管理部長は工藤信行氏が就任しているが、この件に関しては担当理事から佐藤が担当するようにと言われているとは佐藤氏本人の弁。

2008年11月29日土曜日

羽仁もと子追補(ついほ・出版・著作物などで、追加・訂正、あとから補うこと)

もと子が羽仁吉一と結婚し報知新聞を共に退社、知人のすすめで雑誌「家庭之友」の編集開始。ここでもと子は婦人が苦労しながら生活する姿を取材、それが好評を得ることを知り、自分たちで出版を決意。明治四十一年、「婦人之友」がそれ。
 羽仁もと子と言えば家計簿と答えが返るが、これは明治三十七年「家庭之友」時代に創案したもの。「家庭之友」は後、改題され「婦人之友」となったと記されている本が多いが、「家庭之友」は明治三十六年四月号が現存、その出版社は内外出版協会で羽仁もと子が出版したと断定はできない。
 ともかく明治四十一年に「婦人之友」は創刊され今日に至る。羽仁もと子の婦人啓発雑誌は暮らしの中にこそ生きる意味を見つけよを標榜した新機軸の雑誌。他人の押し付けられるのが人生ではない。自分が暮らしの中で何を見出すか、何を考えるかを基本とした。
 それには出銭入銭の管理、日々、月ごと、季節の中で金をどのように管理するかの実践書が家計簿だった。
 また、自発的に処理する、これが何のためにあるのかの判断を基本とした、生活に即応するような教育こそ大切であると学校を創設。それが池袋の自由学園。
 帝国ホテル建設のために来日したライトが設計。ライトは六人の子どもと夫人を捨て不倫相手と逃避行、又二人の子を得るが不倫相手と共々惨殺され、ライトは失意のうちに設計依頼の来た日本に渡った。彼の設計は草原様式と呼ばれる高さを押さえ、水平線を大事にした安定感のなかに、部屋を区切り細分しない家族のぬくもりを大切 にしたもの。
 羽仁もと子は大正十年に草原様式の自由学園を造った。二年後に関東大震災が襲うも自由学園、帝国ホテル共少しの損壊もない。しかし、アメリカの新聞はライトの帝国ホテル倒壊の報を流す。そこへ、大倉喜八郎から電報、「ホテルハ貴下ノ天才ノ記念碑トシテタチ壊ワレズ家ナキモノ多数完全ナサービスヲウケ祝辞ヲノブ」
 大倉は渋沢栄一と共に明治、大正期の実業界の双璧。ロイド設計の帝国ホテルは多額な追加費用を要し、渋沢、大倉が支えた。大倉は越後新発田の産、日本橋の鰹節問屋に丁稚、乾物屋を興すも、時代を見て武器商人へ転じ戊辰戦争で巨万の富。商社から土木業と転じ、大倉組、現在の大成建設を作る。鹿鳴館も彼の手になる。
 羽仁もと子が新聞記者をしていた頃、郷土の偉人、西有穆山を訪れ対談記事を発表。その記事を八戸湊小学校校長を務めた伊藤勝治氏が発見。それが今年活字になった。
自由学園明日館ホームページから
羽仁もと子 1873(明治6)-1957(昭和32)青森県八戸市生まれ。幼い頃から理解できるまで徹底的に考える子供でしたが、たいへんに不器用で、また音痴だったため、絵画や唱歌を習うのに苦労したそうです。このことは後にもと子が自由学園の芸術教育に力を注ぐ要因となりました。   その後、1889年(明治22)に上京。東京 府立第一女子高等学校へ入学しますが、その後、目指していた女子高等師範学校の受験に失敗。当時、少女たちの人気雑誌であった『女学雑誌』の編集長、巌本善治が校長を勤める明治女学校へ入学しました。明治女学校時代には『女学雑誌』の校正を手伝い、雑誌作りの基礎を学びました。また明治女学校での規則正しい寄宿舎の生活は、自由学園における生活重視の教育に反映されています。   1892年、もと子は郷里に戻り、小学校や女学校の教師となります。この頃結婚しましたが半年で離婚となり、一からやり直す覚悟で再び上京、報知新聞社に校正係として入社、持ち前の才能から女性初の新聞記者として大活躍することになります。    羽仁吉一(1880-1955)と社内結婚したのはこの頃です。吉一は山口県三田尻村(現防府市)に生まれ、漢学塾に学び上京、報知新聞社に入社し政治記者として活躍していました。   1903年、二人は新婚生活の中から題材を得て、婦人誌『家庭之友』(『婦人之友』の前身)を創刊し、数年後、独立して婦人之友社を設立しました。雑誌を通じて、古いしきたりにとらわれていた女性たちに、自分の才覚で家を切り盛りする知恵と勇気を与えました。   1921年(大正10)、もと子と吉一は、知識の詰込みではない、新しい教育を実現するため、自由学園を創立しました。生徒に自ら昼食を調理させるなど生活と結びついた教育はまさに大正デモクラシー期における自由教育運動の象徴と言えましょう。
             
明日館の設計者フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)は、アメリカ合衆国が生んだ20世紀を代表する建築家の一人です。日本では、旧帝国ホテルの設計者として名を知られていますが、90年以上の人生の中で、800以上の計画案を遺し、そのうち400棟ほどを実現させている多作家としても有名です。   1867年にウィスコンシン州リッチランド・センターで生まれたライトは、1893年、住宅作家として独立、終生一貫してより豊かな人間性の保証に寄与する建築、つまり「有機的建築」の理想を追求し続けました。作品の殆どが彼の母国アメリカ合衆国の各地に残っており、代表作としてはカウフマン邸(落水荘)、グッゲンハイム美術館などがあります。   彼は「貧富の別なく人間は豊かな住生活が保障されるべきである」という信念を実践し、人々の生活の拠点を作り続けました。明日館は学校として設計された建物ではありますが、「家庭的雰囲気の中で子供たちにのびのびとした教育を与えたい」という創立者の思いを、ライトは見事に形にしたと言えましょう。
羽仁もと子は三人の子に恵まれた。長女は説子、女婿を五郎、この人は参議院議員をつとめ、国立国会図書館の設立に尽力、次女は幼くして病死、三女は恵子。
説子と五郎の子に進、この人は映画監督として著名、記録映画、ドキュメンタリーで新境地、渥美清をアフリカに連れ出しプレハブ住宅を造る映画は出色。この人の手腕の凄さを示した。
羽仁 未央は進と左幸子の子、羽仁もと子からはひ孫にあたる。この人は随筆家として名を揚げる。世界を駆け巡り、映像製作者として活躍、香港を機軸としてアジアはまるで庭の如し。
 この人の活躍に羽仁もと子の現代版を見るのは「はちのへ今昔」だけだろうか。八戸が狭く東京に飛び出し、出版界、報道に籍を置き、西有穆山を取材、そののち教育に目覚め、当時最新のメディアである雑誌を普及し、多くの信奉者を集め確固たる地歩を固め、堂々と時代を切り開いた。
 その子、孫、ひ孫とどれも異色の存在。その源になったのが八戸、南部の魂。西有穆山がはち十一で曹洞宗総持寺管主になり、八戸中学で講演をされた。諸君は皆政治家になるべく八戸中学に来た。
 私は八十一になり宗門の長となった、面倒だからと断ることもできる。だが、諸君、我が南部人は請われたとき、否やを言わぬのが南部の魂なのだ。この歳で、いわば花婿を見たようなものだ、億劫といえば卑怯、堂々たる人生を歩めと教えた。何と気骨のある人だったか。そして、羽仁もと子も堂々たる人生を送られた。
 この二人の中に生き続ける南部魂、よもや我々は忘れた、そんなものがあったげなの言葉はもらすな。気が弱くなったとき、羽仁もと子を思い出せ、西有穆山を忘れるな、生きる力を貰えるぞ。

八戸信金事件貸金四億四千万時効?1



200年8月号から
 世の中に金融機関は多けれど、八戸最大の金融機関八戸信用金庫はどうもまともじゃない。これが正しいなら八戸は間違いだらけ。
 金貸しが土地を担保にとってバブルで弾け、困った挙げ句に国に泣きついて、庶民の金利が限りなくゼロに近づいたのは周知の事実。
それに便乗し、健全経営の中小零細金融機関も追随。しかし、驚嘆するのは銀行員の給料の高さ、昨年の長者番付が発表されたが、国に泣きついた悪徳銀行の頭取等の報酬の高さには唖然。信じられる? 自分たちがしでかした事を棚に上げて、給料ばかりを貪るのは許せるのか。明治時代のように、庶民に気骨があった頃なら暴動がおきて当たり前。
 我々が歴史で学ぶ帝国憲法の草案者、わが国初代総理大臣、伊藤博文は立派な人だとの印象があるが、当時の人々にはそうは写らない。あんな助平の爺の銅像を建て
るなと、その銅像にフンドシを巻き付けて市内を引回して川原に捨てたそうだ。根性があるゾ。
 八戸信金の理事長が幾ら給料を貰っているかは知らぬが、安い額じゃない筈。その給料は何処から出る? それは我々庶民の金を借りたい人に貸付、その利ざやで運営しているのだ。つまり、我々庶民の金が適法に運用されるが大前提。しかしながら、本当にそうなのだろうか。筆者のもとに平成十年十月二十日に相談が持ち込まれた。それは八戸信金から担保に人れた土地・家屋が競売されて困ったとの厄介なもの。困った人、弱い人を見ると助けたくなるのが筆者の根性。俄然張り切る。今までもお婆さんからビルが建ってテレビが見えなくなったが、NHKに言っても何もしてくれないので何とかして欲しいという気の毒な話も、そのビルの屋上に共同アンテナを建ててもらい解決、東北電力が焼け出されたお婆さんから、家もないのに毎月定額の電気料を取られていたのを返却させるなど、弱者救済を趣味にしている。今回の事件は不思議な点が多く、商売が左前になりつつある人には、どのような手順で金融機関が貸金の取立をしてくるかを勉強してみる。
先ず、四億四千万円が時効にかかったという点から見てみよう。
借りた金が時効になれば当然支払い義務はない、そんな愉快な話があるのだろうか。ある!
 金融機関の借金払わないで済む魔法の法律時効とは
時効とは何か。人殺しをしても十五年逃げると時効になるのは読者諸兄も御存知の通り。
 最近テレビ・新聞を賑わした福田○子の事件を思い出していただきたい。人殺しをして逃げに逃げ回って、元の杵柄のホステスをやっていたが、テレビで時効を知った人がそう言えば似てると警察に通報し逮捕になったが、このまま逃げきれば、公訴に関する時効で堂々と人前に出れる。しかし、殺人の罪が無くなる訳ではないので、良心があれば煩悶はするだろうが、強かな奴じゃどうにもならない。殺人罪の判決を受け脱走して逃げ回る時は三十年の歳月が必要になるが、それでも時効は成立する。かくほど左様に時効というものは恐ろしい力を持っている。
時効の概略を記す。
時効・一般取引についての時効で原則十年。
短期消滅は三年、二年、一年。
商事時効・商取引に関する時効で原則五年。
刑事時効・刑罰に関するもの一年から三十年。
公訴に関するもの一年から十五年。
その他の時効・税金などは五年。
 今回の貸金は八戸信用金庫のなした業務であるから商事時効に属する。商法の五二二条には〔債権の消滅時効〕として商行為に因りて生じたる債権は本法に別段の定めある場合を除く外五年間之を行わざるときは時効に因りて消滅す、と定めている。つまり、五年間利息も元金も払わないときは貸手はその貸金を失うことになる。
 相手は天下の八戸信用金庫、人さまの金を預かり、それを運用し利潤を上げるのが仕事、そんなズサンなことがある訳はない! そう筆者も思っていたが、これを発見したのは弁護士だった。
 天下の八戸信用金庫にも大きなミスがあった。意外と日常業務を行う側にミスが多いのは鉄道、飛行機、交通事故など。毎日繰り返している業務の中でポカをやらかすことがあるが、これもそれと同様なミスだ。
 借金の合計は六億七千万円になっている。しかし、貸手の八戸信用金庫の金を貸す手段方法に間違いがあった。
金融機関から金を借り入れるには二つの方法がある
一つは設備資金などの長期の借入。もう一つは運転資金などの短期のもの。
●長期の場合には金銭消費貸借と称して借入元金に貸出利息を上乗せし、それを六十回とか百回に分割返済していくもの。これを証書貸付と呼ぶ。
●短期の場合には借入額面から金利を先に引かれて、期日が到来した時に一括弁済するもの。金融機関は顧客(借り人)に金を貸付け、顧客は借用証書代わりに手形を金融機関に交付するもの。この場合の手形は顧客の振り出した約束手形または自己引受為替手形で、銀行が受取人であり、裏書きのない(単名手形)ものであり、金融機関は原因債権(貸金債権)と、手形債権の二つを持っている。
 手形の場合は商事行為の中でも時効の期間は短い。三年で時効になる。(手形法七十条一項、七七条一項八号)。つまり銀行に渡した手形が落とせずに、何のかんのと言い訳をしながら延滞利息も入れずに頑張れれば、三年で時効になる。これには一寸した根性と度胸がいるゾ。銀行員も一皮むけばインテリヤクザで、手形が廻ってきて預金不足。三時になれば、各支店は手形を持って本店に集合する。その際、引き落とせるだけの金額がないと不渡りになる。自分の支店から不渡りは出したくないので、手形振出人に矢の催促が来る。これは受けた者じゃないと判らぬが、ソリャ厳しいことを言う。
何とか金をかき集めて持って行くと、『今回は待ってやったが、次回はまたないぞ社長、いいか』などの発言は平気のへいざだ。
これは商業手形の場合で、自振の金融機関へ出した単名の場合は大体金利を入れて書換えてくれる。これは何度でも応じてくれるが、次第に険悪な表情になり、馬鹿野郎程度の発言は往々にしてある。何故筆者がそんなことを知っているか? 散々言われた口なので知悉。普通、証書貸付にせよ単名にせよ、三年も五年も放置するということは先ずあり得ない。それは金融機関も敵はさるもの、引っ掻くもので、なかなか逃げきれない。また監督官庁があり、ズサンな経営を監視している。

2008年11月28日金曜日

八戸市役所不思議な入札方法




下水道がキャノンの大判カラープリンターを決めた。見積は704万、それを値切って631万で契約。これを現金で払えないのでリース会社の出番。
 入札指名通知が出され、その時示されるのが仕様書。これでリース金額を入札しろと言われる。これで入札価格は決められない。何故? 購入金額が分からないで誰が入札する? 
 車を考えてみよう。車の購入金額も知らずに毎月のリース金額を決められるか? それをしたのがあおぎんリース、しぐまリース、みちのくリースだ。11万4千円で落札したが、どのようにしてこの金額を決めたのだろうか。仕様書は見せるという。つまり、リース会社は仕様書からキャノンに電話して落札価格を聞く。あるいは懇意なキャノン販売店から情報を得る。リース会社には懇意なキャノンがいる。そこからもっと安く機械を仕入れるも知れないと言い張る人間がいたが、そうはいかない。すでにこの機械はキャノンシステムアンドサポート八戸営業所が納入を決めているのだ。
 いかにリース会社が顔が広くとも、そう易々と契約を更改できるはずもない。つまり、契約額がこれだから、契約期間を五年として、月々のリース金額を入札せよというなら理解もできるが、これはどうしたことなのか。リース会社に契約金額を示さず、手数のかかる契約金額を推測させる、聞き取りをさせなければならない理由は何処にあるのか?
 何を隠す必要があるのか。リース会社は金利を稼ぐところ、その金利をいかに安くするかに腐心すればいい。それを契約金額を探させる努力をさせるより、金利交渉をするほうが合理的。
 これは単に下水道だけの話ではなく、管財契約課も同様だと言うので開いた口がふさがらない。市役所はリース屋苛めに喜びを感じているのか。市民の代弁者として契約を結ぶのではないのか?
 これら妙な職員は入れ替えをするべき。若手を採用し五十以上は皆退職せよ。悪しき慣例に首まで漬かっているぞ。

2008年11月27日木曜日

勤勉じゃない奴にも出る勤勉手当7億5千万円

八戸市役所にタイムカード、出勤簿がないのを良いことにして、ズルイ職員は遅刻する、それを見過ごす課長職、これらのズルの連携でまたも無駄だぞ7億5千万円。賞与時期に二回に分けて支払われる。
 ところが七月、八月と「はちのへ今昔」は市役所玄関で張り番をして遅刻者を写真に撮った。これらは精勤していない。ところが人事課は遅刻者はいなかった。各課の課長からの報告はないので通常通り勤勉手当てを全員に支給するんだそうだ。
 間違っているぞ。信賞必罰が原則、それを捻じ曲げるは最悪。だから、ダルイ奴が背広着ているのが八戸市役所職員の大半。ことに教育委員会がそれのチャンピオン。精励恪勤(せいれいかっきん・。力を尽してつとめること)の言葉は八戸市役所にはない。もたれあいの構図だ。この不況下、民間は困窮している。役所はズルイ奴にまで勤勉手当を支給する。
 どうなっているんだ。夏に検討するといったタイムカード導入も、雪が降ったゾ。つまり冬になった。それでも結論が出ないそうだ。どうなっているんだ人事課の頭は。総務部長は問題を先送りしていないのか?
 自分から事を解決するの姿勢なくして部下が動くか? 部下は上司を三日見れば分かる、上司は部下を三年見ないと分からないという。その頃は定年でハイ、それまでよ。

教育委員会小中学校部活動費送金先不明


毎年二百五十万円ほどを小中学校部活動費として支援。この金が教育委員会から八戸市小中学校部活動委員会に渡される。それをこの会が各学校に渡す。
 その銀行送金先がこれでいいのか?
下長中学校用紙費、学校特別会計(何処の学校か、名前もない)野田勝、愛の一声木村一夫、湊小学校臨時集金佐藤宏美などなど。
 これらは個人の金になっていないのかと、収支報告書を見たが、もともと二百五十万程度、溶けて流れて分からない、報告書もいいかげんでこんな書き方ではマズイとだけ指摘。
 学校教育を司る教育委員会が支援資金がどう流れたか、こんな銀行口座に金が送付されたことすら摑んでいないは情けない。ともかく、昔からニワトリと煙は高いところに上がるという。ニワトリは飛べもしないくせに羽をバタバタさせるだけ、コケコッコーと掛け声だけは立派、教育委員会も五階で一番高い。続々出る出るいい加減体質。
 もっと自分たちの仕事をわきまえろ。

2008年11月26日水曜日

毎年1100万円ドブに棄てる教育委員会


学校教育法に薬剤師を置けとあるので、何もしないで銭を支払う訳にもいかず、教室内の衛生状態を一年に一回、各小中学校を巡回して検査。
 それは結果報告として教育委員会に提出される。この委員会制度が物を見にくくしている。簡単に言えば不透明。さらに、教育センターなるものもある。どのように連動しているのかが不明。働いている職員もどうなっているのかを明確に答えられないブザマ。
 さて、学校には保健婦がいる。今は名称が異なるが、これが学校保健衛生を管理するが、法があるから薬剤師にも金を分けなければならない。学校医は検診をするから分かりやすい。つまり仕事が見える。これには金を支払うのは当然。ところが薬剤師に何で報酬が支払われているのかと調べた。
 それが学校を巡回して全室を調査したのではなく、適当な教室を調べる。そして改善するべく報告書を提出。ところが、これが生かされない。改善報告は校長、教育委員会に出されるのだが、これを改善するべく努力をしていない。報告書はそのまま書庫に収められて、毎年1100万円が無駄に消費される。
 これはマズイ。児童生徒の健康管理をするなら、黒板への照度不足は改善しろ。目玉の細胞は死滅すると復元しない。近視は更に深刻となる。もっとも家庭環境が更に大事な要素だが。
 ところが教室の照度不足に校長は改善しようと動かない。教育委員会も金がないという。役人は絶えずこれをいうが、自分たちの給与を一割減額しろ、年間18億円が浮く。これをしなければならない日が必ず来る。
 そのため学校環境は改善されない。ならば、薬剤師の報告は無用。1100万円を支出せず、蛍光灯を買って設置しろ。薬剤師にどうしても支出するなら半額に値切れ、結果を生かす気がないのだから。彼等も去年と同じことを書くだろう。生きない報告書を誰が書く。生かされると思うから報告書を書くのだ。
 法には薬剤師に幾ら払えとは記していない。置けと書いていて、薬剤素も必要なときにしか行かない。本来、薬剤師が小中学校に行く必要があるのだろうか。それでも銭を支払う根拠が欲しく仕事を出す。
つまり、学校教育法に問題があり、時代に合っていない。法を変えるか、運用で改善するのか、この連鎖をどこで断てる。改善、改革は市役所職員、諸君等一人ひとりの自覚にあるぞ。

2008年11月25日火曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん4






湊橋を渡ると湊映劇、その隣が柳湯、おかみさんが気のきくいい人で近所の人は皆慕ったそうだ。江戸時代から風呂屋の二階は社交場だったが、央子さんは結婚のお披露目をその柳湯の二階で行った。えらい美人だ、写真がいまいちはっきりしないが、中央に嫁さん、後ろに母、左隣が母方の祖母、その左が父方の祖母、後ろの美人が松橋さん、須藤さん、左端に小中野の田村豆腐屋さ、柳町の吉田歯科院長の顔が見える。
かみさんの話を「はちのへ今昔」に書いたことがある。さんまのからくりTVって番組が中山さんのかみさんを取り上げた。私は昔ミス八戸で、そのことをタウン誌が載せてくれた。だから私の宝物がこの雑誌ですと、「はちのへ今昔」が全国に紹介された。面白いもんだ、何がきっかけでTVに出るのかわからない。人生は妙な場所、面白いようなつまらぬような、甘くて酸っぱいところなのだろう。(右・岳父吉田秀雄)
 そのキャバレーのクジ券をかみさんがチャンとしまっておいてくれた。有難いもんじゃないの、ベターハーフってよく言ったもんだ。テレビがあたりました。そのテレビを売りまして生活の足しにしたってんだから、つくづく、所帯の苦労が身にしみる。ところが世の中悪いことはできないもの、五十年も経って小中野を千里さんがウロウロ、一軒の飲み屋に入ってキャァ、紫苑の娘、今じゃそれなりの昔の娘が「いらっしゃい」ってへったそうだじゃ。
 水目沢の映画館を経営して欲しいと頼まれ、断れずに行くが自衛隊での映写会しか儲からない。陸上自衛隊には三千人もひしめいていたが町はまったく閑散で、米の飯がままならぬ。芋栗で飢えをしのいで一年間、とてもたまらず撤退。しばらく吹上の実家の商売を手伝ううち、岳父(義理の父)から国立工業高等専門学校が出来るので、そこに勤めるように手引きされた。昭和三十七年の話、その開設から手を染めて、映画興行師からお役人へと大変身、勝手きままに暮らした人生から管理される側のお役人、型にはめられ上司の顔色うかがいながら無事に定年まで勤めあげました。なんたって学校の開設準備から勤めたんだから最古参、おとうさんありがとう、と優しいかみさんから花束貰ったそうだ。
 エッ? 日米会館の話? そうそう、この日米会館で千里さんが冷や汗かいた。それは保証人。いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と災難で、若いときは勢いにまかせて強気なことをする。俗に言う若気の至りってやつで、岩手県出身で小中野のカフェ・キングの傍でハレムというキャバレーを開いた三浦という若者と友人になった。気があって毎日のように湊映劇にやってくる。俺も映画館やりたいんだ、日米会館を借りようと交渉したけど断られてサ、と相談を受けた。日米会館の倅は千里さんの友人、お袋さんとも顔馴染み、なら俺が交渉してやると、三浦さんの前でいい格好した訳、日米会館のお袋さんも中山さんが保証人になるならOKとふたつ返事。
 そこで映画館を開始し、そこそこ儲かっているときに日米会館が火事出して丸焼け。青くなったのは千里さん、下手すりゃ夜逃げしなきゃと息を殺して小さくなった。警察と消防の現場検証の結果、火元は売店と断定。これで千里さん助かった。というのも売店は日米会館が経営。出火元は三浦さんではない、危ういところで千里さんはセーフ。若気の至りで保証人になったが、これに懲りて以後はならない。
 中山千里さん、三人の子どもと三人の孫に囲まれ、古女房(右)にはびしゃかけられ(おどかされ)ながら七十二歳、古来稀れなりという七十のお祝いはしなかったそうだ。しなきゃいけない歳祝い、生きてるだけでも有難い、まして節目のお祝いだ。すれば命はまだまだ延びる。
  中山千里さんの巻・ドットハライ(終)
続「はちのへ今昔」の狙いは市民ひとりひとりの歴史の掘り起こし、今は爺ィに婆ァだけれど、鶯鳴かしたこともある、で往年のあれこれの話を孫に喋っても前に聞いた、何回も聞かされたと被害者意識で、老人の面白い話もゴミに埋もれる。
ところが、往時を共に生きた人なら、そうそう、あの人はその後ああだった、こうだったと話しに華が咲く。今八戸に必要なのは楽しく昔話のできるサロンだ。バスに揺られて若者の姿の消えた町で老人同士が湊地区とか、八戸高女、八戸高校などのテーマで自由に昔話、自慢話をして盛り上がる場、それが八戸サロン。今、中心商店街は絶滅の危機、これを打破できるのは自由に金の使える年金暮らしの黄金の世代、孫にやらずに自分で皆使え、生きてきた喜びをかみしめるために。

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材12

九月十六日付
穆山和尚の教え(二)
世の中に立て仕事を仕様とすれば、其仕事が大きければ大きい丈関係が広くなるから思はぬ好都合が湧いて来ることも有る、代りに叉なかなか故障も起るものだ、思ふ事が外れたというて其度に失望したり自暴になったりする様なことでは一生何事も出来るものでない、大きな事業に限らず日々の些細な事でも十二分にいつたら斯う、中位ならば斯う、悉とく外れたら斯うと先づ其一番下等な所に度胸を定めて事に当ると心の中に充分の余裕が出来て、我ながら甘くヤつたと思う事もあるものだ、古しえの武士でいうと命を棄ててかかる所だ、兎角世人はそうでない初めから出来そうに思はれぬ事までドーカ旨く行って呉れればいいと曖昧な所に一生懸命に望を繋いでゐるから狼狽へて仕損じが多い、運も果報も心一つと云って宜しい、一生の間の一部分の僅かな月日を費やして為る仕事ですら決心というものは斯程に大切なのに、一生を人間らしく送らうとするに一つの確乎たる信念がなかった日には立派な生涯は到底送られるものでない、私の為めには母は菩薩善知識であった、母があれだけの気性を持て呉れなければ私は人間になれなかつたかも知れぬ、子供というものは母親の教一つで立身の礎を据ゑるのだから、呉々も女の人は常日頃確乎とした気性を持て、決して子供を緩く扱ってはなりません、女はただ温柔しくありさへすればいいいと云うことはドーモ受取れん話だ、わがまま勝手は男にも女にも禁物だが、女だからと云ふて毒にも薬にもならん様では決して頼母しくない 終

2008年11月24日月曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん3


浅草のロック座が次第に脱いで見せた、有楽町の日劇ミュージックホールにも紳士がズラリと首を並べた。偉い偉くないは関係ない、下半身に直接訴える手法は時代を超えて金に成る。(湊映劇券売嬢・高清水トシ子さん)
ストリップの話でついでに言うが、日本一のストリッパーと称されたのがジプシーローズ。この娘のベリーダンスは語り草。若い女も次第に歳をとり、このローズも体の線が崩れ、若くして酒に身を持ち崩し、便所で倒れて一巻の終わり。人間誰しも一度は死ぬが、若くして名声を手に入れると晩年が惨め、しかし、我々庶民は関係ない、のんびりダラリンと今日もまだ生きてる。
千里さんはこのローズも呼んだことがある。ストリップも儲かったが、一番は島倉千代子の歌謡ショウ、これは昭和三十二年九月十五日、この歳の正月元旦のデーリーには平凡十大歌手の一番、三橋美智也は上り調子、二番手島倉千代子は下り坂と書かれている。共同通信かなんかの買い原稿だろうが、昭和三十年のこの世の花のデヴィユー以来、あの世の花じゃないけどヒットがなかった。かすかに東京の人よさようならを三十一年に出すもサヨウナラで正月元旦に下りと書かれた。世の中どうなるかわからない。三十二年の逢いたいなァあの人に、東京だよおっ母さんで大人気。それを八戸に千里さんが呼んだ。映画館が小さいからと長横町の日活を借りた。ここは城前栄太郎が 館主、この人は八戸の成功と失敗とで指を折られる大経営者。このゴミ捨て場だった所が今の割烹「銀波」、城前栄太郎の親戚が経営中。
この日活めがけて三日町から長横町の出口まで人が並んだ。前売りもしたが当日売りを目指して人々集合。騒ぎを聞いて警察は来る、消防も集まるで大騒ぎ。おまけに当時の市長の岩岡徳兵衛は島倉千代子に逢わせろと秘書を通じて談判、前に奈良光枝を連れて行った時は忙しいので会えないと蹴った、今度は逢わせろと強談判、千里さ んも若いからハァ駄目、それを根にもって千里さんをケシカランと新聞社に言ったとか言わなかったとか、意外と岩徳もミイハアだったのかしら。
入場できない客が入れろ入れないで大騒ぎ、銀映の入り口の扉が曲がる程の大騒ぎ。千里さんは当日の切符の売上が床に山、それを事務員にズック袋に入れさせるが足りずに山、また山。あんなに金が集まったのはあのときが一番と往時を懐かしむ。急遽三回の入れ替えをしてその場をようよう凌(しの)いだ。千里さんは入れ替えなしで前売りしたと大弱り、そこは島倉と共に来八した 東京の興行師、うまいこと言ってさっさと入れ替え。ぶつぶつ不平を言う度胸のある客もいたが、所詮素人、金になる入れ替えに頭が回る興行師の敵じゃない。
この実演で有名な歌手が全国を回っていたもんだ。今のようにTVの画面で見るのはつまらない、昔の方が味わいがあった、本物の凄さにTVはかなわない。我々はTVに毒されて、大事なものを無くしたんだ。このような実演は毎日ない、毎日上映する映画がつまらなければ客足は絶える。いかに面白い映画を手にいれるかが勝負。ここで外国映画のセールスとのかけ引きが出てくる。いくら親密になっても相手が持ってくる映画が毎回ヒットとは限らない。値段も安くないといけない、ここに狸と狐の化かしあいがある。映画館側はセールスを柏木旅館に無料宿泊のサービス。第二中央劇場は千里さんが抜けた跡を兄貴の昭一さんが継いだ。(その後、長横町の大映地下映画劇場に移り、映画が力を失った頃、鮫の特別  養護老人ホーム光養園の事務長に就任し定年を迎えたが昨年無くなった)
兄弟で柏木旅館を利用、柏木旅館に客あしらいの良い美人の中居さん、皆、この人が目当て、ところが、この女性がある日突然姿を消した。弱ったおかみさんが千里さんにあの娘を探してくれたら今月の飲食・宿泊代大映地下劇場と湊映劇の二軒分タダにすると持ちかけた。今の金額なら三十万円にもなろうか、それをタダにするというの だからえらいこと。そこで千里さんは小中野に見当をつけて、一軒一軒ビールを飲みながら探したと思いなヨ。(前列左から出貝・手塚・中山・小萩沢・高清水・後ろ中道・左秋山・○○静子・中山かみさん・鬼沢・工藤・後列右釜石・左梶谷)
 好きでフラフラ飲み屋に入るなら楽しいけど、仕事でビールを飲み続けるのはチョット辛い。当時の小中野の浦町にゃ掃いて捨てるほどの飲み屋がありまして、軒並み歩いても一週間以上はかかる。それでも元気を出して回りに回ったら酔いも回った。そりゃそうだ、千里探偵はとうとう見つけました。さりげなくビールを飲んで、勘定払って柏木旅館に電話を入れた。思わず「おかみさん。タダが見つかった、……じゃない、あの娘がいた」
 長く生きてると面白い話があるもんだ。ある映画会社のセールスで妙なのがいて、岩泉町に純情というバーがあり、そこによく出入りする、更にハシゴで紫苑というキャバレーに足運び、今度は映画館側を接待。お互いにおごりっこしてる訳。その紫苑が来た客にクジを出した。二十八日町の富士電気商会のテレビが当たる仕掛け、クジなんて当たる筈もありませんなんていいかげんにそこらに放りっぱなしにした。紫苑の女の子からクジが当たったと告げられる。島倉千代子の後に中山さんは市会議員(後県会議員)の吉田秀雄の次女央子(なかこ)さんをかみさんにした。この人がミス八戸、千里さんは何処の誰だか知らない人に因縁をふっかけられたそうだ。「吉田の娘をか っぱらいやがって、俺はどうするの?」「ええ?」どうするってどうするの、美人を貰うといろいろあるもんだ。

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材11

九月十四日付
 穆山和尚の教え(一)
味噌臭き味噌とやら、学者臭き学者は真の学者に非ず、威厳をつくらう人には真の気品はなきものぞかし、集ひ来る里人等に我を忘れてもの言う慈愛の中にこそ高僧穆山師は現るるなれ、然れど穆山師とて初めよりかかる円満の人にてはあらじ、長き間思を練り欲を抑へて様々の道程を通り越し今の境に到りしなれ、師常に其弟子に教えて「私も矢張一度は大我慢を起したことがある、夫れは私の恰度学問に凝て諸宗の教文にも遍く目を通し、学問をこのうえなき宝と思って居た時のことで、今になって考へて見ると誠にはや途方もない偏った故事附の理屈を高慢と云う煩悩の中から作り出して我こそはと悟った積りで得意になって居たのである、丸で狂気の沙汰ぢや、安心立命というものは決して道理でばかり得られるものでない、安心を得るみちに百姓も学者もかはりがないのだ」と云ヘり、是等の言葉を能く味はば縦しや、高僧穆山師たらずとも散乱の心を静むるに近かるべし
若き在家の人などの就て教えを請うものあれば、忙はしき中にも疲れし中にも喜びて其の前途を戒しめ「何事によらず焦るとい上は失敗の元、一冊の本を読むとしても終りを急いで半日も一日も読みつづけた日には一時に疲れて仕舞ってモーその翌日はつづかぬという様になる、其上読んだ所も明かに頭には入らず、自然身体を損うことになる、先づ仕事に取り就く前に何か心に懸る事でもあつたら頭の中に兼てこしらへて置く広い野原に追いやって心を清涼と掃除して、そしてその事をはじめるのだ、一心に勉めて疲れたら止すがいい、こういふ心掛けてたゆまずに年月を重ねる間にいつか立派なものになる」と先きには起臥飲食に就いて師が長寿の由縁あるを知りたれど、百病のはじめは多く精神にありと云へば斯る清涼の心こそ師が長寿の第一原因ならめ

2008年11月23日日曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん2





モウ、いいかげんにしてヨ、この茶目っけたっぷりの古川ロッパに似たデップリしていつも和服の好々爺(こうこうや・にこにこしたやさしそうな老人)然とした人も昔は斬ったはったの人生を歩んだ人。それこそ日本にアメちゃんが進駐し八戸の町で狼藉を働いた。当時、三萬デパートはダンスホールとなり多くのアメリカ兵が好き勝手。建物の内部だけに警察も手を出さない。当時は警察も間抜けた組織、国警と地警に分かれていて、互いに相手が取り締まるべきと高見の見物。これじゃ日本人はたまらない。(上・右高清水・秋山・小萩沢・中道・中山かみさん)
 深作欣二監督の映画、仁義なき戦いじゃないが、出撃予定だった特別攻撃隊、俗に特攻隊の生き残りは、もともと死んだはず、生きているだけでも儲けものと、命知らず、泉山重吉氏も同じ根性で乱暴狼藉を働くアメチャン相手に大立ち回り、この度胸に日本人、とくに三日町の旦那衆は溜飲(りゅういん)を下げた(胸がすいて気持がよくなる)。
 後年、泉山重吉氏が中央劇場建設時、この旦那衆が株主になって応援、積年の功労に感謝の意を表した。こういう点が昔の八戸人にはあった。相手を思いやる、相手の行為に厚意で応える。どうも、これが今の八戸の旦那衆に欠けている。気持が小さく、他人のことが気になって足を引っ張ることばかり巧みだ。実に嘆かわしい、親がそれだ から、子は更にこぶり、どうなんるのかね八戸は?
 千里さんは巡業も覚えさせられた。フィルムを持って尻内や名久井あたりまで出かけて映写会。出張劇場のようなもの。大体青年団が客を集めてくれた。勿論割戻をするので相手も張り切る。ところが、こういう時にタダ見をきめこもうという輩(やから)がかならずいるもんだ。上名久井に映写技師と共に出かけたとき、村の大関を張る体のやけにでかいのがタダで入れろ。ダメ、入れろ、ダメの押し問答。
「この野郎」と、千里さんの首を締めにかかった。体は細いが千里さんは高校生の時はバスケット、卒業してからは番町の重茂(おもい)道場(八戸高校の柔道指南家、肉屋も経営)の黒帯。ところが相手は水ぶくれのデブ、少々投げてもまだまだと起き上がる、これじゃ締めて落さないとこちらが負ける、なにしろデカイ、押しつぶされそうになり、あちこちぶつかって千里さんも傷だらけ、 体力的にはかなわない、誰か止めに入らないかとアチコチ見回すが誰も遠巻きにして寄ってこない。これで締め落せる筈と必死になって相手の襟を引っ張るがボロシャツでズルズル、弱ったと思った瞬間眼に汗が入って、ボウッ、あれれ、これは大変と思ったところにようやく青年団の幹部がきて引き分け。もっと早く来いヨ、と言いたいけれども我慢した。
さて、このように千里さんは泉山重吉氏にシゴかれて、いよいよ湊映画劇場の営業主任になるのであります。映画館は当然、劇場という箱があり、その中に入る客がいる。さて、その客が求める映画が問題なわけ。
 と、いうのも東宝、松竹、大映館は決まったフィルムが回って来る、なにしろ専属館。ところが独立映画館は何をやるのも自由。メトロ、ユニバーサル、フォックスなど外国ものは、フィルムを地方の映画館にどう貸し付けるかが問題。
 今風に言えば、映画館がテレビのチャンネルだ と思えばいい。自分の映画館に人を集めるには面白いフィルムを集めなければならない。TV局も自主制作番組を六割以上作れと役所から指導あり、TVの日曜名画座も映画館と同じでフィルムを借りる。(右兄昭一氏・中千里氏)
 つまり千里さんは時代の先端を走っていたわけ。ここで千里さんは持ってた能力を一気に開花。デーリー新聞に広告掲載、各映画館が競っておいでおいでと映画の宣伝。たいして面白くない映画も、面白く思わせる広告が必要。今でいえばコピーライターだ。ここに、この文句を入れよう、ここは大きな文字で、ここは写真をと、智慧を絞って三年で投下資本を回収せよの命令に、四年で返済した高能力。中央劇場には市川政夫という腕っこきの興行師がいて、千里さんの湊映画劇場の名目支配人も勤めていたが、この人から実演の世界を教わる。当時は浪曲や民謡、ドサ回り専門のチャンバラ、一世風靡のストリップが大人気。戦前にもヌードショウはあった。ヌードってのは最初っから脱いでいる。ストリップは次第に脱いでいく面白さがある。これに気づいた奴はえらい。戦後ヌードショウが復活したのは昭和二十二年、新宿の帝都座で甲斐美春っていう裸の姉ちゃんが額縁を持って舞台に登場、これだけで劇場を激情した男が十重二十重に取り巻いて、開始を今か今かと待ったというのだから昔の男は純情。 続

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材10

九月十二日付
 穆山和尚の徳行
遠州の秋葉山といへば誰しらぬ人もなき火事盗難大漁の守護神にて霊験赫灼(かくしゃく・光輝くこと)なりと伝へられ、春秋の両季には遠国よリ百人二百人一群となり、お龍りのためとて集り来るもの日々五六組もあり、盛んなる可睡斉の巨刹に十六年の長の年月住持して信徒の渇仰を其身一つに集めたる穆山師、若しも大方の御坊の如く金銭を愛したらんには何程の富も心のままになりしらんに、師は清貧に安んじて余財なく、今の島田に閑居してより毎月日を定め侍僧をつれて市中を托鉢し以て客を持つとなり、師の住居は島田町の北へ十町許山緑に水清き週りに立てる清楚なる庵室にて、常は弟子のお坊五六、児三人許此世からなる浄土の様にいとも静かに住みなせり、此程の大患に市中の人々嘆き憂へぬものなかりしが、幸に直りしかば男も女も心よりの笑みかたぶけ来たりて悦をもぶるもの引きも切らず、師もうち解けて其の誠を喜び迎うさま慈母の其の子に対するが如く懐かしさに涙こぼるる計りなり、家族の楽なき出家は冷冷として片意地なるものよなどいう人は穆山師の平生を見れば其の誤を見出すに難からじ、「去年の今日は御前様が(穆山師の事)皆を連れて苅萱を採においでなすつたけのう」とは手に手に秋草をもちて菩提寺に詣でんとする此辺りの女逓れがさも情に堪え得ぬごとく語れる言葉の一節なり
師の父は四十余歳にして世を早くし、母は八十六の高齢を保ちて明治十五年の春逝リぬ、維新後の功績穆山の名を高からしめし後の年北海道を巡回せし帰途、母君を省して絶えて久しき対面をなしけるに、寄る年波に眼霞みてさだかに見えぬながらも、さぞさぞ貴くなりつるよと涙を流して喜ばれしが師の生涯に最も大なりし満足も恐らく此時にてありしなるべし

2008年11月22日土曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材9

九月十日付
 穆山和尚の行状
円満無碍の境に入れる穆山師も幼き頃はなかなかの負け嫌にて音に聞えし腕白老なりき、或日師の御坊に従ひて檀家の法会に赴きける折、若き人々様々に悪戯ひて酒を進めたれば、例の負けぬ気に大盃もてしたたか飲み干したるが、間もなく眩暈(げんうん・くらくらする)頭痛に堪へ難けれど苦しき様は色にも出さず座り居たる程はよかりしが、さて帰寺となりければ大地はうねうねと波だちて見え足下よろめきて一歩も進み得ざれば眼つぶりて師坊の乗れる駕籠に取りつきかき人と共に走るに駕籠は片方にのみ傾くにぞ、駕籠かきは弱りてお坊お坊よと引離さんとすれど、此方を払へば彼方にすがり遂に残されもせで寺に帰れり、翌る朝駕籠の雨窓散々破れ居るに師の坊見て怪しむ様なれば、金英すかさず駕籠かきに目くばしつつすすみ出で「御師酔ひて窓に取り付き給いし故この様に破れ候」と先を越しければ、師坊もしかとは覚えなきまま叱りもせず其のままやみけり、此くばかり勝気なるに不思議なるは幼きより他人と争はぬことなり、穆山師自ら語りて「孝は百行の基というは実に至言である、私しは今日まで決して人と争ったことはない、また遊楽のために身体を粗末にしたことはない、それで長命も出来たのだが夫れも是れも皆な親を思よから苦もなくやり通すことが出末たのだ、病気になったら父母が心配するだらう、過ちがあつたら親に難儀をかけるだらうと常に心に親ということを忘れなければ決して人間に大した過ちが起るものでない」と云ヘり、世にも難有き心掛けにこそ
師は十三にして出家してよリ七十九歳の今日まで肉を口にしたることなし、明治四年より今日迄日々の起臥飲食等詳しく侍僧に記さしめたる日記ありて、高き人の身にも及ぶ清らかなる生涯はそれにても知らる、情慾を抑へんと思はゞ苦しかるべし、一段に優れたる楽趣ありて其方に一心を捧げなば左して難き事にもあらざらん、習ひ性となりて師は肉食を好まず、先頃煩に牛乳を必要なりとて医の進むるまま少しづヽ用ゐたれど嘔吐を催す計りに感ぜしとか、英国にはヴェジテリヤンソサイヤテーといひて肉類を絶ち専ら穀物野菜果物等のみ食する会ありと聞く、七十年来実行し来たり健全長寿にして顔色の鮮やかに精神堅固なる師の如きはこれ等の会のために力強き味方なるべし

2008年11月21日金曜日

農業委員会の部会出席率

市役所職員は給与。報酬は臨時職員、委員、この額が馬鹿にならぬ3億8千万、これが無駄ではないかと調べると、こりゃなかなか難問。解けない宿題のようなもの。その最大が公民館費、9千9百万、旧市内22公民館に南郷を加算、館長の報酬は月10万程度、圧縮不可能な数字にも見える。これは難問なので先送り、農業委員会が年間二千万円で報酬ベスト3、これを調べた。
 選挙で選ばれたのが30名、それに市議や組合から7人がぶらさがり報酬を得ている。農業委員会の選挙にも選挙違反があり逮捕者が出たなど、他地区の話を聞くが選挙にからむ話は面白いものがたくさんある。
 福地村の爺さんの孫が自転車を買ってくれろと泣いた。爺さんが選挙が終わったら買ってやると約束、孫が作文に書いた。この前の選挙でお兄さんが自転車を買ってもらいました。ボクも欲しいと泣いたら、爺さんが次の選挙まで待てといいました。早く選挙が来るといいなと思いました。
 ウーン味わいがある。八戸の農業委員会には二つの部会、それに全委員が参加、すると報酬は平委員から一段階上がる。つまり平委員は一人もいないが、平委員の報酬額はある。これも妙。
農地、農政に振り向けられた委員の部会会議の出席を調査、部会に出ようが出まいが関係なく報酬は支払われる。農政は11回部会を開催、それに6回欠席した委員あり。45%しか出席しない。それでも真面目に出た委員と同じ報酬は何事だ! 
 その者は八戸市尻内の加藤委員、選挙で選出された男、もうすこしまともに働く人物を選ぶべきじゃなかろうか。農地部会は12回開かれ、4回欠席が河原木の大沢委員、これは3割3分の欠席。市議4名が選任され年額54万を貰う。水道企業団の議員報酬より高額。これも議員へのオマケのようなもの。市議もいろいろと首を突っ込まなければならない仕組みになっている。
 農業は国の基幹、休耕田、農地転用など国の政策に大きく振り回される。しかし、農業は守り育てなければならない。外国の農産品だけに依存はできない。自給率向上も叫ばれる。

2008年11月20日木曜日

市会議員の海外視察



山名、上条、坂本、東野各市議が西欧。中国を廻ってきた。この主催は全国市議会議長会、本当はこの会の金の集め方に問題がある。全国806の市から百万円集めても8億円、ここの職員の給料が平均860万と八戸市役所も真っ青、八戸市役所職員は平均720万、水道企業団は更に高いが上には上があるもんだ。
 この会が主催で全国の市から議員に呼びかける。九年に一度行ける順番になるのだが、これを多いと見るか少ないと見るかは判断ひとつ。
 この会が視察先で集合写真を撮り、冊子を製作、これが参加者の議会に配布され、行った証拠となり、さらに選抜された市議数名が感想文を其の冊子に掲載。これに噛み付いて、八戸市議は報告書を独自に出したのかと迫った。他県で飛行機に乗らなかった事件があり紛糾。
 そして今年から報告書が出た。議員一人ひとりの人格が異なるから観点も違う。だからこそ視察の意味と意義がある。かけた経費の高よりも大事なのは、そうした国があり国民がどのように動いているか、交通手段は? 下水道、ゴミ処理、食生活は? 物価は? これらは実際に行かないと見えない。それを支弁するのは八戸市としては当然だ。観光旅行としてみれば9年に一度の卒業旅行、ご苦労さん賃と思えば高いか安いか。
 それを市政に反映させるかさせぬかは個々人の問題、見識ある報告書が提出されている以上、つべこべ言うのも屁理屈。

八戸市役所何処に行ったパソコン316台 その2

IT推進が各課に貸したパソコンの行方不明事件は表面上の問題。
 根底にあるのは各課でシステムと共に借りるパソコンにある。生活保護を処理するためにソフトと称するパソコンを動かす命令がある。これが電源を入れると動き出し、申請をする人の住所・氏名などを入力すると住民基本台帳を入れた中心コンピューターと繋がり、住民情報を入手、それから資産などを入力し、保護を受ける資格があるかを、厚生省の指針に従って判定する。
 このソフトが曲者、これは他都市も同じように使える汎用(はんよう・一つのものを広く諸種の方面に用いること)ソフトだ。
 これを購入することは知的所有権を得ること。それに八戸市特有な処理、カスタマイズと呼ぶがこれを処理してもらう。これも八戸市が特別に注文するから八戸市に帰属する。
ところが、これらへの知恵がないから各課は富士通のいいなりになって、ソフトとパソコンなどを契約する。現金で買わないのが八戸市の方針のためリースとなる。
 つまり、値切って買うのが当然だが、これを適当な値段で折り合う。リース会社は競争入札になり金利を上乗せして払う。現今は金利が低下したが、それにつけてももったいない。金利も本体も皆市民の税金で支払われる。
 さらに恐ろしいのは各課はこのリース期限がきれても、所有権が八戸市に移っても同じ契約を繰り返す
 支払いが終わり所有権が八戸市に移った以上、一円も支払う必要がない。操作するパソコン、場合によってはサーバー(中央コンピュターは土日動かないから、各課に置く小型コンピューター)もリース切れとなり十分の一程度で再契約する。ところが、これらを五年ごとに新品とするように富士通にそそのかされてその気になる。
 そのため毎年5億円がOAの借り賃として支払われる。金は市民のためになるように使え。この圧縮できる1億5千万円を高等看護学校につぎ込み、学費をタダにして、全国からやる気のある人を募集し、更に産科の専攻科を設け八戸市民病院にもある院内産院を院外にまで設置。
 八戸に来れば安心して出産できる体制を生み出すことだ。特徴ある地方行政を創出することで人は動く。姥捨て山も人が動いた。希望のない動き方もあるが、人は希望なしには生きていけない。どんな些細な希望でも、それを持ち続ける限り人は活き活きと生き続けることができる。
 夢と希望、それを実現するには無駄を省き、必要なところに金を注ぎ込むことだ。若者には希望を、老人には跡を託せる喜びを与えることだ。それを実現するには各課の契約を一本化できる部署が必要となる。パソコン、コンピューターの文字を見る、聞くだけでアレルギーを起こす人間ではなく、それに猛然果敢に取り組む情熱を持つ情報システム課の工藤氏の登用こそ、OAがらみの費用三割削減の実現となる。
 市役所にも優秀な人物を見る。政策推進課の石田慎一郎課長は口から上は石坂浩二に似ている。頭の回転の良さは庁内で一、二だろう。課長になるとどうしても役人臭さが出て、折角の特徴を押し殺しているが、なかなかな人材。これら人材の登用が巧く作動したとき、八戸市役所は大きく変わるだろう。

2008年11月19日水曜日

八戸市役所何処に行ったパソコン316台 その1


管財契約課の契約80億円は競争入札、各課の契約60億円の半分は随意契約。全ての契約を管財課に任せろと問うと、管財に人員が必要となる、各課の事情は各課が知っているの二点で拒否。
 しかし、そのとがめが出た。それはIT推進グループが契約した職員用のパソコン。これは市役所をIT化しようとの方針、これで各課の職員に貸し出される。
この契約にリース期間満了時はパソコンの所有権は八戸市に帰属とある。他の課の契約は満了時はリース会社が引き取るというものもある。一般的に会社だと処分費用がかかるのでリース会社に引き取らせるが、行政は自身でゴミ焼却場を持つ。そこで処分可能なので所有権を得る方法も間違いではない。さらに、このパソコンの可動な物は小中学校の教材にもなる。教育員会が児童、生徒に使用させるパソコンは1800台で絶対数が不足。一校あたり20台が配備、クラスによっては40名などもある。すると半数は見ているだけ。これらの児童・生徒用に供するべき。このためのリース料が年間1億6千万円。これも巨額だが、子らがパソコンの使用方法を知らないは困る。ところが、教育委員会は契約満了時にはリース会社に引き取らせる。教育委員会は生徒全体に使用させようとしているのだろうか。
 さて、教育委員会の話は置いて、IT推進グループは契約満了に伴い、備品台帳を作成するところを放置、各課から引き上げたパソコンは倉庫に入れたという。その現状は確認していない。316台は相当な数で、机一台には並べきれなかろう。ところが、各課に貸したパソコンをそのまま使用している課もあった。
 IT推進は各課に貸し出したパソコン台帳を持つ、この番号で議会事務局を調べた。たしかにあった。が、契約満了の台帳はないという。何処かにまぎれているのだろうが、管理のいい加減は間違いがない。それもこれも各課には意識がない。先ず、パソコンアレルギーのようなものもある。分からないから業者任せにする。富士通にいいように扱われる素地があるのだ。

 分からない、分かろうとしない各課に契約を任せず、管財契約課を厚くして、統一した契約内容にする。これによりOA機器借り上げ料4億8千万円の三割、1億5千万円ほどが圧縮される。この手段方法は明日記載。

2008年11月18日火曜日

三日町の話4

東奥日報昭和四十五年一月三日号
「丸光」「緑屋」という黒船の到来で目をさまし、奮起が大いに期待されている八戸市商店街だが、ことしもどうやら試練の年になりそうだ。「丸光」「緑屋」の力は、昨年「丸美屋」の閉店で充分思い知らされている。ところが、今年の秋には「長崎屋」が一枚加わることになっているのだから商店街にとってこれ以上の大脅威はない。一方これを迎え撃つ地元側はどうかというと、「長崎屋」よりおよそ一ヶ月遅れて「みまんショッピングセンター」「八戸中央ビル」「七尾ビル」などが続々顔を揃えて対抗することになっているが、全般的に立ち遅れの感は免れない。共同店舗、専門店化など、大型店対策が叫ばれてはいるのだが、なかなか具体化するまでには至っていないのが現状だ。
 大型店進出の影響がはっきり現れ始めている昨今だけに、同市の商店街はことしも波乱に明け暮れそうな情勢になっている。
 ことし新しく生まれ変わるところを拾ってみよう。最も早いとみられるのが、十月オープンの「長崎屋」(八日町)地下一階地上八階、床面積一万三千二百平方メートルというのだから一部娯楽部門の営業が予定されているとはいっても相当な売り場面積だ。しかも全部が衣料で全国に五十以上の店舗を構えるチェーンストアだけに独特の販売シシステムがとられるといわれ、地元の衣料関係小売り業者にとって大きな脅威となりそうだ。
 続いてお目見えするのは「みまんショッピングセンター」(三日町)だろう。十一月下旬ということだが、建物の規模は「長崎屋」「丸光」をもしのぐ地下一階、地上八階の大きなもの。この中にはデパート一つのほかスーパー一、専門店二十―四十などが入店するといわれ、完成すると、このショッピングセンター内だけですべて必要なものが整えられるという完ぺきさを持つ見込み。
 また早くからウワサにのぼっていた三日町防災街区の第四号ビル「八戸中央ビル」も、いよいよ今月中に着工、オープンは十一月。地下一階、地上六階、五千五百平方メートルの共同ビルとなるが、これもショッピングだけではなく、レジャー的な機能まで持つことになりそうだ。長横町では七尾家具百貨店が建設を予定している「七尾ビル」がある。ほとんど同店が使用することになりそうだが、家具専門店であるだけに、その規模はかなりのもの。
 このほか、六日町には「松和ビル」の建設構想があり、今年は「丸光」「緑屋」が進出した一昨年を上回るにぎやかなビル・ラッシュになりそうな気配となっている。
 ここでもう一つ見落とせないものは十三日町の「丸美屋」跡がどうなるかということである。三日町中心の傾向が強まってきているものの「丸美屋」跡は一等地であることにかわりはない。その意味では現在の状態で放置しておくこと自体大きな損失であり、新年早々から「丸美屋」をめぐる動きが活発になることが十分予想されるところ。そして、いたんでいるとはいえ「丸美屋」の建物がなんらかの形で新しく生れ変わるのも案外早いのではなかろうか。
 こうしてみてくると、秋から来年にかけて同市の商店街では、これまでなかった激しい形の攻防戦がくりひろげられることになりそうだ。「丸光」「緑屋」の進出で「丸美屋」が手をあげたのは、わずか一年あとのこと。関係者のみならず大型店の力を目のあたりにみせられた格好だった。ところがこれに「長崎屋」「みまんショッピングセンター」などが続くとなれば、商店街はいったいどうなるのか。従来からの地元業者にとっては試練以上のものになることは確か。これからの荒波をどう乗り切るか、各小売業者にとって今後大きな課題となることだろう。
 しかし、大型化の動きをよそに全般的に見た場合地元側の立ち遅れはどうしようもない。先にあげた一部の小売業者はすばやく転換、あるいは店舗の近代化などで県外資本との対抗策を編み出したが、大部分の業者はいまだに流れに身をまかせている感じ。このままでは、必然的に苦境に立たされるところが出て、「丸美屋」の二の舞を演ずる懸念さえある。
 ただ店舗の近代化を図るにしても先立つもには資本。ところが個々の業者では当然限界がある訳で、仮に経営者の頭の中に考えが芽生えても先には進めない。そこで、出てくるのが「八戸中央ビル」(つきや洋装店と広沢朝平氏の共同ビル)のような店舗の共同化など。大手スーパーの進出に悩まされている地方都市で最近活発になっている大型店対策である。この際関係指導機関が率先して地元の力を結集するように業者に働きかけ、これから永久に続くかもしれないあらしに備える必要があるのではなかろうか。
 こうした中で注目されるのは専門店会(小瀬川吉三理事長)と商業会(石岡佐蔵)の合併問題である。大型店に対抗するための一つに割賦販売があるといわれているが、どちらかといえば、是までは地元同士が競争に身をやつしてきた感が強かった。これでは共倒れの恐れさえ出てきかねず、「敵は本能寺にあり」ということで今回両者の合併話が浮き上がってきた。順調に話し合いが進めば、四月には実現の見通しだという。
昭和四十五年元旦 東奥日報
 大型店めぐり攻防激化 八戸に進撃始める 温室に吹き込んだ風
 地上八階の長崎屋 
青森県の流通業界の本格的な変革は五、六年先=これは五年くらいまえから毎年のように繰返されてきたことばだ。大型企業の影響は、関東の日帰り圏に編入された地区だけ。東北では福島あたりが吸引され始めたが、青森県を中心とした北部三県はまだまだ……業界にはそういう安心感があった。
 大型化、近代化は理論では聞かされ知ってきたが、」きびしさに眼をつぶり、なんとなく時期尚早論を口にしてきた。これが青森県の流通業界の現状ではなかろうか。しかし、温室のような青森県の業界にも、容赦なくスキマ風が吹き込んできた。
 青森県の流通業界の最初の試練は一昨年、八戸市に進出した域外大型店の開店で始まった。この影響は昨年になって、地元企業の閉店という形で現れた。大型店が地元業界に及ぼす影響を、業界はまざまざと見た。五、六年先どころか現実に足元で波乱が起こったわけである。
 地元が最も恐れていた事態、つまり閉店や倒産に追い詰められるきびしい事態に業界は揺らいだ。しかし、これは域外勢力が伸ばしたほんの一部の触手にすぎない。またそれが業界への決定的な打撃になったわけではない。早い話が局地的なアラシだった=と見てよい。
 注目されるのは、昨年後半にクローズアップされた第三勢力のショッピングセンターである。八戸地区に着工した「長崎屋」は全国に五十の店舗を持ち、年商は実に四百億円(四十五年二月決算時の推定)秋田、盛岡とじりじり北上を続けてきたが、本県入りは八戸が初めて。
 地上八階のビルは、八戸市内でも高層建築の部類に入る。巨大なだけなら、地域だけの影響で住む。広域店といっても県南から岩手県北までの地域が影響を受けるだけで済む。しかし「長崎屋」の場合はそれだけでは済まない。それは前にもあげたように、同店がショッピングセンター的な経営形態を考えているからである。
アラシは強くなる ショッピングセンターは、もともと米国から輸入された形態。海外でのショッピングセンターは例外なく郊外型。下町の小売業は自動車の洪水で立ち行かなくなった。このため郊外の原野に、マンモス的な店舗が続々開店した。これが日本にまっすぐ入り、今その本格的な第一波が本県にも及んできたというわけだ。
 現在、国内で最も大型なショッピングセンターは、百二十五の出店者を抱え一万四千平方米の売り場面積を持っている。ところが売り場面積六万六千平方米という巨大なものも計画されている。弘前には大坂資本のショッピングセンターが開店して話題を呼んだがこうした形の店舗が次々に計画され、開店していくものと見られる。
 こうしたはなやかな開店のムードの裏に、問題点が全くないわけではない。それは高層化に伴うビル経営上の問題である。簡単に言えば、各階を満たすだけの入店者があるかどうか=ということだ。この点について先進地八戸の商工会議所では次のように警告する。「地下、あるいは一、二階は建築主が入ることが多く、別に困らない。しかし三階以上となると、なかなか簡単に決まらない。よそ(域外)から連れてくるのもいいが、下手をすると競争相手になる。この悩みは大きい。高層ビルで最も苦労するのは三階以上をどうするかだ」 
 巻き返しはできる ビル建設の資金は、極端にいうとどうにでもなる。建ててしまってからこういう伏兵がいることも十分知って置くべきだ=と同会議所では言う。ビッグストアは、ボウリング場などレジャー施設を抱えて出店する。これは地方進出の戦略としては、最も効果的である。現に、黒石市に開店したデパートのチェーン店もこれを採用した。
「しかし、八戸市には既設のボウリング場が何ヶ所かある。レジヤー施設にも限界というものがある」と同会議所ではいう。防災ビル、あるいは再開発ビル…と近い将来、市部にはショッピングセンターがどしどし建つだろうが、この点を考えに入れて置かなければ百%事業を達成したといえない=というわけである。
 このショッピングセンターは、地元の商業団体、たとえば専門店会や商店組織に、微妙な影響を与えそうだ。ビルが出来れば、食料品店や飲食店が開店するのは最近の風潮だと言われるが、これはその他の業種にもいえる。とにかく、近年にない出店ブームが出現すると予想される。
 いきなり規模の大きい競合時代に巻き込まれて、地元の業者は何を考えているだろうか。これも八戸商工会議所の意見だが、巻き返しは出来る」と断言する。同地区の業界にとって当面のライバルは大型店。はっきり言うと、デパートには、あらゆる商品がある。総合的には消費者の需要は満たせる。この点は太刀打ちできない。しかし専門商品となると、個人商店の努力移管では十分対抗していける余地がある」と同会議所はいうが「地元の三萬が計画したショッピングセンターは生き延びるためにはよい方法だ」と両面作戦の必要も付け加えた。
 ショッピングセンターの展開とデパート、スーパーの新市への出店は、ことしの商業界の二つの目立った傾向になりそうである。このほかに考えられるのは、第二の商店開発である。八戸市の繁華街は道幅が狭いため一方通行になっている。
「こうも車が多くなると、戦災にあわなかった町並みだけに駐車場難がこたえる。こうなれば、新しい商店街の位置を考えなければならない。たとえば類家田んぼとか尻内駅周辺とか、土地の問題に煩わされないところに中心街を移動させることも…」と地元ではいう。
昭和四十五年三月二十日 東奥日報
三春屋が買収交渉
八戸丸美屋デパート大資本進出押さえる?
中央資本の進出と大型店の挟撃をうけて閉鎖のうきめにあった八戸市十三日町、丸美屋デパート(大沼直社長・資本金三千五百万円)の跡地利用については、中央資本あるいは地元業者の手でどのように再建を図るか注目されていたが、結局隣接の総合衣料店三春屋(藤井与惣治社長・資本金五百万円・従業員八十四人)が昨年暮れから買収交渉を進め、いま買収条件などで詰めの段階。
 丸美屋デパートは負債総額約五億円をかかえて精算事務に入っているが、土地は三千三百平米の坪単価七十万円としてざっと七億円に上る巨費だけに、おいそれとは買い手がつかなかった。もっとも中央から十字屋をはじめ大手からの買収交渉があるにはあったようだが、八戸商工会議所など地元商業界から「ここ一、二年の間に「丸光」「緑屋」、それに現在建設中の「長崎屋」が相次いで進出、地元業者を圧迫している折に、これ以上中央資本の進出を許してはますますジリ貧状態に追い込まれる」として、地元業者を優先的にという要望が強かった。
結果的にはこれが受け入れられた形で、今三春屋が単独で買収交渉を進めている。買収条件については明らかではないが、丸美屋の建物(鉄筋コンクリート、地上三階延べ二千二百七十六平米=食堂を除く)は十勝沖地震の影響で使用に耐えないため
① 土地を買収する
② 株を額面より高く買収して、一切の負債を肩代わりする
の二点が考えられているが、後者の買収形態で交渉をすすめているといわれる。
 問題の丸美屋労組(富岡委員長ら二十五人)は営業時の百九十人から大きく脱落し、いま経済闘争に重点をおいている。それも退職金の上積みなどの条件さえ同意を得られれば、あえて再雇用問題に固執しないと態度が軟化していることから、解決の方向に歩み出している。もっとも丸美屋としても五億円に上る負債の金利だけでも月約三百五十万円余に上るだけに、労組の要求にある程度譲歩しても土地を売り急いで早めに精算したい考えもあるようだ。
(つづく)

2008年11月17日月曜日

八戸市の防災安全推進室は機能しているのか

昭和五十一年に巨額な設備投資をし、市内三十九ヶ所に災害情報を流す拡声器をとりつけた。
この災害は津波に特定し、据えつけたのは海岸部のみ。ところが地震の被害甚大なのが八戸市の特徴。過去にも大きな被害を被った事例は幾つもある。昨今は徘徊老人や変質者が出て小中学校は近隣住民、保護者に警戒を呼びかけているが、これは点を押さえるもの。面を支配するのが防災無線の活用。
「はちのへ今昔」が静岡県沼津市に二年前に釣りに二ヶ月出た。そのときに市内全域に、この防災無線が流れていたのを確認。
沼津市は八戸市より人口は少なく、二十万五千人。
その防災無線の案内を記す。
市内一斉清掃中止のお知らせ
七時半
放送対象・全市
本日予定されていた市内一斉清掃は、悪天候のため中止します。
秋季全国火災予防運動実施中
十八時半
放送対象・全市
ただいま、秋の全国火災予防運動が実施されています。この時期は空気が乾燥し、一年中で最も火災の発生しやすい季節です。火の取り扱いに注意して、火事のない安全な町をつくりましょう
これらは携帯電話のメールでも見られる。ところが携帯を持っていない年寄りは見れない、知ることができない。こども老人こそ防災の第一の対象者だ。これら抜きで防災はあり得るのだろうか。また、災害時に携帯が役立たずになるのは誰でも知っている。メールとても同様だろう。違うという意見のあるのも承知、が、大規模な事態で本当に機能するのだろうか。
八戸市も携帯電話に防災情報を流している。が、その利用者は少ない。平成二十年の二月から実施しているが、一般市民の利用が2654人、消防関係者が1409人、これが十月では3785人に消防関係が859人と減少。
 沼津市の携帯情報の利用者数は知らない。八戸市の防災無線を市内でも利用できるようにするのが第一義(だいいいちぎ・最も大事な根本の意義。また、本質的で最上の価値あること)。ところが、これには巨額な金がかかると小林市長は及び腰。
 行政は何か?の本質を探るべく日夜市役所に出かけて色々調べると、市長は飾りで職員の言うままに動いている。市長は元気で批判的でない人間がいいと職員は思っている。市長は飾りなのだ。この防災無線にしても、小林市長がそう思っている訳ではない。職員が思っていることを市長が発表したにすぎない。
 出前行政が先月末に柏崎公民館であった。「はちのへ今昔」が沼津の防災情報のようなものを実施できないかと問うた。そこで金がかかる、現在八戸市にも防災無線があるが、一部壊れているの発言。いずれ調べてみようと思って時間がとれたので調査。
すると妙なことが判明。海岸部に備え付けたのは39台、そのうち4台が故障、それを三菱電機青森支店が持っていった。ところが、部品を製造していないので修理ができないと回答があったと係りが答えた。
 なら、その故障機械を送り返せ、修理できる人が八戸にいると伝達。すると、その機械は青森支店から尼崎工場に送ったという。直せるかもしれないので機械は送ってこないという。
 故障したのは何時かを聞いた。
○一台は平成十九年の七月の定期検査で判明。それを取り外し尼崎工場に送った。部品を製造していないので修理不可能と判明した。
●残り三台はどうした。
○三台の故障は平成二十年七月の定期検査で判明。これを取りはずし青森支店に持ち帰った。
●それを修理せよと依頼したか
○それらは尼崎工場に送り修理できるか見ている
●七月に送って三ヶ月過ぎたがまだ修理できないのか
○出来るかの確認を待っている
●すると昨年の七月に送った機械は八戸市の所有物だ、それが一年以上尼崎工場に放置されていることだな、そんないい加減な処理でいいのか、市の財産は八戸市民の財産だ、それが修理できないと判明しているのに、返却請求もしないでいいのか。直ちにその一台は返却させろ、修理して使用できるようにする
この文言は昨日十一月十四日十六時に係員と交わした言葉だ。
 防災推進室はこの39ヶ所の無線をデジタル化しようと考えている。総額10億円だ。それは市内一円に防災無線を張り巡らすのではない、今の機器をデジタル化するだけだ。そんな無用な金は使用するべきではない。市内全域で使える防災無線とするべきだ。 はてさて、経済観念のない奴ばらの集団が役所、金は無限に沸いてくると考えているのだろう。市民の苦悩は何処吹く風だ。この展開は判明次第報告。

2008年11月16日日曜日

三日町の話3

 ここで総ざらいをしてみる。「はちのへ今昔」は昭和三十年から八戸を見直して、今、六月号は昭和三十一年、しかし中心商店街にとっては、大事な年は昭和二十六年十二月十三日、この日、南部トラック跡地に八戸初の百貨店が誕生。
昭和二十六年十二月十一日 デーリー東北新聞
 しのぎを削る商戦 デパート出現に狼狽
資本金二千万円、地元投資家の中島石蔵氏を社長とし岩手殖産という大バックに恵まれて十三日開店の運びとなった丸美屋デパートの出現はさしあたって八戸商人にとっては一大脅威である。盛岡の川徳デパート直系で仕入れるため、高い八戸商品の売れ行きに影響することは当然でしかも歳末を控えての開店とあってはなおさらのことであろう。
 しかしこのデパートの出現は地方民待望のものであり、これに刺激され呉服、洋品類を始め地元業者が中央直仕入れなどデパートに負けないサービス本位に転換されていくこともまた必至で、丸美屋デパートの開店は八戸商品の価格表示に画期的な改革をもたらすものとして購買層はこれを心から歓迎している。
 商工会議所の「大歳の市」は参加店二百店を突破するものとみられるが、専門店会では本年掉尾(とうびまたはちょうび・最後)の大サービス「甘辛づくし景品付き大売出し」を今十一日から二十一日まで二十日間にわたって行う、これは買い上げ百円毎に福引補助券一枚を進呈し、補助券五枚で福引抽選券一枚となる仕組み特賞に砂糖二十六貫入り五本呈上とあるから甘党にとってはすばらしい魅力となるわけ。地域的には二十三日町、小中野、鮫あたりがすでに連合大売出しの計画を明らかにしており、湊は本町と柳町がしのぎを削る競争を展開する。また陸奥湊駅の「暁市場」も大館村のそ采類を主力としてかつぎ込まれ、山の幸、海の幸の激しい交流がミナト八戸の歳末風景に特徴ある彩りを添えている。
十三日町に登場した八戸初のデパート丸美屋は南部トラック会社跡に建った。
デパート名を公募し、丸美屋に決定。
公募入選者名は一等賞金五千円 八戸市小中野北横町中村義勝殿
二等賞金千円 山伏小路 大里征夫殿
小中野新丁 澤上政吉殿
三等五百円 八幡町 鳥畑鴻次殿
          木村みどり殿
      大工町 古川ノリ子殿
昭和二十六年十二月十四日
 デーリー東北新聞
丸美屋デパートきのう華々しく開店
 八戸十三日町中央に新築中だった丸美屋デパートは十三日華々しく開店した。この日デパート前には色とりどりの花輪が飾られ、十三日町角まで開店を待つ人々がワンサと詰め掛け時ならぬ賑わいを呈した。
 店内は一階に化粧品、ネクタイ、食料品、菓子、家庭雑貨、家具、二階は衣料、呉服、服地、玩具、和装雑貨で六万五千円の振袖や一万五、六千円のお召しなどがご婦人の人気をよんだ。三階は文具と大食堂、売り子さんもグリーンに白線の入った制服で愛嬌たっぷりのサービスぶり、クリスマス年末年始を控えて店内は老幼男女の人波に埋まった。 デーリー東北新聞
昭和43年6月27日デーリー東北
風雲急!八戸商戦夏の陣
あす二デパート開店
地元イメージアップで対抗
新産都市・八戸の商業地図を大きく塗り替えるとみられる県外資本の大型二店があす二十八日そろって開店する。仙台に本店を持つ「八戸丸光」と全国四十チェーンの月賦販売「緑屋」で、ともに中心街に大型のデラックス店舗をかまえ、商品の陳列も終わってオープンを待つばかり。地元の小売り業界にとっては脅威だが、商業界が近代化へ脱皮するための試練ともいわれる。一般消費者にとっては「東京センスの買い物ができる」と大歓迎。大型店の進出で八戸商業界はどうなるのか。夏の商戦のスタートに合わせた大型店の開店と夏の商戦を展望すると…
割引セールも花盛り
「えらいことになりそうだ」というのが商業関係者の受け取り方だ。新産業都市としては発展を続ける八戸市の商業界が、いつかはくぐらなければならない関門であり、きたるべきものがきたともいう。とにかく既設のデパートはもちろん、小売店の規模をはるかにしのぐ大型店が、競って二店同時に開店することで、業界はとまどっている。
 八戸「丸光」、八戸市の年間売り上げ(小売業)の六分の一に匹敵する年間四十億の売上が目標といわれるから、既存の小売り業者への影響は免れない、というのが一般的な見方である。「家族連れで楽しいお買い物を」と売り込んでいる。
 一方、緑屋も「東京センスの買い物を月賦で」と年間の皮算用は高い水準であり、買い物からレジャーまでというこれまでにないシステムのもの。
 大型店の進出に対処する地元業者はどうか…。まず、店舗の増改築が盛んだ。衣料品のM、呉服店のO、雑貨の数店など、店内の改装や増築で新しいイメージをつくり、客足の吸収に懸命。三日町かどに靴、カバンの専門店が進出するうごきや、Mデパートの売り場面積の拡張計画など目抜き通りの商店街は今後も変わりそうだという。一般消費者にとっては歓迎すべきことだが、大型店の進出に対抗したと見られる「割引セール」や大売出しが花盛りで、いかにも「戦国時代」を思わせる。
 「既存の小売店にも激しい商戦を生き抜く手段はあるはずだ」(八戸商工会議所)は忠告する。

昭和四十三年六月二十九日デーリー東北
まるでお祭りさわぎ
「丸光」「緑屋」開店
どっと五万人の客
八戸駅前まで人の波続く
八戸「丸光」と緑屋八戸店が二十八日そろって開店した。八戸初めての大型デパートの開店につめかけた買い物客はざっと五万人。時ならぬ人出に町はごった返し、交通がマヒするなど「お祭り」以上のにぎわいだった。「丸光」「緑屋」の営業開始は八戸商店界に転機をもたらし、異様な熱をおびて夏の商戦がスタートした。
交通マヒ、迷子も続出
 大型デパート、八戸「丸光」はこの日午前九時半開店したが、新装なった同店の三日町通り入り口でミス・ワールド代表の外山智香子さんも花を添えて「開会式」を行い、正面に張られた紅白のテープに佐々木正一社長、木幡市助役、武輪八戸商工会議所副会頭がハサミを入れ、クス玉が割られて花ふぶきのなかを待ちかねた買い物客がどっと店内に吸いこまれた。一方、前日、松和ビルの落成式と内覧会をやった月賦専門店緑屋も同九時半、打ち上げ花火を合図に開店した。両店の開店は、八戸商店界の夏の商戦のスタートでもあり、既存の小売店のほとんどが同時に「祝賀セール」と銘打つなどの大売出しを始めた。
県外からも多数 
 「丸光」「緑屋」の開店したこの日、八戸市の中心街は文字通りお祭り気分で地元八戸をはじめ三戸郡下、十和田、三沢を含む上北地方、岩手県北の久慈、種市、福岡、軽米などからおおよそ五万人の人出(八戸警察署調べ)だった。
 なかでも「丸光」デパートの盛況は大変なもので、開店二時間前から「一番乗り」を待つ人をはじめ午前中、長蛇の列が八戸駅前まで続いた。
業界に活気呼ぶ
 開店後一時間で同店内に吸いこまれた人はざっと六千人ということで、店内を一巡したあと緑屋、そして岩徳ビル、三萬、丸美屋などで買い物していた。丸光の買い物客は五万人を数えたという。
 大型店の開店を機に八戸商店界に「活気」を期待する声が多い。「地元小売店にとっては確かに脅威であろうが、八戸に客を引く魅力が増えたわけで、消費購買力の吸引力が倍加するだろう。商業圏内の人口三十五、六万でその三十五、六%を吸引していると見られるが、一、二年中には五十%になりうるだろう」(菅原商工観光課長の話)という。八戸商店界が飛躍、発展の第一歩を踏み出し、今後業界の近代化、体質改善が進むものと期待される。
人出の割りに平穏 
 この日八戸署ではまつりなみの警察官(四十二人)を繰り出し、交通整理と警備にあたった。同署の調べだと昼すぎまでに三万人の人出があり、さらにその後もふえて最終的には五万人を越える買い物客が押しかけたとみている。この人出につれて迷子が続出、同署保安課ではテンテコ舞いの忙しさ。「ここでは迷子の大安売り」とぼやいていた。しかし人出の割りには平穏無事なデパートのオープン・デーだった。
 昭和四十四年十一月十四日号 デーリー東北
さようなら丸美屋 十八年間親しまれ ついに閉店、明日解散
 県南地方では初めてのデパートとして十八年間八戸市民に親しまれてきた丸美屋デパートは、きのう十三日で閉店した。会社は十五日株主総会を開いて解散するという。
 株式会社丸美屋(資本金三千五百万円、大沼直社長、従業員約百七十人)は、地元経済界とデパート経営では東北地方でも屈指の川徳デパート(盛岡市)がタイアップして昭和二十六年にオープンした。消費経済の順調な伸びにささえられて業績も毎年伸びていたが、八戸経済界の再編が目立ってきた四十二年ごろから下降線をたどるようになった。特に「丸光」「緑屋」など県外資本の大型店が進出した四十三年夏から売上は更に悪化、四十四年二月決算では二千七百八十万円の赤字を出した。このほか巻き返しを狙って買収した拡張用地や運営資金の確保などで負債が約五億円にも上ったたため、会社側ではさらに多額の投資をして建て直しを図っても採算的には不可能と判断、十月十三日の株主懇談会で自主閉店をきめた。(後略)

2008年11月15日土曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材8

九月七日付
 穆山和尚の苦行
赤貧を物ともせず苦学すること十年、三十歳の春業なりて一旦帰国したりしに、人柄といひ学問といひ田舎に稀なる御憎と見えければ法類知己皆その去るを惜しみ、故郷にありて住寺せんことを勧めたり、金英も独り心に思ふやう長の歳月若しみて今は一週リの修行をも卒へたれば、暫くは心安く此所に止まりて父母を慰め参らせばやと、我しらずおこたりの心萌せしは危うかりける事共なり、若しその母の無からんには今の名僧穆山は其まま世には出ざりしやも知れず、金英半ばかくと定めて、さてもその母に告げるるに母は涙を流し「泣は何と見らるるぞで、此辺りの御坊等は学問はもとより浅く行修まらぬこと在家よりも甚し、汝も今このままに修業を怠らんには遂には斯る凡僧となり果つべし、父母の汝を棄てて出家せしめし本意は、最愛の汝を当地に留めず再び行脚をすすむるは母の忍ばれぬ情にはあれど、唯汝が初一念を貫かしめんと思へばなり、他日出家の本懐を遂げて後ち、母に手向ける汝が一遍の回向は生前百の孝養にもまさり草葉の影にて最も嬉しくうけ侍らん、老いにし妾の今日の別れ或は今生の別れとならんも知り難けれど、母は露計りもうらまじ」と励ます言に金英に迷いの夢を喚び覚まされ、再び誓を新にして其のまま故郷を立ちいでける
小田原の海蔵寺に月潭とい言老僧ありけり、九州の人にて当時碩学の聞こえ高かりしも性質辛辣にして人に親しまず、諸方より其徳を慕ひ集り来る僧侶等も一年と辛棒むづかしく遁れ帰るが常なりし、金英母の誡めに感じ心を決して上京せしより直ちに月潭に参じてそれより十二年の間教えを受けたり、この間辛酸具に嘗め尽くさずということなく、厳しき寺院に住職たるにも余りぬる学問修行のありながら、樵り水汲み卑しき業に従へて、粗衣粗食を厭う気色露計りも見えぬに感ぜぬものなかりけり、穆山定節介も常に其弟子に数へて「人は長命が第一だから常に慎んで身体を濫りに扱ってはならぬ、四十歳迄学問すると分別も出来てくるから人の為めになることが出来る、六十を超えるとまた信用が身についてくるからのう」と云えり、成功を急る人のためには此上もなき誡めなるべし
此頃の事なりき金登態々西国に旅立ちで三十三の霊場に詣で其土を負ひ帰りて一半を登龍和尚の墓に捧げ、一半を故郷の母に送りけり、是れ其母の一度は西国の霊場に詣りたしと常にいひ居たるを以てなり

三日町の話2

ビル街への変貌
田名部 昭和三十年に、八戸にはじめて信号機がつけられました。今の丸光さんのあたりですね。その後、四十三年に「丸光」「緑屋」さんが進出してきまして、ともに現在にいたっているわけです。
鈴木 ツキウさんが昭和四十三年に唱えはじめた防災街区、これをうかがいたいですね。
月館 大型店がまだないころでした。建物も古くなったし町内で協同でやれば建築費用も少なくてすむ、魅力も増すと思いました。駐車場もつけられる等の利点もあります。それで都市の大きな建物などを見学して、五年くらい運動をつづけました。結局、空中分解
に終わりましたが、その後、一号として岩徳ビルができました。私は以前、洋服専門店で失敗していますので、考えあぐねた末、かって見学に行った自由が丘を思い出しました。今の協同建築のようなバラックに闇市が二、三十軒入って大変繁盛していました。どうせかまど返しするなら、三日町から裏通りへつきとおすということで味の名店街をつくりました。そうしたら岩徳ビルも儲かるし、魚町の方も繁盛するようになりました。
鈴木 それが八戸の三日町に不燃の大きなビルを建てるきっかけになったんです。当初の計画通りの理想的なものではなかったんですが、そういうものを作ろうという、大きな原動力になったことは確かです。それをさらに拡張しようと、ロー丁、十三日町の方も、最近では熱を入れてきています。その意味ではやはり三日町が先鞭をつけたことになるでしょう。
八戸の商売
月館 ジャスコの問題ですが、皆は悪い影響を及ぼすとお考えになっています。決してそうではないんですよ。出た方が三栄会としても活気づくし新しい客も呼べる。いいのではないかと思っています。三日町を二万坪の大デパートとして、それこそ共存共栄でやれば、プラスになるんじゃないですか。たとえば、歩道を越えて向こうへ渡るときでも、地下を通してとか、ビルに陸橋をつけるなどの条件でもっていけばいいんじゃないかと思います。(後略)
この月館さんの話に驚嘆、中村市長はジャスコ(イオンの前身)に来るなと宣言したが、なんと昭和四十九年にこの問題があったのだ。
 その場とは三萬の跡地。デーリー東北を図書館で見ると、昭和四十九年三月三日号に次の一文あり。
 大型店進出めぐり攻防
これ以上は絶対阻止
小売業界七日、ジャスコから説明
八戸市の小売業界は昨年来大型店進出阻止が大きな課題となっている。四日には大型店進出阻止対策実行委、続いて七日には商業調整懇話会が開かれ、進出を計画しているジャスコ側から進出に関する説明を聞くが、地元小売業界ではこれ以上の大型店が進出すると営業がなりたたないと、あくまで阻止の構えを見せており、大型店問題は進出の攻防で活発な論議を呼びそうだ。
 市商工会議所がまとめた八戸市の小売り、卸業の販売高は昭和四十七年で千六百七十五億八千万円、内訳は小売業は六百九十一億四千万円。
 進出が予定されているジャスコの建設、営業構想を見ると敷地面積約三千九百六十平米の中に地下一階、地上七階の店舗を建設、ジャスコが約一万平米を使用、営業することになっている。
 テナントの使用売り場面積は約八千平米、年間売り上げ見込みはジャスコ三十五億円、テナント二十五億円の合わせて六十億円が予想されている。計画通り売上があったとすると、市内小売業五千五百店の総売上の約一割を占めることになり、それだけ地元小売業者は市場を奪われることになると、大型店進出阻止実行委関係者は見ている。こうしたことから同実行委では商調懇でのジャスコ関係者の説明を受ける前に、大型店阻止に対する小売業界の意思の統一をはかり、商調懇では現状を訴え進出阻止を期待したい考えだが、進出阻止を訴えている関係者の中には系統上部関係団体のバックアップでジャスコ進出予定地を買い取り、八戸市都市再開発事業と関連させ、小売り業界が結束して「市民のためのショッピングビル」建設を進めるべきだ…との意見も出始めている。
 しかし、ジャスコではすでに建設申請を市当局に提出、建設認可も下りており、通産省の総需要抑制策、指導に協力、また資材の値上げなど客観情勢の変化から着工が延び延びになっているものの、四十九年度には建設に着手したい意向であるとも言われており、阻止に立つ地元小売業界と進出を目指すジャスコの両者、調整機関の三者がガップリ組み合うことになり、大型店進出問題は本格的議題となりそうだ。
 論議の商店は地元業界との摩擦をいかにしたら避けられるか、さらに用地買取など進出を食い止めるための具体的策をどれだけ打ち出し合意を得られるかで、近く開始される一連の話し合いが注目されている。
このジャスコがどうして進出しなかったのか? ここが不思議。

2008年11月14日金曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん1


湊映画劇場から八戸工専のお役人へ 
湊・中山千里さん
 人生は不思議な場、大体、自分の思うままの人生は送れない、でも、懸命にあがいてもがく。まるで 夏の夜に吊ったカヤが夜中に落ちてきて、ワッ、こりゃどうしたものかと、立ち上がろうとしてもカヤにまとわりつかれて思うようにならぬもの。
 この中山さんの人生も、誰が書いたシナリオに載ったのか載せられたのか、苦労と努力の一代記、一度や二度の失敗で頭抱えて嘆くじゃない、朝の来ない夜はないと、未来と将来のある若者に教えている。
 仕事がうまくいかない、人間関係が嫌だとダメを数えるのが若者の特性、悩みがないのは死んだ人だけ、悩み苦しみ転職を考えたとき、この中山さんの話を読み返すといい。実に示唆(しさ・それとなく気づかせること)に富んだ味わいのある処世(世渡り・生きていく方法)術がかくされている。
 それでは始まり始まり。
 昭和七年、日本は満州国をデッチあげ、中国の北の一部を領土としようと画策、当然諸外国から猛烈な突き上げを食う。すでに日本は台湾、朝鮮(今の韓国・北朝鮮を指す=当時は韓国と称していたが日本が朝鮮と改めた)を領土としていた。そのうえ満州国のデッチあげでは世界各国は自分たちが過去にしでかした植民地政策を日本に真似されたくなくて大声で非難を開始。
 昭和六年、中国は領土を侵略されていると、国際連盟(今の国連の前身)に訴えた。国際連盟はイギリス人のリットンを団長とした調査団を派遣し調査を開始。その報告結果が出たのが中山さんの生れる一ヶ月前の昭和七年十月。
 人間は不思議なもので、求める所、求める時代に生れる訳ではない。生まれ落ちたところから懸命必死な努力が開始される。千里さんは吹上仲町の薪炭・味噌、醤油、酒を商う中山繁治、母トキさんの六人兄弟の四番目として誕生。父は明治三十四年創業の本徒士町の泉山醤油合名会社に丁稚奉公、技術を習得し味噌醤油を仲町で製造開始。当時は今のように都市ガスやプロパンの供給はなく、もっぱら薪や炭。味噌は販売するまで年限がかかる、俗に三年味噌とか五年味噌と寝かせる期限が長いが、醤油はその点短い。
 千里さんは吹上小を卒業するあたりで敗戦のゴタゴタで、新制中学に行かずに八戸工業高校の化学に進学。ここで一通りの学問を修めるが、バスケットボールに興味を持ち、その選手となりまして青森高校を33対21で破り、工業高校を第三回青森県高校総体で優勝校。その大会は八戸で開催、当時大きな講堂・体育館は八戸小学校か、新長横町のキャバレー銀馬車の隣の日米会館。この 日米会館で試合をした訳。
この、日米会館がこの千里さんにとんでもない事件を巻き込むとは、神ならぬ身、どう知るすべもないが、これは十年ほど後の話。
当時は進駐軍が水目沢(桔梗野の陸上自衛隊)にいてジープを走らせ娘と見れば声をかける、怪しげな行為に及ぶで、八戸も無法地帯。もともとアメリカ人てのは西部劇の時代からピストル早くぶっぱなした方が勝ちという、道徳も倫理もあったもんじゃない世界で長く生きてきたため、自分が正しいと思えば何でもあり。
 このアメリカ兵相手に大儲けしようと横須賀あたりのアメちゃんの扱いに慣れた業者が続々と集まり、水目沢はパンパンと呼ばれる私娼が跋扈(ばっこ・のさばりはびこる)した。
 そのアメリカ軍から八戸のバスケットチーム試合をしたいとの申し入れ。(上写真左端中山)急遽選抜チームを編成し水目沢に乗り込み試合。将校クラブで歓迎会開催、このクラブの立派なこと。水洗便所で小便をしようとするが、チンチンが便器の朝顔に届かない。背伸びして小用を済ませ、選手の松田秀男君とアメリカ人のチンチンはでかいんだと話したそうだ。チンチンがでかいんじゃない、背が高いんだ。その将校クラブで出たご馳走にドデンした。生れて初めてステーキを食った。こったら美味いもん食ってる奴と戦争して勝てる訳がないと納得。試合は互角。食事は合格の大満足。(左端天内・中山・泉山重吉・市川・兄中山昭一)
 そんなこんなで工業高校を卒業、当時の工業、商業高校は八戸市立、県立への移管は後年。八戸人も度量があった。町の発展は人材育成と市が学校を建てるんだから立派。八戸人魂ここにあり。
 盛岡電化という会社が小中野にあった。今のラピアの辺り、ここは砂鉄からチタンを製造。久慈から下北半島にかけては砂鉄が採れ、八戸にも砂鉄から鉄を製造する会社が何社も出た。
 この盛岡電気化学八戸工場で千里さんはチタ ンの含有量を調べる研究室に勤務、順調な社会人の一歩を踏み出した。仕事も面白く精勤していたが、世の中は一寸先は闇、二年後にこの工場で爆発事故が発生、工場は丸焼け。当然,職を失い、サテ、どうしようというときに母親のトキさんが智慧を出す。親戚筋にあたる泉山重吉さんが信頼できる青年を探していると、千里さんを連れて行った。(上・写真湊映劇開館)
 当時、泉山氏はロー丁で中央、第二中央劇場の二館を持つ気鋭の経営者。更に柳町の中道新太郎氏と計り湊映画劇場建設を視野に入れていた。中道一族は柳町の浴場経営で財をなした。資料の●●ページに専務として中道氏の名が見える。千里さんは第二中央劇場に寄宿し、映画経営のイロハを猛勉強、楽屋で寝ていると泉山重吉氏が「火事だ、火事だァ」と叫んで千里さんを叩き起こした。慌てて飛び起きて「火事は何処ですか?」と尋ねる。煙も火も見えないからだ。すると、「ただいまのは訓練です」とニヤリ。 

2008年11月13日木曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材7

九月六日付
 穆山和尚の苦学金英仙台に留ること一年、思はしからぬ侭に再び江戸へと志し、若き雲水の身も軽るくと一朱の金を懐ろに小笠草鞋に出で立ちぬ、頃は徳川の御代尚盛りに、奥州街道も諸侯の参勤交代忙しく、汽車や汽船の便りなく旅人の徒歩くものの多きままに、酒よ餅よと商う家の女中の襷いそいそと中々に賑はしきものなりき関宿よりは便船して十日計にやうやうと花の都につきたる頃、一末の旅背はなお昼飯の料をあましぬ、愛宕下に叔父なる人ありければ一先此所に落ち付き其の志を物語るに、叔父も只管之れを感じ、当分は僅かの学費を手伝はんとの事に駒込の栴檀林に入寮したり、風呂は八文、髪剃り二十四文、お蕎麦が十六文という其の頃なれど法衣すら買うこと成らず、三百文にて漸く調へたる古衣一枚にて数年の間凌ぎしと云うにても金英の赤貧思ひ遣らる、兎角するうち叔父の貢絶えければ、日々托鉢して其の日其の日の食料を得、書物は池の端の書肆に請ひて借覧し、托鉢の帰りの遅くなれば夜ぴて書を読みて明したることも度々あリ「今日の衛生法から考へれば病気にならぬが不思議の様だが、其の時は学問のおもしろみに悉皆心を奪はれて居ったので痍気の附入る隙がなかつたのだらう」と今も自ら語らるることとなり、其頃檀林の近傍に菊池竹庵という儒着ありけり、初めは信川松本の藩主に仕へて藩学の教授なりしも性質磊落にて立居窮屈の勤めできぬに職を辞して江戸に来たり、弟子を集めて教へ居たれど此所にても余りの無頓着に人気を失ひ、不行儀先生といはれて百名心ありつらん檀林の憎侶誰れ一人其の門に入るものなかりしかど、金英独り吾は其の行状を師とせず、就て学問を学べば足れりと、日々その家に通い居たり、頃は夏の盛りにて人みな帷子を用うる折なりしが、竹庵先生の住居は座敷も勝手も玄関も兼帯の一室にて熱くるしさいう計なし、先生は例の癖とて「私は暑くて堪らぬから裸で講釈する足下も裸で聞くがいいと云ひながらフト金英の衣服を見るに、袷を着て汗ビツショリの有様に竹庵芝生驚きて「足下はナゼ袷を着てゐる」と訝るに、金英は然々(ささ)と答へ果ては哄然一笑して講釈をつづける裸の先生、袷のお弟子、他人には判じものとも見えしならん、汗じみたる袷は折々洗濯せねばならず、代りに着るべき物もなければ是非なく、夜大風呂敷を羽織りて洗濯すれど袷なれば翌る日ならでは乾かぬより、其風呂敷は蚊帳にも蒲団にも着物にも兼ね用ひられしとはさても調宝なる風呂敷もありけるよ

八戸三日町の話

ご挨拶
協同組合三日町銀座三栄会理事長
月館宇右衛門
 協同組合三日町銀座三栄会が大正十三年、八戸大火の直後あの焼土の中から立ち上がり、八戸商業の中心地であるとの自覚のもとに、その復興を目指して創立されてから、今年で五十周年を数えることになります。
 その半世紀にわたる間には、昭和初期の経済パニック、戦時の物資の欠乏と統制、戦後の混乱、ドルショック、石油ショックなど数々の出来事がありましたが、この試練を経てこんにちの繁栄を見るに至ったのであります。
 現在私たちの周囲をとりまく情勢は新幹線、東北縦貫道、むつ小川原開発など、まことに前途洋々たる材料に満ちあふれておりますが、目下、石油ショック以来の物価狂乱のため、総需要の抑制、金融の引き締めなど、私たち商人としては、誠にやり難い困難な時代に遭遇していると申さねばなりません。
 しかし私たち会員は、過去において幾多の非常時を切り抜けてまいりました経験と勇気を生かし、必ずこの苦難を克服し、やがて市民の皆様のご期待にそえますよう、粉骨砕身することをお誓い申し上げます。
座談会 三日町を語る
買い物公園をつくりたい
出席者
大浦岩松(元松和本店店員)
太田福弥(八戸丸光)
工藤政次(根友商店)
鈴木操(八戸商工会議所専務)
関野勇(せきのドラッグストア)
田名部勇(レストランマルフク・司会)
月館宇右衛門(銀座三栄会会長)
 
田名部 協同組合三日町銀座三栄会創立五十周年記念の座談会ということですが、まず会長の月館さんからお願いします。
月館 銀座三栄会五十周年にちなんで、その歩みを振り返り更に若い人たちの感覚で今後の見通しを捕らえるということで本日の会を開きました。まず初期の三栄会創設の動機のことを大浦さんにお尋ねします。
焼け跡からの出発
大浦 年月日が不明で浦山三千彦さんと話しまして、八戸大火後の十月ですね、全市灰になったわけですから、私は当時松和本店、油屋主体の店におりましたが、三栄会ができる頃までは、八戸の商店街は吊るしランプで全部商売していました。大火後、いくらか電灯もつきまして、全部ではなく裸電球ふたつに、あとはランプが四つ程度、もちろん、灯油はそうとう安い時期でしたが、電気は高いという先入観がありました。あの火事では八戸市民、旧市内、ほとんど気抜けの状態になりまして、商人も消費者も気迫が失せ、ゲンナリしてしまったんです。新材が手に入らない時代でしたから、残材がほとんどで、八戸周辺から古い家を買って解体し、バラックを建て、古いトタンで囲いをして、とりあえず商店は物を売る場を確保しました。でも、購買力が全くありません。衣料品なんか眼中にない、焼けて裸になっても、先ず自分の住まいというのが頭から離れません。これではならんと三日町の商店主が集まり、東京の銀座にならって派手な気分で盛りたてようと、銀座三栄会となりました。
田名部 設立が大正十三年十月、翌十四年にはじめて夜店が催されましたね。
大浦 発足当時はまだ協同組合になっていません。運営にあたっては新しいアイデアが必要と青霞堂の浦山三千彦さんが企画、発案し、それを役員が審議し実施しました。
関野 当時そのようなことは他の町内もしていましたか。
大浦 三日町だけでした。
田名部 商業組合があったそうですが。
大浦 荒町から二十八日町までの店が加盟し慰安旅行など親睦を主にしていましたが、売り出し、景品付き一等、二等などは三栄会が先鞭をつけました。これを刺激として他の町内も売り出しをするようになりました。三日町の商店主は相当の冒険をしましたが、それが八戸の発展の基礎になりました。
パニックの頃
田名部 月館さん、昭和四年に市政施行になり、五年には銀行取付騒ぎ、いわゆるパニックですが、当時はどうでしたか。
月館 たいていの銀行が休業しました。中小企業は相当影響を受け、出張販売などをしました。錦座で連合の売り出しをしたり、三戸、一戸へ団体で出張したり、深刻でした。
田名部 観桜会がはじまったのはその頃ですか。三日町への影響はどうでしたか。
月館 三八城山でしたから、その隣はずっと陰気だったわけです。で、バーや飲食店が出張してサービスしましたから相当…。
田名部 いい意味で影響があったんですね。商店街にも。
協同組合に
田名部 戦後になると夜店を継承した七夕が始まり二十九年の十二月にアーケードの完成があるわけですが、このアーケードはどういう発想からできましたか。
鈴木 函館の大門通りでアーケードを作ったからと商工会議所に招待状がきた。当時の会長の伊吉さん、副会長の文明堂さんらをお誘いして見学に行きました。いろいろ聞いて、ツキウさんが推進して、それが協同組合になるきっかけになりました。
工藤 金を集めるためにどうしても協同組合にしなければならなかったんです。とにかく個人には銀行がお金を貸さなかった。
鈴木 他所では一部アーケードが欠けたりするんですが、八戸は郵便局や銀行がアーケードつくりに協力してくれました。
月館 村井医院のところが欠けていましたが、完成したのは二十九年でした。
田名部 効果はどうでした。
工藤 よくなりました。雨、雪、暑いときには日陰になり、三日町というより買い物をするお客様のためにもなるということでしました。アーケードそのものは昔のコモセの近代化されたものです。
大浦 コモセは三日町が一番広く五尺五寸ありました。今のアーケードのようなものです。十三日町あたりは三尺五寸、狭かったんです。三日町に来ると自由に三人はすれちがいできる、表側の店は雪がひどかったんですよ。対面販売ですから、腰をかけているでしょう。で、吹雪がプープー吹き込んできて充分話ができない。だから一間ぐらいの桟に障子を張ってエゴマの油をひき破れないようにしてたてました。真ん中に大きくその店のマークをつけて冬の期間中三日町の両側にずっと建てておくわけです。
田名部 油紙ではないんですか。
大浦 全然ちがいます。渋を塗ったところもありますが、店が暗くなるので、ほとんどエゴマ、十年油ですね、アーケードは東北では仙台についで八戸でした。
三日町の道路のこと
鈴木 あと三日町が率先してやったのは、今はもう使えなくなった、水飲みの水道をつけたことです。ただ八戸の場合、残念なのは歩道が狭くてせせっこましい感じがすることです。さきほどの観桜会によって三日町は非常に潤った。四月から五月にかけて、三八城山へ行った帰りに三日町に繰り出す。秋にしても、共進会が八戸小学校の全校舎を使って展示会、即売会をやったもんです。戦前、三日町、八日町へかけて二米弱のせきがあったんです。荒町の方から水がどんどん流れてくるんです。当時の水はきれいでしたから、そこを舞台に消防演習をしたもんです。
工藤 私も子どもの頃三輪車で三回せきに落ちました。泥だらけになり叱られました。
大浦 当時は何かあれば市と警察へも陳情しなければなりませんでした。せきを小さくし二年くらい経ってから舗装した。簡易舗装じゃなくコンクリートで不便でした。
工藤 側溝が狭くなり車道が広くなったんでしょう。
大浦 そうです。そのときに、商店が一米くらい引っ込んだんです。前は馬車三台並べば車道は一杯でしたから。せきを店よりにしてその分両側で二米車道が広くなった。今でも歩道は官地ではなく商店のものと言っていますね。

2008年11月12日水曜日

悪ガキばんざい パート2 風の又五郎

戦争の最中、こんな時代でも悪ガキ軍団は大人の舌を巻くような遊びを考えだしては楽しんだ。
 いつの時代でも子供のほうがたくましい。経済が悪かろうが世の中が末期状態であろうが一向に構わぬ。大人たちがオロオロとしていても天使の顔で遊ぶ。子供は大人にとっては、宝であり、なにごとにつけても「救い」なのだが、現代ではその天使を抹殺する悪魔の大人がいるのは嘆かわしい。
悪ガキはこのあたりでは、投げワラシと呼ばれた。
物心のついたあたりには洋品店を営んでいた私の家には、自転車が数台とリヤカーが大小あり、毎日のように商品の運搬にもちいられていた。いまのように自動車で仕事をできるのは大きな商店でもなかった。それができるのはハイヤー会社ぐらいのもので、それもガソリンが枯渇していて、ほとんどは休業の状態であった。国内の産出するガソリンは雀の涙ほどのもので終戦間際では、松の根っこから搾り出す油、すなわち松根油(しょうこん油)からガソリンの代用品を造った。これで飛んだ飛行機はエンジンが止まりよく落ちた。
 戦況もだんだんと悪化をたどり、いよいよ全般に不況の風が吹きはじめ、店も暇がおおくなった。若い男の従業員は兵隊にとられ女子供と年寄りばかりとなっては商売にならぬ。自転車もリヤカーも無用の長物となり、これは、子供たちの格好のおもちゃになってしまった。
 リヤカーはご存知のように(と言っても現代人にはわからぬか)二輪車だが自転車は縦に車輪がついている。リヤカーは横並びである。
 これを自動車のように四輪にして走れぬものか?と万兆(まんちょう)は考えた。ああそうだ万兆と言う人物を紹介しておこう。わたしより七歳上の従兄弟がひとつ屋根の下に暮らしていた。ほんとの名はM志と言うがこのあだ名は万兆、日ごろの会話では子供らしからぬ、大きな夢や構想を口にする。年上の仲間は蔑(さげす)みの意味であろうか、万も兆もホラを吹くとこのあだ名を授けたものだ。
 かと言って、話だけで終わるのかと思えばその話の一部は実行、実現をするから、すばらしい。ガキ仲間からはある意味での信頼のような感情があるのだ。早い話、子供でありながらいっぱしの発明家といったところだろう。新案、奇案、珍案がぽんぽんと出てくるのだ
日ごろ、なにか面白い遊びをはじめるのでいつでも周りには子供たちがウロウロしている。次はなにをはじめるのか?
 ガキ仲間はいつでも興味津々なのであった。
この万兆なる人物は、いまも健在なのでお叱りをうけるかもしれぬが全部をばらそう。子供の時分に「やんちゃ」をつくした勲章としてここに書きしるしたい。

 このリヤカー2台をつないだり離したりしているうちに、出来た!四輪の自動車ならぬ人動車ができた。小型のリヤカーは三角に近い引き手、大型は四角の引き手だ。
これを、うまく組み合わせたものだ。つなぎ目は棒を一本とワラ縄でくくり、左右にかじ取りができるようにした。操縦は発明者の万兆だ。四人乗せて一人が押す。すーいすいと、走るといったら走る。これで町内を走りまわり、軍艦マーチをおおきな声で歌いだした。
 その声を聞きつけて、こどもたちが家の中から飛び出してきた。町内はこのメインストリートであり道はコンクリートで出来ていて、両側にはあらゆる業種の商店が建ち並んで一丁ほどの距離は端から端まで見渡せた。
 誰かが言い出した。
「あすこがらだったらどんだべ はぇーがな?」
と橋のうえを指さす。それあ速いだろう、急な坂道で日ごろは自転車がキイキイブレーキを鳴らしながら走り降りてくる場所なのである。

「おもっしれい」
「オモッシレイ」
こんなことでみんなでエッチラオッチラと、この乗り物を橋の真中まで押し上げた。
怖いもなにも考えない、………と、言うよりかここでは、口にだせない。みんな空元気なのだが「いやだ」と言えば臆病ものと馬鹿にされる。ここでは「じぐ無し」と呼ばれる。子供ながらにもプライドがあったものだがこれは戦意高揚とやらで教育もそのようにすっかり染まっていた。当然なことであろう。国家は人間を鉄砲の弾丸一発ぐらいにしか考えていなかったろうから。
湊橋の真中から通りの高差は十メートルにもなろうか、橋の下はマストを上げたままの漁船が通行する高さだ。
お客となった悪ガキ三人と運転手となる万兆は緊張気味だ。
「押せ押せ!」
後押しは船具屋の末息子武、そして米屋の清吾の二人だ。どちらも身体が大きく力がある。
「せーの」
の掛け声でこの二人が力任せに押した。坂の途中からどんどんスピードがあがった。まあ、その速さはさしずめ冬季オリンピックのボブスレーやリュージュ。テレビでの画面を思い出していただきたい。
エンジンもない乗り物は当然音もない、排気のガスもない。だが、市営バスより2倍も速い。そんなに速ければ交通の妨げになろうなどの心配はいらぬ、バスはいまのようのに沢山あるわけでなし、ほんとにたまにしか来ない。
このバスだって木炭を燃やして水をたらし水成のガスをつくりエンジンを廻していた。このガスだって尻からでるものと同じメタンガスなので馬力がない。坂道などでは動けなくなり乗客が降りて後押しをしたものだ。
リヤカー2台のこの乗り物は考えていたより快適に走った、四度 五度と試しているうちにすっかりコツをつかんだ万兆。得意満面、運転手か操縦士になった気分だ。
運転免許?そんなもの、要るわけがない。このゼロ戦のようなリヤカーに乗る人数が多くなれば慣性も大きく、スピードも増す。5人乗ったらその距離約300メーターにもなった。つぎは「わ」おれだ、と列ができた。こんなに楽しそうな子供たちに大人たちはおおらかなもので、危険だとか迷惑になるとかは言わない。現代であればとても許されるものではないであろう。心配で見物していた大人たちは「大丈夫」とそれぞれに家のなかにひっこんだ。
5人でよければ6人乗っても同じだろうと万兆は考えた、小さな身体であってもぎゅうぎゅう詰めだ。運転の万兆で7人となる。1人増えれば走行距離がもっと伸びる。「愚かな」と口にする大人もこの悪ガキたちと同じことをしでかすことは説明のいとまもない。まあ、人間とはこんなことの繰り返しの歴史を創っているにすぎないのだ。
誰もが安心した。と思ったときに、大事件が起こった。いや、大事故か?発進が20回ほどにもなったころだろうか、またもすんなりと走り去るものと思っていた。
ガッシャーンガラガラバリーン、大音響が聞こえた。あれー吾がゼロ戦はいづこや?見えない。見えないはずだ、煙か湯気かホコリかわからぬものが、坂道の右がわの床屋から立ち上がった。
「床屋だー」
誰かが絶叫をあげた。
「入ったーはいったー」
あとのことばの「はいったー」はここの方言で大変なことを起こしたときの囃子言葉である。
リヤカー2台を繋ぎ総勢7人が乗り、床屋のガラス戸を2枚を破って飛び込んだ。床屋のおやじは手にくしとハサミをもって外に飛び出した。当然お客の髪整髪の途中であったろう。
「いらっしゃい」
もなにも口にする暇もないわけで、招かざるお客といったところか。
スピードが出るので面白くまた距離も大きくのび
ると喜んで定員以上?の乗客を乗せたのでハンドルとなる三角の取っ手にワラ縄が食い込んだ。
スピードが上がったところへ犬が道の真中に飛びだした。慌ててハンドルを切ったが戻らない。
いかんせん、所詮は子供の考えるところ緊急時を想定していなかった。ブレーキが無い、棒一本でも括りつけていればよかったがあとの祭り。
「止められない止まらないカッパえびせん」
というコマーシャルソングがあったけー。その時代にはまだ無い。あったらこんなことが起こらなかったなどとは言い切れない。
幸いに悪ガキたちはかすり傷程度で済んだ。昔のガラスは薄かった、これが幸いした。木の枠に美濃版ガラスという小さなサイズのガラスをはめ込んだ戸が定番であった。
リヤカー2台と7人の悪ガキたちは床屋の大事な商売道具の鏡の直前でようやく止まっていた。
なぜか皆顔が真っ白になって、しまった。タルカンポーダーの容器がつぶれて粉が噴き出したのだった。それにガラスのかけらがキラキラと身体にふり注いでいた。度胸のない子供はワーワーと泣き叫んだが万兆はそれをなだめる余裕もない。
床屋の親父から何と叱られるか?このあとどのように始末をつけられるのか?頭のなかは、いままでの楽しさも何も吹き飛んでしまった。
誰かが万兆の家に走った。
「大変だ―事故だ―、死んだかもしれねぇ」
番頭の陽助がとんできた。状況を確かめるためだ。
こんなとき家長の親父は慌てない。今考えてみると慌てない理由としては、子沢山なので一人二人死んでもかまわぬ。と腹を括っていたのかもしれないと思うのはあんまりなのであろうか?
あるいは、こんな戦争で死なせるよりか楽しんで死んでくれるほうが悔いが少ない。と思ったか、どうか今となっては知りたくも親父は他界しているので確かめることは叶わぬ。
床屋への弁償も詫びを入れるも大変だ。同じ町内でお互いにお客なのである。万兆はすっかりうなだれ家に帰った。親父の雷が怖い。普段は少しの過ちでも大きなゲンコツがくる。こんな大事件を起こしてしまったので只ではすまないのは目にみえている。
家に帰って拍子抜けした。真っ先に親父が飛び出してきた。番頭の陽助から報告あったのだ。元気なく、縮こまった身体が哀れさを表わしている。
「怪我なくてよがったな、足洗って晩飯食え」
たったそれだけを言い残し佛間に引っ込んだ。まもなく香のにおいが流れてきた。親父はご先祖様に無事を感謝していたのだった。
こんな日があって三十年もしてから母から聞かされた。戦時中の苦く酸っぱい想い出である。

2008年11月11日火曜日

第49回青森県精神保健福祉大会で小林市長が八戸宣伝



昨日(11月10日)八戸市公民館で開催された大会で、小林市長が挨拶、その中で「県内外からの参加者もありますので、一言八戸の宣伝をさせていただきます、八戸は横丁、朝市、朝風呂で人気を得ています、是非皆様も会合が終わりましたら足を運んでいただきたい」とPR。
 小林市長も八戸を売り込む努力、藤川優里市議もDVDを19日に発売し観光ルートを示す。裸になったが悪いとどこかの知恵足らずが騒いでいるが、他に二名の女性市議もいるが、それらの人が裸になっても見たいか?
 花には時期というものがある、市議は花じゃない? 言葉だけで世の中を渡るのが議員か? 世の中出来もしないことを出来るというのは、ペテン師と政治家、彼等は世の中に夢を売る。が、誰も気付かなかったハサップに注力するのが小林市長、観光こそ総合力だを標榜。まさにその通り、が、観光は一過性に終わる危険性もはらむ。美人市議の名が世間に通り、世のオタクたちが足を八戸に運ぶ可能性もある。これは市制80周年の中でも特記すべき。
 かつて八戸には花柳界があり数多の美人を揃えた。そして、地元新聞はそれらの花に美人投票をなし、堂々と新聞にその投票経過を発表、当時の鼻下長(びかちょう・鼻の下を伸ばすをすけべえの代名詞とした。理由はノゾキをする人間を横で見ると、塀などからノゾキをすると、目線を高くしたい願望が鼻の下を伸ばすと見えるような気になり、自然と伸びるため)を喜ばしめた。
 世の中は楽しみ方一つ、鼻の下を伸ばすもよし、パソコンを叩くも良し、それらオタクが八戸に来るのも良し、さて、それらを案内し、藤川優里市議は握手でもするか、すると、市議会事務局は繁忙を極めよう。
 青森県は自殺者が昨年は469人、日本三位だそうだ。宮城県栗原市は自殺者の6割を占める多重債務者を弁護士や司法書士を含めた救援隊を設立し自殺防止を計る。八戸の自殺者数は不明だが、どのみち死ぬのは天理、あせって死ぬこともいらない。死ななければならないと思い込んでいるだけだ。
 自殺したいと思う人は「はちのへ今昔」に電話しろ、一緒に解決する。自慢じゃないが、金で困ったことが何度もある。三十年前には5億5千万円の借金を踏み倒した。借りた金は踏み倒せ、しかし、親戚縁者からは金は借りるな、商売人から借りて踏み倒すのだ。彼等は損金で処理できる、できない人間から借りるからゴタる。
 世の中は理屈だ、正当な理屈が立てば誰も黙る。あせるな、死ぬのは簡単、しぶとく生きることにこそ味わいがある。攻められると逃げたくなる、逃げると追われる想像に苦しめられる。現実を直視することだ、逃げずにこちらから出向くことだ。一人で行くには勇気がいる。一人で行けなければ「はちのへ今昔」が付いていく。
 一度逃げれば死ぬまで逃げることになるぞ。逃げずに立ち向かえ、自分がしでかしたことだから。この姿勢こそ生きる力の根源なのだ。
 大会では八戸市民病院の熊谷輝医師、津軽保健衛生組合の坂本隆氏が青森県知事表彰を受け、後、横浜市立大の医師、河西准教授が「自殺未遂者のケアを考える」を講演。参加者に大きな感銘を与えた。

清掃事務所と資源集団回収組合の癒着


平成9年から今日に至るまで八戸市はこの回収組合に随意契約で4千9百万を投げ続けた。
 何でこんな妙な仕組みになったかというと、清掃事務所が要綱を作成。要綱は条例ではない。所管課の勝手な取り決め。そこで、このように定めた。人数が99人以上、保有する資源ゴミ回収車を17台以上。
 もともと零細なゴミ収集業者、これに該当する所はない。そこで集団、それが協同組合。俗に一人組合などと悪口の対象になるもの。これを八戸市役所主導で編成させた。つまり、役所は書類審査、もうすこし分かりやすく言えば形式主義。自分が提唱した基準に満ちていればOK。人数が不足していようが、車両が走らなくても書類上頭数が揃っていればいいという手合い。
 99人の人数がいると、書類にあれば実地調査はしないということ。もっと分かりやすく書けば、死人でも写真があり履歴が明確であれば通るということだ。これが形式主義の最たるもの。これをこの組合がしたと言うのではない。これは話だ。まあ、ここまではしないだろうが、そうしたことが通るのが役所だ。こうしたことは各課で見る。補助を出した、ところが、その金が適正に使われたかを領収書での検査をしない、人件費に出したと言われても出勤簿を確認しない。もともと出勤簿が市役所にないのだから、見方も知らないと杜撰、いい加減が役所の役所たるところだ。
 この資源集団回収組合は馬淵川から旧市内方面を担当。当初はこの組合以外には他の団体はなかった。ところが、この曲者組合の存在に気付いて団体が誕生。しかし、そこには仕事は出ない。どういう理由か不明。
 もっとも、要綱を撤廃して、市内を四分割にし、他の業者を幾つもの組合とし、仕事を廻せばいい。どの業者も青息吐息、これらの救済を考えれば、この妙な団体に仕事を廻し続けなければならない理由が見えない。
 何か妙な癒着があろう。なければ11年も甘い汁を吸っていたのだ、組合も解散するか、他の業者と同様に入札に参加せよ。市側は随意契約をした原因は、当時はこの団体しかなかったという。ここに妙な発言がある。つまり、清掃事務所は一つの組合を作らせ、そこに仕事を発注する体制を作り上げたから、それを維持する理由となったのだ。八戸市内、馬淵川以南を一区画とする理由もみあたらない。
 公明正大、これが一番、資源物回収は競争入札にせよ。「はちのへ今昔」は一人、行政改革課は五人、「はちのへ今昔」は給料を貰ってはいない、諸君等はいただいている、もっと働け、汗を出せ。

2008年11月10日月曜日

看護士の過労死は八戸市民病院も要注意

夜勤看護士に特殊勤務手当てが毎年一億円も支払われている。これは必要不可欠なのだろうが、その勤務内容をサンプリング調査してみると、これでは倒れると予想された。
 絶対的に看護士が不足しているのか、年配になれば深夜勤務に耐えられなくなるのは当然、その人たちが日勤を希望すれば、皺は若手に寄るのは間違いない。
 特殊勤務手当てを調査している内にこの看護士の勤務改善を見た。この実情が顕在化しないのは、八戸市民病院の看護士たちが辛抱強いのかそれとも、圧力がかかっているのか、その実態は知らないが、現状を記す。
19年1月から3月までの勤務
東5 
T 準夜7 深夜4 準夜7 深夜4 準夜6 深夜3
S 準3 深夜5 準夜3 深夜6 準深夜5 深夜4
TD 準6 深夜4 準6 深夜7 準5 深夜4
東2
S準7 深夜5 準4 深夜6 準6 深夜4
D準4 深夜8 準4 深夜4 準6 深夜6
O準6 深夜5 準4 深夜5 準5 深夜7
西6
S準7 深夜5 準6 深夜4 準4 深夜5
Y準5 深夜5 準6 深夜3 準4 深夜6
SA準2 深夜7 準3 深夜9 準4 深夜5
これらの看護士は目に付いた分だけ、全調査をすれば厳しい実態が浮き彫りになるだろう。
 無理をさせれば長く勤務することはできない。五十代になれば体力的に落ちる。これを回避するには若手の増強。看護学校を無料化し若手の養成をするときが来る。 八戸に住んでいて良かった、働いて良かったというようにするには無駄を省き、大切な所に税を投入することだ。下水道の金利、資産税の航空写真撮影、いずれも億単位。これらを圧縮、廃止でその金を必要なところに投入せよ、ITの美名のもとに職員一台のパソコンも無駄。このOA機器借り上げ料が約5億円、半分に出来る。これも鋭意調査中。

2008年11月9日日曜日

平成20年八戸類家2号公園の秋

八甲田山も雪をかぶり、青森市にも雪だより、八戸の里も紅葉に染まる

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材6

九月五日付
 穆山和尚の生立(五)
飢鐘の後程とかく金龍和尚病に罹リて容態危うく見えければ、師思いの金英は只ひたすらに嘆き悲しみ観音堂に籠りて三七日の断食をなし、人々みなこの誠に感じ合りしとなん、しかれど天命のがれ難くや師の坊程なく身まかりければ、金英はそれより土地の医師某に就きて漢学など学び居たれど学業の進むにつれ良師なきをかこつの情切なり、今ならば都に出るも容易けれど其頃はなかなかの大事にして独り思い煩うのみなりしが、かくては果てじと心を決し、父母にも告げずソト海岸に至り便船せんとなしけるに、折好く一艘の帆前船がかりてあり、天の助と打ち喜び種々にいひ拵へて乗込み、我事成れりと思う間もなく空模様俄に怪しく船出すべうも見えず、風はいやが上にも吹きまさリ雨さへ凄く降りいでれば迷深さ舟子等は口々に「実にも龍神は血脈(御守の一種)を欲しが給うとか、お坊定めてそれを持ちつらん、俄かの暴れもその為めぞ、われらが命にも開るとお坊疾々立ち去り給へ」と金英の弁解を耳にも入れず追立つるに途方に暮れて居たる折柄、実家より追手の人来り泣く泣く引き返されぬ
斯くて金英は寺に帰り心ならぬ月日を送りてありけるが、十九といへる春の頃奥州の都なる仙台へと志し、二人の友と陸路をとりて出で立ちぬ、懐淋しき懸出しの雲水三人ここ彼処の寺院に泊まり行くうちに種々の奇談あり、或時は前夜よリ一度の食事もなきで嶮しき三里の山坂を打ち越えるに、荷物は重し空腹なり、ようようの思いにて里へ出たれど物売る家もなきに、只ある農家に至り年嵩なる友を頼みて内に入らせ、待てども待てども出来らず、門辺に立てる金英等はほとほと待ちくたびれ早やたえられずなりし頃、友は満面に笑みをうかべ小走りにいで来るを見るより、さては首尾よしとこちらも同じく笑みを含み何を得て来たりしと問うに、友は俄に萎れ生憎残飯は僅かにて三人には足らず、余のみ食にありつきたりと気の毒げに語るにぞ人情は迫る所に急なるものかと金英等はいまいましくもまた可笑しく、再び重さ足を引きて他家に至り空腹をいやしたりとなん、仙台にては松音寺といふに一歳あまり修業してやがて江戸に上りぬ、この間も書籍に乏しく写本して学びたるなど昔日の不便今の我々が思ひ寄らぬ事のみ多し

八戸及び八戸人 3理美容の店バンブータケハラ 竹原庸彦氏2


ワタナベの店も大はやりで、八から十人の若者が段ベットで寝泊り。まるで、カイコ棚のよう。大勢の床屋の技術者がてぐすねひいて客を待つ。店の前は有名なキャバレーみつや、八戸の社交界のナンバーワン。赤い絨毯(じゅうたん)が敷いてあり、郡部から出てきた人が靴を脱いだそうだ。年配者は楽しそうに、銀馬車とみつやの話をする。今はそんな場もなく寂しいかぎり。ここに働いていた美人女給と結婚した八戸経済界の重鎮もいる。にぎやかで女たちが客を送り出す嬌声(きょうせい・なまめかしい声)が塩町でも聞こえたそうだ。今の八日町から想像できる? 世の中変わった、悪いほうに。何故? 
市役所のせいだ。理由はおいおい「はちのへ今昔」で解説。
 さて、ここで竹原さんは徹底的にしごかれる。床掃除にタオル洗い、洗濯機のない時代、手洗いだから指の皮もむける。ヘア・ドライヤーなどまだ出ない時代。お客の頭を乾かすのに、タオルを使う。それで拭く?
ハズレ、タオルの両端を持ち、バタバタ頭をあおるん (夜の八日町ワタナベ側から・光るところがミツヤ)
だ。風がきて頭が乾くという仕組み。フウ~ンと感心するだろう。昔の人は苦労したもんだ。アイパーなんてのも昔はコテ、これを火鉢で熱して髪を伸ばしたり曲げたり。何本何本も火鉢にさしたもんだ。今は簡単に瞬間湯沸機でお湯を出せるが、昔はこれも弟子の仕事、沸かした湯を天井近くにブリキの湯入れを置いて、その中にいれ、水を足して湯加減調整、床屋の小僧は忙しい。
 ここで五年、竹原さんは辛抱。主人の渡辺さんに似て、腕を磨きたいと東京に出る決心。知人が東京の青山一丁目に「ヤング」という店で職人を欲しがってると教える。青年竹原さんは血がジャワメイタ。いよいよ憧れの東京で腕が振るえる、ふるえるような喜びを感じたんだろう。病の床に伏していた父をのこして上京。兄は東京の石油会社に就職、あとには母親だけ。間もなく父は危篤。知らせを受けて竹原兄弟は揃って列車に飛び乗るが間に合わず、その後悔が今につながる。人間てのは、えてしてこういうことに遭遇(そう (師匠の技術大会優勝記念)
ぐう・嫌なことにあうときにつかう)する。でも仕方ないんだ、死んでいく人間は忙しい、生きてる人間置き去りにして旅発つもんだ。
 俗に後悔は先に立たずで、必死にがんばる倅たちが間に合わなくとも怨みもつらみもありゃしません。
 このヤングには八人の技術者、四国からも腕を磨きにきていた。ここで楽しい東京暮らし。八戸なんぞと違う日本の首都。いゃあ面白い。乙姫さまと浦島太郎じゃないけれど、夢の二年が経った頃、兄が東京の人と結婚。母親一人じゃ心もとない、お前帰れと、勝手な御託(ごたく・自分勝手な言い分)。
 気のいい竹原さんは帰郷、すると妙なもので知人が三日町のパチンコ「コンドル」の二階に理美容の店を出すので手伝ってくれと声をかけた。渡りに船と、そこに顔を出す。昔は理容も美容も同じ店内で営業可能だった。今は規制が少々厳しい。けれど竹原さんの店は理容と美容をこなしている。奥さんが美容担当、ご主人と倅さんが理容を担当。おしどり夫婦で仲が良い。筆者などは毎日女房と顔つきあわせてると息が詰ま るが、共に額に汗して働く姿は尊いもの。まして倅も共に働く姿は庶民の鑑(かがみ・手本・模範)だ。昔はこうした店が多かったもんだ。
 するてえと、どこで竹原さんは女房と知り合ったか気になるだろう。あせるなあせるな、これから教える。竹原さんの勤めた三日町の店は『白樺』、パチンコ「コンドル」の上、客の数より従業員の数の方が多いという妙な店、店主が新興宗教にこって、店員を折伏(しゃくぶく・宗教にひきいれる)、それが嫌で店員は一人消え二人、店員が折伏できないと、今度は客、客も一人消え二人、とうとう最後は竹原さんと美容の女の子だけ。給料も三ヶ月も貰えずに竹原さんも消える。
 だが、世の中良くしたもの、ここで又、お袋さんが登場。前にも言ったが、このお袋は知恵者、若い頃は生命保険に勤務、竹原さんが恩になった名久井さんと同様、このお袋も背中に反物背負って行商、方々歩くのが仕事、いろいろと顔を出しているうちに、土地を売ってくれないかと頼まれる。なるほど、土地は背中に背負うわけではないから軽い、でも持てない。これが性に合ったのか、今度は不動産業、八戸にも顔を出す。当然『白樺』にも来るようになり、そこで竹原さんと一緒に働く美人に目をつけた。その美人は中島ハツエさん。この人が竹原さんの女房になるんだ。それと気づいたんだろう。『白樺』の主人が宗教にのめっているのも知って、ハツエさんに鮫で美容院やらない かとすすめた。
鮫の美園町、「フジ美容院」がそれ、経営していた人が具合が悪くなったかで居抜き。そこでハツエさんが大車輪。当時、夫になる竹原さんは七千円の給料、ハツエさんは大枚の金を手にする。
 お袋さんが長根公園近く、今の店舗地を購入していた。そこへ二人で店を出す。開店時の理美容道具はハツエさんが鮫で稼いだ金でまかなった。恐るべきは女の力。
 当時、このあたりは連れ込み宿や飲み屋がたくさんあった。役所を挟んで、三日町方面は華やかな飲み屋多し、三八城公園下方面は陰に咲く花、世の中、どんなに時代が変わってもこの区分は厳然としてある。柿は腐る手前が一番美味しいともいうように、この竹原さんの店の周囲は一頃は盛んで、陰や日向に咲く夜の蝶が住むアパートが何軒もあり、出勤前に髪をセット。当時はソフトクリームみたいな頭が流行、髪が長くて手間かかる。女房のハツエさんは休む暇なしの大盛況。弟子も三人も使い飯を食う暇もないほど。
 こう書くといかにも亭主の竹原さんは何もしないように聞こえるが、どうして、こちらも大忙し。弟子を二人雇って大儲け。
それは東京オリンピックの昭和三十九年です。市長の給料より稼いだ昔もありやんした。今は人通りもまばらになって、のんびり稼いでおりますが、二代目さんの一仁さん、この人のセンスは八戸でも一と上がっても二と下がらない、腕もいいけど客の雰囲気に合わせた髪形を整える感覚の鋭さあり。これは筆者が眼にしているので間違いなし。 竹原庸彦氏六十六歳、還暦のお祝いはしなかった。よくよく聞くと忙しくて結婚式も…。すれば楽しい話の花が咲く歳祝い。七十の古来稀なりのお祝いは忘れないようにしましょうネ。ついでにお孫さんもいれて結婚式もするといい。忙しさについまぎれて結婚式できなかった人、共に白髪の結婚式てのもいいもんだヨ。技術八戸一のバンブータケハラ理美容室22・8869、今まで床屋の技術に不満を持っていたおしゃれな紳士、一度倅に相談するべし。

2008年11月8日土曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材5

九月三日付け
 穆山和尚の生立(四)
万吉の金英は日を経るまゝに朝夕の仕事にもなれ、其利発さは古く来りし合弟子の誰れ彼れにも優り、己が課業の済みて後は他人の習ふ御経を物陰に聞き居て人先に覚え忘れぬには皆々舌を巻きたりとぞ、去る程に夏も過ぎ秋も去り師走の月は寒念仏とて、若きお坊の黄昏より雪を冒し托鉢にいづるが例にして朗々たる読経の声、寒月の下に冴え冴えと聞ゆる夜は信心なき女子等まで寒さを厭わず戸外に出て声よきお坊に布施する慣わしなるに、金英は兎角音声引今立たぬより夜々の浄財最と少きに困じ、例の淋しき畷を辿りて町よりは程遠き実家に至り売溜より少しの金銭を貰ひて坊に帰ることも度々ありしとかや
比程のことなりき名高さ天保の飢饉は来たりぬ、南部・秋田は殊にもはげしく、死人行倒れ道に満ちたり、昔は今とは事異て斯る折には国々の制厳して一切他領に穀物を出すことを禁じたれば領内の食物尽くれば金を山に積むも用をなさず、木の根草の葉手あたり次第に食ひ尽くして果ては死を待つ斗なりき、家々は戸を閉じて空家に等しく日毎霧雨霏々と降りて、天も宛ら其の惨状を痛むに似たり、去り難き用事のありて夜行きなどすれば死人の頭を踏むとこと珍しからず、呻き苦しむ声巷にみちて惨ましなんどいふ計なし、時に金英十五歳なりき、師は今も折々比時を思出して「私は性来臆病の方であったが天保の飢饉に遭て実地の修行をしたのが生涯の幸福になりました、死といふ事に就て深く考へたのも比時からで、非常な粗食をして話にも尽くせぬ難儀をしたから其の後はどんな事に逢つても左程苦しいと思ったことがない、粗末な物を食べても少しも不足に思ふことがなく又事に当って動ぜぬ様になったのは全く飢饉のお影だ」と語らるるもありしとか

八戸及び八戸人 3理美容の店バンブータケハラ 竹原庸彦氏


竹原氏は昭和十四年倉石村に父仁助・母ソヨの次男として誕生。父は村長を務め戦後公職追放を受け教育長で退職。この母ソヨさんが非凡な人で、竹原氏の生涯を方向づけた。この母は南部町の出身、生涯を通し足で現場を踏む、その場、そこの風を察知し、商売へと結びつけた。細腕繁盛記ってテレビ番組が昔あった。女主人が旅館経営をする苦労伝。覚えてる人は五十がらみだ。このソヨさんもそれを地で行った。
 昔は面白かった。人間年を重ねることが出来るのは楽しいことなんだ。やれ膝がいたいの、腰がだるいのと、今まで酷使してきた部品が音を上げるが、なに、死ぬほどのことでもない、有難いことだ。鶴田浩二も三橋美智也も六十代で死んだ。六十を越しても尚元気なのは、天から元気を授かったんだ。不平や不満を言わずに、ヨタやガタの来た体と上手につきあうことだ。
 この竹原氏の話は現代の若者に元気を与える。学校の成績がかんばしくなく、高校を中退しても、なに、死ぬわけじゃない、ほかにチャンと道が用意されている、一度や二度の挫折(ざせつ・中途でくじけること)や蹉跌(さてつ・つまずくこと)で嘆いて自棄(やけ)を起こすな。人生ってのは巧くいかない、思ったようにならないからこそ、生きてる味わいを感ずることができるもの。考えてもみろ。パチンコに行く、必ず大儲け、競馬に行く、これまた大儲け、三日町を歩くと大金を拾うじゃ、面白くもおかしくもない。たまに、そのような大儲けがあるから、当たるかな、当たらないかなと期待と希望が湧く、毎回、毎日、幸運ばかりじゃ生きてる喜びを知りえないんだ。
 不遇、不運は連続するように見えるが、それも色眼鏡、人生なかなか奥行き深い。
 さて竹原氏だが五戸高校に進学、兄貴も同じ高校、成績が優秀だったそうだ。どうしても弟は兄貴の後を行くだけに批判される。
 女教師がこういったそうだ。
「お兄さんはできたのに…」
 (中央母、右渡辺氏、左竹原さん)
その一言で高校に行く気をそがれた。教師ってのは教室ではどんな勝手な言葉を吐いてもとがめられない。なんてたって、隔離された個室、校長や教頭、教育委員会の人間なんてめったに来ない。だから、こうした心無い言葉を平気で陽気に喋る脳天気。
 生徒がそれがもとで学校をやめようがさぼろうが、教師の給料が減る訳もなし。今日も昨日と同じことを繰返す。それも何十年も。のんきな商売やめられない。
 そうした教師からのいじめを受け、竹原氏はぶらぶら、よくしたもんで、この人は人に助けられるように出来ている。ナショナルの松下幸之助、これは立志伝中の人物、この人の成功の礎が二股ソケット。若い人にはピンとこないだろうが、天井の電球から線を延ばしてラジオの電源を取るような器具。便利だが最初は商売の神様とよばれた松下も売れずに苦労。大正七年の頃の話。ところが、この二股ソケットを八戸近在に売って歩いた人がいた。城下にある名久井理美容商事の創始者。この人は努力の人で、自転車に荷物を積ん (渡辺師匠と弟子たち)
で八戸から倉石村や田子あたりまで、二股ソケットとバリカンなどの理美容道具を販売。
 倉石村の村長も勤めた父親と名久井さんは親しい間柄、竹原さん宅に宿泊し、隣村まで行商する。この人に母親が頼み込む。倅を床屋にしたい、八戸の理美容学校を受験させたい、八戸で下宿させなければならないが、あんた倅の保証人になってくれ。
 当時は床屋になりたい、美容師になろうという人が多く、百五十人の生徒募集に五百人も集まる程。名久井さんの保証が効いたのか竹原さんの学力が勝っていたのか、ともかく合格し大都会八戸に下宿。一年間の学習は瞬く間に過ぎ、(当時は一年で卒業)竹原さんは八日町のワタナベ、主人は十六日町の根市理髪館(根市茂吉、明治四十二年開業)で修行した有名な渡辺良一のもとに修行にでた。このワタナベの本店は六戸、田舎町で物足らずと、この主人は六戸を飛び出し大都会八戸に出てくる。藩政の時代から繁栄してきた八戸だけに、近郷の人には魅力があったんだろう。床屋には二つのタイプあり。一つはこのワタナベさんの(六戸修行時代・兄弟弟子と。左竹原さん)
ように技術を誇る、もう一つは目立たずにひっそり型。このワタナベさんは、青森県の床屋の技術大会で何度も優勝。それでも物足らずに岩手県でも腕試し。床屋  は国家試験、どこの県でも営業はできる。しかし。技術大会は、その県に登録していないと出場できない。ところが腕がむずむずしたんだろう。弟子が久慈に開店した。そこに籍を置いて岩手県大会に出場し優勝旗をさらった。が、ばれた。もともと青森の人間が腕試しとは言え岩手県の旗を持って行った。旗だけにはた迷惑だったんだろう。根性のある人だった、ワタナベさんは。この人は塩町にも支店をだした。店の名はアート理容室、近藤さんの経営する大黒湯の二軒隣。
 さて、竹原さんは六戸の本店で一年間修行、六戸は農業の町、お客さんは農家、昼は誰もこない。仕方ないので弟子の竹原さんも床屋が所有する畑で野良仕事。夕方からボツボツ来るお客さんを相手に技術習得。ようやく八戸八日町に勤務。低音の魅力フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が巷に流れる頃だ。
ワタナベは南部バス、十和田観光のバス発着場のまん前。バスの時間に合わせて調髪してくれという客もいた。なにしろ八日町には近郷近在からバスで集まる人で混雑。イヤァ賑やかだった。
 

翁の八戸よもやま話2 加藤萬次郎

職場の友
お控えなすって、
お控えなすってありがとさんにござんす。
手前生国と発しまするは奥州にござんす。
流れ流れて西東。花のお江戸は花の町
ネオンサインは上から下へ、ヘチマコロンは柳橋、粋に酔っててすまねぇが紋は駒形、名はモンパリ、しゃれた一家に草鞋を脱いで、親分子分の盃固め、田原町からロックを走り、千束町に背を向けりゃ、そこは吉原仲の町。マ字で浮気の二ツ三ツ、おっと気がつきゃ渡世暮らしは色の中、申し遅れた手前の浮名、姓は柳、名は万次けちな野郎でござんすがお見知りおいていただけりゃ、ただ、ありがてえ有馬山 宜しうお頼み申しやす。
こう啖呵をきると鈴木さんは大喜び、宴会などでよく鈴木さんに頼まれて演じたものだった。
私の旧制中学時代はさまざまに社会を泳ぎ、いろいろな遊びを覚えた。東京浅草の柳橋は通称両国柳橋という。ここを縄張りとしたインテリの親分がいた。名をモンパリ。和歌、江戸狂歌、川柳、俳句を嗜む、いい男だった。歳は三十五、六。体に不都合があり兵役は免除されていた。同じ柳橋に住むよしみで私は子分となった。入れ墨を迫られたが、痛いと云う理由で辞退した。親分は笑って薦めなかった。
親分が私のために書いてくれたのが、このやくざの仁義。鈴木さんはまじめな役人、異なった世界の仁義にびっくりしたのだろう。
遡ること五十余年、三戸地方教育事務所(県教育委員会の出先機関)に動めたときが初対面だった。やや丸顔で笑い声に特徴のある美男子だった。視聴覚教育係、これが私の役職名である。アメリカの映写機「ナトコ」で三戸郡下の小中学校を教育フィルムを持って巡回するのが主な仕事だった。鈴木さんも巡回した一人である。
ある日、人事異動があり、若い女性が一人加わった。容姿端麗で知的美人だった。掃きだめに鶴ではないが、事務所ではとくに目立つ存在となった。外にも三、四名女性はいたが、いずれも地味な八戸っ娘だった。彼女の名は小関徳子、男子職員の目は彼女に向けられる時が多くなっていた。
若い男前の鈴木さんが一番乗りのアタックを試みた。土曜日の午後彼女を映画に誘った。ところが、彼女はそれを断わって逆に私を映画に誘った。その時点で私は鈴木さんのアタックは知る由もなかった。

コーヒーをのみながら彼女は呟いた。鈴木さんには、既に私と映画観賞を約束していたからとの理由で断ったと云うのである。
求愛でもそうだと思うが突然は女の方が戸惑う。鈴木さんの突然の誘いは彼女に同伴の空想をほしいままにする時間がなかったのだと思う。私は単に彼女の「間」を保ったに過ぎなかったのかもしれない。鈴木さんと私では、鈴木さんは私より背が高く、なかなかの男前だ。愛では勝てるかもしれないが恋では到底私は鈴木さんには歯がたたない。
ロシア語の通訳であり作家でもあった米原万里さんのエッセーに面白い話が述べられている。女にもてる男の三大要素として、背が高いこと、学識が高く資産のあることをあげている。因にロシアには別の三大要素があるという。頭は銀、ポケットには金、股間に鋼鉄。何れも私には何一つ満たしているものはない。
小関徳子が私を誘った理由は何か、魅力があるとしたらどこに……。

私の旧制中学時代に、中でも横山町の問屋街の旦那衆、蔵前商店街の社長さんたちから、今も残る江戸仕草は結構身につけさせてもらったつもりでいる。そのなかに、女性にはあくまでも優しく、女心が揺れ動く程の言葉遣いに徹しなさい。「弱い」は女の誇りです。だからレディファーストなんです、などなど書くと際限がないくらい教えられた。
小関徳子は私の学生時代身につけた江戸仕草らしいところに一寸ひかれたのではないかと考えたりした。まだ土曜日は半ドン時代。その土曜日は必ずといっていいほど私は誘われ、他の男性達への防波堤の役目のようなものになった。知的美人と前述したが、あくまでも知的であり日本画的美人とは些か異なる。
正確な標準語で話す彼女に、いやがうえにも男たちは印象づけられた。やがて彼女はこの事務所の大きな台風の目になっていく。
庶務課長、指導主事たちはあの手この手で彼女に接近し征服を夢みた。だが妻帯者の彼らはなんの感傷もなくロマンもない男に過ぎなかった。彼らは事務所を去り学校長となり定年をむかえ今はこの世にいない。小関徳子とどんな夢を見ようとしたのか。
かくいう私も数えで八十五、長老だが風格に欠けていてやるせない。数十年が流れて正邦家種康さんの出版記念会の折り、偶然、小関徳子女史と再会したときがあった。名刺をもらった。カフェを経営しているようだ。早口で「遊びにいらっしゃい」と云い姿を消した。

寂しい再会だった。あまりにも単刀直入の若かった鈴木さんの淡い恋心がふと蘇った。
平成二十年十月五目、日曜日、市内白山台にある東奥はちのヘホールで、日本を縦断する映像発表会を開催していた。第一部のトリは私の作品[お庭えんぶり]。その作品を放映していたその頃、鈴木敏夫さんが息をひきとった。後日葬儀に参列していた松倉定雄さんからその時間帯であることを聴かされた。この種の発表会には必ずといってよいほど来てくれた鈴木さんだった。享年八十だった。
鈴木敏夫さんが最も喜んでくれた啖呵をお経代りに切ってみた。
お控えなすって、
お控えなすってありがとさんにござんす。
手前生国と……涙が堰を切って流れて落ちて、後を継ぐことができなかった。それは啖呵を忘れたからじゃない、同時代を生きた懐かしい友に二度と遇えないという、生き残ったわびしさが一気に胸をつまらせた……。

2008年11月7日金曜日

OA機器借り上げ料毎年4億8千万、これは正しい出費か?

山登りに二つあり、一つは富士登山のように一つの頂上を目指すもの、もう一つが縦走。これは幾つもの山を尾根伝いに歩くもの。
 この借り上げ料の調査が縦走。幾つもの課を調べた調べた。その結果無駄と、富士通にやられたことが判明。八戸市役所の管財課が発注する仕事が80億円、各課が発注するのが60億円、その半分が随意契約。
 担当課にはコンピューターに通じる者が少なく、業者のいいなりになる。つまり、自分の課では設計書が書けないので、業者に書いてもらい数字を微妙に変えて契約する。これは官製談合、その認識すらなくどの課もこれを行う。これを事件とすれば数名は逮捕となろう。
 新聞などのマスコミは当事者ではないので、逮捕者が出ようが出まいが関係ない。ところがミニコミはその事件の当事者になれる。つまり、役所の不手際を責めて、告訴すればいい。「はちのへ今昔」もそれを実際に行った。それは市長交際費のチョンボ事件。しかし、検察は不起訴処分とした。
 警察に告訴状は出さない。プロの検察に出す、被疑事実がなければ誣告罪となる。三ヶ月以上十年以下の懲役。だから、告訴する場合は慎重を要する。
 担当課は前任者がやっていたからと簡単に踏襲するが、存外崖の淵を歩いている。だが、それに気付かない。
 さて、公民館が市内に22ヶ所ある。そこでパソコン教室が開催される。市役所は30台のパソコンをリースで借り、3教室で10台づつが使用できるようにした。その備品台帳をつけていない。
 市が購入したものではないから備品台帳は不要という。しかし、5年契約で借りた物件がどのように移動しているか、それが破損していないのかと問うと大丈夫だの返答。3教室のうちサンプリングで小中野公民館に移動した10台を聞いてみた。たしかに移動してきたが、1台壊れていて、職員が直したそうだ。
 破損したパソコンはリース業者に入れ替えを願うべき、また、借りた物が紛失、盗難にあった場合は担当課に責任が発生する。世の中善人ばかりなら警察はいらない。行政は市民の利便を計るところだ。必要な物は揃えろ。しかし、揃えただけで終わるな。管理責任もある。市民からの税金との意識が欠如しているからどうでもよくなる。
 自分の金でパソコンを買って貸すなら管理に身が入る。他人の銭、毎年雲霞の如く入ると思うから雑になる。真剣に市民の為に働け。
 パソコンを課に導入する際の契約が問題。これをいいかげんにするから毎年四億円も借り料を支払う。購入した方が安い。パソコンは市役所職員の数より多いだろうとの見当をつけて調べている。どうやらその目論見は成功の模様。
 ここで問題になってきたのは富士通にしてやられたこと。この富士通の根性の悪いのは広島水道局の一円入札。突破口さえ開けば後は随意契約となり、官製談合の世界。つまり八戸市役所と同じで各課にパソコンを知る人物がいないところに着目。随意契約だけに保守料はふんだくる、維持管理料は取る、ソフト修正代として千万単位を請求するとやりたい放題。
 そこで遅ればせながら八戸市役所も情報システム課がそれに気付き、平成18年からの契約に目を光らせるようになった。
 よかった、これで富士通に騙されないと思うだろうが、そうはいかない、情報システム課はこの程度の額が適正だろうとしか言えない。何故? 権限が付与されていないからだ。
 アドバイスは出来ても契約自体に苦情、苦言は言えない。また、それを彼等は仕事としていない。そこで制度を改変することだ。
 つまり、パソコン、コンピューターに強い人間を課長にして、IT化契約を見直し、契約内容を改変する、著作権が八戸市にあるのか業者の側にあるのかに目を光らせる。
 今、一歩踏み込めば、管財契約課は従来のもの、ITがらみは全てこの目付けの課を通さないと契約が出来ない仕組みにするべきなのだ。
 市役所の情報システム課に工藤祐一グループリーダーがいる。この男が実にいい雰囲気。大映に田宮二郎ってのがいたが、これが自滅した、勝新太郎との悪名シリーズは好演、この男に似ていると言うのじゃない。大映の悪役に出てくるような雰囲気があり、一度会えば忘れられない風貌。
 この工藤氏が実力の持ち主、コンピューターを知悉している。この男をIT目付け課長にして、契約の根本から見直し、約5億円の借り賃を圧縮してもらう。世の中は実力主義、あたら人材を埋もれさすことはない。全庁的に見直しをかけさせる。FAXなども年間45万の複合機もあれば3500円の旧式を使用する課もある。
 大事なのは必要な所に銭をかけよ、不要な物は圧縮せよだ。こうした当然なことを見過ごしてきた八戸市役所の体質は何処から来た。みんな、職員一人ひとりの心からだ。我がせずとも、あるいは余計なことを喋って、おはちが廻ると困るなどの事なかれ主義が市役所を腐らせた。
 役人は何もしないのを旨とするじゃ困る。改革・改変は遠い太鼓の音、念仏やお題目じゃない、身近な足元にこそあるのだ。

2008年11月6日木曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材4

九月二日付け
 穆山和尚の生立(三)
先陰に関守なく万吉は早や十三の春を迎へぬ、或日のこと独り何をか思ひけん、重ねて出家の事を父母に申出で頻に請ふて止まざるにぞ、父母も今はとて思ひ諦め恩愛の情をたちて之れを許し、尚ほ万吉に向かい左りながら破戒堕落の挙勤なして生涯凡々の田舎僧にて終らんには好んで地獄の先達をなすにも似たり、汝には果して名僧智識ともならん覚悟のありやと形を正し或めたりける、計時の母の言葉深くも骨身に徹し実に老僧の成道の母なりしとは師が今に語る所なりとぞ、昔は名僧月舟のなほ幼くて数人の友と遊び戯れ居たりし頃、年嵩なる一人の還俗をすすむるに答へて我を大名ともなさば還俗するも惜しからねどといへるを、其母陰ながら洩れ聞きていと浅ましき事に思ひ月舟を呼び、世尊は古し天竺の王位を捨てて衆生の為めに檀特山に人り給ひ、達磨太子も南天の王子ぞと聞きつるに、大名になさばとの汝が一言たとへ子供の戯れといひながら、余りに浅間し、さる心懸ならんには母は今より子とも思はずと厳しくも云ひ懲しけるに月舟大に恥て一心に学び励み遂に名を後の世に残すに至れりと語り伝ふる古事も思ひ合はされ、英傑の世に出づる多くは母親の感化にありと云ふは今更の事にあらねど、謹みても深く自ら重んずべきは実に女子の身なりけり余事はさておき、万吉は日頃の心願漸く叶ひいと嬉しく思ふ中にも流石に名残の惜まれて母親の情を込めし手料理に涙ながらの食事も終り、父と兄とに別れを告げて生れし家を立ちいでぬ、母は舘花まで見送らんといひて手を携えて共に来りぬ、是より先き兄は万吉の出家を聞きて痛く悲しみ汝なくては我一日も立ちゆかじ、是非に家に居リてよと涙を流し止めし甲斐なく、いよいよ別れとなりければその後姿の見えずなるまで戸口にたちて見送り居たり、舘花といふは「さびしろ」を去ること遠からず浪荒き太平洋に向へる小高き丘なり、雪かと紛ふ浪の此所かしこ聳え立つ岩に砕けて玉と散る心地よき眺めをば一目にあつめて、西には老松枝を連ねし舵楼が岬画ける加く横たわり、漫々たる旭子の雲か水かの辺りより豊かに登る朝景色弓張月の影暗く磯の千鳥の浪に和しいとぞ哀れに聞ゆなる秋の夕べの眺めにもここ第一の勝地なり、二人は暫し息らひて、母はその子の将来を言葉細かに誡めつ尽きぬ名残はさりながら、互に涙おしかくし母子は更に道を急ぎて菩提寺長流寺(八戸町)といふに至り、時の住職金龍和尚を師と仰ぎて万吉はここに始めて剃髪し名をも金英と改めぬ、果てしも知らぬ青海原よせては返す白浪の轟々たる其の音は母子の耳に長き記念と残るなるべし

出勤簿があった、人事課はまるでマジック・マギー司郎も顔負け

勤労青少年ホームの館長の任命権者は教育長、館長は報酬を受ける、年額二百四十万円。この者が出勤しているかを確認するべく開示をかけた。
 人事課の主張はタイムカードも出勤簿もいらない、我々は有給休暇簿で管理している。それを出せと要求。すると出たのは十月からの分、この前はどうなっているのか?
○半年経たないと有給が着かないのでない。
● その期間は来なくても報酬を支払ったのか?
○そんなことはない、ちゃんと出勤している。
●その証明は?
これだ、と出したのは日々ハンコの押されている出勤簿。すると今まで主張していた出勤簿の不存在はどうなっているのか。報酬を得る者には出勤簿があるのか、それも半年経過すると消滅するのか?
 人事課は妙だ。南郷村の職員は差別する、選挙管理委員会が源泉徴収しなかった分の罰金を市民の税金から支払った。だが、人事課には二つのポケットがあり、一つは職員だけのもの、もう一つは税金から出してもらったもの、その職員のポケットから出したという。
 その二つのポケットを同時に見せようとはしない。人事課はマギー司郎か、こう見えても人事課はなかなか大変なの。
大変じゃなく大層変だ。

2008年11月5日水曜日

八戸市役所人事課不可思議


 このところ報酬を調べている。市役所職員の毎月の手当ては給与、報酬は正規職員ではない者に支払われる。これが三億円ある。議員も報酬、これには年間四億円、議員を半分にすれば二億円が削減できるが、この三億円が削減できない代物。商業統計調査員146人分489万円、就業構造基本調査員等96人分424万円等々。どこかに無駄があるだろうと睨んで色々と資料を集めているが決め手に欠いている。
 時間をかけながら精査するうち何か出るだろう。今日の不思議は給食センター、これは市内を三ヶ所に分け、三八五が昭和46年から給食配送を随意契約で、教育委員会と癒着して年間一億円で実施、ところが時代が変わり子供の数が激減。子供の数が減っても給食配送は減らない。だから、継続してこの配送費は支払われる。
 昔は各学校に給食室があったものだが、どうしてこうなったのか? ここらも調べると何か見えるだろう。
 さて、市役所にはタイムカードがない、出勤簿もない、あるのは有給休暇簿、これはほとんどが空欄、一ヶ月分の日にちが記載され、そこに2hなど鉛筆で記入されている。これが有給の休みだそうで、確認者の名が記されているわけではない。
 これを市役所は出勤した証拠とする訳だが、空欄が出勤した証だと主張。それは規則でそうなっていると言うが、そんなのは改めよ。議会の承認がいるわけでもない、勝手にできるものを何故放置するのか、面倒なことはしたくない、すれば休む、遅刻が明確になるからだ。
 こうしたズルイ汚い手口を平然と行うのが八戸市役所の基本体質、「はちのへ今昔」に突っ込まれなければ、八戸三社大祭の山車も税金を投入し続けた。他の山車は乞食のように一軒一軒門付けをして歩くというのに。
 給食センターは通常勤務は八時十五分から五時十五分、ボイラーマンがいて早出をして火付けをする。この人が休むと補佐がいて、早出で火付け、これに120円の特殊勤務手当てが出た。この補佐がどのように出勤したのかを調べたが、勤務簿がないのでわからない。わかる方法は警備会社の記録だという。
 それは開錠、施錠の際に誰が出退したかが、その者の持つカードから分かるという。それを見た。特殊勤務手当て簿からもそれと照合できる。
 ところが、30日は榎本氏が早出をしているが特殊勤務手当てが支払われていない。こうした仕事をしているにも関わらず支払われていないのはまずい。これを問うと、いや、係りが出てきたので支払う必要がなかった。なら、この榎本氏は早く仕事場に出るのを人生の喜びとする奇特な人なのか、そうではあるまい。早く出た人間をそれなりに遇するは至当。それが所長の意思で手当てをしたりしなかったりではマズイ。
 こうしたことも、警備会社の記録をもって言うわけだが、自主的に証明する体制を整えろ。市役所の前に出勤時間に立てばわかる。職員はタイムカードのないのを勿怪の幸いとする。人事課長はなめられている。各課の課長は見てみないふり、それが部下との信頼関係だと盲信。来年の四月からはタイムカードを設置しろ。他の市町村を調べてからと、何でも先送りしようとする態度が八戸市役所職員の下種根性(げすこんじょう・非常にいやしい根性)。こんな奴ばらの首長は苦労だが、毛ほどもそれを小林市長は感じていないだろう。彼とても同様役人だったから。はてさて、本当に市民のために働ける、汗を流せる市長は出るのやら。来年の市長入れ替え選挙が楽しみ。存外、足元の市役所職員が崩したりして……。

2008年11月4日火曜日

八戸圏域水道企業団に特別背任罪が成立するか2


世の中で悪いものに官と業者の癒着、特定の業者に利便を計る、これはマズイ。一歩間違えば刑務所の塀の中の瞬間、ところがこれが処々方々にある。
 役人の頭の中はどうなっているのか? 役人といっても「はちのへ今昔」は八戸市の中しか知らぬが、それでも見る。今日の開示は七月からあたためていた水道企業団の手口。
 先日も申し述べたように小林市長が北奥羽サービスの社長を努めたが、これを水道企業団の実質的管理者、つまり水道企業団の長の大久保氏と交代、この人が北奥羽サービスに随意契約をした。それは一億七千八百八十二万円の「水道管路情報システムデータ変換入力業務」委託料。
 水道企業団には条例があり、それを開示していなかったが、書類を庁舎一階部分に並べた。その条例の中に委託できる業務が規定され、庭の樹木剪定など自分たちで出来ないものは委託するとある。この情報入力はゼンリンの住宅地図を購入し、それに基づきパソコン上に戸別情報を入力する。これは条例に違反。しかし、自分たちの条例だけに罰則はない。
 李下の冠(りかのかんむり・すももの木の下で冠の曲っているのをなおすと、李の実を盗むのかと疑われるということから、 他人の嫌疑を受けやすい行為は避けるようにせよという意)、瓜田に履(かでんのくつ・瓜畑の中では、くつが脱げても履(は)き直すと瓜を盗むかと疑われる)で妙なことはしないがいい。条例を改めてしかるべく北奥羽サービスに利便を供与せよ。
 さて、この入力業務のどこが重大な違法行為となるというと、それは業務委託の計算根拠にある。これに技師Aを3・1人、技術員2・5人と計算根拠が示され技師には一日42100円を支払う、技術員には21200円とある。すると技師の日当基準は?の問題には基準書があり、そこには大学卒18年以上、または同等以上のものとある。水道企業団が随意契約した北奥羽サービスは設立6年、大学卒は一人もいない、18年の経験者はいない。それと同等のものというが、水道企業団の創立が昭和61年、18年以上の経験者が果たして北奥羽サービスにいるのだろうか。彼等は居ると主張、が、その証拠の提示はない。
 この一点を指して「はちのへ今昔」は大久保副企業長が北奥羽サービスに便宜供与を行ったという。自分が自分に便宜供与をすれば特別背任、市民に被害を及ぼす行為なれば背任罪といずれも免れることは難い。
 北奥羽サービスはこうした隷属的な存在から脱し独立独歩するべき。それでなければ、子飼いの部下のやるきは出ない。いつも天下りで社長が来る専務が降りるでは高天原の降臨。神話の時代ではない、現代は能力主義、子飼いを登用せずにやるきが出るのか。水道企業団は特権意識を捨て、人材登用を図れ。
 また、こうした自分たち本位でしかない狭い物の見方を捨てよ。そして犯罪行為となることを改めよ。北奥羽サービスばかりに検針を頼まず、プロパン会社やガス会社などにも検針委託が出来る体制を整えろ。
 北奥羽サービスばかりが会社ではない。株式会社にした以上世間の風にさらされるは仕方がない。その淘汰に負ければ存続理由も消滅。役所は永遠に不滅ですの時代は終焉、役所も効率化を図る時代に突入、三菱、三井などの総合商社が役所運営をする時代を迎える胎動の時期が今。
 そうならないためにも役所は経営感覚を身につけ無駄を排除することだ。特権意識の時代は過ぎたのだ。

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材3

九月一日付
 穆山和尚の生立(二)
さても両親はさぞや祖父母の愛孫の見えぬに驚き居ることと賺(すか)して連れ往かんとなしたるに、「赤坊が出来たから私は帰らない方が宜んだ」といひて子供ながらもその決心の動かすべくもあらず、両親もほとほと困り、殊に母は実家にゆきてありし通りを話せばとて、誰れも六つの子の言い分とは思ふまじと途方にくれけるが、さて詮様(せんよう・道理をあきらかにする方法)もあらざれば万吉は是よりその儘(まま)家にとどまることになりぬ、闇といはるる親心には愚かに醜き子を持ちてさへさかしくも可愛くも見ゆるものを、万吉の両親のその子を手の中の王と愛しむも道理や、万吉は温かき情の中に益々さとく生い立ちぬ
万吉は子供ながらも母の辛苦を思やり、腕白の中にも孝心深く鈍物なる兄に対しても決して侮り凌ぐといふことなく、日々の商ひには何より肝心なればと算盤を習ひても、兄はなかなか覚えぬに弟は教えぬさきにも呑みこむといふ風なれば間にあはぬままに、兄は自と両親に叱らるることの多きに、我母親の近所よリ継子いぢりと思にれんも辛く、智恵なき兄も可愛相なれば、毎度の粗忽をその身にひきうけ兄をかばうこと度々なりき、三つ子の魂百までとは実にこれ等をや云ふなるべし
母は信仏の心あつく忙がはしきなかにも万吉を伴なひて菩提寺に詣づることあり、万吉はその度に地獄極楽の掛図に目を注ぎて母に向かい「私が死んだら極楽に行きましょうかそれとも地獄に行きましょうか」と問うに、母は笑みつつ「両親の言うことを聞かずに悪戯をするから大方地獄に行くでしょうよ」「では母上は」「母も汝と同じに地獄へ行くでしょう」といわれて万吉はあまりのことに打驚き、「母上は何ゆえに極楽にいくことはできませんか」と押し返すに「妾は汝らの養育に種々の罪業をつくったので極楽往生は思いもよらず。この世の人は大抵地獄へ落ちるとやら極楽へいく人は滅多に無いと申すこと、眷属の中で御出家になると九族天に生ると云ふけれど」と何気なく打語らう母の言の深くも幼子の心にしみて愛する母と衆生に対する惻隠の心やみがたく、ここにはじめて出家の心を起こしたりとぞ、この時万吉年僅かに九歳なり、家に帰りて早速父母に出家のことをいひ出るに両親もその殊勝さを喜びながら恩愛の情も去り難く、かつは賢しき様にても頑是なき幼子が一時の出来心と果ては深くも心に留めず望みは遂に許されざりけり、されど万吉は一度かくと思ひ定めてより片時も忘るることなく寺子屋に行きては読書を勉め励み、よそ目には釣よ泳ぎと心なく遊び廻る中にも種々と工夫を凝らし居れり

2008年11月3日月曜日

八戸商工会議所の大きな曲がり角

二千年「はちのへ今昔」十二月号から
 八戸商工会議所が窓口となり、募集をしているのが『えんぶり共済』。いかにも八戸の人々だけを集めるような名前付けであるが、これは八戸単独の共済などではない。郷土の芸能の名前を冠してはいるが、これは八戸での募集を容易にするためのネーミングで、八戸だけのものでもなく、八戸の人々のためだけを考えたものでは全くないのだ。
 何故、そんな紛らわしいことをするのだろうと疑問に思う人は道理のわかる人で、筆者はそれに気づかず、八戸でえんぶりの名前を冠しているのだから、これは八戸商工会議所が独自で運営しているのだと、勝手に思い込んでしまい、この退職金共済に入った訳だ。そして、従業員全員の退職金の積立を実施した訳で、高い配当と、積立金が全額損金になるとの触れ込みで、何のためらいもなく掛け金をしていた。
 ところが世の中は様々で、且つ複雑なもので、余り公言できないのではあるが、一寸したことを従業員が引起し、退職金で穴埋めをさせようとした。
 当然、八戸商工会議所に電話をして、解約を申入れた訳だが、係の電話をお知らせしますので、そちらに電話をしろと言う、少々ならず変だなと思いつつ、その番号に電話をすると、『商工会議所の共済です』と応答する。当然、商工会議所の別室か何かだと一人合点した訳だ。
 かくかくの事なので解約したいと言うと、係を廻しますというので、それを待つと、眼鏡を掛けた小男が来て、名刺を出す。それを見ると、商工会議所共済、日本団体生命と書いてあるので驚いた。
 何も驚くことはないのだが、筆者の頭にはえんぶり共済の文字が深く焼きついているので、アレレとなった訳だ。
 団体生命に入るのなら、筆者は絶対に加入しなかった。保険会社は外にも沢山あり、選択肢は山ほどあるのだ。何も団体生命をあてにしなければならない理由は一つもない。
 商工会議所が経営するえんぶり共済だと信じて入った筆者に落ち度がある。マア、仕方ないかと自分を納得させたが、次なる疑問が生じてきた。従業員の名前で掛けている共済のため、従業員の銀行口座に振り込むとの由、かくかくしかじかの訳で、会社がそれを不足分に充当すると説明しても、規則ですので、の一点張り。
 なる程、それも一理あると、それを承諾し本人から印鑑証明を受け取り、必要な手続きをして、その退職金共済の積立金は無事に、筆者の経営する会社に入った。
 こんな厄介なものなら、全員の契約を解約すると、全員脱会の手続きを取った。一度、各従業員の口座にその金が振り込まれ、それを会社が集め、退職時に支払うことにしたのだが、ここで、大問題が発生した。
 それは、一人の従業員の掛け金だけが振り込まれなかった。他の従業員は次々に、その返金になった掛け金を持参したが、一人だけ持って来ない。何かの都合で一人だけ遅れたのかと思っていたが、何時になっても持参しない。
 これは、その従業員が何かの都合で銀行に行かないのだろうと思っていたが、一向に音沙汰がない。事は金に絡む話なので、『あんただけ持って来ないけど、どうなってるの、銀行にお金が入っていないの?』とは、心臓に毛の生えている筆者でも言いづらいものだ。その人を疑うことになるからで、これは口が裂けても問えない。
 暫く待っているうちに、こんなことに気づいた。従業員としては、自分だけに筆者が掛け金を戻させないようにしたと、逆に疑っているのではないだろうかと。
 こうなってくると、双方が疑心暗鬼になる。仕事は経営者と従業員の心が一つになってこそ、良いものが出来るもので、それなしには、成り立たないものだ。
 そこで、日本団体生命に電話をしたところ、係がいないなど言いだしたので、所長に出てもらい、事を伝えると、顧客から解約の申入れがあれば、必ず、その通りに実施してきたし、その通りにしているとの由。
 さすれば、この事態やいかにと、筆者は斬りこんだ。筆者が腹を立てると、自分でも我が身が恐ろしくなる程に、頭の回転が良くなり、声は大きくなる。なにしろ明治大学の応援団にいたことがあるので、少々ならず声は大きい。
 この声の大きいのに辟易したのが青森県税事務所の八戸の支所だ。これは尻内の合同庁舎にあるが、いい加減な処理をして、本来取るべき筋合いのない税金を筆者からむしり取った。筆者に言わせると盗ったになる訳だが、その金を返せと怒った時だ。担当の係は前は福祉関係の仕事で、最近、税務事務所に来たばかりでよく判らず返答したとか、勝手な屁理屈を言っていたが、そんなことは納税義務者には何の関係もない。
事の始まりは納税義務もないのに納付書が来て、変だなと思って、相談に行くと、納税しろとの事。どう考えても腑に落ちないので、翌日、県税事務所長に電話すると、不在だとか何とか言うので、責任者とおぼしき人にその旨を伝えた。
 大阪の漫才師で『責任者出てこい』というのを得意の演目にしているのがいたが、悶着が起きた時には、八戸市役所なら課長の首根っこを掴むために、課長出てこいと言うのが良い。担当の人だと言った言わないの水掛け論に必ずなる。以前も、このことで、八戸市役所の税金の係と、やりあったことがあった。
 読者諸兄、ゆめゆめお忘れなきよう。八戸市役所とても油断がなりませんゾ。
 渡る世間は鬼ばかりだと、心に強く銘記していただきたい。親切な親戚の叔母さんのような人ばかりじゃない。知らなければ尻の毛まで抜かれるご時世だ。
 県税事務所で散々に怒鳴って、金は返して貰うことになったが、その時も可笑しかった。県が振りだした小切手を持参して来た。この小切手は青森銀行が支払うことになっているが、俗に言う横線で、その日のうちには現金化できない。自分の取引銀行に入れ、交換所を経由して現金になるので、二三日かかる。
 が、思い出して欲しいのは、税金は現金で支払っていることだ。現金は日本銀行券と呼ばれ、悪党だろうが泥棒だろうと、盗んだ金でも、拾った金でも、その額面には使えるのだ。が、この小切手は、その日に使えない代物で、ここで筆者は又も怒った。
 『税金は日銀券で取っているのに、その日に使えない不渡りするかも知れない小切手で支払うな』と、ここが、交渉事の面白い所で、相手の欠点は徹底的に追求することだ。中国の諺に『水に落ちた犬は叩け』で、相手が我が掌中に落ちた時は、いい加減な手心を加えてはいけない。
 八戸ワシントンホテルの『囁きブラザーズ』の時は、通産省まで足を運ばなかったので、囁いて歩かれたが、これを徹底的に叩いていたら、恐ろしくて、兄弟揃って囁いて歩くことはできなかったろう。返す返すも残念に思っている。八戸商工会議所の会頭だから、まさか、そんな囁いて歩くなどとは夢にも思わなかった筆者に甘さがあった。
 相手が誰だろうと、噛む時は徹底して、蝮かハブかと言われる程にひどく噛みつかなければいけないことを、囁きブラザーズの兄の橋本昭一氏から学んだ。今度噛む時は手心しないゾ。
 県税事務所には、小切手を現金に取り替えて貰った。相手が嫌な奴だナと思うようにしむけるのが交渉術の第一歩だ。印象にも残らない喧嘩はしないことだ。県税事務所の、その後の対応は迅速になったゾ。これを喜びと思うべきだ。相手は嫌な奴だから、何とか事を荒立てたくないので、腫れ物に触るようにする。そこが面白い。
 保健所にも窓口に横柄な女がいるそうで、何時かこの女もとっちめてやろうと手ぐすね引いているが、好機到来せずで、保健所に行く用事がなく残念無念、口惜しい話だ。自分のことを言われていると思ったら態度を改めヨ。さもないと、暇な時に行ってとっちめる。どの道、この号で『八戸今昔』は廃刊になるので、時間がたっぷり出来る。餌食になるのは間違いないゾ。転勤するなヨ。
 役人は転勤があるんで残念だ。所がオウナー社長は転勤がない。だから、ハシブンには絶えず眼を光らせている。これが楽しいんダ。
 ある男が筆者を蛇のように執念深いと言ったが、蛇は蛇でも青大将じゃない。口に毒があるので蝮かハブだ。ハブは蝮より毒性が強いので、事によると筆者はハブかも知れない。知れない?じゃなく、間違いなくハブだ? 有難うございます。
 てな訳で、筆者は日本団体生命に図らずも噛みつくことになった。何故一人分だけ、解約した金が払い込まれないのかと。
 所長が、その担当者の机を開けた所、一人分の解約の書類が入っていたとの由。つまり担当者は、解約を自分の意思でしなかったのだ。掛け金を払い込んだ人間の意思とは別に、自分の思惑で解約の手続きを放棄し、机の中に隠していたのだ。
 これには、思わず筆者もカッとした。何故、そのようなことをしたのかと、逃げて歩く担当者を捕まえて尋ねると、「私も営業でして……」
 つまり、全員の解約になると営業成績に響くというのだろう。顧客の利便を考えずに我が身の保身を優先するは拙い。
 解約すれば顧客じゃなくなるので、顧客でもない者の便宜を図ることはないと考えたのだろう。愚かな行為だ。これでは、商工会議所がすすめる共済の加入の足を引っ張る以外の何物でもない。何で、商工会議所はこんな愚かなことをする団体生命の肩を持って、商工会議所の会員に執拗に加入を呼びかけなければいけないのか。これには、それ相応の理由がある。徐々に教えるので、じっくり最後まで読むといい。
 さて、この団体生命の不手際と、馬鹿さ加減に呆れて、青森市から責任者を呼び出した。平身低頭して土産の菓子をくれたが貰わなかった。菓子が欲しくて言うのじゃない。団体生命から菓子を貰うのじゃなく、こっちが貸しを作っただけだ。
 この時も東京まで出かけて団体生命の本社に文句を言おうと考えたが、歳のせいか、出かけるのが億劫になり、やめてしまった。
 そこで、八戸商工会議所には斡旋した責任がないのかと、専務理事の畑中氏に面談を求めたが、言う言葉が素晴らしい。八戸商工会議所の会頭の橋本氏は、ホテルの不手際事件の際に筆者の顔を見ずに、壁に向かってシカトウ(鹿の十・花札の絵札)したが、同じように、専務理事の口から出た言葉はこれだ。
 『不手際があった事は認識している』
 国会の答弁じゃない。認識とは恐れ入った。言葉を継いでやろうかと思ったが、馬鹿らしくなってそのまま帰ってきた。
 詫びの一言もなかった。会頭が会頭なら専務理事もこれだ。自分の立場を認識できないのだろう。何故、八戸商工会議所はこんな体質になってしまったのか。その理由は簡単だ。
 ここに、八戸商工会議所の平成十一年度の収支総括表がある。
 これによると、商工会議所の会員からの会費の収入は一億九百万円。事業収入が二億一千万円となっている。交付金が一億五千万円。事業収入は退職会計、共済事業会計の合計が一億三千万円で、つまり団体生命からの割戻というか、手数料の収入が会費収入を上回る巨額を占めているのだ。交付金の中の相談所会計が一億四千九百万円で、これは国などからの援助なのだろう。つまり、会員の方に眼が行っているのではなく、日本団体生命と国の方に眼が行っているのだ。
 商工会議所に相談に行くと、それが実に良く判る。NHKが報道した、釧路の市役所が航空路の確保のため、冬場に観光客が減ると航空便の本数が減り、釧路市の先行きに不安が出るので、冬季の観光客誘致に市役所の金を使い、市内のホテルで観光客にカニ料理を提供する金を支弁した。さらに、飛行機代の一部も負担したと言うニュースだった。この内容を深く知りたい、八戸に新幹線が来る時に、この発想が生かせないものかと、筆者は八戸商工会議所に電話をして、釧路市がこのようなことをしているので、釧路の商工会議所に誰が主導権を握って推進しているのか調べて欲しいと電話に出た女性に告げた所、釧路市の商工会議所の電話番号をお知らせしますと言われて、電話番号が知りたいなら、電話局に電話をする、八戸の一市民からの電話に釧路の商工会議所が親切に教えるとは思えないので、八戸の商工会議所にそれをお願いしているのだが、間違っているか、と、問うた所、お待ち下さいと言ったなり電話に出てこない。この時も怒って、商工会議所に出かけた。不親切だったことを詫びると上司は言ったが、万事がこの調子だ。
 八戸市役所にも観光課はある。商工課もある。一体全体、商工会議所と市役所のそれらの課の違いは何処にあるのか。電話番号を知らせるだけなら、商工会議所は不必要だろう。
 今夏の小中野の太鼓フェスティバルに和太鼓の奏者を探す役が筆者に廻り、八戸商工会議所に相談に行った。それが記憶では七月の十日過ぎだったと思う。係の人に和太鼓を演奏するグループが軽米と天間林にあるそうだが、町おこしで、それらの演奏者が祭り等で演奏するが、該当の商工会に問い合わせて、責任者を知らせて欲しいと願った。わかりましたというので待つと、八戸観光協会が詳しいことを知っているそうで、八戸三社大祭が忙しので暫く待てとのこと。弱ったナと思っているうちに、顔の広い人が二、三人で手分けして探してくれ、無事に演奏者たちが判明。
 三社大祭が終われば、教えてくれるだろうと、商工会議所の回答を待ったが、その連絡が来たのが八月三十日。小中野の太鼓フェスティバルはとうに終わっていた。有難かった。
 昔の商工会議所は違っていたようだ。八戸の街は我々が動かすの気概があった。八戸商工会議所五十年史をみるとそれが良く判る。
 どこで、曲がったのか。それは昭和四十七年の四月からだ。共済制度がこの年に発足し日本団体生命を委託先とした。ここから、団体生命との二人三脚が始まった。
 ところが昭和五十六年に大蔵省から加入率が低いので制度を廃止するとの通達が出て、これを回避するために二人三脚に一層拍車がかかった。つまり、日本団体生命から割戻の手数料が入らなくなるのだ。その当時の金額がどの程度なのかは判らないが、かなりの額になっていたため、その資金源を断たれるのが恐ろしく、商工会議所は全面的に会員の獲得と共済制度の加入を促進した。
 この結果、それは達成され現在まで続いている訳だ。
 そして、他の生命保険会社にはない特殊なサービスが日本団体生命と八戸の商工会議所の間でなされている。が、これは単に八戸だけではなく全国的に日本団体生命と商工会議所が強く結びついて、その輪の中に八戸もあると言うべきなのだろうが、商工会議所の事業所データベースをオンラインで団体生命が利用できるようにした。
 つまり、商工会議所の会員の資料を日本団体生命はいとも簡単に手に入れることができる。これは特定の生保会社に対しての利便供与ではないか。
 その何処が悪いと言われると、社会通念上、企業の秘密に属することを、商工会議所は洩らしていると考えられる。この問題で、事を争うには弁護士との相談が必要になるが、その時間的余裕が今はないので、利便供与ではないかと言うだけに留める。
 その日本団体生命はアクサニチダンと名前を変えた。これもどうして、こうなったのかがよく判らないが、利益が上がらずにどこかと合併したのだろうか。最近の商工会議所のニュースはアクサニチダンと加入者の懇談会が開催され、経営的には何等問題はないと、アクサ側が言ったと掲載されていた。問題がないなら、とりわけ強調する程でもなく、名前を変える必要もなかったのではと思えるが、筆者はその席にいた訳ではないので、何とも判らない。
 この大不況で日本団体生命の運用成績も悪くなり、新規加入で一年未満に共済から脱退する場合は元本を割ると、その解約した金を払い込まない事件の当時、説明があった。これは、この大不況だけに仕方がないような部分もある。それは認める。それ以前に、商工会議所へのリベートが多額で、それをやめれば、共済加入者はもっと効率の良い待遇も得られたのではないだろうか。
 二人三脚の商工会議所と日本団体生命の蜜月も、この大不況で、少々、歩調が乱れているのではないだろうか。団体生命は商工会議所に新規加入者を紹介し、その見返りとして商工会議所の会員の共済を一手に受け、商工会議所のデータベースを自由に見ることを得る。巧い図式だが、割を食っているのは共済加入者ではないのか。中間搾取が大きくて、本来得られるだけの配当が減額されてはいないか。
 この日本中の商工会議所と団体生命のもたれ合いをどの新聞社もマスコミも報道しない。これはタブーにでもなっているのだろうか。筆者はそんなことは知らないが、狭隘な八戸だけを見ていてもそう思う。全国には賢い人達も多い筈だが、誰も言わないと言うことは、言ってはいけないことだったのかしら……。急にオカマ言葉になるのも可笑しい。
 更に驚嘆するのは先程示した商工会議所の平成十一年度の収支決算総括表で、下段の人件費の欄をご注目。二億六百万円になっているが、商工会議所の人員は三十八人、それで割ると一人当たり五百四十二万円だ。こんなに年収がある企業が八戸市内に何社ある?
 商工会議所の職員になろう。絶対に倒産はない。何しろ、交付金と団体生命の割戻などの事業収入で三億六千万円にもなるのだ。全体の六十五%が、これらで占める。絶対に倒産がない理由がこれだ。商工会議所に所属する企業は倒産の危機はあるが、商工会議所自体は倒産しない。これも妙。
 この八戸商工会議所の決算書類の明細を見れば、もっと細かな金の流れが見えるだろうが、商工会議所では、その冊子をくれなかった。この総括表だけをコピーしてくれただけだ。会員にも見せないのは、何かあるのだろうか。あるいは、『八戸今昔』に書かれたくない部分があるのかも知れない。これはあくまで推測の領域。
 この後、調べた所で判明したのはアクサはフランスの会社で、外債で損を出した団体生命を支援した。それでアクサニチダンとなった。商工会議所という公的機関が一、私企業だけにオンラインで会員情報を提供するのは、どう考えてもまともじゃない。他の生保・損保にも同様に開放してこそ、公的機関の意味がある。なかなか、そうはさせないだろうが、このままの状態では癒着以外の何物でもなかろう。
 会員の獲得に奔走するのは『商工会議所から参りました』と言う団体生命の職員で、その恩義が商工会議所にはあるのだろうが、会員を獲得しても、会員からの相談にのらないような体質では、折角、獲得した会員も脱会するのは間違いない。商工会議所は親会議所などの呼称をされ、実際の意見の掌握は青年部などに任されるが、人をタダで使い、自分は方向づけだけするのが商工会議所の役目なら、こんなものは必要ない。自ら会員のために汗水垂らすの努力なしに、今回の大事業である新幹線の八戸延伸を軸に、街を活性化し、観光都市に変貌を迫られる、この百年に一度の好機も、みすみす逸する。それは、とにもかくにも、商工会議所の我が身忘れての努力がないからだ。場当たりの観光案内冊子を発刊するのが精々だろう。