2007年9月1日土曜日

売市小が改名され根城小学校となり、その百年史から 最終

昭和五十一年六月六日 根城公民館
司会 お忙しい中、多数御出席くださりありがとうございます。御存じのように来たる九月四日は、百周年記念式典を行なう予定になっております。従って、その場合における記念誌を発行する予  定です。そして、この座談会も載せたいという主旨からお集りをいただいた訳でございます。最も印象深かった事を一つか二つお話ししていただきたいと思います。
校長 昨年度より連合PTA、同窓会、連合町内会と三者一体となって本校の百周年のために御配慮いただき、各部門に分かれて進行させていただいております。こんな意義ある百周年に、私共   職員がお世話になっておりまして非常に責任を感じております。今年は、ちょうど一世紀にあた     っております。資料も欠けておりますが、今後二世紀に向かって羽ばたいて行く大事な記録と   なりますよう期待しております。よろしくお願いします。
PTA会長 皆様方の暖かい御指導と御協力をたまわりまして、百周年の任を全う致したいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。  百年の間に御努力くださいました諸先生方、並びに地域住民の皆さん方が築いて来られました立派な歴史と伝統を現役のPTAわたしたちが受けつぎまして、その名に恥じない様にみんなで  力を合わせて明日の根城小学校のため、児童のために頑張って参る考えでございます。
山田国太郎(大正二年卒)
学校にはいった時、古い校舎一つだけでした。一、二年経ってから教員住宅ができ、その後二年位してから上手に倉庫のような物ができました。当時、尋常四年制で生徒の数も少なく二学級で間にあっていました。あと一、二年で卒業という時に六年制に変わったので卒業がのびました。当時、印象に残っているのは、稲葉よし先生の受持ちでしたが、とてもいい先生で、三十分位勉強するとあとは昔話を聞かせてもらい、とても楽しかったという事をおぼえています。
金田一サメ(大正二年卒)
当時、蒔田校長先生で先生は三人生徒は十二、三人でした。みんななくなって今わたしひとり生き残っています。
沢口岩蔵(大正三年卒)
当時は学校で勉強するよりも家の手伝いをする子どもも多く、小さい妹や弟を連れて子守をしながら勉強をしたものです。又出席をとってすぐ家へ帰ったりもしたもので、そのためにあまり勉強することができませんでした。それでも学校は楽しいものだと思っていました。今の子どもたちは、しあわせだなあと思います。
下斗米平蔵(大正五年卒)
校舎は売市の今の下久根のお宮の前にあり、校舎は二つありました。一つは古くて天井もなく、今考えると物置ともつかない程の粗末な物でした。ここには一年から四年生まではいっていました。  担任は南部こう先生(八十才)、校長蒔田茂穂先生でした。当時の学校は話にもならないような学校で、冬でも火鉢一つでした。今考えると、凍傷にもよくかからないで過ごしたものだと思  います。今の校舎を見ると感無量です。
大久保栄三郎(大正十一年卒)
思い出として特に楽しかった点はなかったでず。むしろ、さみしかったということだけ残っています。担任は小幡先生でした。夏の遠足の時に裏通りを徒歩で鮫まで行き、着る物はく物からしてさみしい思いをしました。祝祭日には安い鶴子まんじゅうをもらったものです。卒業式の答辞を泣いて読めず、先生に励まされたことを覚えています。
きかなかったので、よくけんかもしましたが、皆元気で卒業しました。なんともいえない友情は他に勝るものでした。当時は、校旗も校歌もありませんでした。とにかく、さみしい思い出が多く   残っていますが、学校に対しては感謝しています。
松橋鉄蔵(大正十三年卒)
一年生の時、歌を歌って旗行列をした事を覚えています。校舎は、一枚ざくりで暖房は何一つなく火鉢一つでした。運動会や修学旅行は毎年ありました。旅行は売市、田面木、明治と三校一緒で行きました。場所は、一戸、福岡、盛岡などです。大正十年のわたしたちの卒業生は、女三人を入れて三十八人でした。今、元気でいるのは三人だけです。担任は中里達男先生で、校長先生は工藤光男先生でした。共に故人となってしまわれました。
川口兼丞(昭和四年卒)
当時は、わらぞうりをはいて、学生服をひとりかふたりは着ていましたが、あとは皆着物を着ていました。かばんも待っている人は少なく、ふろしきに包んで持ったり、しよったりしました。  農繁期の忙しい時期には、妹や弟を学校におぶっていきました。子どもが泣くと廊下でよく遊ばせたものです。昭和十七年、わたしが兵隊から帰ってきて、男の先生が足りなかったので、青年指導員としてつとめました。田中先生、三浦先生、古川先生の四人で交代で日直をしたこともありました。
中村福次郎(昭和四年卒)
当時は先生四人でした。校長先生は星野先生です。学校として建てたと思われる校舎が下の方に一棟で、上の方にあるのは泉山醤油屋の精米所を持  ってきて建てたらしい話でした。わたしはいたって腕白で、けんかをしても負けたことがなく、先生にもよく注意されたものでした。(笑)
六年の時、桜の木を植えて三年目でしたが、よく水をかけて手入れをしたものです。今、その木は四十七、八年になっているのです。二、三本は校庭に残っていると思います。土手には河内屋  さんが寄贈した五葉松を植えていました。
北村なほ(旧姓野沢・昭和五年卒)
新校舎が出来て入れてやるというので大変楽しみにして草取りなどいろいろと奉仕をしました。しかし、完成せず古い校舎で最後の卒業式をやりました。校舎が狭いので、運動会は八幡でやり、行きも帰りも歩いたものです。
川口助四郎(昭和八年卒)
根城には高等科がないので、わたしたちの前迄は吹上の高等科に行っていたのに、わたし達の時になって入学を許可されなくなり、早急に根城にも高等科ができました。高等科第一回目の卒業生で、昭和十年でした。その頃小学校には校旗がなかったので、卒業記念に校旗を贈ることになりまし  た。高等科卒業間ぎわになってから、卒業生だけで図案を研究しました。南部公の大いちょうの葉をもって葉を翼にし、向鶴に図案化して作ったものです。卒業して一年後に五円ずつ持ちよって、百円位で出来上がったと記憶しています。盛岡に注文して一年後にできてきました。
野沢剛(昭和三年卒)
売市からこの地に移ったのが、昭和五年十月十五日で、落成式をやりました。新しい校舎に入学できたのが昭和七年です。さっきも桜の木の話が出ましたが、えぞ松、ポプラ、桜の木が校地に植えられていました。現在、一本中庭に残っています。校舎の中央入り口前にあった土山の松や、現在入口のわきに移植されているさつきやつつじも当時のものです。競馬場が近くにあり、よく二階から授業中や休み時間眺めたことを覚えてい  ます。草組合の上の二本杉のあたりによく写生にいったものです。当時、八幡様と根城々跡に全校揃って参拝に行きました。
西沢由見(昭和十五年卒)
国道の脇に校舎がありましたが、今のようにほこりに悩まされることもなく、環境がよかったです。 当時は、農繁休業が一週間位ありましたが、あまり手伝いもせず、川へ遊びに行ったものです。今も体育館脇に馬鈴薯を植えていますが、当時はもっと広く、たくさん植えていました。そして、その馬鈴薯をリヤカーで売りに行かされましたが、恥ずかしくて売れないで叱られ、近くの旅館へ行って売った事を思い出します。遊びは兵隊ごっこでした。夏には、ジャックナイフを持ち歩き、さまざまな物を作って遊んだものです。
岡沼鉄男(昭和十七年卒)
大東亜戦争の頃です。五、六年の担任の先生が、戦死したので六年の時弔辞を読みました。当時は教室に火鉢一つの冬でした。祝祭日になると、校長先生が奉安殿から教育勅語を出され、冬でもおごそかに並んで迎えた事を覚えています。和服姿が随分重々しい感じを与えていました。楽しかった事としてプロレスの様な遊びがありました。
 先生にいくらたたかれても、先生の家へ遊びにいって甘えて遊んだものです。
中里万里子(昭和二十六年卒)
根城国民学校六十七名として卒業しました。現在の二クラス位ですね。終戦で教科書はなく、担任の先生が一冊持っていたので、それを紙に書き写して勉強しました。昼は、ほとんどの子が家へ帰って御飯を食べたものです。粉ミルクが配給になり、今の給食の始まりです。一年生の時の通知票は、国民科、理数科、体練科、芸術科とあり、六年生は現在と同じように、算数、国語、社会………などとなっていました。クラブは、今のように特別なく、上級生になってから、好きな人たちは隣の校舎の中学校と一緒にバレーボール等をやったものです。後に、中学校のバレーボールが強くなっていますが、この頃から力を貯えたのだと思います。児童会は学校自治会、学級の会長などは級長と呼ばれていました。からだの方では、全国の}年生の平均身長は、一〇九センチメートルです。五年から予防接種があり、年間を通じてDDTの散布がありました。散布はいつもという訳ではなく、八戸を出る時は必ずやりました。衣服の事ですが、着る物はなく軍服を直して着たり、ズックがないので、ぞうりをはいていたものです。そのため足に古くぎをさすという怪我がよくありました。施設としては、すべり台が一木と半分   で、低鉄棒、高鉄棒が現在の銀行のあたりにありました。五年生の時、校売部が出来て二年間続きました。し尿の汲み取りは、上級生が全部やりました。遊びは、縄をなって縄とび、おはじきをやり、松のやにをとってつばで綿のように伸ばし、指に巻いて競って遊んだものです。男の子は、笹竹で紙鉄砲を作って遊ぶのが盛んでした。
大上ひさえ(昭和二十七年卒)
私が小学生のころ物資がなく、ハトロン紙のようなノートで絵をかいたものです。教科書は上級生からもらって使いました。二年の時、新設中学校が併設され、体育館に新しく中学校の教室が作られました。その為小学校は、二部授業をしたり、階段に座わって授業を受けたりしました。物資がないため、いろいろと配給制度があり、無欠席の者に優先権がありました。今は想像もできないと思いますが「しらみ」がたかっていて、授業中でも前の人の頭を自由に歩いているのが見えたものです。(笑)休み時間には、桜の木の下の芝生でしらみとりをしました。非常に家族的な光景でした。上級生になって図書もなく、岩藤先生に『巌                     窟王』を読んでいただいたのが楽しい思い出です。
クラス会など時々ありますが、今でも当時の根城の神髄を流れる家族的精神があるようで、故郷に帰ったようで懐しい思い出となっています。
司会 山田卓三
校長 田中正直
PTA会長 植木規好