2008年11月23日日曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材10

九月十二日付
 穆山和尚の徳行
遠州の秋葉山といへば誰しらぬ人もなき火事盗難大漁の守護神にて霊験赫灼(かくしゃく・光輝くこと)なりと伝へられ、春秋の両季には遠国よリ百人二百人一群となり、お龍りのためとて集り来るもの日々五六組もあり、盛んなる可睡斉の巨刹に十六年の長の年月住持して信徒の渇仰を其身一つに集めたる穆山師、若しも大方の御坊の如く金銭を愛したらんには何程の富も心のままになりしらんに、師は清貧に安んじて余財なく、今の島田に閑居してより毎月日を定め侍僧をつれて市中を托鉢し以て客を持つとなり、師の住居は島田町の北へ十町許山緑に水清き週りに立てる清楚なる庵室にて、常は弟子のお坊五六、児三人許此世からなる浄土の様にいとも静かに住みなせり、此程の大患に市中の人々嘆き憂へぬものなかりしが、幸に直りしかば男も女も心よりの笑みかたぶけ来たりて悦をもぶるもの引きも切らず、師もうち解けて其の誠を喜び迎うさま慈母の其の子に対するが如く懐かしさに涙こぼるる計りなり、家族の楽なき出家は冷冷として片意地なるものよなどいう人は穆山師の平生を見れば其の誤を見出すに難からじ、「去年の今日は御前様が(穆山師の事)皆を連れて苅萱を採においでなすつたけのう」とは手に手に秋草をもちて菩提寺に詣でんとする此辺りの女逓れがさも情に堪え得ぬごとく語れる言葉の一節なり
師の父は四十余歳にして世を早くし、母は八十六の高齢を保ちて明治十五年の春逝リぬ、維新後の功績穆山の名を高からしめし後の年北海道を巡回せし帰途、母君を省して絶えて久しき対面をなしけるに、寄る年波に眼霞みてさだかに見えぬながらも、さぞさぞ貴くなりつるよと涙を流して喜ばれしが師の生涯に最も大なりし満足も恐らく此時にてありしなるべし