2008年11月29日土曜日

羽仁もと子追補(ついほ・出版・著作物などで、追加・訂正、あとから補うこと)

もと子が羽仁吉一と結婚し報知新聞を共に退社、知人のすすめで雑誌「家庭之友」の編集開始。ここでもと子は婦人が苦労しながら生活する姿を取材、それが好評を得ることを知り、自分たちで出版を決意。明治四十一年、「婦人之友」がそれ。
 羽仁もと子と言えば家計簿と答えが返るが、これは明治三十七年「家庭之友」時代に創案したもの。「家庭之友」は後、改題され「婦人之友」となったと記されている本が多いが、「家庭之友」は明治三十六年四月号が現存、その出版社は内外出版協会で羽仁もと子が出版したと断定はできない。
 ともかく明治四十一年に「婦人之友」は創刊され今日に至る。羽仁もと子の婦人啓発雑誌は暮らしの中にこそ生きる意味を見つけよを標榜した新機軸の雑誌。他人の押し付けられるのが人生ではない。自分が暮らしの中で何を見出すか、何を考えるかを基本とした。
 それには出銭入銭の管理、日々、月ごと、季節の中で金をどのように管理するかの実践書が家計簿だった。
 また、自発的に処理する、これが何のためにあるのかの判断を基本とした、生活に即応するような教育こそ大切であると学校を創設。それが池袋の自由学園。
 帝国ホテル建設のために来日したライトが設計。ライトは六人の子どもと夫人を捨て不倫相手と逃避行、又二人の子を得るが不倫相手と共々惨殺され、ライトは失意のうちに設計依頼の来た日本に渡った。彼の設計は草原様式と呼ばれる高さを押さえ、水平線を大事にした安定感のなかに、部屋を区切り細分しない家族のぬくもりを大切 にしたもの。
 羽仁もと子は大正十年に草原様式の自由学園を造った。二年後に関東大震災が襲うも自由学園、帝国ホテル共少しの損壊もない。しかし、アメリカの新聞はライトの帝国ホテル倒壊の報を流す。そこへ、大倉喜八郎から電報、「ホテルハ貴下ノ天才ノ記念碑トシテタチ壊ワレズ家ナキモノ多数完全ナサービスヲウケ祝辞ヲノブ」
 大倉は渋沢栄一と共に明治、大正期の実業界の双璧。ロイド設計の帝国ホテルは多額な追加費用を要し、渋沢、大倉が支えた。大倉は越後新発田の産、日本橋の鰹節問屋に丁稚、乾物屋を興すも、時代を見て武器商人へ転じ戊辰戦争で巨万の富。商社から土木業と転じ、大倉組、現在の大成建設を作る。鹿鳴館も彼の手になる。
 羽仁もと子が新聞記者をしていた頃、郷土の偉人、西有穆山を訪れ対談記事を発表。その記事を八戸湊小学校校長を務めた伊藤勝治氏が発見。それが今年活字になった。
自由学園明日館ホームページから
羽仁もと子 1873(明治6)-1957(昭和32)青森県八戸市生まれ。幼い頃から理解できるまで徹底的に考える子供でしたが、たいへんに不器用で、また音痴だったため、絵画や唱歌を習うのに苦労したそうです。このことは後にもと子が自由学園の芸術教育に力を注ぐ要因となりました。   その後、1889年(明治22)に上京。東京 府立第一女子高等学校へ入学しますが、その後、目指していた女子高等師範学校の受験に失敗。当時、少女たちの人気雑誌であった『女学雑誌』の編集長、巌本善治が校長を勤める明治女学校へ入学しました。明治女学校時代には『女学雑誌』の校正を手伝い、雑誌作りの基礎を学びました。また明治女学校での規則正しい寄宿舎の生活は、自由学園における生活重視の教育に反映されています。   1892年、もと子は郷里に戻り、小学校や女学校の教師となります。この頃結婚しましたが半年で離婚となり、一からやり直す覚悟で再び上京、報知新聞社に校正係として入社、持ち前の才能から女性初の新聞記者として大活躍することになります。    羽仁吉一(1880-1955)と社内結婚したのはこの頃です。吉一は山口県三田尻村(現防府市)に生まれ、漢学塾に学び上京、報知新聞社に入社し政治記者として活躍していました。   1903年、二人は新婚生活の中から題材を得て、婦人誌『家庭之友』(『婦人之友』の前身)を創刊し、数年後、独立して婦人之友社を設立しました。雑誌を通じて、古いしきたりにとらわれていた女性たちに、自分の才覚で家を切り盛りする知恵と勇気を与えました。   1921年(大正10)、もと子と吉一は、知識の詰込みではない、新しい教育を実現するため、自由学園を創立しました。生徒に自ら昼食を調理させるなど生活と結びついた教育はまさに大正デモクラシー期における自由教育運動の象徴と言えましょう。
             
明日館の設計者フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)は、アメリカ合衆国が生んだ20世紀を代表する建築家の一人です。日本では、旧帝国ホテルの設計者として名を知られていますが、90年以上の人生の中で、800以上の計画案を遺し、そのうち400棟ほどを実現させている多作家としても有名です。   1867年にウィスコンシン州リッチランド・センターで生まれたライトは、1893年、住宅作家として独立、終生一貫してより豊かな人間性の保証に寄与する建築、つまり「有機的建築」の理想を追求し続けました。作品の殆どが彼の母国アメリカ合衆国の各地に残っており、代表作としてはカウフマン邸(落水荘)、グッゲンハイム美術館などがあります。   彼は「貧富の別なく人間は豊かな住生活が保障されるべきである」という信念を実践し、人々の生活の拠点を作り続けました。明日館は学校として設計された建物ではありますが、「家庭的雰囲気の中で子供たちにのびのびとした教育を与えたい」という創立者の思いを、ライトは見事に形にしたと言えましょう。
羽仁もと子は三人の子に恵まれた。長女は説子、女婿を五郎、この人は参議院議員をつとめ、国立国会図書館の設立に尽力、次女は幼くして病死、三女は恵子。
説子と五郎の子に進、この人は映画監督として著名、記録映画、ドキュメンタリーで新境地、渥美清をアフリカに連れ出しプレハブ住宅を造る映画は出色。この人の手腕の凄さを示した。
羽仁 未央は進と左幸子の子、羽仁もと子からはひ孫にあたる。この人は随筆家として名を揚げる。世界を駆け巡り、映像製作者として活躍、香港を機軸としてアジアはまるで庭の如し。
 この人の活躍に羽仁もと子の現代版を見るのは「はちのへ今昔」だけだろうか。八戸が狭く東京に飛び出し、出版界、報道に籍を置き、西有穆山を取材、そののち教育に目覚め、当時最新のメディアである雑誌を普及し、多くの信奉者を集め確固たる地歩を固め、堂々と時代を切り開いた。
 その子、孫、ひ孫とどれも異色の存在。その源になったのが八戸、南部の魂。西有穆山がはち十一で曹洞宗総持寺管主になり、八戸中学で講演をされた。諸君は皆政治家になるべく八戸中学に来た。
 私は八十一になり宗門の長となった、面倒だからと断ることもできる。だが、諸君、我が南部人は請われたとき、否やを言わぬのが南部の魂なのだ。この歳で、いわば花婿を見たようなものだ、億劫といえば卑怯、堂々たる人生を歩めと教えた。何と気骨のある人だったか。そして、羽仁もと子も堂々たる人生を送られた。
 この二人の中に生き続ける南部魂、よもや我々は忘れた、そんなものがあったげなの言葉はもらすな。気が弱くなったとき、羽仁もと子を思い出せ、西有穆山を忘れるな、生きる力を貰えるぞ。