2008年11月12日水曜日

悪ガキばんざい パート2 風の又五郎

戦争の最中、こんな時代でも悪ガキ軍団は大人の舌を巻くような遊びを考えだしては楽しんだ。
 いつの時代でも子供のほうがたくましい。経済が悪かろうが世の中が末期状態であろうが一向に構わぬ。大人たちがオロオロとしていても天使の顔で遊ぶ。子供は大人にとっては、宝であり、なにごとにつけても「救い」なのだが、現代ではその天使を抹殺する悪魔の大人がいるのは嘆かわしい。
悪ガキはこのあたりでは、投げワラシと呼ばれた。
物心のついたあたりには洋品店を営んでいた私の家には、自転車が数台とリヤカーが大小あり、毎日のように商品の運搬にもちいられていた。いまのように自動車で仕事をできるのは大きな商店でもなかった。それができるのはハイヤー会社ぐらいのもので、それもガソリンが枯渇していて、ほとんどは休業の状態であった。国内の産出するガソリンは雀の涙ほどのもので終戦間際では、松の根っこから搾り出す油、すなわち松根油(しょうこん油)からガソリンの代用品を造った。これで飛んだ飛行機はエンジンが止まりよく落ちた。
 戦況もだんだんと悪化をたどり、いよいよ全般に不況の風が吹きはじめ、店も暇がおおくなった。若い男の従業員は兵隊にとられ女子供と年寄りばかりとなっては商売にならぬ。自転車もリヤカーも無用の長物となり、これは、子供たちの格好のおもちゃになってしまった。
 リヤカーはご存知のように(と言っても現代人にはわからぬか)二輪車だが自転車は縦に車輪がついている。リヤカーは横並びである。
 これを自動車のように四輪にして走れぬものか?と万兆(まんちょう)は考えた。ああそうだ万兆と言う人物を紹介しておこう。わたしより七歳上の従兄弟がひとつ屋根の下に暮らしていた。ほんとの名はM志と言うがこのあだ名は万兆、日ごろの会話では子供らしからぬ、大きな夢や構想を口にする。年上の仲間は蔑(さげす)みの意味であろうか、万も兆もホラを吹くとこのあだ名を授けたものだ。
 かと言って、話だけで終わるのかと思えばその話の一部は実行、実現をするから、すばらしい。ガキ仲間からはある意味での信頼のような感情があるのだ。早い話、子供でありながらいっぱしの発明家といったところだろう。新案、奇案、珍案がぽんぽんと出てくるのだ
日ごろ、なにか面白い遊びをはじめるのでいつでも周りには子供たちがウロウロしている。次はなにをはじめるのか?
 ガキ仲間はいつでも興味津々なのであった。
この万兆なる人物は、いまも健在なのでお叱りをうけるかもしれぬが全部をばらそう。子供の時分に「やんちゃ」をつくした勲章としてここに書きしるしたい。

 このリヤカー2台をつないだり離したりしているうちに、出来た!四輪の自動車ならぬ人動車ができた。小型のリヤカーは三角に近い引き手、大型は四角の引き手だ。
これを、うまく組み合わせたものだ。つなぎ目は棒を一本とワラ縄でくくり、左右にかじ取りができるようにした。操縦は発明者の万兆だ。四人乗せて一人が押す。すーいすいと、走るといったら走る。これで町内を走りまわり、軍艦マーチをおおきな声で歌いだした。
 その声を聞きつけて、こどもたちが家の中から飛び出してきた。町内はこのメインストリートであり道はコンクリートで出来ていて、両側にはあらゆる業種の商店が建ち並んで一丁ほどの距離は端から端まで見渡せた。
 誰かが言い出した。
「あすこがらだったらどんだべ はぇーがな?」
と橋のうえを指さす。それあ速いだろう、急な坂道で日ごろは自転車がキイキイブレーキを鳴らしながら走り降りてくる場所なのである。

「おもっしれい」
「オモッシレイ」
こんなことでみんなでエッチラオッチラと、この乗り物を橋の真中まで押し上げた。
怖いもなにも考えない、………と、言うよりかここでは、口にだせない。みんな空元気なのだが「いやだ」と言えば臆病ものと馬鹿にされる。ここでは「じぐ無し」と呼ばれる。子供ながらにもプライドがあったものだがこれは戦意高揚とやらで教育もそのようにすっかり染まっていた。当然なことであろう。国家は人間を鉄砲の弾丸一発ぐらいにしか考えていなかったろうから。
湊橋の真中から通りの高差は十メートルにもなろうか、橋の下はマストを上げたままの漁船が通行する高さだ。
お客となった悪ガキ三人と運転手となる万兆は緊張気味だ。
「押せ押せ!」
後押しは船具屋の末息子武、そして米屋の清吾の二人だ。どちらも身体が大きく力がある。
「せーの」
の掛け声でこの二人が力任せに押した。坂の途中からどんどんスピードがあがった。まあ、その速さはさしずめ冬季オリンピックのボブスレーやリュージュ。テレビでの画面を思い出していただきたい。
エンジンもない乗り物は当然音もない、排気のガスもない。だが、市営バスより2倍も速い。そんなに速ければ交通の妨げになろうなどの心配はいらぬ、バスはいまのようのに沢山あるわけでなし、ほんとにたまにしか来ない。
このバスだって木炭を燃やして水をたらし水成のガスをつくりエンジンを廻していた。このガスだって尻からでるものと同じメタンガスなので馬力がない。坂道などでは動けなくなり乗客が降りて後押しをしたものだ。
リヤカー2台のこの乗り物は考えていたより快適に走った、四度 五度と試しているうちにすっかりコツをつかんだ万兆。得意満面、運転手か操縦士になった気分だ。
運転免許?そんなもの、要るわけがない。このゼロ戦のようなリヤカーに乗る人数が多くなれば慣性も大きく、スピードも増す。5人乗ったらその距離約300メーターにもなった。つぎは「わ」おれだ、と列ができた。こんなに楽しそうな子供たちに大人たちはおおらかなもので、危険だとか迷惑になるとかは言わない。現代であればとても許されるものではないであろう。心配で見物していた大人たちは「大丈夫」とそれぞれに家のなかにひっこんだ。
5人でよければ6人乗っても同じだろうと万兆は考えた、小さな身体であってもぎゅうぎゅう詰めだ。運転の万兆で7人となる。1人増えれば走行距離がもっと伸びる。「愚かな」と口にする大人もこの悪ガキたちと同じことをしでかすことは説明のいとまもない。まあ、人間とはこんなことの繰り返しの歴史を創っているにすぎないのだ。
誰もが安心した。と思ったときに、大事件が起こった。いや、大事故か?発進が20回ほどにもなったころだろうか、またもすんなりと走り去るものと思っていた。
ガッシャーンガラガラバリーン、大音響が聞こえた。あれー吾がゼロ戦はいづこや?見えない。見えないはずだ、煙か湯気かホコリかわからぬものが、坂道の右がわの床屋から立ち上がった。
「床屋だー」
誰かが絶叫をあげた。
「入ったーはいったー」
あとのことばの「はいったー」はここの方言で大変なことを起こしたときの囃子言葉である。
リヤカー2台を繋ぎ総勢7人が乗り、床屋のガラス戸を2枚を破って飛び込んだ。床屋のおやじは手にくしとハサミをもって外に飛び出した。当然お客の髪整髪の途中であったろう。
「いらっしゃい」
もなにも口にする暇もないわけで、招かざるお客といったところか。
スピードが出るので面白くまた距離も大きくのび
ると喜んで定員以上?の乗客を乗せたのでハンドルとなる三角の取っ手にワラ縄が食い込んだ。
スピードが上がったところへ犬が道の真中に飛びだした。慌ててハンドルを切ったが戻らない。
いかんせん、所詮は子供の考えるところ緊急時を想定していなかった。ブレーキが無い、棒一本でも括りつけていればよかったがあとの祭り。
「止められない止まらないカッパえびせん」
というコマーシャルソングがあったけー。その時代にはまだ無い。あったらこんなことが起こらなかったなどとは言い切れない。
幸いに悪ガキたちはかすり傷程度で済んだ。昔のガラスは薄かった、これが幸いした。木の枠に美濃版ガラスという小さなサイズのガラスをはめ込んだ戸が定番であった。
リヤカー2台と7人の悪ガキたちは床屋の大事な商売道具の鏡の直前でようやく止まっていた。
なぜか皆顔が真っ白になって、しまった。タルカンポーダーの容器がつぶれて粉が噴き出したのだった。それにガラスのかけらがキラキラと身体にふり注いでいた。度胸のない子供はワーワーと泣き叫んだが万兆はそれをなだめる余裕もない。
床屋の親父から何と叱られるか?このあとどのように始末をつけられるのか?頭のなかは、いままでの楽しさも何も吹き飛んでしまった。
誰かが万兆の家に走った。
「大変だ―事故だ―、死んだかもしれねぇ」
番頭の陽助がとんできた。状況を確かめるためだ。
こんなとき家長の親父は慌てない。今考えてみると慌てない理由としては、子沢山なので一人二人死んでもかまわぬ。と腹を括っていたのかもしれないと思うのはあんまりなのであろうか?
あるいは、こんな戦争で死なせるよりか楽しんで死んでくれるほうが悔いが少ない。と思ったか、どうか今となっては知りたくも親父は他界しているので確かめることは叶わぬ。
床屋への弁償も詫びを入れるも大変だ。同じ町内でお互いにお客なのである。万兆はすっかりうなだれ家に帰った。親父の雷が怖い。普段は少しの過ちでも大きなゲンコツがくる。こんな大事件を起こしてしまったので只ではすまないのは目にみえている。
家に帰って拍子抜けした。真っ先に親父が飛び出してきた。番頭の陽助から報告あったのだ。元気なく、縮こまった身体が哀れさを表わしている。
「怪我なくてよがったな、足洗って晩飯食え」
たったそれだけを言い残し佛間に引っ込んだ。まもなく香のにおいが流れてきた。親父はご先祖様に無事を感謝していたのだった。
こんな日があって三十年もしてから母から聞かされた。戦時中の苦く酸っぱい想い出である。