2008年11月8日土曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材5

九月三日付け
 穆山和尚の生立(四)
万吉の金英は日を経るまゝに朝夕の仕事にもなれ、其利発さは古く来りし合弟子の誰れ彼れにも優り、己が課業の済みて後は他人の習ふ御経を物陰に聞き居て人先に覚え忘れぬには皆々舌を巻きたりとぞ、去る程に夏も過ぎ秋も去り師走の月は寒念仏とて、若きお坊の黄昏より雪を冒し托鉢にいづるが例にして朗々たる読経の声、寒月の下に冴え冴えと聞ゆる夜は信心なき女子等まで寒さを厭わず戸外に出て声よきお坊に布施する慣わしなるに、金英は兎角音声引今立たぬより夜々の浄財最と少きに困じ、例の淋しき畷を辿りて町よりは程遠き実家に至り売溜より少しの金銭を貰ひて坊に帰ることも度々ありしとかや
比程のことなりき名高さ天保の飢饉は来たりぬ、南部・秋田は殊にもはげしく、死人行倒れ道に満ちたり、昔は今とは事異て斯る折には国々の制厳して一切他領に穀物を出すことを禁じたれば領内の食物尽くれば金を山に積むも用をなさず、木の根草の葉手あたり次第に食ひ尽くして果ては死を待つ斗なりき、家々は戸を閉じて空家に等しく日毎霧雨霏々と降りて、天も宛ら其の惨状を痛むに似たり、去り難き用事のありて夜行きなどすれば死人の頭を踏むとこと珍しからず、呻き苦しむ声巷にみちて惨ましなんどいふ計なし、時に金英十五歳なりき、師は今も折々比時を思出して「私は性来臆病の方であったが天保の飢饉に遭て実地の修行をしたのが生涯の幸福になりました、死といふ事に就て深く考へたのも比時からで、非常な粗食をして話にも尽くせぬ難儀をしたから其の後はどんな事に逢つても左程苦しいと思ったことがない、粗末な物を食べても少しも不足に思ふことがなく又事に当って動ぜぬ様になったのは全く飢饉のお影だ」と語らるるもありしとか