九月十四日付
穆山和尚の教え(一)
味噌臭き味噌とやら、学者臭き学者は真の学者に非ず、威厳をつくらう人には真の気品はなきものぞかし、集ひ来る里人等に我を忘れてもの言う慈愛の中にこそ高僧穆山師は現るるなれ、然れど穆山師とて初めよりかかる円満の人にてはあらじ、長き間思を練り欲を抑へて様々の道程を通り越し今の境に到りしなれ、師常に其弟子に教えて「私も矢張一度は大我慢を起したことがある、夫れは私の恰度学問に凝て諸宗の教文にも遍く目を通し、学問をこのうえなき宝と思って居た時のことで、今になって考へて見ると誠にはや途方もない偏った故事附の理屈を高慢と云う煩悩の中から作り出して我こそはと悟った積りで得意になって居たのである、丸で狂気の沙汰ぢや、安心立命というものは決して道理でばかり得られるものでない、安心を得るみちに百姓も学者もかはりがないのだ」と云ヘり、是等の言葉を能く味はば縦しや、高僧穆山師たらずとも散乱の心を静むるに近かるべし
若き在家の人などの就て教えを請うものあれば、忙はしき中にも疲れし中にも喜びて其の前途を戒しめ「何事によらず焦るとい上は失敗の元、一冊の本を読むとしても終りを急いで半日も一日も読みつづけた日には一時に疲れて仕舞ってモーその翌日はつづかぬという様になる、其上読んだ所も明かに頭には入らず、自然身体を損うことになる、先づ仕事に取り就く前に何か心に懸る事でもあつたら頭の中に兼てこしらへて置く広い野原に追いやって心を清涼と掃除して、そしてその事をはじめるのだ、一心に勉めて疲れたら止すがいい、こういふ心掛けてたゆまずに年月を重ねる間にいつか立派なものになる」と先きには起臥飲食に就いて師が長寿の由縁あるを知りたれど、百病のはじめは多く精神にありと云へば斯る清涼の心こそ師が長寿の第一原因ならめ