2008年11月25日火曜日

八戸及び八戸人1 中山千里さん4






湊橋を渡ると湊映劇、その隣が柳湯、おかみさんが気のきくいい人で近所の人は皆慕ったそうだ。江戸時代から風呂屋の二階は社交場だったが、央子さんは結婚のお披露目をその柳湯の二階で行った。えらい美人だ、写真がいまいちはっきりしないが、中央に嫁さん、後ろに母、左隣が母方の祖母、その左が父方の祖母、後ろの美人が松橋さん、須藤さん、左端に小中野の田村豆腐屋さ、柳町の吉田歯科院長の顔が見える。
かみさんの話を「はちのへ今昔」に書いたことがある。さんまのからくりTVって番組が中山さんのかみさんを取り上げた。私は昔ミス八戸で、そのことをタウン誌が載せてくれた。だから私の宝物がこの雑誌ですと、「はちのへ今昔」が全国に紹介された。面白いもんだ、何がきっかけでTVに出るのかわからない。人生は妙な場所、面白いようなつまらぬような、甘くて酸っぱいところなのだろう。(右・岳父吉田秀雄)
 そのキャバレーのクジ券をかみさんがチャンとしまっておいてくれた。有難いもんじゃないの、ベターハーフってよく言ったもんだ。テレビがあたりました。そのテレビを売りまして生活の足しにしたってんだから、つくづく、所帯の苦労が身にしみる。ところが世の中悪いことはできないもの、五十年も経って小中野を千里さんがウロウロ、一軒の飲み屋に入ってキャァ、紫苑の娘、今じゃそれなりの昔の娘が「いらっしゃい」ってへったそうだじゃ。
 水目沢の映画館を経営して欲しいと頼まれ、断れずに行くが自衛隊での映写会しか儲からない。陸上自衛隊には三千人もひしめいていたが町はまったく閑散で、米の飯がままならぬ。芋栗で飢えをしのいで一年間、とてもたまらず撤退。しばらく吹上の実家の商売を手伝ううち、岳父(義理の父)から国立工業高等専門学校が出来るので、そこに勤めるように手引きされた。昭和三十七年の話、その開設から手を染めて、映画興行師からお役人へと大変身、勝手きままに暮らした人生から管理される側のお役人、型にはめられ上司の顔色うかがいながら無事に定年まで勤めあげました。なんたって学校の開設準備から勤めたんだから最古参、おとうさんありがとう、と優しいかみさんから花束貰ったそうだ。
 エッ? 日米会館の話? そうそう、この日米会館で千里さんが冷や汗かいた。それは保証人。いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と災難で、若いときは勢いにまかせて強気なことをする。俗に言う若気の至りってやつで、岩手県出身で小中野のカフェ・キングの傍でハレムというキャバレーを開いた三浦という若者と友人になった。気があって毎日のように湊映劇にやってくる。俺も映画館やりたいんだ、日米会館を借りようと交渉したけど断られてサ、と相談を受けた。日米会館の倅は千里さんの友人、お袋さんとも顔馴染み、なら俺が交渉してやると、三浦さんの前でいい格好した訳、日米会館のお袋さんも中山さんが保証人になるならOKとふたつ返事。
 そこで映画館を開始し、そこそこ儲かっているときに日米会館が火事出して丸焼け。青くなったのは千里さん、下手すりゃ夜逃げしなきゃと息を殺して小さくなった。警察と消防の現場検証の結果、火元は売店と断定。これで千里さん助かった。というのも売店は日米会館が経営。出火元は三浦さんではない、危ういところで千里さんはセーフ。若気の至りで保証人になったが、これに懲りて以後はならない。
 中山千里さん、三人の子どもと三人の孫に囲まれ、古女房(右)にはびしゃかけられ(おどかされ)ながら七十二歳、古来稀れなりという七十のお祝いはしなかったそうだ。しなきゃいけない歳祝い、生きてるだけでも有難い、まして節目のお祝いだ。すれば命はまだまだ延びる。
  中山千里さんの巻・ドットハライ(終)
続「はちのへ今昔」の狙いは市民ひとりひとりの歴史の掘り起こし、今は爺ィに婆ァだけれど、鶯鳴かしたこともある、で往年のあれこれの話を孫に喋っても前に聞いた、何回も聞かされたと被害者意識で、老人の面白い話もゴミに埋もれる。
ところが、往時を共に生きた人なら、そうそう、あの人はその後ああだった、こうだったと話しに華が咲く。今八戸に必要なのは楽しく昔話のできるサロンだ。バスに揺られて若者の姿の消えた町で老人同士が湊地区とか、八戸高女、八戸高校などのテーマで自由に昔話、自慢話をして盛り上がる場、それが八戸サロン。今、中心商店街は絶滅の危機、これを打破できるのは自由に金の使える年金暮らしの黄金の世代、孫にやらずに自分で皆使え、生きてきた喜びをかみしめるために。