2008年11月1日土曜日

八戸及び八戸人2小中野公民館館長船田勝美氏1




この人はいつ逢っても明るい。人生は楽しいョと言葉にせず態度で示す。気に入らぬ風もあろうに柳かなの句を思い出す。人生の達人、世渡りの名人。若い人にはこの人から、世渡りの術、処世術を覚えて欲しい。
 俗に泣き面に蜂のことわざ。これは不運は重なると教える。水に落ちた犬は叩けとの中国のことわざもある。共に弱り目に祟り目。一度負けの側に回るとしばらく立ち直りは難しい。税務署もそうだ。おおよそ官吏という奴は人の弱みにつけこんで嵩(かさ)にかかる。こうしたことのあることを忘れないようにしよう。どのように嵩にかかるかは、おいおい教える。この船田さんは小学校しかでていない。しかし、そんなことを少しも苦にしていない。傍目(はため)には弱点と思えることを強みに代える強靭(きょうじん)な精神があるんだ。
 負けても負けない、今日の苦労は明日の楽しみの種と、この人は不遇(ふぐう)で不運な今日を明日への糧(かて・活動の根源)とする。できないョ。言うは易(やす)く行うは難(かた)しだ。どうしたらこん な精神になれるか、またなれたのかをじっくりそしてしっかり記(しる)す。
 船田氏は昭和五年九月生まれ、昭和二年は銀行などが倒産、金融恐慌が発生、今も同様で、銀行に預けた銭も一千万円を超えると銀行が貰うとぬかす。銀行は泥棒か? 今の世の中役人のおかげで確実に住みにくくなっている。昭和六年は東北地方の大冷害、岩手県の子どもは生の大根をかじって飢えをしのいだ。勿論(もちろん)米がとれないからだ。昭和二年の銀行パニックの影響が五年頃にあらわれた。株価は下がる、物価も下がる、丁度現今の日本に似ている。当時日本は絹織物が輸出の中心、それを買うのはアメリカ、ところが景気が悪いから買わない、つれて生糸も下がる。昭和四年の生糸価格を百とすると、昭和七年は三十六、これじゃたまらない。これを生産したのが農家、蚕を飼って生糸を作る。現金収入の道、これが閉ざされ冷害で農産物もダメとなれば、娘を売って女郎にする以外に銭の手段はない、こうした農民の困窮に海軍の青年将校が義憤を感じ、昭和七年五月十五日犬養首相を射殺、「話せばわかる」「問答無用」との言葉が今も伝わる。犬養首相七十八歳。
 世の中騒然とするなかで船田さんは、父勝三郎、母サヨの三男として育つ。ところが船田さん五歳の時、父が亡くなった。この人は長苗代の大工の倅で、製材 業に従事し、方々の製材所で職長として腕をふるっていた。ところが突然の死。母親は困った、幼い船田さんを養えず、やむなく父方の祖母に預けられた。
 五歳の子どもだ。自分の境遇の大変化にたまげたのだろう。なんでこんなところに来たんだろう、来なければならないんだろうと、母親を恨んだろう、罵ったこともあっただろう。その家は不思議な家で祖母はおがみやさん、マ、簡単に言えば神様だ。毎日太鼓をドロドロと叩く、不思議な祝詞を唱える。気持ちが悪かったろうナ。そこで幼いながらも智慧を絞った。毎日泣いたんだそうだ。祖母が「こったらナゲツはいらねえ」と母に突っ返した。やったね。
 これが船田さんの処世術のはじまり。そこで小中野佐比代(さびしろ・アイヌ語で砂利の多いところ)の昔風の茅葺屋根での生活が開始された。戦前の話で、まだ、旅芸人や八卦見、大道商人などが木賃宿で生活しながら渡世。その小中野地区の木賃宿が船田さんの家。街中には目明しをしていた神明さんの近くの橘勘之助の家も木賃宿。
 そこでは宿泊する者が自炊、船田さんのところは場所柄あんまさんが多い。というのも、当時の小中野は 明治から続く遊郭があった。見番もあり芸者もいた。料理屋も大繁盛。そんな中をあんまが笛を吹きながら流した。その笛を聞いて、あんまを呼び足腰を揉ませる。映画「座頭市」で見た人もいるだろう。主役の勝新太郎は船田さんより一つ年下。六十五歳で死んだ。
麻薬をパンツの中に隠して逮捕。「もうパンツははかない」の名セリフを残した。兄は若山富三郎、これも六十二歳で死んだ。兄弟揃って三味線の名手。
 そのあんまさん夫婦が泊まっていて、夫婦揃って眼が不自由。ところが、女房は眼が見えないのに、針に糸を通して縫い物をしたそうだ。船田さんがそばにいてたまげた表情をしたことだろう。この生活が後年役に立つから人生は不思議な場。
 その木賃宿には立派なヒゲをたくわえた易者が宿泊。大道で手相などを観ていたことだろう。あまりのヒゲから閣下と呼ばれていたが、船田さんに「小僧、お前は大人になると人に認められ、立派な世渡りができ、人から慕われるようになるゾ」と言ったそうだ。
 実にその通りになるのだが、洟垂れの船田さんは嬉しかった。と、言うのも未亡人になった母親は、それこそ死ぬ努力。働かなければならぬため亭主の親に船 田さんを押し付けたが、ナゲツはいらねえと返されて、朝は暗いうちから忙しく働く(これを朝鮮語で言うとアッチンプトパンカジパップムニダ)。それどころか、子どもが起きて飯を食う時間になると一度戻り支度、昼も同様で暗くなるまでリンゴの木箱作り、トンカチ持ってトントンカチカチ、慣れないから手も叩いて、一箱何銭の手間仕事、どれだけ嘆いたことだろう、どれほど辛いと涙したことだろう。男は頭抱えてふて腐れて酒に溺れる。が、女はそうはいかない。腹をすかしてピイピイ泣く子どもを抱えているんだ。今のように炊飯器や洗濯機のない時代。井戸につるべ落として水を汲む時代。人知れず乾く間のなき母の涙だ。
 手はトンカチで打った血豆だらけ、船田さんは早く大きくなって母に楽をさせたいと心底思った。人は氏より育ち(氏素姓(うじすじよう)のよさより子供から大人になる間の環境・教育が人柄に影響するところが多い)。小学校に入っても家が貧しいので薪にする木っ端を拾いに行った。八戸は造船業の町でもあった。小中野に造船業者が集まっていた。当時は木造船で船大工が削った木っ端がたくさん造船所に落ちている。それをカマスに藁縄を通して背負い、それに木っ端を拾い集める。船田さんは栄養が行き届いていないからヒョロヒョロしている。それがカマスを背負っているから、遠くから見ると、まるでカマスが歩いているよう。造船所も変なのがいるナと見ていたんだろう。カマス一杯に木っ端を入れて家に帰るとばあ様が一銭 くれたそうだ。普通の子どもだと、それで駄菓子買って食うところだが、非凡な船田さんは違った。どうしたと思う。一銭で飴を買った。それを自分の口に入れずに、造船所で働く船大工のところに持っていった。家が貧しくて薪が買えません。悪いと思いましたが、今日は木っ端を拾わせていただきました。ばあ様が一銭くれたので飴を買ってきました。皆さんで食べてくださいと、握り締めた一個の飴を差し出した。皆様で食べるどころじゃない、たった一個じゃどうしようもない。
 でも必死な精一杯、真心のこもった一個の飴だ。そうか有難うと頭の船大工が舐めたそうだ。しょっぱいけどほろ甘い味がしただろう。
「お父さんは?」
「死にました」
「お母さんは?」
「リンゴ箱打ちに行ってます」
「そうか…、おいみんな、今日からこの子のために木っ端を集めて縄で縛っておいてやれ」
 それから、毎日、幅広でおおぶりの木屑が集められるようになった。人の情けが身にしみる、船田さん三年生の時。