職場の友
お控えなすって、
お控えなすってありがとさんにござんす。
手前生国と発しまするは奥州にござんす。
流れ流れて西東。花のお江戸は花の町
ネオンサインは上から下へ、ヘチマコロンは柳橋、粋に酔っててすまねぇが紋は駒形、名はモンパリ、しゃれた一家に草鞋を脱いで、親分子分の盃固め、田原町からロックを走り、千束町に背を向けりゃ、そこは吉原仲の町。マ字で浮気の二ツ三ツ、おっと気がつきゃ渡世暮らしは色の中、申し遅れた手前の浮名、姓は柳、名は万次けちな野郎でござんすがお見知りおいていただけりゃ、ただ、ありがてえ有馬山 宜しうお頼み申しやす。
こう啖呵をきると鈴木さんは大喜び、宴会などでよく鈴木さんに頼まれて演じたものだった。
私の旧制中学時代はさまざまに社会を泳ぎ、いろいろな遊びを覚えた。東京浅草の柳橋は通称両国柳橋という。ここを縄張りとしたインテリの親分がいた。名をモンパリ。和歌、江戸狂歌、川柳、俳句を嗜む、いい男だった。歳は三十五、六。体に不都合があり兵役は免除されていた。同じ柳橋に住むよしみで私は子分となった。入れ墨を迫られたが、痛いと云う理由で辞退した。親分は笑って薦めなかった。
親分が私のために書いてくれたのが、このやくざの仁義。鈴木さんはまじめな役人、異なった世界の仁義にびっくりしたのだろう。
遡ること五十余年、三戸地方教育事務所(県教育委員会の出先機関)に動めたときが初対面だった。やや丸顔で笑い声に特徴のある美男子だった。視聴覚教育係、これが私の役職名である。アメリカの映写機「ナトコ」で三戸郡下の小中学校を教育フィルムを持って巡回するのが主な仕事だった。鈴木さんも巡回した一人である。
ある日、人事異動があり、若い女性が一人加わった。容姿端麗で知的美人だった。掃きだめに鶴ではないが、事務所ではとくに目立つ存在となった。外にも三、四名女性はいたが、いずれも地味な八戸っ娘だった。彼女の名は小関徳子、男子職員の目は彼女に向けられる時が多くなっていた。
若い男前の鈴木さんが一番乗りのアタックを試みた。土曜日の午後彼女を映画に誘った。ところが、彼女はそれを断わって逆に私を映画に誘った。その時点で私は鈴木さんのアタックは知る由もなかった。
コーヒーをのみながら彼女は呟いた。鈴木さんには、既に私と映画観賞を約束していたからとの理由で断ったと云うのである。
求愛でもそうだと思うが突然は女の方が戸惑う。鈴木さんの突然の誘いは彼女に同伴の空想をほしいままにする時間がなかったのだと思う。私は単に彼女の「間」を保ったに過ぎなかったのかもしれない。鈴木さんと私では、鈴木さんは私より背が高く、なかなかの男前だ。愛では勝てるかもしれないが恋では到底私は鈴木さんには歯がたたない。
ロシア語の通訳であり作家でもあった米原万里さんのエッセーに面白い話が述べられている。女にもてる男の三大要素として、背が高いこと、学識が高く資産のあることをあげている。因にロシアには別の三大要素があるという。頭は銀、ポケットには金、股間に鋼鉄。何れも私には何一つ満たしているものはない。
小関徳子が私を誘った理由は何か、魅力があるとしたらどこに……。
私の旧制中学時代に、中でも横山町の問屋街の旦那衆、蔵前商店街の社長さんたちから、今も残る江戸仕草は結構身につけさせてもらったつもりでいる。そのなかに、女性にはあくまでも優しく、女心が揺れ動く程の言葉遣いに徹しなさい。「弱い」は女の誇りです。だからレディファーストなんです、などなど書くと際限がないくらい教えられた。
小関徳子は私の学生時代身につけた江戸仕草らしいところに一寸ひかれたのではないかと考えたりした。まだ土曜日は半ドン時代。その土曜日は必ずといっていいほど私は誘われ、他の男性達への防波堤の役目のようなものになった。知的美人と前述したが、あくまでも知的であり日本画的美人とは些か異なる。
正確な標準語で話す彼女に、いやがうえにも男たちは印象づけられた。やがて彼女はこの事務所の大きな台風の目になっていく。
庶務課長、指導主事たちはあの手この手で彼女に接近し征服を夢みた。だが妻帯者の彼らはなんの感傷もなくロマンもない男に過ぎなかった。彼らは事務所を去り学校長となり定年をむかえ今はこの世にいない。小関徳子とどんな夢を見ようとしたのか。
かくいう私も数えで八十五、長老だが風格に欠けていてやるせない。数十年が流れて正邦家種康さんの出版記念会の折り、偶然、小関徳子女史と再会したときがあった。名刺をもらった。カフェを経営しているようだ。早口で「遊びにいらっしゃい」と云い姿を消した。
寂しい再会だった。あまりにも単刀直入の若かった鈴木さんの淡い恋心がふと蘇った。
平成二十年十月五目、日曜日、市内白山台にある東奥はちのヘホールで、日本を縦断する映像発表会を開催していた。第一部のトリは私の作品[お庭えんぶり]。その作品を放映していたその頃、鈴木敏夫さんが息をひきとった。後日葬儀に参列していた松倉定雄さんからその時間帯であることを聴かされた。この種の発表会には必ずといってよいほど来てくれた鈴木さんだった。享年八十だった。
鈴木敏夫さんが最も喜んでくれた啖呵をお経代りに切ってみた。
お控えなすって、
お控えなすってありがとさんにござんす。
手前生国と……涙が堰を切って流れて落ちて、後を継ぐことができなかった。それは啖呵を忘れたからじゃない、同時代を生きた懐かしい友に二度と遇えないという、生き残ったわびしさが一気に胸をつまらせた……。