2007年9月1日土曜日

東奥日報とデーリー東北の底力、一般紙と地元紙はここが違う

六月二十八日午前十時五十五分ごろ、八戸市上組町のアパート一階101号室の会社員澤田秀人さん(43)方で、澤田さんの妻と子ども三人の計四人が死亡しているのを、澤田さんの親族が見つけ、八戸署に通報した。同署と県警捜査一課は、遺体の状況などから殺人事件として捜査を開始。行方が分からなくなっている澤田さんが、何らかの事情を知っているとみて行方を捜している。
 死亡していたのは妻の真由美さん(46)、長男で中学二年・直弥君(13)、二男の小学校五年・奨君(10)、三男の同一年・耀君(6つ)の四人。県警によると、四人は居間や寝室などで死亡、いずれも外傷が確認されている
この事件は東奥日報外、全国紙も報道するが、やはり地元紙の懐の深さには敗北、地元は地元ならではの取材協力が得やすい。写真、聞き込みなどにおいてデーリー東北新聞に利がある。
この犯人は小学生の時事件を起したとの情報が飛んでいた。これを週刊誌が書いた。その事件とは昭和五十年十二月のこと。
この年、小中野に中央スーパーが開店する。もと東北電力マン森山千年春氏が興した会社だった。
この店も倒産し、そこにワイズが入居し、そこも倒産。栄枯盛衰とはこれか、中央スーパーは新丁にも店があった。湊文化、湊東映の横丁がある。その角がブラザーミシン、青和銀行があり、中央スーパーがあった。その裏の新堀で結婚を間近にした29歳の看板店勤務の女性が殺害された。それも白昼のこと。
この事件をおこしたのが小学生、十一歳、これが今回の一家無理心中の犯人だという。
この事件をデーリー東北新聞の報道で見てみよう。デーリー東北新聞は東奥日報より詳細に事件を追った。その迫真の記事を掲載する。
昭和五十年十二月二十二日付けデーリー東北新  聞
八戸で小学生(11歳)が殺人
白昼のアパートで 29歳のOLを刺し逃げる
二本の包丁を使って全身をメッタ切り
二十一日昼すぎ、八戸市小中野町のアパートで、一人住まいの女性がステンレス製の包丁で全身メッタ切りにされ、病院に運ばれる途中死亡するという事件が発生した。目撃者の証言から八戸署では、女性の後から飛び出していった小学生(五年)が犯人と見て捜査しているが、小学生は行方をくらましている。このため犯行の動機などはわかっていない。歳末の日曜日、しかも白昼住宅の密集するアパートで、小学生が殺人事件を起こしたことについては、市民は大きなショックを受けている。
同日午後一時二十三分ころ同市小中野町新堀、角アパート、会社事務員沢口ツヤ子さん(二九)が「早く病院に連れていってください」と叫びながら、血ダルマになって自宅から飛び出してきたのを、同アパートの無職佐藤トメさん(六三)と隣のアパートの無職工藤シゲさん(四○)が見つけた。このため工藤さんが沢口さんを抱え、近所の河村医院に運ぼうとしたが、約八十米歩いたところの理髪業中村光利さん(三七)前で力尽き倒れた。
 沢口さんは首の右側に三箇所、背中の右側にも一箇所、さらに手などにも数箇所刃物による傷を負っており、中村さんの妻未夜子(三七)が近所の医者を連れてきたときには、既に出血多量で死んでいた。
 沢口さんが自宅から飛び出してくるのを見つけた佐藤さんは「助けて、という叫び声がしたので外に出て見たら、沢口さんが血ダルマになり、前かがみになって立っていた。そのすぐあとに顔見知りの小学生が、沢口さん方から走って出ていった。その際、刃物を捨てていった」と話し、工藤さんも「家の中で掃除をしていたら、助けてという声がしたので外に出てみたら、沢口さんが病院にーといってかき根を飛び越えてきた」と事件直後の様子を話していた。
 このため、通報を受けた八戸署では、佐藤さんが見たという小学生A(十一)が犯人と見て捜査を始めたが、まったく行方が知れず、二十二日午前一時現在まだ見つかっていない。
調べによると小学生Aは同じ小中野町に両親らと住んでいるが、角アパートの二階に伯母(三七)が住んでいるほか、二年ほど前までは近くに住んでいたこともあって、同アパート付近にはしばしば遊びにきていた。この日も日曜日だったため、妹と二人で伯母の部屋に遊びにきて昼食がすんだあと、トイレに行くと言って出たという。しかし、Aがどうして沢口さんの部屋に行ったのか、どうして刺してしまったのか、部屋を出たあとの目撃者がいないためわかっていない。
 犯行に使われた骨通し包丁は二本で、刃渡りは十五、六センチ、どちらにも血のりが付いていた。これは共同炊事場に置いてあったもので、真ん中あたりから大きく折れ曲がり、犯行時のショックの大きさを物語っていた。もう一本は玄関から約二メートル離れた水道のそばで発見されたが、これは沢口さん方の居間においてあった包丁であることを沢口さんの母親が確認した。
Aは身長が百五十センチ近くあり、小学生にしては大柄で、頭は坊ちゃん刈り。逃走当時の服装は紺色のジーパン、濃紺の丸首セーターに、女物のサンダルを履いていた。
 Aは犯行後の同日午後三時半ごろ友人のところに電話をかけていることが確認されたが、Aは泣きじゃくるだけで話の内容はわからなかったという。このため同署では署員五十名のほか、防犯指導隊員、先生、PTA関係者ら合わせて約百人を動員、小中野地区を中心に、物置小屋、神社、仏閣、駐車中の車両、船舶などを重点的にAの行方を捜している。同夜は小雨が降り、いつもより穏やかなもののAの安否が気遣われている。
惨劇の跡も生々しく
助けを求めた沢口さん 医院前に力尽きる
 事件直後の角アパート付近はパン屋さんや住宅の並ぶ普通の町だが白昼の殺人事件、しかも被疑者が小学五年生とあって住民があちこちにかたまってはひそひそとショッキングな事件を語り合っていた。
 被害者の沢口ツヤ子さんが住んでいたのは所有者の角さんの家の裏、狭い路地を十メートルほど入った所にある二階建てのアパートの下の部屋。二階へ上がる階段の右手に沢口さん宅のガラス戸の玄関があり、そのガラス戸に血がベッタリと付いていた。玄関を入ると台所で。居間への障子が倒れてこれにも血が付着し、惨状の生々しさを現している。
 工藤さんに抱きかかえられて約八十メートル進み、河村医院がもうすぐというところで沢口さんの気力は尽きた。その前の、協力を求められて河村医院に駆けつけた中村理容院の中村未夜子さんは「もう血だらけだったですね、背中にも五センチほどのキズがありました」と興奮さめやらない様子。この間に夫の光利さんが一一九番。近くの河村一衛医師(四四)がきたときには、おう沢口さんはこと切れていた。「出血多量が原因でしょうね」と河村医師。
 角アパートには二階に二世帯、下に沢口さんら三世帯が入居していた。二階に住む佐藤アキ子さん(四一)は「子供が泣き続けているのかと思った。まさか下の沢口さんが子供に刺されているとは…」と語っていた。少年Aは二年ほど前にこの町内にいたとあって顔を知っている人も多い。現場近くにいた小学四年生は「Aは午後一時ころ現場前の道路に立っていた」とも語っていた。
濃い「物取り」の線
発覚恐れて凶行か それにしてもひどい刺し傷
 わずか十一歳の少年を殺人という凶悪事件に走らせた動機は何か。Aが何故沢口さんの部屋に入ったのか、沢口さんの部屋で何が起こり、何故沢口さんが殺されなければならなかったのか、Aが行方不明になっているため今のところ詳しいことはわかっていない。
 Aはこの日昼ごろ角アパート二階に住んでいる伯母の部屋へ妹と一緒に遊びに来ていたが、伯母が近くの公衆浴場へ行った後「便所へ行く」と一階に下りた。間もなく下で物音や叫び声がしたので妹が下りてみると沢口さんが倒れ、騒ぎになっていたというから凶行はほんのわずかの間に行なわれたとみられる。
 Aの伯母が同じアパートに越してきたのは約一年前、殺された沢口さんは四年前から住んでいた。Aは伯母の所に時々遊びにきていたが沢口さんと顔見知りだったかどうかはわかっていない。しかし、Aは三年生までアパートから百メートルほどのところに住んでおり、四十八年十月十六日、近所の家に遊びに行き、留守の間に子供部屋に上がりこんでマッチ遊びしたため住宅など三棟を全焼するという事件を起こし、現住所に引越した。これが近所でも評判となり、第一目撃者も一目でAとわかったほどで、そのころから住んでいた沢口さんと顔見知りだったことは十分考えられる。このため、Aがアパートの前にある共同便所に行った帰りに、沢口さん宅に遊びに行き、沢口さんに何か注意され凶行に及んだという見方もある。
 それにしても不可解なのは沢口さんのキズ、背中を一突き、さらに首に三箇所のほか手などにも数箇所のキズがあり、骨通し包丁を二本使い、それも一本は途中から曲がるほどの力を入れており、とても小学五年生の犯行とは思われない。このためAが逆上していたか、沢口さんに強い恨みを持っていたものかなどが考えられる。
 四十八年の火災でAに疑いがかけられたのは、被災者宅でたびたび空き巣に入られており、近所でAの犯行ではないかとうわさになっていたのを八戸署で聞きこんだのが発端。Aはその後、まじめに学校に通っていたが、この日たまたまアパートに遊びに行き、沢口さんが一人暮らしなのを知って無断で侵入、物色しているところを奥の居間で内職の縫い物をしているか、外出から帰った沢口さんに発見されて追及されたため、発覚を恐れてとっさに台所にあった包丁で沢口さんに襲いかかったという物盗りの線が今のところ一番強い。
ごく普通の小学生
信じられぬと学校側
前略 家庭は両親が揃っていて母は家にいて教育には気を使っていたらしい。生活状態も中ぐらいで、特に動機はわかっていない。後略
洋裁技術を生かして内職するしっかり者
 人柄愛された沢口さん
殺された沢口さんは岩手県久慈市侍浜町白前、午三さんの三女で、久慈文化服装学院を卒業後、東京のドレスメーカーに就職、その後八戸市に来ていったん市内の建設機械会社の事務員として働いていたが、四年前に現在の看板関係の会社に就職していた。
 無口でおとなしく、独身の美人とあって社内の人気もよく、珠算は三級、卓球が好きだった。学生時代からの洋裁技術はうまく、会社の休みの時などは、近所の人々の洋服を縫って内職をするなどのしっかり者。
近所の人の話だと、人に恨まれる性格でなく、親切でやさしい人柄だったという。
デーリー東北新聞昭和五十年十二月二十四日
盗みを見つけられ刺した 八戸のOL殺し
図太い神経、小細工も
少年自供、殺意は否定二十一日白昼、八戸市小中野町新堀の角アパート内、会社事務員沢口ツヤ子さん(二九)を刺し殺し一昼夜逃げ回ったうえ二十二日午前、八戸署に補導された同市内小学五年生小学生A(十一)はその後の調べで「金を盗もうとしているところを沢口さんに発見され、台所にあった包丁で刺して逃げた」と犯行の動機を話した。また犯行がバレるのを恐れて「知らない人に殴られ気絶していた」と言い逃れようと、ナイロンひもを使い自分で両手を縛り、現場に戻ったことも自供した。
少年は同署に補導された後、二十二日午後二時から父親の立会いで面接調査を受けていたが、最初は「沢口さんの部屋から見知らぬ男の人が飛び出してきたので変だと思い中に入ってみた」とあいまいな供述をしていた。しかし、三回目の面接調査から次第に冷静さを取り戻し、正直に話し始めた。
 これによると、少年は二十一日午後一時十五分ころ沢口さん宅の玄関が開けっ放しになっていたため上がりこみ、居間のテーブルの上にあった一万円札四、五枚を盗もうとしているところを、外から帰った沢口さんに見つかり、捕まったため台所にあった包丁で夢中で刺して逃げたというのが犯行の動機。沢口さんの部屋には伯母と一緒に二回ほど遊びに行ったことがあり顔見知り。殺意については否定しており「捕まっては大変だと思い、逃げたい一心で包丁を振りまわした」と凶行時の心理状態を話している。第一発見者は、血まみれになって玄関からよろめき出た沢口さんと、逃げる少年を午後一時二十三分ごろ目撃しており、惨劇はわずか十分たらずで行なわれた。
 この後、現場から約百五十米離れた湊駅近くの田中石灰所有の倉庫まで逃走、返り血を浴びた衣類を脱ぎ、それを枕にして床下で一昼夜隠れていたと言っており、とても十一歳の子供とは思われない図太い神経ぶり。
 その反面、少年が保護されたとき、赤と白のビニールひもで両手首を縛り狂言誘拐を企んでおり、自分の犯行を隠すために一目でそれとわかる小細工をしている。
 少年は最後に「大変悪いことをしました。許してください」とわびたが、沢口さんが死んだことを初めて聞かされても特に涙を流すこともなかったという。
 同署では細かい点についてはさらに裏づけ調査することにしているが、少年の話がこれまでの捜査や現場の状況、目撃者の証言とほぼ一致していることから、少年が沢口さんを殺害したのは間違いないとみており、事件は全面解決した。
 少年は二十三日午前、八戸児童相談所員の付き添いで青森中央児童相談所に移され、詳しい面接調査を受けている。
お札がちらっと見えたので
つかまっては大変 包丁を振り回した
申述書要旨
八戸署の面接調査に対する少年の申述書の要旨。
 十二月二十一日午前十時半ころ伯母さんの母(祖母)に弁当を届けるため妹と二人で伯母のいる新堀のアパートに行った。三人で小中野町の病院(祖母の入院先)に行き、また、伯母の部屋に戻った。伯母は風呂に行ってくるからと出かけたので、妹と二人で戸棚のインスタントラーメンを作って食べた。テレビは「ロッテ歌のアルバム」でした。
 午後一時十五分ごろ妹に「ちょっと小便をしてくる」と言って外の便所で用をたした。そして道路に出たら伯母さんの階下の部屋に住んでいる女の人(沢口さん)が向い側の店に入って行くのを見た。また父が自転車でアパートに来るのを見た。そして階段の下の玄関(沢口さん宅)を見たら戸が開いていたので中に入ってみようと思った。その部屋には伯母さんに連れられて二回ぐらい入ったことがあり、だいたい部屋の中の様子は知っていた。
 伯母さんの所から履いてきたサンダルを玄関で脱ぎ、台所から障子を開けて中に入った。真ん中にテーブルがあり、のっている新聞紙の下からお札がちらっと見えたので、私はだれもいないし盗もうときめた。
 札を手にとってみたら一万円札が四、五枚あり、盗むつもりでいたら部屋の女の人が玄関から入ってきて、私を見ていきなり「ドロボウ」と叫んで部屋に入ろうとしたので、逃げようと台所の方に走ったが女の人に玄関で捕まった。それでも逃げようとして後ろ側に回り両足を力いっぱい引っ張ったら、女の人は前のめりにパタンと倒れ気を失ったようだった。
 私は怖くなり、後ずさりして部屋に入ったらテーブルに突き当たり倒れた。散らばっている一万円札を片付けようとしていたら女の人が気が付き「お水ちょうだい」と言ったので、かわいそうになり台所に行きコップで水を飲ませた。そしたら女の人が立ち上がり私に迫ってきた。ここで捕まっては大変だと思い、最初はクリーム色の柄のついた包丁を取り、右手に逆さに持ち、振り回した。女の人は私の腰にしがみつき離れようとしなかったので、背中や首のあたりを三、四回ぐらい刺したと思う。その時は逃げることを考え無我夢中だったので、何回ぐらい刺したのか覚えていない。
相手の手をようやく振り払い、奥の部屋から逃げようとしたが、逃げ場がないので包丁を捨てて台所に行ったら女の人が血を流しながらまた立ち向かってきた。そこで今度は茶色の柄の包丁を流しから取ってつかみかかろうとする女の人の顔などを切りつけた。逃げようとしたら玄関でつまずいて倒れた。その時、手に持っていた包丁が曲がってしまった。すると女の人が「助けて」と叫んで玄関から表に出て行ったので、私もすぐ後ろから表に出て、二回目に使った包丁を道路の方へ投げて逃げた。
 私はその人を最初から殺す気持ちはなく、ただ逃げるため夢中で包丁を振り回したので、突き刺さったと思います。(逃走経路説明)二分ぐらい走った場所にある倉庫は時々遊びに行って知っていた。服に血がついていたので、だれかに見つかるとバレると思い、血のついた紺色セーター、ミカン色のシャツ、ジーパンを脱ぎ、枕にして休みました。
 そして二十二日、雪も降ってきたし寒くなったので、伯母の家に行こうとしたが、ただ帰ると女の人を私が刺したことがバレるので、倉庫の下にあったナイロンのヒモで自分の両手を縛り、「だれかにたたかれ意識不明になった」と言えばみんなが信用してくれると思い、ウソをついて午前十一時四十分ごろ出かけて行ったところを警察の人に発見されたのです。
 伯母さんの階下の女の人の名前が沢口ツヤ子さんであることは今初めて知りました。大変悪いことをしました。反省しています。どうか許してください。
東奥日報日報は上のように報じた。デーリー東北新聞と同様の内容だが、デーリーの方が取材陣が厚いようで、現場見取り図、陳述書も掲載し一枚  格上。この年は三徳食品の役員夫人殺しもあり八戸は騒然。
また、六月の一家殺しの事件を東奥日報は上のように報じた。東奥日報は夕刊でも第一報を入れるなど、この事件は東奥日報に軍配。東奥はTVなど総合メディアを有する。県都青森を中心とする東奥より八戸を拠点とするデーリー東北新聞に地の利があるが、編集長の手腕、這い回る記者の力に東奥が優れている。デーリーも過去の記事を参照するような紙面を組めば、手厚い取材陣を駆使し、地元紙ならではの記事が書けたと残念。週刊誌に過去の事件を抜かれることもないはず。
もっとも新聞各社が過去の事件を書かないとの取り決めがあったとも言う。すると、新聞は誰の為のものなのか。事件を正しく報道する、それは至極当然だが、過去なくして現在もない。人権が声高に叫ばれる昨今。父親が殺人犯だったと知れば、子もむざむざ殺されることもなかったかも知れぬ。子は親のものではない。