2008年11月2日日曜日

八戸及び八戸人2小中野公民館館長船田勝美氏2





木賃宿をしていた母の実家がカマド返して、いよい よ貧窮も板についた。変なものが板についた訳だが、船田少年の心は、一層母親を助けなければと思い、いや増す。親戚の家をあちらこちらと泊めてもらう超一級の貧乏、これより下は乞食。だが船田一家は踏ん張る。船田少年、今度は鉄屑拾いの巻、「くずい~お払い~」と流して歩くのが屑や。これは不要品を買い取る。が、船田少年には銭がないからズボンのベルトに磁石をつけて町を歩いて鉄屑を拾う。少々たまると仕切り場に持っていく。立て場とも言うが小中野には二軒屑買いがいた。ナガセと田村は同業者、昔も今も変わりなしで、互いに張り合っている。田村に鉄屑を持っていくと、
「オイ、ワの方が高く買ってけるじゃ、なんたってワは銭を目方で量(はか)る程持ってるじゃ」
 船田少年は今度はナガセに行き、田村は屑を高く買ってける、何故って銭を目方で量る程もってるすけ、するとナガセの親父がニヤリとして、
「ワは銭、物差しで測(はか)る程あるじゃ」、そういってアイスキャンデーをくれた。またも田村に行ってアイスキャンデー貰ったというとバナナをくれた。当時台湾は日本が占領、台湾バナナは安かったそうだ。
 五年生になって幾らか体もおがった。小中野で又(また)カの中村という船頭の所でイカ船に乗せても らえることになる。当然学校は休まなければならない。担任がいい人で松橋健次郎先生。そうか海に落ちないようにナと宿題のプリントと共に答えをくれた。船が魚場に着く前の時間、船底で勉強といっても答えを書き写すだけ。
 イカ船の胴の間は腕のいい大人、こどもは舳先の揺れるところ。イカ竿をだして精一杯腕のもげる程がんばる。捕れたイカの半分が船頭、半分が船田少年、その九割を市場に出してもらい現金に、五分を家の食卓に、残りの五分を松橋先生が当直の時に持ち込み、船田少年が包丁さばきも見事にイカそうめん。
 当時はおおらかだった。少年を船に乗せるだけの度量が船頭にあった。家計の手助けにとがんばる少年を早退させる教師にも器量があった。
 船田少年が先生、またイカ釣りに行きます、そうか、又カの船にまたか?って言ったかどうだか。
 松橋先生は売市の松橋鍛冶屋の倅、船田少年がなにやら悪さをして、廊下に立たされた。夕方になっても帰ってこない船田さんを心配した母親が学校に連絡するが、松橋先生は帰宅していない。方々変だ変だと探して歩くと、一人の子どもが船田は廊下に立たされていたと告げる。母親が学校に行くと電気も点いてい ない真っ暗な廊下にじっと立ってる息子を見つけた。
なして、こげな暗いところにたってるじゃ、先生が立ってろってへった。
 一本気な船田少年、そんな根性を頼もしいと思ったのか、母親の眼にも光るもの、そこへドタドタと足音、松橋先生が立たせていたのを思い出して駆けつけた。
「船田、スマン、先生が忘れた、だけどな、人生辛いのは今日一日、明日はまた素晴らしい日が来る」
って、先生それは自分に言ってるの?
 冬になると船田少年は血を熱く沸かせる。それはえんぶり。カマド返す前は船田少年のいた家がえんぶり宿。えんぶりは冬の間の唯一の現金収入。四日間の祭りで祝儀は山、それをあてこみ一月も前から大人があつまり酒盛り、酒屋には祝儀で払うと約束、当時は名川、剣吉からも囃子の応援が来て、祝儀でそれらの手間と酒代を払うとチャラ。子ども心に、なにやってんだべ、酒っこ飲みたくてえんぶりするのかと反発。なにしろ冬、漁師も農家も仕事がないから現金収入のえんぶりは楽しみ、酒飲めば欲しくなるのがサメなます。 これを作るのが船田少年の仕事。松橋先生にイカそうめん作る腕前。ちょちょいのちょい。
 現今は少年のえんぶり太夫もいるが、当時は少年の出る幕はない。大人がたくさんいて、子どもはひっこんでろとの剣幕。なにしろ金がからむだけに大人も真剣。それでも千秋楽の宴席では船田少年も大黒舞を演じてみせる。この子は将来が楽しみと評されたが、実にその通りになるわけ。この現金収入の道も戦争激化で中止の憂き目。
 高等科二年の時、口減らしの意味もこめて、船田少年は兵隊志願。親は反対するも吹上小学校での試験にめでたく合格。神奈川県久里浜の海軍少年無線兵。送受信速度は和文で分八十字、数字は百二十字が合格基準。「トツーツー=ヤ」「ツートトツー=マ」と寝言うわごとに言うまで訓練につぐ訓練。暗号組み立て、軍事機密の乱数表を習うころには立派な兵隊。モールス信号の解読が出来なければ部隊全滅もありうるので真剣。ところが戦争に負けました。
 十月まで残務整理、ようよう八戸にもどるが仕事は まったくありません。仕方なしに若者集めて一座を組んで芸能でもやって凌ごうと、食うためにマル新若松一座を立ち上げる。昔は芸能を行う者は郡部の庄屋を尋ねる。すると庄屋は部落民を集めて自分の家の座敷を開放。観客はその芸によって米をくれる。芸の巧拙が即収入に響く。大八車に旗立て衣装を入れた柳梱り(今のダンボール箱)を積んで、次の庄屋目指して階上、種市、侍浜と歩いて廻った。
 若いうちは金がない、あるのは十分すぎる時間と体力、これにやる気がつけば、持ったことない金を握れる。そんなこんなで一年も過ぎた頃、親戚縁者から母親が責められた。あんな川原乞食の真似をさせればロクなもんにならねェ、叔父さんが旋盤工にでもなれと言うのに、あったら油くせえのはダメだと断り、日東化学の営繕課を紹介してもらう。ここで左官の仕事をするが冬は凍って壁塗りができない。昔は人間が泥を練って、ふのりを足で踏む。それをブリキの缶に入れ、背負ってシナシナする足場の板を踏みながら現場に運ぶ。この仕事もいいがもっと人と接する仕事はなかべかと思っているうち、電信柱に貼ってある募集の紙。
「来たれ国鉄に」、この紙見て、そうだ、お袋に旅をさせたい。国鉄職員家族はパスが出て、全国タダで見物できると、青森で採用試験、筆記のあとの面接に五 人づつよばれる。すると二分も経たないうちにぞろぞろと出てくる。おかしいな、面接に二分足らずじゃロクに話をしてない。こいつらは不合格だなと感じた。次も次も同様、ハハァンとひらめくものあり。
 いよいよ自分の番、呼ばれて試験官の前に立つ、椅子が用意されているので船田さんを除いて皆腰掛けた。船田さんは直立不動。さすがこの辺は鍛えられた通信兵。
「船田を残してあとの者には後日通知」
 命令前に勝手なことをする者は不要だと判断したのだろう。たったこれだけのことに気づかぬ者は国鉄マンになる資格なし。
「何故受験した」「私を採用すれば団体旅行を集め国鉄を黒字にします」と大ボラ。
これで、即、採用され湊駅に配属。様々国鉄マンが経験しなければならない踏み切り警手から列車の切り離し、貨物に荷物に手荷物、キップ切りと習得し、いよいよ団体旅行の募集にかかる。大ボラ吹いただけに集めないとクビ。歩く足にも力が入る。町内会長に眼をつけて、弘前の観桜会に誘いたい。さて、こんにちは、旅行しませんかじゃ断られる。なにしろ、ワは
弁舌巧みで踊りに歌と、できないことは子どもを生むことだけ、そりゃ当たり前、船田さんは男だよ。そこで町内会長宅を方々調べて、その家の前をウロウロ、鳥を飼ってる、盆栽に興味あるなどと下調べ。出てきた人をとっつかまえてああでもなければこうでもないと、得意の話術で煙にまく、そのうち船田さんのペースにはまって、何だ、あんたさんは国鉄の人ですか、団体旅行? ようがす、行きましょうと仕事を取れるようになる。この人のために団体旅行に行くようになる。列車の中でもジッとしていない。列車を前・中・後とわけて歌は唄う、踊りは踊る、えんぶり太夫の真似から、いやえんぶりは本職、果てはストリップの真似までする。加藤茶よりも前、本家本元が船田さんのチョットだけよ。列車を三つに分けて各々をステージにしてバタやん、三橋、鶴田と何でも来い。マイクなんてない時代。大声張り上げての大サービス。そんな船田さんに湊のカッチャたちが、ゆで卵、け、あっちでもゆで卵、こっちでも。このゆで卵食いすぎると気持ちが悪くなるそうだ。七両編成の各便所で吐いては 食べた。湊のカッチャも罪な人。
駅で停車すると、大ヤカンを手に水汲み、それを股の間に挟んで「お水、お水」と列車を廻る。余り廻って目が廻る。
母親に日東化学に勤めていた兄が養子に行くと告げた。相手は同僚、神奈川県は横浜の一人娘。婿じゃないと向こうがダメと言うので母親も仕方なし。それで船田さんが跡取りとなるが、何、もともと貧乏家庭、貰うものなどありゃしません。母親の面倒見るだけのこと。そこで船田さんが眼をつけていた日東化学の素人バンド「新雪」にいた美人歌手。新雪に居たくらいだからきっと親切だろうと口説いた。
「人一倍苦労させるけど、人の三倍幸せにする」って、よくも図々しく言えるもの、けど、本人大まじめ。それが効を奏したか、めでたく結婚ゴールイン。相手は小中野新堀の人でトシ子さん。この人が母親によく尽くしてしてくれて、
「辛いことも多かったけど嫁さんに恵まれて楽しい人生だったヨ」との言葉を残して母は六十二歳の生 涯。
貨物の湊駅は当時は日東化学の硫安などの肥料、八戸港からの生イカ、するめの積み出し、薪炭の移入と大賑わい。団体旅行は北は北海道から鹿児島まで、忙しいときは添乗で帰ってくると、八戸駅に次の団体が待ち受けて、その足でトランクもって又、旅行。交通公社の社員が言ったそうだ。俺は国鉄じゃなくて良かった。あれじゃ酷鉄だって。
こんな大車輪で成績も上位、だから湊駅や久慈駅が放さなかった、今度は陸奥湊に配属。ここじゃキップ切りの改札の仕事も。そしてイサバのカッチャ達と親しくなりまして、またまた大モテ、ところが国鉄民営化の話が出始め、鉄道荷物もトラック便に奪われて、小荷物の場所はガラガラ。そこを駅長にラーメン屋やるべと提案。どこのほんずけなしが国鉄がラーメンやるって、とへられたが、湊のカッチャは夜中の一時ころから出てくる、腹も減った人もいるべ、暖かいラーメンが何よりと一歩も引かず、駅長ラーメンを誕生させた。その店は思惑通りの成功を収め、船田さんは国鉄を五十四歳で退職。
その前から佐比代の町内会長を勤めて運動会などで町を盛り上げたが、湊祭りの出し物に何かないかと探しているうち虎舞いに着眼。これを小中野に定着させる。そんなところに日本旅行など数社から団体旅行 で再度活躍しないかと声。さてどうしようかと考えるうちに、小中野公民館館長の小野三栄さんが体調不良、後任を引き受けろとの話。八戸商工会議所会頭の佐々木隆蔵氏、谷地市議、石橋医師などからどうだの催促。
佐々木氏に申し訳ないが旅行の方に魅力があり、お断りしたい。すると、お前は何処で育った、ハイ、小中野です。その小中野に恩返しが出来ない男なのかとの殺し文句。うまいセリフを吐く人だね、佐々木氏は。
それでは条件が一つ、何だ、私の思うようにやらせていただきたい、いいだろう、それで長老から若手に組織変えして、公民館利用者数日本一。これが認められ文部大臣表彰、天皇陛下に拝謁の栄誉。この後、方々から講演依頼が殺到するほどに人気は舞い上がる。さてさて、シンガポールに虎舞いを連れて行った、四十五年ぶりに小中野にえんぶりを復活させたは、「はちのへ今昔」で以前にも紹介したので割愛。船田勝美氏七十五歳、人生訓は他人より能力が劣ることは恥じではない、恥ずかしがる前に努力せよ、と、我が身を叱咤、おしどり夫婦の船田氏も、間もなく喜寿を迎えられる。皆でお祝いしたいもの。