2007年9月1日土曜日

東奥日報とデーリー東北の底力、一般紙と地元紙はここが違う

六月二十八日午前十時五十五分ごろ、八戸市上組町のアパート一階101号室の会社員澤田秀人さん(43)方で、澤田さんの妻と子ども三人の計四人が死亡しているのを、澤田さんの親族が見つけ、八戸署に通報した。同署と県警捜査一課は、遺体の状況などから殺人事件として捜査を開始。行方が分からなくなっている澤田さんが、何らかの事情を知っているとみて行方を捜している。
 死亡していたのは妻の真由美さん(46)、長男で中学二年・直弥君(13)、二男の小学校五年・奨君(10)、三男の同一年・耀君(6つ)の四人。県警によると、四人は居間や寝室などで死亡、いずれも外傷が確認されている
この事件は東奥日報外、全国紙も報道するが、やはり地元紙の懐の深さには敗北、地元は地元ならではの取材協力が得やすい。写真、聞き込みなどにおいてデーリー東北新聞に利がある。
この犯人は小学生の時事件を起したとの情報が飛んでいた。これを週刊誌が書いた。その事件とは昭和五十年十二月のこと。
この年、小中野に中央スーパーが開店する。もと東北電力マン森山千年春氏が興した会社だった。
この店も倒産し、そこにワイズが入居し、そこも倒産。栄枯盛衰とはこれか、中央スーパーは新丁にも店があった。湊文化、湊東映の横丁がある。その角がブラザーミシン、青和銀行があり、中央スーパーがあった。その裏の新堀で結婚を間近にした29歳の看板店勤務の女性が殺害された。それも白昼のこと。
この事件をおこしたのが小学生、十一歳、これが今回の一家無理心中の犯人だという。
この事件をデーリー東北新聞の報道で見てみよう。デーリー東北新聞は東奥日報より詳細に事件を追った。その迫真の記事を掲載する。
昭和五十年十二月二十二日付けデーリー東北新  聞
八戸で小学生(11歳)が殺人
白昼のアパートで 29歳のOLを刺し逃げる
二本の包丁を使って全身をメッタ切り
二十一日昼すぎ、八戸市小中野町のアパートで、一人住まいの女性がステンレス製の包丁で全身メッタ切りにされ、病院に運ばれる途中死亡するという事件が発生した。目撃者の証言から八戸署では、女性の後から飛び出していった小学生(五年)が犯人と見て捜査しているが、小学生は行方をくらましている。このため犯行の動機などはわかっていない。歳末の日曜日、しかも白昼住宅の密集するアパートで、小学生が殺人事件を起こしたことについては、市民は大きなショックを受けている。
同日午後一時二十三分ころ同市小中野町新堀、角アパート、会社事務員沢口ツヤ子さん(二九)が「早く病院に連れていってください」と叫びながら、血ダルマになって自宅から飛び出してきたのを、同アパートの無職佐藤トメさん(六三)と隣のアパートの無職工藤シゲさん(四○)が見つけた。このため工藤さんが沢口さんを抱え、近所の河村医院に運ぼうとしたが、約八十米歩いたところの理髪業中村光利さん(三七)前で力尽き倒れた。
 沢口さんは首の右側に三箇所、背中の右側にも一箇所、さらに手などにも数箇所刃物による傷を負っており、中村さんの妻未夜子(三七)が近所の医者を連れてきたときには、既に出血多量で死んでいた。
 沢口さんが自宅から飛び出してくるのを見つけた佐藤さんは「助けて、という叫び声がしたので外に出て見たら、沢口さんが血ダルマになり、前かがみになって立っていた。そのすぐあとに顔見知りの小学生が、沢口さん方から走って出ていった。その際、刃物を捨てていった」と話し、工藤さんも「家の中で掃除をしていたら、助けてという声がしたので外に出てみたら、沢口さんが病院にーといってかき根を飛び越えてきた」と事件直後の様子を話していた。
 このため、通報を受けた八戸署では、佐藤さんが見たという小学生A(十一)が犯人と見て捜査を始めたが、まったく行方が知れず、二十二日午前一時現在まだ見つかっていない。
調べによると小学生Aは同じ小中野町に両親らと住んでいるが、角アパートの二階に伯母(三七)が住んでいるほか、二年ほど前までは近くに住んでいたこともあって、同アパート付近にはしばしば遊びにきていた。この日も日曜日だったため、妹と二人で伯母の部屋に遊びにきて昼食がすんだあと、トイレに行くと言って出たという。しかし、Aがどうして沢口さんの部屋に行ったのか、どうして刺してしまったのか、部屋を出たあとの目撃者がいないためわかっていない。
 犯行に使われた骨通し包丁は二本で、刃渡りは十五、六センチ、どちらにも血のりが付いていた。これは共同炊事場に置いてあったもので、真ん中あたりから大きく折れ曲がり、犯行時のショックの大きさを物語っていた。もう一本は玄関から約二メートル離れた水道のそばで発見されたが、これは沢口さん方の居間においてあった包丁であることを沢口さんの母親が確認した。
Aは身長が百五十センチ近くあり、小学生にしては大柄で、頭は坊ちゃん刈り。逃走当時の服装は紺色のジーパン、濃紺の丸首セーターに、女物のサンダルを履いていた。
 Aは犯行後の同日午後三時半ごろ友人のところに電話をかけていることが確認されたが、Aは泣きじゃくるだけで話の内容はわからなかったという。このため同署では署員五十名のほか、防犯指導隊員、先生、PTA関係者ら合わせて約百人を動員、小中野地区を中心に、物置小屋、神社、仏閣、駐車中の車両、船舶などを重点的にAの行方を捜している。同夜は小雨が降り、いつもより穏やかなもののAの安否が気遣われている。
惨劇の跡も生々しく
助けを求めた沢口さん 医院前に力尽きる
 事件直後の角アパート付近はパン屋さんや住宅の並ぶ普通の町だが白昼の殺人事件、しかも被疑者が小学五年生とあって住民があちこちにかたまってはひそひそとショッキングな事件を語り合っていた。
 被害者の沢口ツヤ子さんが住んでいたのは所有者の角さんの家の裏、狭い路地を十メートルほど入った所にある二階建てのアパートの下の部屋。二階へ上がる階段の右手に沢口さん宅のガラス戸の玄関があり、そのガラス戸に血がベッタリと付いていた。玄関を入ると台所で。居間への障子が倒れてこれにも血が付着し、惨状の生々しさを現している。
 工藤さんに抱きかかえられて約八十メートル進み、河村医院がもうすぐというところで沢口さんの気力は尽きた。その前の、協力を求められて河村医院に駆けつけた中村理容院の中村未夜子さんは「もう血だらけだったですね、背中にも五センチほどのキズがありました」と興奮さめやらない様子。この間に夫の光利さんが一一九番。近くの河村一衛医師(四四)がきたときには、おう沢口さんはこと切れていた。「出血多量が原因でしょうね」と河村医師。
 角アパートには二階に二世帯、下に沢口さんら三世帯が入居していた。二階に住む佐藤アキ子さん(四一)は「子供が泣き続けているのかと思った。まさか下の沢口さんが子供に刺されているとは…」と語っていた。少年Aは二年ほど前にこの町内にいたとあって顔を知っている人も多い。現場近くにいた小学四年生は「Aは午後一時ころ現場前の道路に立っていた」とも語っていた。
濃い「物取り」の線
発覚恐れて凶行か それにしてもひどい刺し傷
 わずか十一歳の少年を殺人という凶悪事件に走らせた動機は何か。Aが何故沢口さんの部屋に入ったのか、沢口さんの部屋で何が起こり、何故沢口さんが殺されなければならなかったのか、Aが行方不明になっているため今のところ詳しいことはわかっていない。
 Aはこの日昼ごろ角アパート二階に住んでいる伯母の部屋へ妹と一緒に遊びに来ていたが、伯母が近くの公衆浴場へ行った後「便所へ行く」と一階に下りた。間もなく下で物音や叫び声がしたので妹が下りてみると沢口さんが倒れ、騒ぎになっていたというから凶行はほんのわずかの間に行なわれたとみられる。
 Aの伯母が同じアパートに越してきたのは約一年前、殺された沢口さんは四年前から住んでいた。Aは伯母の所に時々遊びにきていたが沢口さんと顔見知りだったかどうかはわかっていない。しかし、Aは三年生までアパートから百メートルほどのところに住んでおり、四十八年十月十六日、近所の家に遊びに行き、留守の間に子供部屋に上がりこんでマッチ遊びしたため住宅など三棟を全焼するという事件を起こし、現住所に引越した。これが近所でも評判となり、第一目撃者も一目でAとわかったほどで、そのころから住んでいた沢口さんと顔見知りだったことは十分考えられる。このため、Aがアパートの前にある共同便所に行った帰りに、沢口さん宅に遊びに行き、沢口さんに何か注意され凶行に及んだという見方もある。
 それにしても不可解なのは沢口さんのキズ、背中を一突き、さらに首に三箇所のほか手などにも数箇所のキズがあり、骨通し包丁を二本使い、それも一本は途中から曲がるほどの力を入れており、とても小学五年生の犯行とは思われない。このためAが逆上していたか、沢口さんに強い恨みを持っていたものかなどが考えられる。
 四十八年の火災でAに疑いがかけられたのは、被災者宅でたびたび空き巣に入られており、近所でAの犯行ではないかとうわさになっていたのを八戸署で聞きこんだのが発端。Aはその後、まじめに学校に通っていたが、この日たまたまアパートに遊びに行き、沢口さんが一人暮らしなのを知って無断で侵入、物色しているところを奥の居間で内職の縫い物をしているか、外出から帰った沢口さんに発見されて追及されたため、発覚を恐れてとっさに台所にあった包丁で沢口さんに襲いかかったという物盗りの線が今のところ一番強い。
ごく普通の小学生
信じられぬと学校側
前略 家庭は両親が揃っていて母は家にいて教育には気を使っていたらしい。生活状態も中ぐらいで、特に動機はわかっていない。後略
洋裁技術を生かして内職するしっかり者
 人柄愛された沢口さん
殺された沢口さんは岩手県久慈市侍浜町白前、午三さんの三女で、久慈文化服装学院を卒業後、東京のドレスメーカーに就職、その後八戸市に来ていったん市内の建設機械会社の事務員として働いていたが、四年前に現在の看板関係の会社に就職していた。
 無口でおとなしく、独身の美人とあって社内の人気もよく、珠算は三級、卓球が好きだった。学生時代からの洋裁技術はうまく、会社の休みの時などは、近所の人々の洋服を縫って内職をするなどのしっかり者。
近所の人の話だと、人に恨まれる性格でなく、親切でやさしい人柄だったという。
デーリー東北新聞昭和五十年十二月二十四日
盗みを見つけられ刺した 八戸のOL殺し
図太い神経、小細工も
少年自供、殺意は否定二十一日白昼、八戸市小中野町新堀の角アパート内、会社事務員沢口ツヤ子さん(二九)を刺し殺し一昼夜逃げ回ったうえ二十二日午前、八戸署に補導された同市内小学五年生小学生A(十一)はその後の調べで「金を盗もうとしているところを沢口さんに発見され、台所にあった包丁で刺して逃げた」と犯行の動機を話した。また犯行がバレるのを恐れて「知らない人に殴られ気絶していた」と言い逃れようと、ナイロンひもを使い自分で両手を縛り、現場に戻ったことも自供した。
少年は同署に補導された後、二十二日午後二時から父親の立会いで面接調査を受けていたが、最初は「沢口さんの部屋から見知らぬ男の人が飛び出してきたので変だと思い中に入ってみた」とあいまいな供述をしていた。しかし、三回目の面接調査から次第に冷静さを取り戻し、正直に話し始めた。
 これによると、少年は二十一日午後一時十五分ころ沢口さん宅の玄関が開けっ放しになっていたため上がりこみ、居間のテーブルの上にあった一万円札四、五枚を盗もうとしているところを、外から帰った沢口さんに見つかり、捕まったため台所にあった包丁で夢中で刺して逃げたというのが犯行の動機。沢口さんの部屋には伯母と一緒に二回ほど遊びに行ったことがあり顔見知り。殺意については否定しており「捕まっては大変だと思い、逃げたい一心で包丁を振りまわした」と凶行時の心理状態を話している。第一発見者は、血まみれになって玄関からよろめき出た沢口さんと、逃げる少年を午後一時二十三分ごろ目撃しており、惨劇はわずか十分たらずで行なわれた。
 この後、現場から約百五十米離れた湊駅近くの田中石灰所有の倉庫まで逃走、返り血を浴びた衣類を脱ぎ、それを枕にして床下で一昼夜隠れていたと言っており、とても十一歳の子供とは思われない図太い神経ぶり。
 その反面、少年が保護されたとき、赤と白のビニールひもで両手首を縛り狂言誘拐を企んでおり、自分の犯行を隠すために一目でそれとわかる小細工をしている。
 少年は最後に「大変悪いことをしました。許してください」とわびたが、沢口さんが死んだことを初めて聞かされても特に涙を流すこともなかったという。
 同署では細かい点についてはさらに裏づけ調査することにしているが、少年の話がこれまでの捜査や現場の状況、目撃者の証言とほぼ一致していることから、少年が沢口さんを殺害したのは間違いないとみており、事件は全面解決した。
 少年は二十三日午前、八戸児童相談所員の付き添いで青森中央児童相談所に移され、詳しい面接調査を受けている。
お札がちらっと見えたので
つかまっては大変 包丁を振り回した
申述書要旨
八戸署の面接調査に対する少年の申述書の要旨。
 十二月二十一日午前十時半ころ伯母さんの母(祖母)に弁当を届けるため妹と二人で伯母のいる新堀のアパートに行った。三人で小中野町の病院(祖母の入院先)に行き、また、伯母の部屋に戻った。伯母は風呂に行ってくるからと出かけたので、妹と二人で戸棚のインスタントラーメンを作って食べた。テレビは「ロッテ歌のアルバム」でした。
 午後一時十五分ごろ妹に「ちょっと小便をしてくる」と言って外の便所で用をたした。そして道路に出たら伯母さんの階下の部屋に住んでいる女の人(沢口さん)が向い側の店に入って行くのを見た。また父が自転車でアパートに来るのを見た。そして階段の下の玄関(沢口さん宅)を見たら戸が開いていたので中に入ってみようと思った。その部屋には伯母さんに連れられて二回ぐらい入ったことがあり、だいたい部屋の中の様子は知っていた。
 伯母さんの所から履いてきたサンダルを玄関で脱ぎ、台所から障子を開けて中に入った。真ん中にテーブルがあり、のっている新聞紙の下からお札がちらっと見えたので、私はだれもいないし盗もうときめた。
 札を手にとってみたら一万円札が四、五枚あり、盗むつもりでいたら部屋の女の人が玄関から入ってきて、私を見ていきなり「ドロボウ」と叫んで部屋に入ろうとしたので、逃げようと台所の方に走ったが女の人に玄関で捕まった。それでも逃げようとして後ろ側に回り両足を力いっぱい引っ張ったら、女の人は前のめりにパタンと倒れ気を失ったようだった。
 私は怖くなり、後ずさりして部屋に入ったらテーブルに突き当たり倒れた。散らばっている一万円札を片付けようとしていたら女の人が気が付き「お水ちょうだい」と言ったので、かわいそうになり台所に行きコップで水を飲ませた。そしたら女の人が立ち上がり私に迫ってきた。ここで捕まっては大変だと思い、最初はクリーム色の柄のついた包丁を取り、右手に逆さに持ち、振り回した。女の人は私の腰にしがみつき離れようとしなかったので、背中や首のあたりを三、四回ぐらい刺したと思う。その時は逃げることを考え無我夢中だったので、何回ぐらい刺したのか覚えていない。
相手の手をようやく振り払い、奥の部屋から逃げようとしたが、逃げ場がないので包丁を捨てて台所に行ったら女の人が血を流しながらまた立ち向かってきた。そこで今度は茶色の柄の包丁を流しから取ってつかみかかろうとする女の人の顔などを切りつけた。逃げようとしたら玄関でつまずいて倒れた。その時、手に持っていた包丁が曲がってしまった。すると女の人が「助けて」と叫んで玄関から表に出て行ったので、私もすぐ後ろから表に出て、二回目に使った包丁を道路の方へ投げて逃げた。
 私はその人を最初から殺す気持ちはなく、ただ逃げるため夢中で包丁を振り回したので、突き刺さったと思います。(逃走経路説明)二分ぐらい走った場所にある倉庫は時々遊びに行って知っていた。服に血がついていたので、だれかに見つかるとバレると思い、血のついた紺色セーター、ミカン色のシャツ、ジーパンを脱ぎ、枕にして休みました。
 そして二十二日、雪も降ってきたし寒くなったので、伯母の家に行こうとしたが、ただ帰ると女の人を私が刺したことがバレるので、倉庫の下にあったナイロンのヒモで自分の両手を縛り、「だれかにたたかれ意識不明になった」と言えばみんなが信用してくれると思い、ウソをついて午前十一時四十分ごろ出かけて行ったところを警察の人に発見されたのです。
 伯母さんの階下の女の人の名前が沢口ツヤ子さんであることは今初めて知りました。大変悪いことをしました。反省しています。どうか許してください。
東奥日報日報は上のように報じた。デーリー東北新聞と同様の内容だが、デーリーの方が取材陣が厚いようで、現場見取り図、陳述書も掲載し一枚  格上。この年は三徳食品の役員夫人殺しもあり八戸は騒然。
また、六月の一家殺しの事件を東奥日報は上のように報じた。東奥日報は夕刊でも第一報を入れるなど、この事件は東奥日報に軍配。東奥はTVなど総合メディアを有する。県都青森を中心とする東奥より八戸を拠点とするデーリー東北新聞に地の利があるが、編集長の手腕、這い回る記者の力に東奥が優れている。デーリーも過去の記事を参照するような紙面を組めば、手厚い取材陣を駆使し、地元紙ならではの記事が書けたと残念。週刊誌に過去の事件を抜かれることもないはず。
もっとも新聞各社が過去の事件を書かないとの取り決めがあったとも言う。すると、新聞は誰の為のものなのか。事件を正しく報道する、それは至極当然だが、過去なくして現在もない。人権が声高に叫ばれる昨今。父親が殺人犯だったと知れば、子もむざむざ殺されることもなかったかも知れぬ。子は親のものではない。

八戸選管駒田委員長県費不正使用、源泉徴収違反 1

豊田美好、一八三○票
吉田淳一、一八二九・一八票
この結果吉田淳一が次点者、豊田美好が当選者と決定。これに不服を唱えた吉田淳一は八戸選管、青森選管と異議申し立てをした。
ここまで読者も知っている。
そして吉田淳一の申し立てを取り入れ八戸選管は票の数えなおしをした。これは吉田淳一の葬式だった。
その理由は票の中身を見ろとの吉田の不服に対して八戸選管委員長駒場のなしたのは票を数えなおしただけ。
その数が間違っていなかったとこうきた。筆者はそれをみて、これは死人を納得させる儀式だと思った。葬儀に参列した人は死人に線香、抹香を手向けるが、八戸選管委員長の駒場はそれすら拒否し、参列者の入場を許さず、焼香をさせなかった。これは五月十三日(日曜日)の出来事。この票の数えなおしに市役所職員が動員された。時間外手当が支給されたが、源泉を徴収していない。これも所得税法違反。
八戸選管委員長駒場にはこうした意識が欠落している。人の金を預かっているの認識が欠落しているのだ。これはこの後の問題として、話を先にすすめる。
七月十六日(祝日)青森県選管が十名ほどで、八戸市役所内で、吉田淳一が出した不服につき票を点検。八戸選管がやった葬儀ではなく、死人の顔を見ろとの吉田淳一の申し立てに沿う形式が保たれる。(これについても筆者は不服あり)
その結果、豊田美好の票に他事記載ありと決定。一票が減った。
つまり冒頭の結果が逆転。
吉田淳一当選
豊田落選
この結果が出れば、八戸選管委員長駒田の首は飛ぶが、そうさせないのが役人。役人が役人の首を刎ねる行為はしないものだ。
当然、隠しだまを用意している。つまり投票はどのように正しくなされても、選管の心一つで当落は決定するという事実を証明してみせたのが今回の事件。
公職選挙法六十八条の6に、公職の候補者の氏名のほか、他事を記載したもの。ただし、職業、身分、住所又は敬称の類を記入したものは、この限りでないとある。豊田美好の一票はこれに当たったらしい。もっともらしい県選管の発表は、豊田票の端にカルビハウスいきてえ~と書かれたことをもって他事記載とした。見てもわかるとおり候補者氏名欄外も外、大外に記されている。候補者氏名欄以外にも書かれてあれば無効とするとの判断だが、鉛筆が書けるかどうか試し書きを投票用紙にするのは筆者。
当然、候補者氏名欄の上に一本とか二本の横線がひかれる。これは無効なのか。
かくほど左様に、ここらはいいかげんなものなのだ。チビ鉛筆をてのひらに忍ばせ、当選者の用紙に横線をひきまくれば、半分まではかけなくとも十枚はかける。これで当選者をひきずりおろす。これを自転車のサドルの上で手を水平にして立つという。
判らん? 解説、次点者の上に立てる。
すると。吉田淳一が当選することになるが、県選管は八戸選管駒田委員長の顔を潰さない。
そこで隠し玉だ。
今回の候補者には吉田が二人いた。投票用紙に吉田と書いた馬鹿がいた。これがわずらいのもとで、吉田淳一がさすらいとなる。
吉田だけの記載票が十四票、この中から他事記載を探すか、無効票とすれば豊田の当選を保てると踏んだ。
そして吉田の吉の字を細工、もともと吉田の文字は武士の士を書くが、多くは土を書く。するとこれは無効か?
その無効投票用紙は右の古田。吉田から一本消しゴムで消せばこうなる。
これで吉田姓だけの按分票は13票。この結果、吉田淳一は一八二八・七四票で豊田の0・二六票勝ち。
ここでやめておけば青森選管もいい男だが、墓穴を掘った。
というのは、吉田ひろじ票の中に無効票があったと言い出した。
それも山名ひろじと書いてあるものが吉田博司の票に混じっていたというズサンなもの。これには八戸選管もギャフン。諸君等の選挙管理は正しくないと断罪。
こういわれても八戸選管はシャアシャアのノンシャランだ。玉田選管事務局長はハイ、私たちの手落ちですと平然。誰が当選、落選しようと八戸選管の職員には痛くも痒くもない。
むしろ、議員の将来は八戸選管の駒田委員長の手にあるといえる。せいぜいおべっかを使え。投票用紙の欄外に二本、線がひかれれば落ちる世の中だ。五本線をひかれてみろ、死線を越えて永久に立ち上がれない。我々人民は安閑だ。お願いして歩かなくともいい、四線でも五銭でも関係ない。もっとも五銭じゃ何も買えない。
さらに強烈なのは無効票の中から復活した票だ。
上の表は明らかに吉田ひろじの票と見えるが無効となった。それで山名ひろじを有効としていたという馬鹿さ加減。
まったく馬鹿につける薬はない。選管に吉田ひろじはおべっかを使わなかったのかね。と言うことは八戸選管が下した外の票には問題が無かったのかね。疑問、疑問。

手記 我が人生に悔いなし 一

中村節子
 母の実家は八戸町下組町であった。昭和十六年、私はそこで生まれた。父は古間木(現三沢市)出身の国鉄マン。
 私の記憶は四歳頃からである。防空壕とか警戒警報(けいかいけいほう・戦争中、敵機の来襲が予想される場合などに出された)鉄道官舎に住み、隣は駅長官舎で、よくお使いに行かされた。駅長の奥さんは必ず飴をくださった。
 小学校入学 (一年生~三年生)
昭和二十二年四月、第二田名部小学校に入学した。姉は六年生、兄は三年生である。学校は下北駅から縦に真っ直ぐ道を行った元海軍兵舎で雨が降ると天井の壁が落ちたりした。
 十二月に弟が生まれて四人兄弟になった。次の年、友達と遊んでいて、その中の一人が弾いたゴムハジキのパチンコ玉で眼を負傷した。右目は真っ暗で、光さえ見えなかった。母は驚いて田名部町の眼科に私を連れて行くと、
「手のつけようがありません、治る見込みはありませんが、又明日来てみてください」と言われた。
父は「見込みがない所には連れていけない、明日は青森の医者に連れて行く」と翌朝、私は青森市浦町の名医と言われたクボキ眼科に行った。
流石の評判の高い医者も、「う~ん、これは難しい」と唸った。「最善を尽します。これから三日間が勝負です。この間に熱が出たり痛みがあれば、眼の形が変化し、最悪の場合は眼球摘出となります。熱も痛みもなければ、眼球は大丈夫ですが視力はどうなるかわかりません。先ず三日間に期待をかけましょう」
 この三日間の父母の心配はいかばかりか、親不孝をしたものだと今になってみると良くわかる。幸いにして熱も痛みもなく、一ヶ月の入院と手術で右目に光が戻り、ぼんやりと形が見えるようになった。これが私の人生で最大の親不孝の出来事だった。
四年生
 父が大湊駅に転勤になった。大湊町は私にとって大きな街に思えた。駅からすごく離れたところに鉄道官舎が三十軒ほど建ち並んでいた。大平小学校は街中のにぎやかな通りに出て、大湊駅前を抜けたところにあった。この学校は小学校の授業研究学校に指定されていて、子ども心にも勉強が進んでいると感じた。冬休みになって、学校が指定した記録映画一本を映画館で見ることが許可された。それ以外は見てはいけないとされた。ところがお正月映画として美空ひばりの「七変化狸御殿」が上映されることになり、母が連れて行くと言ったが、私は学校で許可しないからとしぶったところ、「父兄が一緒なら大丈夫だよ」と言われ六年生の兄も一緒に見に行った。
総天然色(当時はそのように表現した)で綺麗ですごく楽しい映画だった。
 冬休みが終わり三学期が始まったとき、先生が「許可していない映画を見た人」と言ったのでバカ正直に手を挙げた。同じクラスにもう一人いた。手を挙げた二人は廊下に出された。隣の教室もその隣からも何人も出てきた。皆、校長室に連行された。全部で二十人はいたと思う。でもその中に兄の顔はなかった。
五年生
大畑線の川代駅に父は駅長として赴任した。川代は駅の近くに鉄道官舎があった。
海がすぐ近くにあった。
 砂浜に波が打ち寄せるザザッという音がすごく大きく聞こえ、慣れるまで寝付かれなかった。あるとき、授業中にホラ貝の音が聞こえた。先生は直ぐに授業を中断した。ほとんどの子がぞろぞろと家に帰った。大漁旗を立てた船が戻ってきたので手伝いに帰れとの合図のホラ貝だった。
又、ここにはイジメがあった。「よそ者は通さない」と言って道をふさがれ、鉄道線路の上を帰ったことが何度かあった。
 農閑期には十五歳から十九歳の娘さんたち八人ぐらいが、母のところに裁縫を習いにきた。官舎の八畳と六畳の間の襖を外し、裁ち板を並べ弁当持参で朝から夕方まで、薪ストーブの上にはおやつ用のジャガイモの鍋が乗せてある。私が学校から帰る頃はちょうどジャガイモが煮えた頃でもあった。
 とても楽しそうで、にぎやかで、そのにぎやかさは十一月から転勤する三月中旬まで続いた。その時の裁ち板を今も私が使っている。キズだらけだが、そのキズの一つ一つに母の、そして、裁縫を習いに来た娘さんたちの思い出が詰まっていて、そのキズをなでる度に、ざらざらとした指先から、にぎやかではなやかな娘特有の匂いまでが、よみがえってくる、ああ、あのとき我が母は元気でましました。
六年生から中学校
 八戸線中野駅(現洋野町)に父は駅長として赴任した。当時は中野村であったが、一番驚いたのは言葉の違い。いわゆる方言がまったく違った。今まで転勤の度に学校が変わり友達と仲良くするには、先ず一番にその土地の方言を覚えること、それを知らず知らず身につけた私は、その方言を覚えることから始めた。昔、平家の落人が隠れ住んだ土地であったので今のような方言が残ったと聞いたが、独特なアクセントでとても難しかった。感心したのは友達を呼ぶとき「ときゑさん」「ひろ子さん」「勇次君」と苗字ではなく名前を呼び、決して呼び捨てにしないことである。お店に入るときは「ごめんなさあい」帰るときは「ありがとうさん」これに独特なアクセントがつくわけだが、「ありがとう」に「さん」がつく綺麗な言葉だと思った。
 中野村の中野小学校、中野中学校に在学中に困ったことが三つあった。
一、 秋になると杉の葉を炭すご(かやで編んだ木炭運搬容器)二個に入れ学校に納めるのである。ストーブの焚き付けにするためのもので、何処でどんな葉を拾えばいいのかさっぱりわからなかったが、一番先に友達になってくれたときゑさんが全部教えてくれた。杉の葉でいっぱいになった炭すごは父が学校まで運んでくれた。
二、 栗拾い休みが三日あった。拾った栗は決められた分、学校に納めるものだった。何升という計りの単位で㌔ではなかった。一升枡で丁寧に量って持って行くと、受け取る人は乱暴にガラガラと枡に入れるので周囲にぽろぽろと栗がこぼれる。従ってご飯茶碗二杯分不足と言われ悲しかった。不足分は母が何処からか集めて持たせてくれた。その栗が売り出され父が買ってきて、家族で煮て食べたが、ホロ苦い人生の味がしたように感じた。
三、 十一月の末、小雪がチラチラ舞う頃に、ストーブ用の薪が学校に届く。原木のままなのでストーブの大きさに合わせて四等分なり五等分に切らなければならない。そこで生徒に「のこぎりを持ってきなさい」と言う。両親は危ないから持っていくな、切る役ばかりでなく、薪の両端を押さえる役、切った薪を運び校舎の軒下に積み重ねる役もあるはず、だからその役をしなさいと言うのだが、のこぎりを持って行き、誇らしげに薪を切る者に、そうでない者がみじめな思いをする子ども心を親は理解してくれなかった。
 私は今でも思っている。あの学校は貧乏な学校だったのだなアと。街の学校の子どもはこうした経験をしたのだろうかと、でも、これは時代がなしたことで誰でも経験したのだろうかと半分疑問で半分納得。
 昭和三十年中野中学校の卒業式を迎えた。式の後、教室でお別れ会があった。黒板に「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」菅原道真と書いてあった。これを担任の先生が節をつけて歌った。初めて聞く節でなんだかとっても変な節だと思った。少し時間をおいて、今度は理科の先生が歌った。これが素晴らしかった。同じものを歌ったのに歌い方ひとつでこんなにも違うものかと強烈な印象が全身を走った。
 この歌が詩吟であるとわかるのは、これから十一年後のことである。
 この後、父は古間木駅(ふるまき・明治二十七年、日本鉄道駅として開業・明治三十九年日本鉄道が国有化し国鉄駅となる。現三沢駅)へ転勤となった。この三沢で私の三年間の高校生活が始まると共に、お稽古ごとの始まりともなるのである。

これが私たちの町です。町内会が作った町の歴史書 南売市 3

終戦前の思い出 山田  静
 南売市の町内のことを思い出して書いて下さいと云われ、考えて見たらこれまで大変なお世話を頂いて来たんだな、六十数年間、生まれてから、ずーっとこの事を省みて感無量と思うのが実感です。この聞目に見えない、気がつかない温い人情に甘え育って来ました。これが生れ故郷と云うものかも知れません。
 南売市といわれるようになったのはいつ頃からでしょうか、小学校の夏休みのラジオ体操を近所の空地でやった時はそのような町名を使った記憶はありませんので、多分戦時中の隣組編成の頃からではないかと思いますが、それにしても東売市、北売市がなく、南と西になったのも何か、理由があったのかも知れません。
 小学校、中学校時代(昭和十八年まで)は本当にのんびりしてました。家は何軒もあるわけではなく、木や林に囲まれた農村地帯だったのが敗戦を境に、然も区画整理後は全くと云ってよい程昔の面影は無くなって、町並も家の造りも一変して本当に、驚き以外の言葉がありません,昔の小学校の同級生も、戦死したり、他に転居したりで何か発展と逆比例して、淋しいものを感じる最近です。老いて来ると、懐古話しのみが多くなると云いますが、それにしても、昔の隣近所が皆親類のような、まとまりと人情が失われていくのは、何か淋しさを伴うものです。挨拶を交わすのも皆様からの顔馴染みの先輩の方ばかりです。又淋しさを感じるのに、林や木がどんどん切られ、子供達の遊び場と憩いの安らぎの場が失れてしまったことです。時代のうつり変りと云えばそれまでですが、しかしこうなってしまってから、取り返しのつかないことですが、せめてもう一度、町内の方々が昔と同様に、情味のある、暖い気持ちで接し合うことは何時でも出来ることですから、そのように願いたいものです。みんなで町内の為に関心を持ち直して、良い所を保ち、いつまでも暮らしたいものです。
三十周年記念誌に寄せて
      根城正一郎
 「根城地域はすばらしく立派になりましたね」とよく言われます。本当に私達の住むこの地区全体が、売市区画整理事業施行によって昔とは一変して美しく立派な町に生れ変りました.大都市のような喧噪的、非人間的、コンクリートジャングルと対比して、ここは静寂であり、町並も人間的で、詩的ですらあると思います。木の香もふくよかな建物の町並は、たしかに美しく健康的な空間であり自分の気持ちや体調に合わせながら、安らぎと充実感を与えてくれる町となりました。このあたり一帯の空間は精神の緊張を断ち切り、明日への活力を新らしく湧き立たせてくれる、とても素適な町だと思います。
 昔から、真に定着するには庭付きの住いが望ましいと考えられています。庭とは、自分自らが手を下せる自然を持つことだと云われ、手をよごして植物を育てたり、日光浴をしたり、食事をとったり、体操をしたり、読書を楽しんだり、作業をしたりできる自分だけの屋外空間であります。
 町並は、そこに住みついた人々がその歴史のなかで創りあげてきたものであり、その創られ方は、その風土と人間とのかかわり合いにおいて成立するものであります。世界中で一番美しい町、魅力ある所が、イタリーであると云われています。オランダでは窓の美しい町が有名で、どの家でも窓には美しい花を飾り、町行く人々の目を楽しませてくれます。窓のカーテンが開かれて、室内が見える美しい町でもあるのです。そこに住む人々にとって少しでも快的な住いの環境や美しい町並を創り出すことは、そこに住む人々の義務であります。人は町を育てるとともに、町は人を育てると申します。目に見える町も大切ですが、目に見えない町創りも大切だと思います。隣り同志が睦み合い助け合い、そこに住む人々の気に入る町、個性ある健康で明るい町を創りたいと切望しています。
.南売市に住んでおもう
      平賀 ミツ
 私が南売市に住むことになったのは、県職員として三戸地区から八戸地区に転任になったからで、早や三十年になろうとしている。
 あの頃の南売市は、まわり一面畑が多く、秋には真赤なりんごを見ることが懐しかった。道路は石ころが多く、あちこちに水溜りがあり、鬱蒼と茂った大木が昼尚暗い感であった。又、年数がたった藁屋があちこちにあり、まるで山村という感じであった。近所の人々は、垣根越しに声をかけ、野菜を分け合ったりして、朝夕の挨拶も楽しく、住みよい所だと思った。しかし、人情が深くても日常生活の習慣、地域環境に対する発展性並びに人間関係は、他に比較して非常におくれている様な感じがした。私が県内をよく指導して歩いたので、すぐその事に気がついた。
 先般或る家を訪問する機会に、訪問先には電話連絡をし、南売市を中心に、下久根、西売市をゆっくり見る機会を得た。目的の家は見つからず、お迎えをうけた始末である。周辺は素晴らしい変り様である。新住宅とアパートだけ、これだけに変貌した南売市は、住民の限りない理解と協力があったと思った。道を歩いている人は少く、只、車が我が道とばかり走ってゆく。道を尋ねるにもお互に高い塀をまわし、門構えは人を寄せつけない冷たい感じで、挨拶の仕様もなかった。新しい道路と新住宅であってもその中に住む人の心構えが変らない限り、三十年前の売市になりかねない。挨拶運動、青少年育成等々、今日的問題を各団体でよびかけているが、どれだけの効果があったろうか。それは家庭と地域に住む私達が、人に区別をつけず、人々の良さを発見し、口先ばかりでなく自分の発言に責任をもち、老も若きも大いに話合いの機会をもって活動ができたら、やがて誰もが通る老後生活も楽しいものに変るのではないかと、自分の幸を思いながら、より以上の住みよい南売市になる様にと祈りながら帰路についた。
.この地に住んで思うこと
      巻   隆
 私は、この地(売市狐窪)に移り住んだのは昭和三十六年9月でしたから、ここに住みついて既に三十一年が過ぎ去ったことになります。
 光陰矢の如しと云いますが、歳月の流れ去る早さを改めて感じております。
 私の住家は当時の松の湯(現在、豊田産婦人科駐車場)の向い側の少し奥まった所でしたが、この辺は杉や欅や栗の老木が鬱蒼としており朝夕小鳥のさえずりが聞かれる、とても閑静な場所でした。また、現在のスーパーみなとやの向い一帯は畑が広がっており、その畑の間に住家が点在しているような実に長閑な状態で、謂わばこの地区は無定型で自然発生的に出来た街といっても過言ではないと当時のことを思い浮かべております。それにこの辺は車が通行出来るような道路らしい道路は皆無に等しい状態であり、万一、火災でも発生したら恐らく全焼は免れなかったのではないかと今改めて当時の状況を思い浮べているところです。
 時期は定かでないが、巷に売市区画整理事業の話が彷彿と開かれるようになり、その後区画整理に開する説明会が数度にわたり開催されました。
 私はこの説明を聞いて光明が灯された思いで、早期実現を期待したものでした。
 いよいよ、街路工事が実際に開始されたのは昭和五十六年頃ではなかったかと記憶しておりますが、その工事が進捗するにつれて私共が住んでいる狐窪が他の地区に先がけて昭和五十七年から家屋移転等の工事が行われるようになり、私の所は五十八年7月に工事が完了しました。
 この区画整理事業は、その後も年次計画に基づき工事が進められており、最早、昔の南光市の面影を伺い知ることが出来なくなりました。
 他の地域にはあまり見られないような歩行者専用道路が整備されたり、街路が縦横に造成される等、昔の街を一新し、明るく住み良い街が現実のものになるうとしています。
 このことは、正に南売市町内会三十周年に相応しい街づくりと云えるのではないでしょうか。
 この地区は、市の中心部に近く、長根運動公園にも隣接しているうえ、住み良い生活環境に恵まれ、仕合わせを感じている今日この頃です。
明 る い 街
      稲垣 利衛
 出身地の五戸の上市川から三日町への南部バスのルートは何十年も変っておりません.此処売市を通るバスから見る売市は、しばらくの間全く変化がありませんでした。青森~東京間の駅伝コースでもありました。静かな街という印象でした。又バスから降りる理由もない街であったとも思っておりました。変化は急に此処4、5年のことでしょうか。その結果今は一部を除いて明るく立派な家と店と街並みになりました。市の中心部に近く、住むには本当によい条件を備えていると思います。
 売市に住んでこの十二月で十一年が経過します。 夢中の3年と祭りに期待しました数年であったと思います。此の地で3人の子供が生まれました。又今、医院と住いを新しくしております。周囲が本当にきれいになったものですから、もう此の地ウルイチが生涯の場所となることでしょう。と言いますのも当初売市に医院を開設しました時に何人かの人に言われました。売市は『仕事の場としては不毛の地である』……と。確かに歯科医院としては初め患者はそう多くはなく、というよりも他と比較してかなり少ない方でした。多分に迷いました。ところが今もそう変りがありません。このことは八戸で歯科医院がこの十年間にほぼ倍に増えたことを考えますと驚くべきことと思っております。隣近所にも恵まれました、名久井クリーニングさんであり、久慈電気さんです。又吉田内科の先生には急患等をお願いした事も度々ありました。こうして過ぎて来てみますと決して派手な街ではないけれども地道にやって来ますと底力のある街であると思っております。
 運動会や町内活動等色々の行事も沢山あります。又、前会長の鈴木さんの文化に対する考えも知る事ができました。色々の個性と実績のある方も沢山おられます。そうして売市には山車祭りがあります。長女から参加させてもらい最後の5人目も来年と思っております。横浜、横須賀、仙台と転々として来ました私達にとりまして子供が参加できる祭りが町内にあるということは大変に落ちつくものでありますし、豊かな気持ちになります。御承知の様に今、大変に活気のあります売市の山車祭りの周辺の風景です。あやかって仕事を通じ、又、町内の行事に参加して自分自身の活気を保って行きたいと思っております。殊に明晰な頭をもって隣の名久井さんと一緒に明るくして行きたいと考えます。(え、あ、うん?)
売市の思いで
      久慈 忠治
 私は市内十八日町の出生で、昔の八戸町で育った訳ですが、子供達の遊び言葉の中に「人まねこまね荒谷の狐」と言うのがありました。中学校(旧制)に入校してから同級生では下久根に、玉山千里君が居り、又新組には下斗米喜三郎君や物故した沢口由郎君等が居りましたので、遠くに来た様な感じがしませんでした。特に売市の通りについては、中学校で毎年(昭和3年~7年)校内マラソンがあって、大杉平を出発して、この売市街道に差しかかると、たるみこ(中村安江さん)の前から登坂となり丁度今の私の家の処が頂上で、道路の両側に大木があり、その枝葉で覆れ、昼尚暗く日照りが当らない為、雨でも降ったら道路が泥んこで足の踏む場を探しながら走った所で、その印象が強く残って居ります。
 昭和二十六年四月、縁あって現在地に住む様になりました。この道路は昭和十五年高館に陸軍飛行場が出来その頃出来たコンクリート道路でしたが所々破損して居りました、その後昭和二十八年に辻本建設の施工で、改修工事が行われたのが記憶にあります。当時の町内の様子はほとんど草葺屋根の家が多く、農家の方々のようでした。私が昭和二十四年十月に長者町で、食料品雑貸店を開業致しましたが、幸いにしてこの地が授かり、二十六年4月に新築転居して参りました。長者町に居った頃の売上は1人で十円、二十円と言うお客様でしたが、売市に開店しまして、時期も田植時でもありましたが100円、200円と云うお客様許りで大変助けて頂きました。
 当時は、十鉄と南鉄が日に何本かのバスが通って居りました。路上ではキャッチボールやバドミントンをやるやら悠長なものでした。市営バスは、二十八年9月から開通となり、私の店の前に、バス停留所を設置して頂き、バス券の発売もやらせて頂きました。
 私が転居して来た昭和二十六年度は、川口助四郎さんが行政員でしたが、二十七年から三十年まで邨谷忠吉氏、三十一年から松田久五郎氏が三十五年度まで勤められました。岡田実氏官職を退き、帰郷されて、南売市に町内会の無い事を憂慮され、三十五年の年頭に、町内の有志の方々を自宅に招いて町内会の設立について相談され、皆様の同意を得て、三十五年二月二十八日南売市町内会が創立されました。
 平成2年2月28日で南売市町内会創立30周年を迎えました。私が売市に来て皆様にお世話になってから、39年を迎える事に相成り、誠に感無量なるものがあります。町内会創立以来小使役として、今日まで町内のお世話をさせて頂きました。これも皆町内にお住みの皆様方の御慈愛を頂き、一家挙げてお世話に相成りました事を深く感謝申し上げる次第であります。
 売市区画整理完了後は、町内の状態は一変し世帯数も500戸を突破するものと思います。
 これからの町内会は、若い方々にお願いして立派な町内会活動をして頂く事を念願して、この一編を売市の思い出として終りと致します。
私の人生と南売市町内
      中村喜兵衛
 今私たちの南売市町内は近代的生活環境に恵まれた住宅街に変りました。世の中の移り変りを思う時、私の人生も又考えさせられる。
 過去の三面(戦前、戦中、戦後)の見聞を思うと走馬灯のように思い出が回る。
 幼少時代、いまのイトーヨーカ堂の西面に大塚屋という酒造店があった(ご主人は中村秀三さん)良く父と一緒に裏庭でトンボ取りした記憶がぼんやりと浮ぶ。その大塚屋が八戸大火により全焼し廃業した。私の生家も蔵を残しただけで全焼した。又、尋常2年生の時、湊の親戚に泊りに行っていて小中野の大火にあい、三日も消火が出来なかった怖い日の事が忘れられない。
 香月園の温室の見学等、少年期の思い出が尽きないが割愛する。
 中学卒業後、志願して長い兵役に服す。
 農地改革の終った昭和23年の7月に除隊して帰った。八戸はほとんど入隊前と変らない町並であった。
 あとで、鮫、小中野に少々の戦禍があったと聞く。
 昭和30年頃より南売市町内に世話になっている。良く休みには杉の葉拾いに自転車で根城の森か松園町の森に出かけた。新組町を通り、根城小学校を過ぎると民家も少く、両側は畑で土ぼこりを立てていた。町内には道路らしい道路はなく、農道的小道を町内の連絡道にしてあった。
 その為、町内の昼火事でも消防車が近づけず大通りからホースを何本も接続して現場に向った。そんな状態の消防活動の為、大半焼失した後の放水となったことを思い出す。
 私は一期、町内会長を勤めた事がある。その当時は生活環境清潔検査が春秋2回行なわれていた。各家庭の生活排水は裏に浸透桝を作り不衛生的排水をしていた。検査は家屋の清掃と共に不衛生的個所の検査に久慈さんの案内で各家庭を訪れ、検査済札と消石灰を配ったものである。朝9時から始まり夕方迄廻っても終らず、丸2日も掛り私達の町内は広いなぁと思った。
 そんな根城地区に、長者山下にあった裁判所が移転、これを機会に根城地区区画整理事業が始り、競馬場跡を中心とした広い畑地が一つの街に変った。続いて売市区画整理事業が始まり、新しく江南小学校、博物館が出来、根城隣接の町内から除々に畑地が住宅街に変っていった。
 私達の南売市町内も最近整備が始まり、新しい街が出来ようとしている。
 各家には救急車や消防車が横付け出来る立派な道路も出来、更に、下水道事業も加わり生活環境が一変し、何処の家庭も台所附近は奇麗な花が咲き乱れ最近迄の不衛生的思い出がうそのようである。もう、昔の面影は何処にも残っていない。 先輩が残した進歩的歴史が忘れられようとしている。この時に当り記念誌を発行し、後輩に伝える事が誠に意義深い事と思います。
 区画整理事業関係者各位に感謝し、新しい街となった町内に一層の文化を加え、益々の発展を願います。最後に、本誌編集に努力下さいました方々に感謝申し上げます。

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」3

ありがとうは珠玉   Aさんのこと
七月の例会「私のありがとう」第三回が開かれた。地域交流センター「ギャラリーみち」に多くの善男善女が集まった。常連となられた方、初めての方、年齢も小学生から八十才の女性までと幅ひろい。
「あなたは今までの生涯でどなたに感謝したいですか?」で熱を帯びたやりとりがあり会場はいっぱいとなりました。
やはり人は生きているのは誰かの助けがありその想いをどこかで口に出さなければ生きている実感がないのです。すなわち誰かのお陰で生かされているわけです。「ありがとう」を言いたい、人生は長いようでいながら自然の中の まばたきほどであろうか、短い。感謝しなければならない方がおられたら、たったの今、しかないと考えよう。
参加者の石川県七尾市生まれのA子さんが「私は父親に命を助けられた、六十二年前の八戸空襲で米軍の爆撃を受けたが父親が自分の身を挺して被さってくれたので命が助かった、今、自分があるのはそのおかげ」と・・目頭を濡らしながら話して下さった。
名前や詳細な事情は本紙に出さないでくれとのことで省くが、場所は八戸市内のセメント工場。山口県から一家で転勤配属になった。優秀な技術者だったろうか、重要な人物であったか、兵士として前線には送られず此処八戸市に派遣されたようである。
住居は湊ホロキ長根、工場のすぐ傍にある小高                     い場所であった。確か終戦のたった一月前、一九四五(昭和一九年)年七月十四日であったろうか。(一五日にも爆撃あった)
セメントの生産は戦争のための直接兵器ではないが本土決戦を目論んだ我が国は敵アメリカを迎え撃つ要塞や砲台の建設に極めて重要とされていた。そのためのひとつ「八戸要塞」と呼ばれる南郷地区に建設にされたものがある。高学年の生徒達は大勢動員され昼夜を問わずセメントや砂を背負い、凍てつく季節にはそりを使い勤労奉仕をさせられた。私の兄や姉もそうだった。食料も枯渇していて空腹も極限の状態ではこの作業に携わったもの達は戦争の勝利は信じられないものではなかったかと思われる。
最初は高館の陸軍飛行場が艦載機のグラマンに襲われた。それから標的は工場、橋脚、鉄路、軍艦、小型の漁船までに移った。動くものは人間も猫一匹でも機銃掃射をあびせたものだ。岩城セメント八戸工場、日東化学八戸工場が大型爆弾を無数に投下された。もう力尽きた日本軍の反撃もほとんど無く、成すがまま。(海防艦 稲木はまだ配属になっていなかったか?八戸港を守っていた稲木は翌月十日の空襲で反撃奮戦するも撃沈された。八月六日はすでに広島市に原爆が投下されている)
八戸戦争の状況の一部始終をみて実録した 花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の記述の一こまを見てみよう。
稲 木 の 最 後
八月八日日暮時大湊軍港から出港した海防艦が一隻津軽から尻屋沖を南下して掃戎に当り八戸港の西防波堤南側よりに投錨。八月に入ると頻繁に八戸港に軍艦が入港していたが、これは敵が本土上陸の作戦をたてたとみた大湊海軍司令部は太平洋沿岸警備の任を強めて八戸防衛の陣を敷いた。
その朝六時八戸港の西防波堤に投錨したのは戦艦稲木だった。
そして我々市民が忘れることの出来ない日本海軍最後の海戦を捲き起こした。稲木の艦員達は朝食前、次ぎに来る米動部隊の来襲に備えて攻撃準備の点検をしていた。グラマンは八戸沖を見逃して三沢空軍基地を空爆した。グラマンは三沢空爆から反転して鮫港の上空に姿を見せていた。稲木は揚錨の作業をしながら内火艇の揚艇にかかっていた。そこへグラマンが機銃掃射をかけてきた。攻撃を受けながらの揚錨作業で艦上の兵士は右往左往している。防御の体制が出来ていないが艦砲が鳴り渡っていた。全くの不意打ち同様の攻撃をうけたので甲板の上は沢山の兵士が飛び跳ねているのが見える。鮫角高台の上空からロケット砲と機銃で二列三列になって撃ちまくってくる。稲木からの艦砲をかわして又戻ってくる。揚錨が出来ない稲木は戦闘能力はガタ落ち、文字通りの釘付け状態。グラマンは主に艦橋を狙ってのロケット弾を雨のように射かける。艦全体がロケット弾で吹き荒れている。その中で大砲を発射し機銃を撃ち、応戦をして敵機を近ずけまいと懸命に頑張っている。稲木も又死力をつくして反撃します。錨を引きずっての戦いですから左舷の三速機銃はつかえない。稲木の砲撃も敵機に標準を定める余裕がなく滅多やたらな弾幕をつくる撃ち方だったが狙いが定まってくると艦砲はグラマンの飛翼をかすめてうなりをあげ、右舷の二連装機銃の弾丸はグラマンの尾翼に被弾。左舷の機銃は使えず片肺攻撃だが機関銃、艦砲が能力全開。蕪島上空から低空で稲木に向いロケット弾は直線に延びて橋上をかすめ海に消える。稲木も前門後門の高角砲の砲口は赤味を帯びてパッパッと火焔を発し、砲弾を二連発してグラマン向っていきます。それが一瞬にしてグラマンの飛翼に当り破片が四方に散ります。右サイドの三連装機弾は列をなして飛び、蕪島低空から襲う敵機に命中して行きます。沖防の彼方にきりもみをしながらグラマンが火を吹いて落下。鮫港の空は火と煙に覆われて八戸沖を見えなくしていった。
鮫灯台から回りこんだグラマンの一発のロケット弾が稲木めがけて走っていきました。弾丸は一直線に目に見えてのびていきます。真昼でも白い閃光となって飛行し、行きついた先の艦尾で物凄い火焔が横なぐりに広がり、巨大な火の玉が艦上を揺さぶって宙天に跳ねあがった。轟音は耳をつん裂き、鼓膜を一時不能にした。爆煙は艦尾を覆って大小の火の玉が花火の様に煙の中から飛散します。もくもくと真っ黒い煙が艦橋をつつみ、更に艦首に流れて来ます。稲木は除々に艦尾を重くして艦体を傾け海中にかくしていった。
そしてこの海防艦稲木が最後を遂げた次ぎの日、十日、日本政府はスイスとスウェーデンを通じてポツダム宣言を受諾する事を認め、連合国側に通知をしていた。第三艦隊司令長官ハルゼー将軍は洋上でこの日本降伏の通知を受けていたのですが尚も日本を痛めつけようと太平洋岸全体の都市猛爆の命令を指令していたのです。
花生留造 著「八戸海戦を知っていますか」の原文抜粋
話しはまた戻る。A子さんの母親は身重で下の子ひとりをつれて山口の実家にお産に帰郷していたそうな。父娘で戦時下の留守をあずかっていた。工場は無数の直撃弾で壊滅。いくらも離れていない住居も爆風だけで破壊された。グラマンからの機銃掃射は12.7㍉機関砲、もし当ったら身体は原形をとどめなく砕け散る。
その時の詳細を尋ねたが、Aさんは首を横に振るばかり。
父の命を懸けた子への愛情をひしとうけとめ現在までこの珠玉(宝石としての玉)は胸のなかに大事に大事に仕舞いこんで来たものだろう。目頭の光るものがそれを物語る。
ひとには、それぞれの生きた歴史がある。現在のように混沌とした社会の風潮を真っ直ぐに進むのは至難である。暴風である。人生にも遭難、難破がある。結婚式では新しい船出として祝われるが、一生、安閑として過ごすものなど唯ひとりとしていないのだ。Aさんはこの珠玉、時をみては取りだし磨いてきた。そして今燦然と輝いているのではなかろうか。
「親は子を命懸けで育てること」これは人間が発生?した太古から当然のこととして行われてきたものであり、とりわけこの項で述べるまでではないが、しかし、この行為は簡単そうで容易なことではない。日常、自分だけを維持するだけでも精いっぱいなことである。だが、生き物はすべて自己犠牲があってこそ成り立っているのだ。
Aさん、このことは普段の会話では軽やかに口にはしないであろう。宝物は、とても勿体無くて、そう簡単に他人の眼にも耳にも晒せないし、晒したくない。そんな思いではないだろうか。詳細を拝聴出来なかったので推測の域をでないが、Aさんはこの親御さんの意志を受け継ぎ、子を立派に育て上げたのではないだろうか?「現代の親たちよ!子は命懸けで育てよ!」と教えられた思いである。子は親の背をみて育つ。古くからの格言である。しかし、現代、子殺し、親殺しが日常の茶飯ではなんとも嘆かわしいではないか。「しっかりしろ日本!」と声を大きくして叫びたい。蛇足であるが、同じ時、A子さんの所と対岸、私は小中野の防空壕にいた。五〇メーターほど離れた湊橋に直撃弾をうけた。250キロ爆弾破裂の地響きで身体が飛ばされ頭が天井にぶつかった。国民学校三年生、子供ながら「この先はどうなっていくのだろう」と不安感でいっぱいであった。空襲警報解除。橋の中央に人の落ちるぐらいの穴が空き、夏の川面がキラキラ光っていた。一年前には朋友と、ここで泳いだり、釣りをしたりして遊んでいたものだった。その日のうち親戚をたより、岩手との県境「梅の木」という家が三軒だけの村にお世話になった。翌日もグラマンの爆撃は続いていた。山の上の大木に登りセメント工場の爆撃をみていた。爆撃音は耳には入らなかったが私の登っている木の頭上を低空で飛行するグラマンには首が縮まったものだ。あの爆撃の下では何人の人が死んでいるのだ。子供心にもそのように思い暗い気持ちであった。記録では民間人だけで数十人と言われているがもっと多いのではなかったか?詳細はわからない。
 文責  風天弘坊

小中野小学校百年史から 最終

波打 その頃私は同窓会の会計をやったが、同窓会の会計はいまどうなっていますか?
中沢 今は卒業生から卒業の時、原則として百円もらっているが、あれこれと使っているので大したことはありません。同窓会はですね。この新校舎が出きてピアノが必要になったので、同窓会を復活したのです。だからそれまで中断して無かったのです。
浪打 それでは前のことはどうなったのでしょうか。
中沢 さあ、わかりませんが、三島さんが最後の母校への奉仕だと言って奮起して寄付金をもらって、そしたら蔵五郎先生が一番先にグランドピアノを寄贈してくれました。
  善行で大臣賞
波打 ここの学校で、菊地勘右エ門という文部大臣から表彰された阿部という人があった。友三郎さんという人だったがあれはどうなっているんでしょうか?
大久保 だれですか? 文さんというのは、阿部文三郎さん?文次郎さん?
波打 あの人に文部大臣の菊地(たいう)?という人から表彰状が来て、ちがう額にかけていたと思うが?
大久保 何で表彰がきたのですか?
波打 善行です。
小井田 それは何年頃のことですか?阿部何という人ですか。
浪打 阿部友次郎さん。浦町の、新地から浦町へ行くところの。
山浦 ああ、阿部そばやの人ですか。
浪打 そうそう、この人は偉かった。
山浦 阿部幹先生のおじさんですな。
大久保 表彰の話があったので何ですが、この記録をみると六ケ年精勤というのが、なかなか無く、月宇さんが六ケ年の皆勤か精勤かで賞状を受けているのが残っていますが。なかなか無かったんでしょう。皆勤が一名だけの時もあったようです。
  戌一つが芸者一人
稲葉 月宇さんが六年生の第一回卒業生、私は第二回、佐川さんは第三回で、三人主催になって尋常六年制二十五周年記念恩師謝恩会をやりました。一人から会費二円とり、二円のお膳で小松屋でやり六年卒業の時に丁が一つあったものは、丁子一本出し、戌があったものは芸者を出せというのでやったんです。そしたら大低戌があり、大さわぎをしたこともありました。
大久保その時の成績は何でわかったんですか?
稲葉 学校からエンマ帳を借りていき、みんな読みあげたんです。アハハハ……
大久保 それでおちついた訳ですね。
山浦 会費が余るだけだったんでしょう。
  スパルタの中に師弟のきづな
大久保 今と比べると、明治、大正の頃の先生の教え方は今のことばで言うとスパルタ式だったと思うが、その時の思い出話を聞かせてくれませんか。
夏堀 私からはじめますが、大矢先生に音楽の時間にいたずらをして、友達と耳をおさえられ頭をぶっつけ合わされ目から火ばなが出る程やられたが、当時の父兄は、それでも、文句を言わなかったんです。地図を掛ける竹で頭をぶたれて、怪我をし、親に聞かれたので「ころんで怪我した」と言ったが、姉が「いたずらをして先生にやられた」といってばれたこともあった。兎に角スパルタ式でした。
月宇 立たせる場合でも、そのまま立たせるのでなく、頭の上に水を入れたバケツなどを持たせられたものでした。こわい先生がいたものでした。
夏堀 なぐられた大矢先生とも東京で親子のようなご交際をしていただいたし、こわい先生ほどなつかしく、今思い出しても一番親しみがあります。
稲葉 私は柏崎徳蔵先生になぐられたんだが私達もきかなかったんですね。
大久保 その頃の先生方は非常に厳格であったが所謂師弟の間が心で結ばれていたというわけですね。私達もよく罰を受けたものですが、そういう先生程印象に残っていますね。
波打 唯なぐるのでなく、愛の鞭だったんですね。それ位のきびしい先生でなければ、生徒はついていきませんでした。今の先生などは…
  柳川先生の思い出
佐々木直 長者山の別当さんが、私らが高等科になってから来ました。
大久保 ああ、柳川さん、柳川先生が::
佐々木直 「ハア、歩兵少尉だずよ、おっかねずよ。」と。ほんとにタイプからして、態度からして、ぶんなぐられそうだった。だが、たたかなかった。ただし「ぶんなぐってやる。」という言葉でぴんとしたものでした。「おっかないぞ、ぼやぼやしていられないぞ、柳川先生だとぶんなぐられるぞ」と思ったものでした。身体は大きく髭もたてていたので、
大久保 若い時から髭をたてていたんですか
月宇 はあ、陸軍中尉だったんですよ。戦争にいってちょっと怪我をした為、金鵄勲章をもらわれないというので、生徒を集めては残念がっていたものでした。
佐々木直 案外たたかなかったんですね。態度がおそろしかった。
月宇 女生徒といっしょで、石筆などを女生徒にぶつけたりすると、柳川先生はその時の級長達を二人たたせて、お前たちが悪いからだ。」といって立たせて「お前達が女生徒にぶっつけたから、お前達にためしてみる」といって、石筆の小さいのをぶっつけた。すると、この二人は顔にあたってもびくともしなかったから、先生は「感心だね、勇敢だね。」と大へんほめてくれたことが記憶にありますよ。
稲葉 それから、柳川先生のことでは、日韓合併の時、伊藤博文といっしょに季王殿下が尻内を通過したことがあるんです。その時に尻内へわれわれが両国の国旗を持って並んだものでしたが、校庭でその予習をした時、その時われわれが並んでいる前を柳川先生が髭をたてて自転車に乗って、汽車のかわりに通ると「気をつけ、礼」とやったものでした。
大久保 その頃の自転車といったら珍らしいものだったんでしょうね。
夏堀 今の自動車位の値打がありましたね。
三河 八戸では、北村益さんと柳川先生とがはじめて自転車に乗りました。北村さんは東京から持って来たんです。
夏堀 自転車の草分けですね。
月宇 電気のついたのは大正何年頃でしたっけ
稲葉 明治四十四年です。
大久保 電燈がついたあたりのお話は?
波打 その頃私は電気会社に務めていました。あなた方は電燈がついたのをみているんでしょうが、私に感謝しなければなりませんよ。会社の浮沈にかかわることに私はたずさわったものですからね:。ハハハ。
  活発だった各種発表会
佐々木哲 その頃の学芸会のプログラムがあります。(プリントしたものを見ながら)これは大正三年十一月六日のものです。その種目に、男は朗読、暗誦、唱歌、対話、図画もあり、図画も描いたんです。音喜多富寿さんは、四年の時富士の山の図画、伏谷さんの奥さんは富士の山の暗誦、中村寿夫さんは黒板画をかきました。大久保正夫、今の大弥さんは談話「自分のものと人のもの」私のもありますが、高等一年の時、先生が書いた程度の高いものを暗記させられました。松木秀生のもあります。談話「あやまちをかくして」竹内きよさんというと新丁の音喜多きよさんで談話「お月さま」となっている。道合もとさんといって産婆さん、談話「応急治療の二・三」。岩見正男先生のは談話こうもり、尋常三年岩見正男となっています。中野ふみさん小学校三年生「正直なでっち。」というお話、算術「掛算九九」というのもありました。
大久保 何ですかそれは?
佐々木哲 掛算九九も舞台でやったもので、普段習ったものを学芸会で発表したものでした。
稲葉 私は高等一年の時、戊辰詔書を暗誦したことがありました。文句は忘れましたが私が暗誦している間みんな起立して聞いていたものでした。その時、ジキョウヲヤマザルベシと読む所を、ジキュウヲヤマザルベシと読んだものだから、みんなわっと笑ったものでした。
月宇 その頃、土曜日はお話の日だった。毎週土曜日に生徒にお話をさせた。しゃべる人達はよかったが、しゃべれない人達は土曜日がこなければよいなあと思いました。というのは壇上で立往生するわけです。ですから日曜日が来るのは楽しかったが、その前の土曜日はいやでいやで仕方がありませんでした。
波打 私達の時は、弁論会とか討論会というのがありました。
大久保 学校でですか。
波打 そうそう、卒業式に代表者が男一人女一人でやらされた。
山浦 その頃処女会なんかも大分活躍したような記億がありますが。大正三年ですか、あの八戸の大火があったこと、又、十三年の五月にアメリカの世界一週の飛行機が来ていますし、七月にはイギリスの飛行機が来ていますが私達はアメリカの国旗と日本の国旗をもって歓迎にかり出され又、処女会もそれに大分かり出されて活躍していましたね。はじめて八戸の白銀の海岸に着水したこともあるんですが
大久保 あれは不時着したのですか、又前もって予定したのですか。
夏掘 さあてそれはどうだったか? 小西浅次郎が通訳した。
佐川 白銀に着水した時の八戸の警察署長が困った。私もつとめていましたが、何しろ英語がわからない。誰に頼んだらということになり、女鹿さんに頼んで鮫の石田家で何とか格好をつけたものでした。
夏掘 その女鹿先生があやしげなる英語を使ったわけですね。ローマ字読みしたという傑作もあった。女鹿先生はその当時の八戸の新知識で、慶応大学の英文学を出たといううわさでした。
小井田 それは何年ごろですか?
山浦 大正十三年の五月二十二日、アメリカ機。七月十三日に英国機が来たと記録されていますからこの時でしょう。
稲葉 山浦さんのお父さんがいた頃ですか?
山浦 まだ生きていた筈です。
中沢 大正四年の写真をみると山浦さんが鬚をはやして中央にすわっています。
小井田 山浦さんは大正二年に村長になっていますね。
山浦 村長になった時のことを聞いたことがあるんですが、何でも大学を出て京都にいた時のこと、おばあさんからせんべいが送られて来たその包紙が八戸の新聞で、それに村長に当選した事がついていたというんです。「いやうるさいことになったな」と思い、二ケ月程たって、大概もうよかろうと帰ってきたら、まだ待っていたそうで、そこで当時の郡長に相談にいったら「やってみたら」と言われ止むなくやったということです。とんだきっかけで政治に足を入れたとの事でした。
  旧校舎の建築と校舎移転
稲葉 そうそうこの校舎(旧校舎)をたてる時、山浦さんが村長でした。
浪打 そのころこの小中野はどうだったんですか。この辺は麦畑か、芋畑でしたなあ。
波打 麦畑もなんだけど、きつねやたぬきがおったと言われているが?
小井田 ほんとにきつねやたぬきがいたのですか?
波打 ほんとの所、新地の角に助次郎屋といって、そこの小屋があった。そこに盆踊りがあって毎晩さわいだものだ。小屋の中を調べたら大きなたらいの中にたぬきが二匹はいっていた。それに針をさして殺したという話です。又私の家が新地にあったんですが天ぷらをあげれば必ず来たものです。
大久保 旧い校舎を現在の場所に移転したのは大正十年、私は小学校一年のころですが、古い校舎を持ってくるのにコロか何かでもって来たものでしょう。そうすると家が全くなかったわけですね。
稲葉 そうです。家が全然なかったのです。真中頃にホイド宿(木賃宿)があって、そこまで来れば安心したものです。
佐々木直 その頃は雪も沢山降って、左比代のあたりで雪の落し穴に入って上れなかった小さい人があり、その人を引っぱり上げて助けたことを今でも覚えている。それ程雪も降ったわけですよ。
稲葉 この場所は、首切場のあった場所で校舎を建てるためここを堀ったら、骨などが沢山出たわけですよ。そのたたりでとか、首切り場のために小中野小学校で、運動会や遠足などがあると、雨が降るといわれているというわけで高田先生の時代に父兄会の幹部とか先生方ではらってもらったことがありました。
大久保 それでも尚も降るわけだ。やはり確かにこのあたりは首切り揚があったわけですね。
一同 そうだということです。
大久保 小学校は義務教育で授業料などは、全然なかったわけですか?
稲葉 授業料は高等科ではありました。
佐々木哲 私の頃の高等科の授業料は十六銭でした。
岩見 昭和の四・五年で五十銭ですね。
三河 先生方の給料は、師範卒で十七円、校長二十四円でしたよ。 
大久保 どうもありがとうございます。

売市小が改名され根城小学校となり、その百年史から 最終

昭和五十一年六月六日 根城公民館
司会 お忙しい中、多数御出席くださりありがとうございます。御存じのように来たる九月四日は、百周年記念式典を行なう予定になっております。従って、その場合における記念誌を発行する予  定です。そして、この座談会も載せたいという主旨からお集りをいただいた訳でございます。最も印象深かった事を一つか二つお話ししていただきたいと思います。
校長 昨年度より連合PTA、同窓会、連合町内会と三者一体となって本校の百周年のために御配慮いただき、各部門に分かれて進行させていただいております。こんな意義ある百周年に、私共   職員がお世話になっておりまして非常に責任を感じております。今年は、ちょうど一世紀にあた     っております。資料も欠けておりますが、今後二世紀に向かって羽ばたいて行く大事な記録と   なりますよう期待しております。よろしくお願いします。
PTA会長 皆様方の暖かい御指導と御協力をたまわりまして、百周年の任を全う致したいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。  百年の間に御努力くださいました諸先生方、並びに地域住民の皆さん方が築いて来られました立派な歴史と伝統を現役のPTAわたしたちが受けつぎまして、その名に恥じない様にみんなで  力を合わせて明日の根城小学校のため、児童のために頑張って参る考えでございます。
山田国太郎(大正二年卒)
学校にはいった時、古い校舎一つだけでした。一、二年経ってから教員住宅ができ、その後二年位してから上手に倉庫のような物ができました。当時、尋常四年制で生徒の数も少なく二学級で間にあっていました。あと一、二年で卒業という時に六年制に変わったので卒業がのびました。当時、印象に残っているのは、稲葉よし先生の受持ちでしたが、とてもいい先生で、三十分位勉強するとあとは昔話を聞かせてもらい、とても楽しかったという事をおぼえています。
金田一サメ(大正二年卒)
当時、蒔田校長先生で先生は三人生徒は十二、三人でした。みんななくなって今わたしひとり生き残っています。
沢口岩蔵(大正三年卒)
当時は学校で勉強するよりも家の手伝いをする子どもも多く、小さい妹や弟を連れて子守をしながら勉強をしたものです。又出席をとってすぐ家へ帰ったりもしたもので、そのためにあまり勉強することができませんでした。それでも学校は楽しいものだと思っていました。今の子どもたちは、しあわせだなあと思います。
下斗米平蔵(大正五年卒)
校舎は売市の今の下久根のお宮の前にあり、校舎は二つありました。一つは古くて天井もなく、今考えると物置ともつかない程の粗末な物でした。ここには一年から四年生まではいっていました。  担任は南部こう先生(八十才)、校長蒔田茂穂先生でした。当時の学校は話にもならないような学校で、冬でも火鉢一つでした。今考えると、凍傷にもよくかからないで過ごしたものだと思  います。今の校舎を見ると感無量です。
大久保栄三郎(大正十一年卒)
思い出として特に楽しかった点はなかったでず。むしろ、さみしかったということだけ残っています。担任は小幡先生でした。夏の遠足の時に裏通りを徒歩で鮫まで行き、着る物はく物からしてさみしい思いをしました。祝祭日には安い鶴子まんじゅうをもらったものです。卒業式の答辞を泣いて読めず、先生に励まされたことを覚えています。
きかなかったので、よくけんかもしましたが、皆元気で卒業しました。なんともいえない友情は他に勝るものでした。当時は、校旗も校歌もありませんでした。とにかく、さみしい思い出が多く   残っていますが、学校に対しては感謝しています。
松橋鉄蔵(大正十三年卒)
一年生の時、歌を歌って旗行列をした事を覚えています。校舎は、一枚ざくりで暖房は何一つなく火鉢一つでした。運動会や修学旅行は毎年ありました。旅行は売市、田面木、明治と三校一緒で行きました。場所は、一戸、福岡、盛岡などです。大正十年のわたしたちの卒業生は、女三人を入れて三十八人でした。今、元気でいるのは三人だけです。担任は中里達男先生で、校長先生は工藤光男先生でした。共に故人となってしまわれました。
川口兼丞(昭和四年卒)
当時は、わらぞうりをはいて、学生服をひとりかふたりは着ていましたが、あとは皆着物を着ていました。かばんも待っている人は少なく、ふろしきに包んで持ったり、しよったりしました。  農繁期の忙しい時期には、妹や弟を学校におぶっていきました。子どもが泣くと廊下でよく遊ばせたものです。昭和十七年、わたしが兵隊から帰ってきて、男の先生が足りなかったので、青年指導員としてつとめました。田中先生、三浦先生、古川先生の四人で交代で日直をしたこともありました。
中村福次郎(昭和四年卒)
当時は先生四人でした。校長先生は星野先生です。学校として建てたと思われる校舎が下の方に一棟で、上の方にあるのは泉山醤油屋の精米所を持  ってきて建てたらしい話でした。わたしはいたって腕白で、けんかをしても負けたことがなく、先生にもよく注意されたものでした。(笑)
六年の時、桜の木を植えて三年目でしたが、よく水をかけて手入れをしたものです。今、その木は四十七、八年になっているのです。二、三本は校庭に残っていると思います。土手には河内屋  さんが寄贈した五葉松を植えていました。
北村なほ(旧姓野沢・昭和五年卒)
新校舎が出来て入れてやるというので大変楽しみにして草取りなどいろいろと奉仕をしました。しかし、完成せず古い校舎で最後の卒業式をやりました。校舎が狭いので、運動会は八幡でやり、行きも帰りも歩いたものです。
川口助四郎(昭和八年卒)
根城には高等科がないので、わたしたちの前迄は吹上の高等科に行っていたのに、わたし達の時になって入学を許可されなくなり、早急に根城にも高等科ができました。高等科第一回目の卒業生で、昭和十年でした。その頃小学校には校旗がなかったので、卒業記念に校旗を贈ることになりまし  た。高等科卒業間ぎわになってから、卒業生だけで図案を研究しました。南部公の大いちょうの葉をもって葉を翼にし、向鶴に図案化して作ったものです。卒業して一年後に五円ずつ持ちよって、百円位で出来上がったと記憶しています。盛岡に注文して一年後にできてきました。
野沢剛(昭和三年卒)
売市からこの地に移ったのが、昭和五年十月十五日で、落成式をやりました。新しい校舎に入学できたのが昭和七年です。さっきも桜の木の話が出ましたが、えぞ松、ポプラ、桜の木が校地に植えられていました。現在、一本中庭に残っています。校舎の中央入り口前にあった土山の松や、現在入口のわきに移植されているさつきやつつじも当時のものです。競馬場が近くにあり、よく二階から授業中や休み時間眺めたことを覚えてい  ます。草組合の上の二本杉のあたりによく写生にいったものです。当時、八幡様と根城々跡に全校揃って参拝に行きました。
西沢由見(昭和十五年卒)
国道の脇に校舎がありましたが、今のようにほこりに悩まされることもなく、環境がよかったです。 当時は、農繁休業が一週間位ありましたが、あまり手伝いもせず、川へ遊びに行ったものです。今も体育館脇に馬鈴薯を植えていますが、当時はもっと広く、たくさん植えていました。そして、その馬鈴薯をリヤカーで売りに行かされましたが、恥ずかしくて売れないで叱られ、近くの旅館へ行って売った事を思い出します。遊びは兵隊ごっこでした。夏には、ジャックナイフを持ち歩き、さまざまな物を作って遊んだものです。
岡沼鉄男(昭和十七年卒)
大東亜戦争の頃です。五、六年の担任の先生が、戦死したので六年の時弔辞を読みました。当時は教室に火鉢一つの冬でした。祝祭日になると、校長先生が奉安殿から教育勅語を出され、冬でもおごそかに並んで迎えた事を覚えています。和服姿が随分重々しい感じを与えていました。楽しかった事としてプロレスの様な遊びがありました。
 先生にいくらたたかれても、先生の家へ遊びにいって甘えて遊んだものです。
中里万里子(昭和二十六年卒)
根城国民学校六十七名として卒業しました。現在の二クラス位ですね。終戦で教科書はなく、担任の先生が一冊持っていたので、それを紙に書き写して勉強しました。昼は、ほとんどの子が家へ帰って御飯を食べたものです。粉ミルクが配給になり、今の給食の始まりです。一年生の時の通知票は、国民科、理数科、体練科、芸術科とあり、六年生は現在と同じように、算数、国語、社会………などとなっていました。クラブは、今のように特別なく、上級生になってから、好きな人たちは隣の校舎の中学校と一緒にバレーボール等をやったものです。後に、中学校のバレーボールが強くなっていますが、この頃から力を貯えたのだと思います。児童会は学校自治会、学級の会長などは級長と呼ばれていました。からだの方では、全国の}年生の平均身長は、一〇九センチメートルです。五年から予防接種があり、年間を通じてDDTの散布がありました。散布はいつもという訳ではなく、八戸を出る時は必ずやりました。衣服の事ですが、着る物はなく軍服を直して着たり、ズックがないので、ぞうりをはいていたものです。そのため足に古くぎをさすという怪我がよくありました。施設としては、すべり台が一木と半分   で、低鉄棒、高鉄棒が現在の銀行のあたりにありました。五年生の時、校売部が出来て二年間続きました。し尿の汲み取りは、上級生が全部やりました。遊びは、縄をなって縄とび、おはじきをやり、松のやにをとってつばで綿のように伸ばし、指に巻いて競って遊んだものです。男の子は、笹竹で紙鉄砲を作って遊ぶのが盛んでした。
大上ひさえ(昭和二十七年卒)
私が小学生のころ物資がなく、ハトロン紙のようなノートで絵をかいたものです。教科書は上級生からもらって使いました。二年の時、新設中学校が併設され、体育館に新しく中学校の教室が作られました。その為小学校は、二部授業をしたり、階段に座わって授業を受けたりしました。物資がないため、いろいろと配給制度があり、無欠席の者に優先権がありました。今は想像もできないと思いますが「しらみ」がたかっていて、授業中でも前の人の頭を自由に歩いているのが見えたものです。(笑)休み時間には、桜の木の下の芝生でしらみとりをしました。非常に家族的な光景でした。上級生になって図書もなく、岩藤先生に『巌                     窟王』を読んでいただいたのが楽しい思い出です。
クラス会など時々ありますが、今でも当時の根城の神髄を流れる家族的精神があるようで、故郷に帰ったようで懐しい思い出となっています。
司会 山田卓三
校長 田中正直
PTA会長 植木規好

山田洋次監督・キムタク・宮沢りえで西有穆山の映画を作ろう 7

西有穆山(にしあり ぼくざん)幕末八戸が生んだ仏教家、曹洞宗の頂点に昇り道元禅師の正法眼蔵の研究家として著名。吉田隆悦氏の著書から紹介。
三十九、名門坊主出て行け
安政三年(一八五六)三十六歳
 月潭老人の膝下には多くの傑人が雲集したが、その一人に後の大本山総持寺独往第二世の貫首となった。畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師が居ります。
 月潭老人は結制修行といって、規則で定めた正規の修行期間中は、寸分の隙も人情も差しはさまぬ、厳格そのものでありましたが、解間(げあい)といって自由研究修行中は、大変寛大であって鳴らし物もさせなかった。ところが楳仙禅師は謹厳そのものといった型の、真面目な人柄であったから、関左(かんさ・東京神奈川など六県をさす)禅林として有名な禅林に於て、たとえ解間中でも鳴らし物をせぬと怠けているようで風聞が悪い。いわんや解間中でも宿泊して参禅する者や、昼食を取り聞法(もんぽう・仏教を聞くこと)してゆく修行者が、始終出入しているから、この修行人達が「海蔵寺は鳴らし物もせぬだらしのない修行寺だ」などと吹聴したら困ると思って、楳仙和尚解間中でも自分で梵鐘(ぼんしょう・鐘)を鳴らしたのである。すると、月潭「鐘を打ったのは誰だ」と大声でおこり出した。楳仙和尚が老人の前に出て、私でございます。拝宿(はいしゅく・宿泊)や点心(てんしん・食事)している修行僧への手前もありますので鳴らしました。」
 月潭、「この名聞(みょうもん・名誉をてらうこと。みえをはること)坊主め、出て行け」と怒髪天を衡く(どはつてんをつく・頭髪の逆立った、ものすごい怒りの形相)勢で下山(破門退去)を命ぜられた、月潭老人はいい出したら容易に引込まぬ性質であることを知っている修行僧達は、誰も出てゆきません。穆山和尚同僚親友の一大事と思い、「老師様、楳仙さんは馬鹿真面目な事を御存知でございましょう。馬鹿を相手にしたら老師様の徳を損じます。私にまかせて下さい。」月潭 「そうか、仕様がないな、鐘はへらぬから勝手にしろ」でけりがつきました。楳仙師は謹厳そのもののような性格であることは、月潭老人もよく知っておられたから、そこを衡いて老人の心の転換を計ったのであります。又穆山和尚が月潭老人の大の気に入りでありましたから「そうかそうか」ということで落着しました。
 かくて、こと無きを得た二人は月潭老人の信用を高め、片や穆山和尚は典座(てんぞ・料理番)といって一山の料理部長となり、片今夜仙和尚は侍者といって、月潭老人の秘書役を勤めていた。
 典座寮と侍者寮は向合っており、典座寮の隣りが飯頭寮(料理係長)であった。その料理係長が寒中に門前から、「すま」(小麦からうどん粉を取ったのこりかす)をもらって来て、それをねって中に味噌をつめて焼き、天井ぶち(御粥がうすくって、天井に米粒がおよいでいるのが写るから名づけた)のすき腹を満足させようとたのしみながら、まどろみもせず料理部長さんが就寝するのを待っていた。穆山和尚それとも知らず、夜遅く迄読書して、いざ休もうとした時、隣りの室でぶすぶす音を立てて異な臭いがするので入ってみると、炉の中がくすぶるので火箸でかき回してみると、すか焼餅が出るわ出るわ十四五個も出て来た。穆山和尚ほくそ笑んでそれを懐に入れて廊下に出ると、楳仙和尚も読書をやめて手洗に行くのに出合った。コイと手まねきをすると、楳仙和尚も心得えたもの、小声で「あるか」といいながら寄りそってきて、二人で餅を平げてしまった。
 物がありすぎて「消費は美徳なり」などといっておる現代の人々には、夢にも想像にも浮かばぬ至上の美味であります。これほど貧乏で粗食で、普通人の寄りつかぬ月潭老人の膝下によく忍び、求道に命をかけた人々のエピソードはいみじくも尊いものであります。
                        四十、錫杖が鳴る 
安政四年(一八五七)三十七歳 
穆山和尚が坐禅の奕堂(えきどう)、公案の梅苗(みょうばい)や、興聖寺回天の三善知識(ぜんちしき・仏教の指導者)の何れも捨てて、真の大善知識であると判断した月潭老人を、小田原早川の海蔵寺に、尾張の千丈和尚と、越後の泰道和尚の三人で訪問して、門下生として下さいと願った時、月潭「わしのところは食べ物がない。置くことはできぬ」と冷たくことわられた。穆山「食べ物はわたし達が心配します。置いて頂きさえすれば結構です」月潭「じゃ、勝手にしろ」というわけで安居(あんご・宿舎に泊まり修行する)修学を許されたのであった。
 私(吉田隆悦)は昭和四十六年に海蔵寺を訪問した所、住職は学校の教職を兼業して生活費の一部を補充するという状態でありました。格式は大本山の次位の格地(かくち・立派な寺)であるが、経済力は弱くその収入で五十人もの修行僧の食事を支弁する事は不可能でありました。従って修行僧達は自ら生活費を得なければなりません、僧侶の自活の最短にして最善の方法は托鉢(たくはつ)であります。
 穆山和尚達は毎日小田原の城下町に出て托鉢したのであります。侍者の楳仙師が先出に立って案内役を勤め、典座という寺の重役である穆山和尚は導師(指導者)を勤めて、堂々と長い列で雁行(雁が並んで飛ぶように歩行すること)して托鉢したのであります。雁行してきた僧侶の列に両側の住民が、「おひねり」或は「現なま」で僧侶のささげている応量器(おうりょうき・托鉢につかう器)に入れて施す作法が本当の托鉢であります。門付して物を乞うのは真実の托鉢作法ではありません。後年穆山和尚が横浜市の西有寺の住職に勧請されて、修行僧と共に八十の老翁自ら陣頭に立って、雁行托鉢をした貴い姿を見た京浜間の、大政治家、大富豪達が感激して、穆山和尚に帰依(きえ)したのであります。
 さて話しを海蔵寺の穆山和尚にもどします。学友楳仙和尚も共に、天井ぶちの御粥の粗食で栄養失調にならない為に、適当に御酒を飲んだのであります。
 この御酒のことについて二俊傑の間に面白いお話しがあります。前述したように海蔵寺時代は穆山和尚が典座という重役であり、楳仙師は侍者という準重役でありますから、穆山和尚の方が上位であります。
 小田原市を雁行托鉢して帰り道には、先頭の侍者楳仙和尚が応量器(酒なら一升近く入る)に酒をもらい、町はづれに出ると穆山和尚が受け取って、一気に六分位飲みほして、のこりを楳仙和尚にわたすのが通例となっていました。役は下であるが無二の親友同志、楳仙和尚一計を案じ小路をみつけ、列をはなれて一気に七八分飲みほし、のこりを穆山和尚にわたして一矢を報いてやった。これを知った穆山和尚以後の托鉢において、先頭に居る楳仙和尚が列を離れるや否や、最後列に居る穆山和尚が導師の指揮杖である錫杖をガチャガチャはげしく鳴らし、
 「列を乱すな」と怒鳴ったが、先頭と最後と離れているから、楳仙和尚聞こえぬふりをして相変らず七八分飲んで、のこりを穆山和尚に渡したのであった。
 楳仙和尚はこのように穆山和尚と知慧くらべをして、海蔵寺の枯淡(こたん・あっさりしている中に深いおもむきのある)巌励の修学を三年間堪え忍んだのである。辛抱強さでは、原担山和尚の十二倍の強さであった。
                        四十一、千手観音菩薩との奇遇
安政五年(一八五八)三十八歳
 京都九条の地蔵堂に招待されて、修行僧の為に円覚経の講義を二ケ月続行していた。そこに神奈川湯河原町の英潮院から、住職になってほしいという請待の使者が来ました。穆山和尚は三度まで辞退したが、月潭老人が特に親書を送って「英潮院は海蔵寺の末寺であるからまげて、住職してほしい」と懇切に慫慂(しょうよう・傍らから誘いすすめること)して来ました。それでも穆山和尚は心を決めずに、直接老人に会って辞退の諒解を得ようとして旅立ち、途中英潮院に立ち寄って見たところ、金華山という山号額がかかっており、これを見た穆山和尚は自分の原名は金英であり、号は穆山である、又英潮院の英も金英の英であるから不思議な因縁だと思って仏殿に人って見ると、本尊様は観世音菩薩であった。穆山和尚は観音様が自分を招待したのだと感じて遂に決意して住職となることを承諾した。
 この英潮院たるや壁落ち、床壊れ、荒廃その極に達していた。穆山和尚早速掃除を始めたのでありますが清掃中、積み重ねた古紙の中から千手観音菩薩尊像の小軸を発見しました。これは明の有名な画家沈西蘋が画いたもので英潮院の寺宝でありました。穆山和尚はこの尊像を守り本尊として常に身につけて離さず、礼拝供養したのであります。
 穆山和尚は幼少時に父母より観音信仰を教えられ終生観音信仰を続けたのでありますが、この観音様に助けられ幾多の災難をまぬがれております。
 穆山和尚は英潮院を修築して益々観音信仰を強め日夜本尊観音菩薩に、奉勅すると共に、夏安居冬安居の制中は月潭老人に随行して、教化を補佐すると共に参師聞法に一層の磨きをかけたのであります。解間中には英潮院において集まって来た修行僧、十五六人に参同契、宝鏡三昧、坐禅儀、碧厳録、従容録、典座教訓等の祖録を講義提唱してやったのである。又英潮院から二粁ほど離れた寺の所有地に、自ら陣頭指揮して杉苗を植林し、午前午後の休み時間にはお茶を飲み、沢庵をかじりながら、雲水僧の為に道元禅師の大清規を講義して光陰を空しくしなかった。
                          四十二、雪団熱湯裏に豁然(かつぜん)として大悟す
安政六年(一八五九)三十九歳
 月潭老人はこの辺で坐禅専門の道場に行ってみたらどうだろうと勧めて、前橋市の竜海院に諸嶽奕堂師(後の大本山総持寺独往一世)の門をたたかせた。奕堂門下には百人以上の修業憎が雲集していた。奕堂師は穆山を一見し、凡人に非ざるを看破し、ただちに副寺(財政部長)に抜擢し、毎月の一日、十五日の小参(修学憎が問答すること)には払子(ほっす・導師をつとめる道具)を穆山和尚に渡し、「小参は副寺和尚に一任す」といって自分は方丈の間へ帰られた。その直後本堂では火の出るような命をかけた法戦問答が闘かわされたのであります。穆山和尚の行解(坐禅と学問)両全の人格の力量が、修行憎の質問に対して烈火の如く爆発し、激流の如く流出したのであります。既に穆山和尚は一家の大宗将であったのであります。
 当時早くもその道誉が大本山永平寺にも聞こえて、穆山和尚は不老閣(永平寺貫首の室)に登って霊堂禅師に相見して来ました。
 万延元年(一八六〇)四十歳の時、穆山和尚奕堂師の専使(代理)として、沼田市迦葉山竜華院に趣き、雪中に身体をこおらして帰り、オー寒いといいながら行者(あんじゃ・寺院にあって諸種の用務に従事する給仕)の出したたらいの熱湯に足を入れてしまった。「あ、あつい」と叫んで足をひぎあげる刹那、行者がすばやく庭にとび出し、かかえて来た雪のかたまりを湯の中にたたきこんだ。雪はしゅっと音をたててとけてしまった。
 穆山和尚これを見て豁然として大悟した。少にして人間個々人に於ても、大にして宇宙天地 全体に於ても原形そのままで停止したり、人間の欲望のままになるものはない。春夏秋冬の変化は自然の法則、春来れば百花爛漫、秋来れば万山紅葉、
 「春は花夏ほととぎす 秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」の宗祖道元禅師の親訓がここにも露現したのであります。
 それを我々人間は冷たいといって若情をいい、熱いと叫んで力んでみたり、雪のかたまりを投げ 込んで洗足たらいをひっくりかえして、大騒ぎしたり大笑いしたりしていることを、自分も演じたものであるわい。
 とうたって、方丈の間に上り、奕堂師に一部始終を報告申し上げてから更に静かに、
 等閑(なおざり)に口を開いて心肝を吐く
慙愧す従来習気の残すを
地の身を容(い)るる無しをいかんが歩を転ぜん、この時、知んぬる棒頭を免ること難きを
そしてその光景否真実の相を
雪団を把って熱湯に投ずれば
乾坤撲落して妙高僵る
知らず今日何の時節ぞ
銀槃を?倒して大笑い(原漢詩)
これで穆山和尚は印可(いんか・師僧が弟子の悟りを証明すること)証明を奕堂師から得た。

八戸自動車史 完結

八戸市がバス事業買い取りで岩淵氏から訴えられた事件を奥南新報から掲載
バスにからむ岩淵氏の訴訟
工藤前保安課長も調べらる
八戸市を相手に岩淵栄助氏が提起していた市営バスに絡んだ訴訟の路線権利確認訴訟第二回口頭弁論は二十二日午前十一時から猪瀬裁判長、熊谷、中園両判事陪席、原告側気仙、被告側大野両弁護士担当のもとに開廷、原告側申請の上杉修氏、藤波市庶務課員、被告側申請の工藤前保安課長、現警務課長、藤田市議、吉田前八戸自動車営業組合長等の証人調べに入った。
上杉氏 市に路線権利譲渡するに三万二千五百円で譲渡したが配当額は路線によってなされるため従って岩淵氏のも八戸鮫間の配当であって八戸湊間は加わっていない
藤波氏 八戸鮫間のみで八戸湊間は必要ないというので契約書に記入しなかっただけである
といずれも岩淵氏に有利な答弁をなし工藤、蒔田、吉田の三氏もそれぞれ調べ同四十分証人調べを終了、原告側では次回証人として宮崎、蒔田、吉田の三氏を申請、被告側は神田市長と小笠原八十美氏を申請したが合議の結果証人申請は却下され結審となった。
昭和九年七月二十八日付け、奥南新報
バス問題和解
三千円で自動車買い
宮城控訴院の第二審で係争中であった市営バスに絡む市内八日町岩淵栄助対被告八戸市の路線確認訴訟の調停に小笠原県議が乗り出して二十三日の晩鮫の石田屋に三者が膝を交えて折衝を重ねた結果、市が岩淵氏所有の自動車一台を三千円で購入する事、岩淵は市内における自動車営業権を全部放棄する事、訴訟費用は各自負担する事で急転直下和解の成立をみた。
県議の小笠原はバス事業で乗合馬車を糾合し、敵対する先鋒、本多を抱きこみ十和田の新聞社主に抜擢し骨抜きにする。小笠原は策士だった。
第二次世界大戦による日本経済界、産業界の疲弊は交通の面にも著しくあらわれていた。元来は戦時体制の政策によって行なわれた企業統合だったはずの陸運界も戦後しばらくの間は容易に立ち直れなかった。 やがて三年を経、四年を遇ぎる頃には、最も素早く立ち上ったのは自動車業界であったのは言をまたない。八戸市の自動車事業も再び勢いをもりかえし、みるみる戦前にまさる隆盛を示すに至る。
○統合解体はじまる
 かつての統合体は昭和二十四年から昭和二十五年にかけて陸続と解体する。先駈をなしたのはトラック業者で、まず、昭和二十二年六月、南部貨物自動車株式会社は、第一次統合当時の復元を帰して六ブロックにわけ、それぞれ営業所として発足させ、独立採算の原則をとることとなった。
 次いで昭和二十四年二月、戦時企業解体特別処置法の施行によって、六ブロックの営業所をそれぞれ一、三戸トラック株式会社二、八戸トラック株式会社三、三八五貨物自動車株式会社四、中央トラック株式会社五、漁港トラック株式社六、五戸トラック株式会社として申請したが、結局、一、二、三の三社に営業免許がおり、四、五、六の三社は従前通り南部貨物自動車株式会社として存続するに至った。
 一方、タクシー事業は昭和二十五年に至って、八戸自動車株式会社から藤金タクシーがまず分離独立し、藤金タクシー所属分を除いてそのまま存続することになった。このころ、都タクシー、大洋タクシーも発足している。なお市営バスは、昭和二十四年、営業を返還されるや、旧に復する態勢となる。
○新規業者の台頭
 戦争終了直後の混乱期を乗り切った日本の産業経済は驚くべき復興の足跡をしめした。人間と貨物の輸送は鉄道の独り舞台ではなくなり、自動車交通が大きくクローズアップされるや、道路の整備と相まって自動車事業はまたたくまに発展した。市営バスの路線は拡大され、本数もいちじるしく増加し、さらに南部鉄道バスの乗り入れをもってしても、なお利用者の増加に及ばぬ始末であった。昭和二十七年には県南バスも発足、翌々二十九年には三八五交通株式会社と発展、また十和田電鉄バスも乗り入れ、現在は、八戸市交通部、    南部鉄道株式会社、三八五交通株式会社、十和田電鉄株式会社の四社を数えている。
 タクシー業者は、ことに業者の数が増し、都タクシーが三八五タクシーに発展、前記の大洋、藤金に加えてポスト、光、文化と、昭和二十七、八年の二年間に新規業者が営業を開始し、やや乱立気味であった。基本料金を八○円に下げるなど一時的な苦境もあったが、漸時利用者の増加に伴って比較的順調な営業をなしえるようになっている。なお前述の八戸自動車株式会社は、昭和三十年に八戸タクシーと改称している。
 トラック業者は、年次ややおくればせながらも、八戸の新工業都市の青写真とともに北斗、丸元、相互、八戸港運輸、島谷部乳業、湊合同、八戸運送、八戸相互運送等、とくに昭和三十年以降、急激な増加を示している。
あとがき 上杉修
 「八戸市自動車研究会」は今度「八戸地方の自動車史」を編纂した事は非常に喜ばしい事であります。数年前から、よりより話は出て居ったが、御互に多忙の身の方々ばかりである関係と、自動車創業時代の方で不幸にも亡くなられた方も多いので、当時の話及び資料にも乏しく、編纂の主軸となった、泉山信一氏の苦労も並大抵の苦労ではなかった事と思われます。然しなんと言っても大綱が出来上った事は喜ばしい、正しいとか、完全だとは云われないが、一本の柱が出来れば、それによって附記も出来れば脱漏も補う事が出来るから八戸の自動車界のため良い事業をやって下さって非常に有難い事だと思って居ります。「ああよい事をして呉れた」と肩の荷がおりたような感じをしたのは筆者の上杉であります。「私が警視庁の甲種免許証を取って八戸に帰り、世話する人があって盛岡の夕顔瀬多賀で使用して居った、フオード自動車リムジン型(箱型)中古車を買い、自動車運輸営業願を青森県庁に出願して許可になり営業したのが八戸タクシー界の始まりで「青五号」であった。小中野浦町、藤金様の店頭を借り電話「二六番」を使用させて戴いた。一ケ年後には新車一台買う位貯った。何にせ所得税もなく自動車は一ケ年一台につき幾らと云う「営業税」を納めるだけの時代だから割に成績がよかった。自動車に来る客は一時間位は待っても呉れたし、又持たせられもした時代だから楽なものであった。其の後急に貸切自動車を出願する人が出来て、藤金様を始めとして続々許可になった、木炭や野菜を積むトラックが乗り入れて来て八戸でも許可を取る人がおり、其の後に乗り合い自動車組合が組織されて八戸鮫間が運転されたのです。順序が不同になりますが、八戸に自動車が来る前の事を考えて見ますと、何にせ、八戸と云う所は海を利用し汽船で沢山の荷物が陸上げされたが、船では日数がかかるので困った様でした。日本鉄道株式会社が鉄道を八戸へ乗り入れに地元の人が協力しなかったため明治二十四年八戸を通らずに尻内から青森へと敷かれてしまった。東京からの物資は尻内駅止りで、大八車、駄馬や二輪馬車で八戸へ運ばれ、後で四輪馬車で持込まれたが、その不便さを感じ文化に後れると云う事を、まざまざと見せつけられたのです。それで八戸町や小中野村の有志が運動して明治二十六年に尻内訳より分岐して八戸支線が湊駅(今の貨物駅)迄で延びた事になります。駅からの荷上げのため荷車や、荷馬車がたくさん入り又車大工を業とする人も出来たものです。あの店には荷車が参台もあると云うたものです。又人を乗せる人力車が沢山買われ、汽車の到着ごとに駅前に沢山並んだものでした。当時は金輪のため、ガラガラと音をたて、ゴム輪になり、空気入のタイヤーに変わり各町内の辻々に車宿があったものです。
客馬車(ガタ馬車)が長横町から左比代の馬車屋(停留場)迄で相当台数走っておった。御者がラツパを吹きながら馬の手綱を持ち、馬丁が馬の先にたって走った時代もあった。高等馬車が入って来たのは相当後の事になります。私が自動車を始めた頃は馬車馬が驚いて困った。又、馬車が二台並んで道路を塞ぎノロノロ走るものだから其の後について八戸町から小中野村迄行った事もある。今は其の人力車もガタ馬車も高等馬車も姿を消してしまった。私のハイヤー営業も古いと云うだけで良い種も蒔かず、何等意義ある事も出来ず功績も残って居りません。やはり馬車同様消えて無くなる運命の様です。私の自動車業に御手伝下さった方々は沢山あるが、現在地元に居る方では、自動車界の大先輩で浮木喜四郎氏、八戸マツダ社長二本柳栄吉氏等で、大洋タクシー社長須藤清氏は子飼の弟子であると云う位の所です。
ハイヤーの外に市内の乗合もやって居ったが、神田市長時代、細長い八戸市を縮めたい、との話で昭和七年乗合自動車の権利を八戸市に譲渡し、同時にハイヤーも廃業し昭和八年に番町に公衆浴場を開業して自動車界から足を洗った事になるが、然し種々の縁故でいまもって青森マツダ自動車株式会社監査役、藤金自動車株式会社専務取締役と云う名誉職が残って居るから未だ生きて居る事になるかもしれない。雲助(駕罷かき・運転手)が三助(湯屋)に早変りしたが今は八戸浴場組合長、亀の湯主人で業界からは達ざかってしまった。自動車史を作って戴いて、有難くて有難くて、八戸の自動車界を振り返って見る積りであったが、自分の事のみ述べて手前味噌を書いてしまった。此れで筆をおきます。

おいらんが常現寺に来た。高山和尚は小中野を隆盛にしたいと努力の人

江戸の昔、新開地だったところに人々が大勢入りこんだ。新都市の新構築だけに職人が必要となった。江戸の地は家康を大阪から遠ざけようと、秀吉が江戸は防備に最適とそそのかした。家康も猿から去った方が何かにつけよいと江戸を開拓した。
江戸は太田道潅が興した地、築城・兵馬の法に長じ、学問・文事を好んだ。雨宿りに百姓家に入り込み、雨具であるところの蓑(みの)を貸してくれるようにと頼むと百姓家の女房が山吹の花を盆に載せて出す。いぶかしむ道潅に、これは古歌の「七重八重、花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」で実と蓑をかけて、ありませんと断っていると家臣が教える。道潅は歌道に暗かったと、それ以後精進し、歌人と呼ばれるほどになった。当時の江戸は武蔵野の一隅でひなびたところ。ここを開拓し、駿河台をひき崩して江戸湾を埋めた。駿河は家康の領地の名だ。大名屋敷が九割、町人は残る一割に住む、住宅事情も悪く、町人は長屋住まい。男が入りこむが、女日照り。それを解消しようと女郎が出る。それも方々に居てはまずいと日本橋の近くの吉原に限った。火事で吉原が新吉原となり浅草の先に移転。地域を限ったことから廓と呼ばれる。
女は方々から寄せ集め、おらか、おらは市原の出だよう、じゃ興ざめになると、ありんす言葉を教え込む。だからここ吉原をありんす国と呼ぶ不思議な土地となる。何、早い話が男のディズニーランドだよ。
そこで女を銭出して買うんだが、女が部屋に来ない。これを振られたといって、気にもしないように、その振られたことで怒るは野暮だと、ありんす国の経営者が巷に吹聴するな。
だから、銭払って女買いに来て無様な態でも文句が言えない。「お客さん、おいらんがこなくて残念無念、でも怒っちゃ野暮ですぜ」なんてギュウ太郎っていう女郎屋のあにいに言われるてえと、仕方なしに納得する。
これは女郎屋の経営者が頭がいい。どうしたって女の数がすくない。まわしって、女を部屋から部屋に回す、女郎にも格があって、最上級がおいらん、次が格子、下級は端の方に座るから端(はした)、その端しか買えない男に、まさか端の色黒女とも言えないからおいらんが来ない、今に参りますって、おいらんおいらんと持ち上げる。
銭出す方だって、大名がおしのびでおいらんと寝に来る、そのおいらんと同じように端女を呼んでくれるんだから、気分の悪いはずもないが、女郎だってあっちの部屋、こっちの部屋じゃ体が幾つあっても足らなくなるから、どこかの部屋で寝込むナ。
それを銭も大して持たない間抜けが、いつ来るかいつ来るかと気を揉むわけだ。
ここらが落語に出てくる訳、落語家は世相のアラで飯を食いと講釈師が言うと落語家も、講釈師、見てきたような嘘を言いと切り返す。
吉原は大層隆盛だった。上図のように東京ドームより大きい。そこに女がひしめいていたんだから面白いディズニーランド。そこの仲の町をおいらんが道中をしてみせる。なんのことはないパレード。下級女郎よりたまにはこんなピカピカもいると見せびらかすだけのはなし。それが東京浅草で観光として今も見せられている。そのおいらん役が八戸出身の女性。それを常現寺の和尚が、江戸の文化を八戸市民に見せようと企む。入場料の一部を小中野の遊郭だった新むつ旅館の維持費にあてようと考えた。そして大成功、多くの客があつまった。東京からおいらん道中の役者が勢ぞろい。新むつ旅館への寄付も五十万円を超えた。高山和尚は人生の軽みを尊ぶ。僧侶が偉そうなことを言えばどうしても坊主臭さが抜けないと、あえて飄逸を尊ぶ。自身の小遣いを毎年気持ちよいぐらいに小中野発展の為に撒く。もうどうしようもなく荒廃した町を隆盛の五十年前にしたいと。秋空の高さを見て涙し、こんなに空は高かったかと、小中野の五十年前、それほど遠くになりました。

東奥日報に見る明治二十三年の八戸及び八戸人

三戸郡下長苗代大字高館西山チヨ方より去る一日出火十戸焼失
星亨の行く先
○ 妖星の三戸着 妖星亨の一行は八時七分浦町の列車にて当地を去り正午十二時過ぎ三戸停車場に着せり獣党は往年来僅か該地によりて命を県下に繋ぎおれる所今回妖星の来遊と共にかねて現ナマの下付ありたれば一味の徒党は妖星の忠義のしどころは是れ此処なんめりと旗を押し立て出迎えあり警部巡査に護衛せられて八日町なる旅店田子宮太方に投宿せり同店に於いて昼飯をなしたる後午後二時より同心町なる長栄寺において演説会を開き宣伝の帝国の地位、臣雲平増租の理由、鈴木儀左衛門の日本目下の政党、妖星の我が党の本党皆例の怪弁をふるいたる後懇親会に移りしか会費は三十銭という名ばかりにて皆妖星のご馳走になれば愚昧の輩に至るまで来会するもの頗る多く二百五六十名と聞こえし午後七時三十分土地柄だけに無事平穏のうちに散会したるは獣党の万歳というべし妖星曰くああ今日は初めて少し息をついたと憐れ
○ 警戒中島保安課長石黒八戸警察所長は巡査八名を引率して妖星に随行し石黒署長は巡査と共に昨日一番下り列車にて八戸に帰署せり
○ 妖星の五戸行き 星一行は昨日未明三戸発の汽車にて尻内に出てそれより腕車にて五戸に向かえり依って三戸分署は巡査十名を派出して星を五戸へ送り更に八戸にても巡査五名を出して五戸に届けることになれり
○ 五戸村の政界 五戸村は由来憲政本党の根拠と目され正義の気澎湃として表れ盛んなるの地かつて源晟か村谷有秀と相携えて鹿を第一区に争うや晟等同地に至りて大に辱められほうほうの体にて逃走したることあるにても知るべし況んや政界の賊正気の敵なる星が足をこの地に入れるや謹直なる同地の士民も是れを見かねけん大に憤慨しおるといえば星等の赤恥も思いやるべきのみ為に其の筋にては警戒怠りなく三本木よりも巡査を招集することになれりと
○ 妖星の八戸行き 星は五戸を切り上げて今二日午後八戸に向かう予定にてそれより引き返して五所川原に向かい弘前に出る計画なりと星の恥さらし是れより続々と紙上に現れん
南部地方と星
五戸における星一行
星亨一行を五戸に呼び寄せたるは五戸の和田陸夫、中島太七並びに八戸の福田祐英など壮士の運動によりしものなればこれに加わりしもの大抵弥次喜多なることは言わずして知るに足るべし星一行は去る三十一日三戸町まで出迎えたる倉石村の古川伊代八、藤村耕一という二名の先導にて尻内に着するや五戸より差し向けたる腕車十三両に乗りて五戸に向かい午後一時過ぎ前記の和田中島その他五六名も知れぬ連中により「歓迎星亨君」「正義所向無敵」など書したる二本の旗を押し立てて町端まで出迎え中島保安課長間山警察分署長二十余名の巡査に護衛せられて新町なる浪岡旅店に投ぜり直ちに午餐をすませたる後二時より高雲寺において演説会を開きしに来会者四百十三名演説はいずこも同じ星以下菅伝鈴木雲平四名にして例の如くシャベルものなり右終わりて懇親会を開きしが来会者百四十名にしてこの演説及び及び懇親会には五戸の有力者は近寄りもせずただ主だった臨席者といえば戸来村の長嶺精治、戸来精治、三滝元衡位のものにして豊崎村長対馬精夫他助役村会議員主立ち十余名並び荒木田信一氏も臨席したれども氏等は五戸に来る以前に一同集会を催し決して星派と進退を共にせざるを誓いたるものにして只行ってみようじゃないかというので来たりしなりと臨席の一人なる某氏は五戸村役場において社員に語りて曰く星のご面相を拝んでおくにすぎないのだ誰があんなものに加担するかと
○ 星の来遊と八戸
八戸地方は五戸地方と同じく今は殆ど挙げて進歩派に属するというも過言にあらざるの地なるが今回星一行の来遊に付準星と渾名せらるる源晟を初め子分の無頼漢などが現ナマの為に歓迎などと騒ぎ回るより方法なく悪税の張本人なりとて党派の如何に拘わらず人皆これを嫌悪しおることなれば一層これを指弾して心ある者は少しも意にせえかけるものなかりし八戸の出迎え者は藤井、竹内伊助、川口小太郎
黒石の騒ぎ 星一行黒石に到着するや両側屋根より石雨の如く飛び星以下負傷、立川雲平は護身用ピストルを三発発射、巡査抜剣、大混雑を極め双方とも負傷者あり
八戸町大祭 二十五日は御輿通輿の初日にて各町附祭及び諸種の催し等にて市中賑わい申し分なく近県よりも観客群集し各宿屋は客室のなきに困却せる程なりき午後二時より郷社オガミ神社より繰り出し行列整然として屋台手踊り万般の催しにて停車場通りより三日町へ出て大通り新荒町より上組町裏通り十六日町より右折して鍛冶町より長者山に趣き新羅神社境内にて全く当日の式を終わりたるは午後五時なり夜景は降雨にも拘わらず芸子踊り屋台の通行及び種々の手踊りにて市中賑々しく毎戸軒提灯及び角灯等にて一層景気を添えり第二日目(二十六日)は中日と称し休息日なるがこの日晴天公園なる長者山にては打球の催しあり市中は虎舞大神楽芸子手踊り等にて賑わしくかりし、夜中は初日にいやまして賑わしく第三日目(二十七日)は御帰輿と称し初日の如く長者山より繰り出し裏通り六日町へ出て柏崎新町より下組町へ出て大通り八日町より番町通りオガミ神社へ帰社せり夜中は殊更人通り群集して賑わい申し分なかりき
三戸郡の政況 
○ 両派の候補者 由来進歩派独占独占のところ只一部腐敗漢の現ナマに眩惑して自由党に降りし一味あるのみにて未だ政界の勢力をなすに至らず進歩派は去る十日を以って予選会を開き八戸方面より関春茂、川勝隆邑、遠山景三、石橋万治の四氏五戸方面より江渡種助氏を推し三戸方面また目下協議中なりと言う之に反して自由党は大芦梧楼、進歩派の前議員諏訪内源司二氏の外新たに加賀利尭となん言えるを合して三名の候補を推したるも自由党の同地方に入れられざるは何処も同じこととて形成日に非なるは言うまでもなく勿論進歩派の勝利なるは疑うべくもあらぬことなり
○ 源と大芦との不和 人は彼等の名を耳にするだに不快の感を起すは彼らの平生を知るものの禁ずることを得ずところ合同の議あり進歩党支部を組織する時二名とも其の発会式にあずかり談笑の間に将来の提携を約したるに不拘今や現ナマに魔せられて自由党の奴隷となりしこそ是非なき次第なれ而して今回の選挙には如何にもして自由党の勢力を扶植せんと身の程も知らずおこがましくも我は候補者なりと名乗りいで先ごろ本部より一味の運動費として八百円の下渡を頂き自れ懐中してそしらぬ顔して独りホクホク喜びおりし甲斐もなくこの道にかけては兄たり難く弟たり難き源晟の為看破せられ其の分配を受けざるを憤り両者の間に不和を生じ大芦に負けずと江戸へ罷り出て現ナマを頂戴せんと意気込みたるも流石に人目を恥てか表面は自己所有の黒澤尻なる石膏山の用件と号して去る八日出京の途につきたるが彼が本部より受け取るべき現ナマは大芦同様八百円なりと言えば二人の価格は八百円宛てと知られさても安き人間一匹よな
郡会議員選挙の結果
八戸 石橋万治 浅水礼次郎 小中野 白井毅一 大館 和田議宣 島守 高畑幾太郎 上長苗代 馬渡又兵衛 下長苗代 高橋種吉 長者 岩館善次郎
県会議員 八戸方面
候補者四名、関春茂、遠山景三、石橋万治、川勝隆邑の四氏を推す自由派の微力到底進歩派と堂々争うの元気なければ漸く大芦梧楼氏一名を以って之と争うことなれども是とても当選おぼつかなき模様なりと無勢力も甚だしと言うべし
源義経の借用書
藤倉俊親氏なる人前年源義経の銅像を函館公園に建てんと計画し一万二千円の見積金を以って秩父、鞍馬、福山、衣川、水戸等縁故ある地の石を以って二層の台を築きその上に義経が甲冑に身をかためたる銅像を安置せんとの設計概略決まりしが二十七、八年の戦役にて計画を実行する運びに至らず次で藤倉氏病没してその志継ぐものなくその秘蔵せる源義経の遺墨も二百円の抵当として函館弁天町に質入となりと言うその遺墨は

一干海鼠 五石
一干魚色々 二十刺
右借用致し候後日遂本意候節返済可致すもの也
文治五年九月五日 花押
クレシゲ殿
義経が衣川に死せざりし一証ともなるべく二十五年五月臨時全国宝物取り調べ委員の検閲を経たり
県会当選者
江渡種助四百六点 関春茂二百九十六点 石橋万治二百五点 川勝隆邑二百四点 諏訪内源司二百四十七点 尾形及四郎二百四十点
落選 遠山景三、大芦梧楼、加賀利尭