2008年11月23日日曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん2





モウ、いいかげんにしてヨ、この茶目っけたっぷりの古川ロッパに似たデップリしていつも和服の好々爺(こうこうや・にこにこしたやさしそうな老人)然とした人も昔は斬ったはったの人生を歩んだ人。それこそ日本にアメちゃんが進駐し八戸の町で狼藉を働いた。当時、三萬デパートはダンスホールとなり多くのアメリカ兵が好き勝手。建物の内部だけに警察も手を出さない。当時は警察も間抜けた組織、国警と地警に分かれていて、互いに相手が取り締まるべきと高見の見物。これじゃ日本人はたまらない。(上・右高清水・秋山・小萩沢・中道・中山かみさん)
 深作欣二監督の映画、仁義なき戦いじゃないが、出撃予定だった特別攻撃隊、俗に特攻隊の生き残りは、もともと死んだはず、生きているだけでも儲けものと、命知らず、泉山重吉氏も同じ根性で乱暴狼藉を働くアメチャン相手に大立ち回り、この度胸に日本人、とくに三日町の旦那衆は溜飲(りゅういん)を下げた(胸がすいて気持がよくなる)。
 後年、泉山重吉氏が中央劇場建設時、この旦那衆が株主になって応援、積年の功労に感謝の意を表した。こういう点が昔の八戸人にはあった。相手を思いやる、相手の行為に厚意で応える。どうも、これが今の八戸の旦那衆に欠けている。気持が小さく、他人のことが気になって足を引っ張ることばかり巧みだ。実に嘆かわしい、親がそれだ から、子は更にこぶり、どうなんるのかね八戸は?
 千里さんは巡業も覚えさせられた。フィルムを持って尻内や名久井あたりまで出かけて映写会。出張劇場のようなもの。大体青年団が客を集めてくれた。勿論割戻をするので相手も張り切る。ところが、こういう時にタダ見をきめこもうという輩(やから)がかならずいるもんだ。上名久井に映写技師と共に出かけたとき、村の大関を張る体のやけにでかいのがタダで入れろ。ダメ、入れろ、ダメの押し問答。
「この野郎」と、千里さんの首を締めにかかった。体は細いが千里さんは高校生の時はバスケット、卒業してからは番町の重茂(おもい)道場(八戸高校の柔道指南家、肉屋も経営)の黒帯。ところが相手は水ぶくれのデブ、少々投げてもまだまだと起き上がる、これじゃ締めて落さないとこちらが負ける、なにしろデカイ、押しつぶされそうになり、あちこちぶつかって千里さんも傷だらけ、 体力的にはかなわない、誰か止めに入らないかとアチコチ見回すが誰も遠巻きにして寄ってこない。これで締め落せる筈と必死になって相手の襟を引っ張るがボロシャツでズルズル、弱ったと思った瞬間眼に汗が入って、ボウッ、あれれ、これは大変と思ったところにようやく青年団の幹部がきて引き分け。もっと早く来いヨ、と言いたいけれども我慢した。
さて、このように千里さんは泉山重吉氏にシゴかれて、いよいよ湊映画劇場の営業主任になるのであります。映画館は当然、劇場という箱があり、その中に入る客がいる。さて、その客が求める映画が問題なわけ。
 と、いうのも東宝、松竹、大映館は決まったフィルムが回って来る、なにしろ専属館。ところが独立映画館は何をやるのも自由。メトロ、ユニバーサル、フォックスなど外国ものは、フィルムを地方の映画館にどう貸し付けるかが問題。
 今風に言えば、映画館がテレビのチャンネルだ と思えばいい。自分の映画館に人を集めるには面白いフィルムを集めなければならない。TV局も自主制作番組を六割以上作れと役所から指導あり、TVの日曜名画座も映画館と同じでフィルムを借りる。(右兄昭一氏・中千里氏)
 つまり千里さんは時代の先端を走っていたわけ。ここで千里さんは持ってた能力を一気に開花。デーリー新聞に広告掲載、各映画館が競っておいでおいでと映画の宣伝。たいして面白くない映画も、面白く思わせる広告が必要。今でいえばコピーライターだ。ここに、この文句を入れよう、ここは大きな文字で、ここは写真をと、智慧を絞って三年で投下資本を回収せよの命令に、四年で返済した高能力。中央劇場には市川政夫という腕っこきの興行師がいて、千里さんの湊映画劇場の名目支配人も勤めていたが、この人から実演の世界を教わる。当時は浪曲や民謡、ドサ回り専門のチャンバラ、一世風靡のストリップが大人気。戦前にもヌードショウはあった。ヌードってのは最初っから脱いでいる。ストリップは次第に脱いでいく面白さがある。これに気づいた奴はえらい。戦後ヌードショウが復活したのは昭和二十二年、新宿の帝都座で甲斐美春っていう裸の姉ちゃんが額縁を持って舞台に登場、これだけで劇場を激情した男が十重二十重に取り巻いて、開始を今か今かと待ったというのだから昔の男は純情。 続