2007年10月1日月曜日

東奥日報に見る明治三十三年の八戸及び八戸人

三戸郡の重要漁業
鰮漁業の始期は五月下旬なりしが昨年は魚群来集少なきをもって漁獲甚だ少なく漁季を経過せり盛漁期は八月中旬に至り鰮群来集せるを以って相応の漁獲あり然るに九月に至り風浪出水等の為漁家憂慮せしが十月初旬に至りて再び来集し越えて中旬より下旬に渉りて魚群益々加わり日々の収穫高二千円及び五千円の巨額に達し近年稀なる盛漁を来せり十一月十二月初旬に渉りて風浪のため出漁の季を失せしをありといえどもこれ又相応の漁獲ありて実に二十九年以来の盛漁なり然れども是沖取網の漁獲にして地引網おける僅かに二三回相応の漁獲ありしのみ十二月初旬前浜における投網は昨年の終漁とす而して魚場は南は鮫村金浜より岩手県の海面とす漁獲高昨年総量大凡百五十萬貫比価一貫目平均より立算すれば総額十万円余に達し前年に比すれば実に盛漁といわざるを得ず是沖取揚繰網の増加と豊漁の結果により斯くの如き昨年は相応の漁獲ありしを以って前年来の衰を幾分か復するを得一般の人気大いに引き立てり漁具に至っては二十五年揚繰網創始以来漸く発達し漁獲上到底地引網の比にあらざるを以って昨年の如きは三十余度の漁途に上れり今後益々揚繰網の発達を見るに至るべし次に?(いさざ)漁業漁期は例年四月中旬より漁獲に従事し産数少なからず殊に近年大に増殖し五六七八月の候を以って漁季となすと雖も鰮漁の余暇を以ってするか故本年の収穫総量大凡五百貫目価二千五百円鰮漁の次に上れり?は従来同沿岸に群来しありしと雖も 単に地引網で捕獲来たりしを以って漁獲寡少にして物産として目するに足らざりしか二十四五年頃より従来の手繰網に細目網を使用し捕獲するに至れり且つ漁法においても大に改良を加え現今盛況に至れり今後益々発達増進するや
電燈会社設立の計画
先日来八戸の有志者八戸町役場楼上にて相会し頻りに計画研究に余念なしという
八戸学事報
高等師範入学生 八戸町より本年高等師範学校へ入学するもの男子二名、女子高等師範学校へ入学するもの二名
八戸小学校の分割 同校は余りに膨大に遇ぐるを以って校長一人にて三十五名の職員二千名の生徒を統括すること実に困難なりしを以って文部省地方庁より数回分離に勧告を受けしが町会は之を否決し来たりしが今回学務員の奮発により漸く男女二校に分離することとなれり即学級の数は男子二十女子十四
教員の俸給 義務格より言うも他村教員の俸給に比するも何時も劣等の処新学務員の奮発により幾分か高まり気味となれり然れども能不能勤惰により増減せざれば有為の先生に逃げられる心配有之事と察せらる
実業補習学校 同校は漸く三十名ばかりの生徒を有し毎日二時間か三時間の学科あるのみにて後は歌かるたのみ妙齢の婦女しかも生徒の機嫌のみとる取りおるとは同校職員は女中か僕婢の積もりにや
水産補習学校 同校は湊村に創立せられ設備全く成りしをもって来月より始業せる由
中学校入学生徒志願者 本年第二中学校にて募集すべき生徒は百二十名にして志願者の数は二百六十名ばかり内八戸町にて九十七名ありという
第二中学校の先生 同校の先生には中々酒と白首をお好きの方あり夜な夜な新地遊郭地鮫遊郭地に通う先生あり下宿やの老婆先生にご忠告申し上げるに先生端然としてお答えあそばさるに「僕は○○を教授に出かけるんだ」婆曰くラシャメン御養成ですか先生赤面金時の火事見舞いの如し
中学校長の転任の噂 同校津田清長氏は岩手県福岡中学校へ転任すべしとの風説あり果たして真か
八戸小学校授業料全廃 八戸小学校にては本年より授業料を全廃する実に喜ばしきことなり
師範学校女子講習科 八戸町より今回入学するものは十一名にして何れも九日出発せり
八戸電燈と商業会議所 客月の通常町会に於いて八戸町において電燈業を営む者は一年三百六十円補助するの建議案全会一致にて通過したるより以来電燈熱頓に増加、永田市左衛門下斗米斉次郎の諸氏年来斯業に熱心企画せらるる事なれば大に有志を煽動し今や同所にて有力の方面にて之が発起人たらんとを諾せられたる者既に三十余名の多きに達せりと言う八戸も電燈の輝く時あるべきか因みに記す資本金は三万円にして五百燈を設置する見込みの由又同町にて斯案と同時に八戸商業会議所設置の議を郡長に稟議するの件並びに旧裁判所敷地建物は悉皆八戸町に保管せられたる旨司法大臣へ請願する件も同様一致を以って決定せりと言う
八戸の大漁
八戸近海にては本年は鰮大不漁にて営業者一同非常に困惑しおれる処一昨日は前浜、南浜、北浜にも一円の大漁なりしと引き続き好漁ならんには景気を回復するなるべし
子弟の情義
かくもありたし三戸郡小中野村小学校教員たりし戸来ちよ子は病魔の襲うところとなり去る一日終に不帰の客となり同三日光亀寺に埋葬の当時天亦之を悲しみてか雷雨甚だしく暗く袂を湿らすにかてて加えて同氏受け持ちの女生徒一里半余の道を遠しとせずして会葬し皆声を発し涕泣し中にも某生徒が悲しみに堪えかねてにや先生そこから出てきてくださいと叫びては泣きなきては叫ぶいじらしさに会葬の者皆鼻をすすり涙を流さぬはなしいわんや之を引率せし教師の胸中果たして如何なりしや小中野村は是人情軽薄の花柳界なる地しかもこれ等女生徒は一々がその卵と目せらるるもの然るにこの状を見るに及び如何に其の情義に篤く師を慕うの念深きかを知り併せて信服を得し教育者の徳波及する所如何に極まるかを知るに足るちよ子は八戸の人にして仙台高等女学校を卒業し三十二年四月より小中野小学校教師となり生徒を導くこと頗る懇切にして又学識に富み性質温良にして友情厚く為に父兄の信用を得ることも深かりしが行年二十二歳にして空しく黄泉の客となる真に斯道のために惜しむべきなり聞くところによれば氏と交情深かりし女教師某及び生前の親しかりし友某と発企者となり…略
八戸通信 赤痢 昨年末より本年にかけて清潔法施行其の功を奏す殊に本年夏期における果物及び鮪販売禁止ならびに祭奠群集禁止の結果にや当町に於ける赤痢患者は初めより七八名に過ぎず殊に昨年最多数の同患を出したる八太郎村小中野村鮫村の如きは未だ患者を出さざるは偏に警官の注意周到の功と言わん先に禁止の為細民の怨みを買いたる警察は今や町中の歓声となるに至れり昨今寒暖計も朝夕六十七八度の冷気なれば今後は愈々気支なき事ならん
医師 過般避病院の新築落成に付き町長は各医師に通牒し是が維持経営の件を相談せるに医師等はその如き小額の金にては到底経営する能わざるにて更に若干金を増加せざるにおいては当町医師一人も之に応ぜざるべしとて殆ど同盟の有様を以って其の場は退きたるにも拘わらずその後如何なる内約ありしか知らざるも二三の医師は町長の勧告によりて院長とか主治医とかの名目の下に承諾せるかかる輩は常には公席においては立派なる口をきくも其の内心は陋いことを知るべし
八戸の娼妓自由廃業
三戸郡小中野村大字裏新町裏新廓地花月楼娼妓トヨ(二十)といえるは湊村大字浜通り字白銀二百五十壱番地中村仁助の妹なるが今より五年前現楼主福島トメより僅かの金を借り受け七年の年季にて雇い入れられたるものなるがその後トメはトヨの段々成長するに従って見目麗しくなり兄仁助に相談し戸籍面を養女と為しトヨが十八歳のとき初めて娼妓の業を営ましめしも本人はなんとかして廃業せんものと思いおる内この頃(注・明治三十三年は各地で自由廃業が叫ばれた)自由廃業の耳にせしより哀れ其の手続きをも聞き糾し一臂の力を添えくれる人の来よかしと泣いて嬉しき月日を送りおるに然るに八戸町の某なる者フト先夜遊びに来たり知れる仲とて種々の世間話より花が咲き自由廃業のことに至りし某はトヨの心を哀れに思いて之を引き受け直に楼主トメへ其の旨を談じ込みたり然るにトメは前来の事情などを述べ立てて中々承引する様子なきより遂に中村トヨは盛岡市なる介川弁護士を頼み楼主福島トメは八戸町永安弁護士を以って八戸区裁判所へ出訴せしが去る十九日同裁判所にて判決を下し本人営業の意思なきこと明白なるにより廃業せしめ且つ養女の離籍を為し裁判費用は福島トメにて負担すべき旨宣告せられたるより結局トヨの勝利に帰したり之を聞きたる同楼のイシと言えるも廃業の談判を持ち込みたるより福島トメは青くなり狂気の如く奔走しおれると 
八戸通信
極楽祭 旧南部藩にて斬罪に処せられたる者の慰霊を祀るが為旧藩士大沢多門氏の尽力にて石地蔵を作り延命極楽祭りとし昨日より今日まで長者村大慈寺に於いて大供養を行いたるに雨夜に球燈を吊るしたるも賑わいたるたるが明三十日は石地蔵を大慈寺より引っ張り八戸町例祭の通行路を経て小中野村梅翁庵に至る筈なりと

鉄道惨死
八戸町馬場吉太郎(四八)といえるは同停車場に雇われ貨車を押送中尚引き続き他の貨車後方より押送し来たりて吉太郎を圧搾し頭部及び胸部に重傷を負い両眼を出るなど眼も当てられぬ最期を遂げたりと
八戸女学校問題
県当局者は明年度において八戸に高等女学校設置に企てあることはこのほどの紙上に記せるが昨日の「陸奥日報」は福田白浜氏の名を署せる篇と論説を掲載し南部地方利益の交換課題とし八戸高等女学校設置するに至れりとなし県知事の方針を難じ八戸未だ高等女学校を設けるの必要なしとて之に反対す(後略)
八戸商報の発行
八戸印刷株式会社にては来る三十日を以って八戸商報を創刊する由