はちのへ市史研究より転載
明治三十二年八月二十五日付
人物ト其人生 星川清子
西有穆山師(発端)
西有英穆山と号す、陸奥八戸浜通湊村に生る、父は笹本長次郎といひ、母は六戸町西村源六の妹なり、禅師は幼きよリ賢しく世のつねの子と異る所多かり今、十三の時菩提寺長流寺に剃髪し、今は七十九歳の高齢なれど、腰も屈まず起ち居挙動も達者にて、出世の相とかいひ伝ふ長さ皺を額に見るばかり、顔の色光沢ありて真白に並びし今しやごの如今は歯未だ少しも損はず、耳敏く目明かに鼻目最と秀で、品位と慈愛と並び備はり、見るからに慕はしき思せらる、十九才のとき郷をいでて仙台に至り、程なく江戸に上りて駒込吉祥寺内なる栴檀林に苦学すること多年、学成りて牛込の某寺に住職たりしも学問に志すこと厚く、再び雲水の身となり、十二年の間小田原の高僧月潭の許にありて雪のあした雨の夕卑しき労役を厭はず、只管法の蘊奥を極むるに余念なかりき、後牛込宗参寺の住職となり、それより上川鳳仙寺に転り住みぬ、頃しも維新革命の風潮は宗教界にも侵入し来り、俗論紛々みだれに乱れて止る所知らざりければ、時の教部省は各宗本山に対し碩徳にして声望あり事理に通達せるもの一両名を召しつれ本省に出頭すべしとの命を発し、穆山師は原坦山師等と共に撰まれて東上し、引続き本山の代理となり或は禅三派の総代として議員にあげられ諸種の会議に列し、幾多の俗論を排し宗規を既滅に支ヘたり、穆山の名これより高く仏教の今日あるその力によるもの多し、後ち仏教各宗の取り調べを命ぜられ、更に奥州並に北海道の教誨師となりて功績著しく、天顔に咫尺すること数回、権大教正勅任に上る、明治十一年内務の直命を以て東海道可睡斉(可睡斉の記事後に詳し)の住持となりその職にあること十有六年、その間或は大学林教頭としてまた他の講に応じて、京都並に西国諸国の巨刹に道元禅師の遺書正法眼蔵の大巻(宗門中よ
くその妙趣を解し得るもの少なしと)を講ぜしこと幾回なるを知らず、僧俗共に其教を蒙るもの甚だ多し、六年前職を辞して東海道島田在伝心寺に老せり、閑に風月を弄して著述に身を委んとは当初の志なりしと聞けど、諸国招き辞しがたきものあれば閑居は名のみ院にあること稀れなりと、今夏は相州国府津に戒師として出張し一と先帰院直ちに仏教夏期学校の講師として西国に赴くの約ありしも、測らず病を発し意外の大患なりしが医薬効を奏し、いまは快方に赴むけり、病中貴顕紳士善男善女の見舞絶えず、島田町より老僧の閑居に通ふ一条の畦道はゆききの跡たゆるひまもなかりしと云ふ、里人の老僧を尊ぶこと仏の如く、その徳に懐くこと慈母の如きものあり、綾羅錦繍を身に纏ひ最と尊げに涙こぼるる計りなるもその本尊を吟味せず浅間しさに涙こぼるるが、今の仏界には多きものを、さりとは得やすからぬ高僧の生ひ育よリ難行苦行の有様をば今後の紙上に掲げ申さん