2008年11月6日木曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材4

九月二日付け
 穆山和尚の生立(三)
先陰に関守なく万吉は早や十三の春を迎へぬ、或日のこと独り何をか思ひけん、重ねて出家の事を父母に申出で頻に請ふて止まざるにぞ、父母も今はとて思ひ諦め恩愛の情をたちて之れを許し、尚ほ万吉に向かい左りながら破戒堕落の挙勤なして生涯凡々の田舎僧にて終らんには好んで地獄の先達をなすにも似たり、汝には果して名僧智識ともならん覚悟のありやと形を正し或めたりける、計時の母の言葉深くも骨身に徹し実に老僧の成道の母なりしとは師が今に語る所なりとぞ、昔は名僧月舟のなほ幼くて数人の友と遊び戯れ居たりし頃、年嵩なる一人の還俗をすすむるに答へて我を大名ともなさば還俗するも惜しからねどといへるを、其母陰ながら洩れ聞きていと浅ましき事に思ひ月舟を呼び、世尊は古し天竺の王位を捨てて衆生の為めに檀特山に人り給ひ、達磨太子も南天の王子ぞと聞きつるに、大名になさばとの汝が一言たとへ子供の戯れといひながら、余りに浅間し、さる心懸ならんには母は今より子とも思はずと厳しくも云ひ懲しけるに月舟大に恥て一心に学び励み遂に名を後の世に残すに至れりと語り伝ふる古事も思ひ合はされ、英傑の世に出づる多くは母親の感化にありと云ふは今更の事にあらねど、謹みても深く自ら重んずべきは実に女子の身なりけり余事はさておき、万吉は日頃の心願漸く叶ひいと嬉しく思ふ中にも流石に名残の惜まれて母親の情を込めし手料理に涙ながらの食事も終り、父と兄とに別れを告げて生れし家を立ちいでぬ、母は舘花まで見送らんといひて手を携えて共に来りぬ、是より先き兄は万吉の出家を聞きて痛く悲しみ汝なくては我一日も立ちゆかじ、是非に家に居リてよと涙を流し止めし甲斐なく、いよいよ別れとなりければその後姿の見えずなるまで戸口にたちて見送り居たり、舘花といふは「さびしろ」を去ること遠からず浪荒き太平洋に向へる小高き丘なり、雪かと紛ふ浪の此所かしこ聳え立つ岩に砕けて玉と散る心地よき眺めをば一目にあつめて、西には老松枝を連ねし舵楼が岬画ける加く横たわり、漫々たる旭子の雲か水かの辺りより豊かに登る朝景色弓張月の影暗く磯の千鳥の浪に和しいとぞ哀れに聞ゆなる秋の夕べの眺めにもここ第一の勝地なり、二人は暫し息らひて、母はその子の将来を言葉細かに誡めつ尽きぬ名残はさりながら、互に涙おしかくし母子は更に道を急ぎて菩提寺長流寺(八戸町)といふに至り、時の住職金龍和尚を師と仰ぎて万吉はここに始めて剃髪し名をも金英と改めぬ、果てしも知らぬ青海原よせては返す白浪の轟々たる其の音は母子の耳に長き記念と残るなるべし