2007年9月1日土曜日

手記 我が人生に悔いなし 一

中村節子
 母の実家は八戸町下組町であった。昭和十六年、私はそこで生まれた。父は古間木(現三沢市)出身の国鉄マン。
 私の記憶は四歳頃からである。防空壕とか警戒警報(けいかいけいほう・戦争中、敵機の来襲が予想される場合などに出された)鉄道官舎に住み、隣は駅長官舎で、よくお使いに行かされた。駅長の奥さんは必ず飴をくださった。
 小学校入学 (一年生~三年生)
昭和二十二年四月、第二田名部小学校に入学した。姉は六年生、兄は三年生である。学校は下北駅から縦に真っ直ぐ道を行った元海軍兵舎で雨が降ると天井の壁が落ちたりした。
 十二月に弟が生まれて四人兄弟になった。次の年、友達と遊んでいて、その中の一人が弾いたゴムハジキのパチンコ玉で眼を負傷した。右目は真っ暗で、光さえ見えなかった。母は驚いて田名部町の眼科に私を連れて行くと、
「手のつけようがありません、治る見込みはありませんが、又明日来てみてください」と言われた。
父は「見込みがない所には連れていけない、明日は青森の医者に連れて行く」と翌朝、私は青森市浦町の名医と言われたクボキ眼科に行った。
流石の評判の高い医者も、「う~ん、これは難しい」と唸った。「最善を尽します。これから三日間が勝負です。この間に熱が出たり痛みがあれば、眼の形が変化し、最悪の場合は眼球摘出となります。熱も痛みもなければ、眼球は大丈夫ですが視力はどうなるかわかりません。先ず三日間に期待をかけましょう」
 この三日間の父母の心配はいかばかりか、親不孝をしたものだと今になってみると良くわかる。幸いにして熱も痛みもなく、一ヶ月の入院と手術で右目に光が戻り、ぼんやりと形が見えるようになった。これが私の人生で最大の親不孝の出来事だった。
四年生
 父が大湊駅に転勤になった。大湊町は私にとって大きな街に思えた。駅からすごく離れたところに鉄道官舎が三十軒ほど建ち並んでいた。大平小学校は街中のにぎやかな通りに出て、大湊駅前を抜けたところにあった。この学校は小学校の授業研究学校に指定されていて、子ども心にも勉強が進んでいると感じた。冬休みになって、学校が指定した記録映画一本を映画館で見ることが許可された。それ以外は見てはいけないとされた。ところがお正月映画として美空ひばりの「七変化狸御殿」が上映されることになり、母が連れて行くと言ったが、私は学校で許可しないからとしぶったところ、「父兄が一緒なら大丈夫だよ」と言われ六年生の兄も一緒に見に行った。
総天然色(当時はそのように表現した)で綺麗ですごく楽しい映画だった。
 冬休みが終わり三学期が始まったとき、先生が「許可していない映画を見た人」と言ったのでバカ正直に手を挙げた。同じクラスにもう一人いた。手を挙げた二人は廊下に出された。隣の教室もその隣からも何人も出てきた。皆、校長室に連行された。全部で二十人はいたと思う。でもその中に兄の顔はなかった。
五年生
大畑線の川代駅に父は駅長として赴任した。川代は駅の近くに鉄道官舎があった。
海がすぐ近くにあった。
 砂浜に波が打ち寄せるザザッという音がすごく大きく聞こえ、慣れるまで寝付かれなかった。あるとき、授業中にホラ貝の音が聞こえた。先生は直ぐに授業を中断した。ほとんどの子がぞろぞろと家に帰った。大漁旗を立てた船が戻ってきたので手伝いに帰れとの合図のホラ貝だった。
又、ここにはイジメがあった。「よそ者は通さない」と言って道をふさがれ、鉄道線路の上を帰ったことが何度かあった。
 農閑期には十五歳から十九歳の娘さんたち八人ぐらいが、母のところに裁縫を習いにきた。官舎の八畳と六畳の間の襖を外し、裁ち板を並べ弁当持参で朝から夕方まで、薪ストーブの上にはおやつ用のジャガイモの鍋が乗せてある。私が学校から帰る頃はちょうどジャガイモが煮えた頃でもあった。
 とても楽しそうで、にぎやかで、そのにぎやかさは十一月から転勤する三月中旬まで続いた。その時の裁ち板を今も私が使っている。キズだらけだが、そのキズの一つ一つに母の、そして、裁縫を習いに来た娘さんたちの思い出が詰まっていて、そのキズをなでる度に、ざらざらとした指先から、にぎやかではなやかな娘特有の匂いまでが、よみがえってくる、ああ、あのとき我が母は元気でましました。
六年生から中学校
 八戸線中野駅(現洋野町)に父は駅長として赴任した。当時は中野村であったが、一番驚いたのは言葉の違い。いわゆる方言がまったく違った。今まで転勤の度に学校が変わり友達と仲良くするには、先ず一番にその土地の方言を覚えること、それを知らず知らず身につけた私は、その方言を覚えることから始めた。昔、平家の落人が隠れ住んだ土地であったので今のような方言が残ったと聞いたが、独特なアクセントでとても難しかった。感心したのは友達を呼ぶとき「ときゑさん」「ひろ子さん」「勇次君」と苗字ではなく名前を呼び、決して呼び捨てにしないことである。お店に入るときは「ごめんなさあい」帰るときは「ありがとうさん」これに独特なアクセントがつくわけだが、「ありがとう」に「さん」がつく綺麗な言葉だと思った。
 中野村の中野小学校、中野中学校に在学中に困ったことが三つあった。
一、 秋になると杉の葉を炭すご(かやで編んだ木炭運搬容器)二個に入れ学校に納めるのである。ストーブの焚き付けにするためのもので、何処でどんな葉を拾えばいいのかさっぱりわからなかったが、一番先に友達になってくれたときゑさんが全部教えてくれた。杉の葉でいっぱいになった炭すごは父が学校まで運んでくれた。
二、 栗拾い休みが三日あった。拾った栗は決められた分、学校に納めるものだった。何升という計りの単位で㌔ではなかった。一升枡で丁寧に量って持って行くと、受け取る人は乱暴にガラガラと枡に入れるので周囲にぽろぽろと栗がこぼれる。従ってご飯茶碗二杯分不足と言われ悲しかった。不足分は母が何処からか集めて持たせてくれた。その栗が売り出され父が買ってきて、家族で煮て食べたが、ホロ苦い人生の味がしたように感じた。
三、 十一月の末、小雪がチラチラ舞う頃に、ストーブ用の薪が学校に届く。原木のままなのでストーブの大きさに合わせて四等分なり五等分に切らなければならない。そこで生徒に「のこぎりを持ってきなさい」と言う。両親は危ないから持っていくな、切る役ばかりでなく、薪の両端を押さえる役、切った薪を運び校舎の軒下に積み重ねる役もあるはず、だからその役をしなさいと言うのだが、のこぎりを持って行き、誇らしげに薪を切る者に、そうでない者がみじめな思いをする子ども心を親は理解してくれなかった。
 私は今でも思っている。あの学校は貧乏な学校だったのだなアと。街の学校の子どもはこうした経験をしたのだろうかと、でも、これは時代がなしたことで誰でも経験したのだろうかと半分疑問で半分納得。
 昭和三十年中野中学校の卒業式を迎えた。式の後、教室でお別れ会があった。黒板に「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」菅原道真と書いてあった。これを担任の先生が節をつけて歌った。初めて聞く節でなんだかとっても変な節だと思った。少し時間をおいて、今度は理科の先生が歌った。これが素晴らしかった。同じものを歌ったのに歌い方ひとつでこんなにも違うものかと強烈な印象が全身を走った。
 この歌が詩吟であるとわかるのは、これから十一年後のことである。
 この後、父は古間木駅(ふるまき・明治二十七年、日本鉄道駅として開業・明治三十九年日本鉄道が国有化し国鉄駅となる。現三沢駅)へ転勤となった。この三沢で私の三年間の高校生活が始まると共に、お稽古ごとの始まりともなるのである。