2007年10月1日月曜日

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 1

年寄りの話は面白い。結末を知った推理小説で、安心して聞いてられる。八戸の若者に仕事がなく、シルバー人材センターの定年者たちに仕事が集まり、その額が四十五億もあった。これを若者に回せと力説したが、「はちのへ今昔」は売れない雑誌で、まさにごまめの歯ぎしり(力のない者が、いたずらにいきりたつこと)だ。ごまめってのは正月のおせち料理に出る田作りの、あの小さいカタクチイワシの干物を言う。それの歯軋りじゃ、ドウモコウモナラン。
シルバー人材センターは毎年八戸市から補助を得ている。若者の受け入れ先がないから、補助はまったくない。若者をないがしろにすると未来はないぞ。
それでも若者、嘆く前に先人の足跡から、自立の道を考えよう。人にこき使われるだけが人生じゃない。
八戸には、無一物から人生の大道を堂々を歩んだ人が何人もおられる。今回は武輪水産の創始者を紹介。この人が上梓された「零からの出発」を読み、人生はやる気と根気を読み取ろう。そして、ヨタヨタでも人生の航海を開始しよう。北朝鮮から木造小船で青森まで逃げてきた家族のように、意のあるところには必ず道があるんだ。
一、生い立ち
 私は大正三年十二月三十一日、父安太郎、母マサの長男として京都市下京区西七条に生まれました。父は大正五年一月十九日に死去しましたので、私が生まれてから僅か満一年でした,母は三人の姉と私をかかえ苦労した事と思います。
 私が物心のついた頃には長姉は住み込みの勤めをし、次姉は叔父の養女となり、末の姉と私を母が育てて居りました。
 京都市立七条尋常小学校を卒業、京都府立京都第二中学校に進学、小学、中学を通じ無欠席で通しました。此の間風邪を引いた事もあったでしょうが頑張らなくてはという気持がそうさせたと思います。
 後日大学卒業後就職の際健康診断の時、肺に異常ありとの事で京都府立医大でレントゲン撮影の結果、確かに二、三ケ所痕跡があるが、既に完治しているから大丈夫と太鼓判をおされました。その旨を会社に報告無事入社出来ましたが矢張り二、三回発熱をおして頑張った結果だと思います。旧制中学卒業の頃、母が多年無理をして働いたいた結果、リウマチスで立てなくなりました。止むを得ず進学をあきらめ、京都府立京都第二中学校の校長を三十年勤められた中山再次郎先生にお願いし、当時中学生を寄宿させ指導されていた浴風塾に働めさせて頂き、いわゆる内弟子として御指導頂く事になりました。
 然し、進学の念をあきらめきれず更に、お願いして、昼は浴風塾に勤めながら夜、立命館大学専門学部に通う事となりました。その後台風が京都市を直撃し、浴風塾の木造二階建二棟が倒壊しました。止むを得ず、校長、教員の舎宅の空室を使わせて頂き塾生たちの勉学指導をし、それにより得た報酬で家計をささえながら夜学に通いました。
中山先生も校長勤続三十年で退職され、卒業生の父兄で先生に心酔されていた、伏見の月桂冠の社長の寄進で東福寺の近くに建てられた住宅におすまいでしたが、その一部を塾とし中学生を指導されていました。少年の指導が何物にもかえがたく思われたのでしょう。終生続けられました。私も其頃は自宅、又は近所に部屋を借り中学生の勉学の指導をし、先生の御宅にも御邪魔して何かと御用達しをし、夜は専門学部から大学に進学し、相当忙しい日々を送りました。末の姉も結婚し一家をかまえ、私もその隣りの家を借りて母と住み、姉が立てない母の世話をしてくれましたので、心おきなく頑張れました。
二、北京での思い出
 立命館大学経済学部経済学科卒業も間近になった頃、日本軍が満州より北支那に進出、華北臨時政府を擁立、行政顧問として内務官僚であった湯沢三千男氏を送り込みました。
 一方経済面の開発を担当する北支那開発株式会社を設立、鉄道、電気等の建設、石炭、鉄鉱、綿花、塩等資源の開発を大々的に進めました。初代の総裁として、拓務大臣も勤められた大谷尊由氏が就任されました。この頃大谷氏が中山先生の教え子でもあった関係から、又、北支那開発株式会社の当時、北京支社総務課長兼経理課長でもあった中島要造氏も、中山先生の教え子であった関係上、私も採用される事に内定しました。
 先ず母に相談した所、病気で立てない状態でありながら気丈にも賛成してくれました。世話をして貰っている姉夫婦にも相談した所、心配せずに就職する様にと賛成してくれました。そこで意を決し、昭和十四年四月北支那開発株式会社(半官半民の国策会社)に入社、東京本社に二ケ月勤務後、当時大学卒第一期生として三十名勇躍北京支社勤務として赴任しました。赴任早々文書課勤務となり、総裁公邸内の一室をあてがわれ暗号電報翻訳担当となり、大金庫に当時軍が使用していた乱数表を収納、暗号電報の来る度に翻訳しました。記憶に残る事は、三十九度の発熱時に長文の暗号電報が来信、二時間かけて無事翻訳出来、使命を果たした事もありました。一緒に北京に赴任した第一期生三十名が、それぞれ病気欠勤した中で、入社時健康診断でクレームのついた私が欠勤する事なく、勤務出来た事を有難いと思っています。其後、産業課勤務となり内蒙古龍畑鉄鉱や山西省の石炭鉱山等々視察に行き、又年に一度は東京支社(北京支社は一年位で本社となった)に出張、主として子会社に対する資金及び、建設資材の調達と開発計画の打合せでした。途中京都に立寄り母の見舞、中山先生ヘ近況報告をしました。
 北京本社勤務中、同好者でコーラス団を組み、本格的に勉強した事もなかった私も下手の横好きで入り、ラジオ放送をした事がありました。それがたまたま軍の幹部の耳に入り、名簿を出せと言われ、出したそうです。これは終戦後知った事ですが、とんでもない事に結びつきました。
 昭和十九年に入り戦況がますますきびしくなり、北京現地でも召集があると言う情報が私の耳に入りました。元情報担当をしていたせいでしょう、私は戦前の兵隊検査で第二国民兵役、丙種合格と言う、当時では兵隊になる資格がないと言う決定をされていました。それで私は絶対に召集されないが、同期生たちに現地召集がありそうだから心構えをした方がよいと伝えました。私の予想通り間もなく現地召集がありましたが、何と、私に第一回目の召集が来ました。それは終戦後しばらくしてわかったのですが、コーラス放送が原因だったのです。止むなく入隊しましたが、幹部候補生になれというのです。私は丙種合格だから大学で教練を受けていないと言うと中学では受けただろうとの事で、勿論検査前だから教練は受けていると答えると、それで沢山だという事で、幹部候補生教育を受ける事になりました。その内益々日本国内も満州もきびしくなり、教育訓練中の者を半分は国内に、半分は満州に移駐させる事になりました。幸い私は国内組に入り、仙台に移駐、王城子原の演習場で訓練を続行されました。その間に仙台市は空襲を受け焼野原になりました。訓練が終り東北軍管区司令部付防空指揮班に編入され、仙台城地下壕で空襲警報発令の任務につきました。終戦になり武器弾薬を集結アメリカ軍に引渡し、逐次兵隊は除隊し最後に私も除隊しました。
 余談ですが兵隊になる資格のなかった私が、いわゆる、ポツダム少尉で、当時陸軍では本科歩兵少尉と言っていた者になるとは信じられませんでした。八戸市に来てから正八位に任ぜられましたから本当だったのです。ちなみに北京現地では同僚、後輩達が続々召集され半分近く戦死したそうです。第一回目に召集され、然も国内に移駐され命拾いした私は結果的に考えると運がよかったと思います。母は私が召集される前に姉夫婦に見とられなくなりました。私は会社より特別休暇を貰い帰京しましたが間にあいませんでした。気丈な母は最後迄取りみださず、私を案じてくれていたと聞かされ心をうたれました。
 又若い頃好きだった歌も、召集の原因がコーラスだったと知り、歌う気にならなくなりました。平成十年一月は私の創業五十周年になります。これを契機に気分を入れかえ、北京在勤中に覚えた「好日君再来」でも歌おうかなと思います。
三、八戸に来て
 終戦後除隊して、最初に北支那開発株式会社の東京支社に行きました。所がアメリカ兵が剣付鉄砲を構え中に入れてくれません。国策会社なるが故に閉鎖されたのです。近所の人に聞きますと、社員は渋谷の寮に居るとの事で訪ねて行きますと、会社は全部さし押さえられていました。支社勤務の人たちも明日からの生活が大変で、北京本社から引揚げて来る何千人の同僚の事を考える余裕もなかったのです。幸い一期生の仲間や先輩達数人が居り、引揚げ者中、家も焼かれ困っている人達を一人でも受入れる会社を創ろうと言う事になりました。今後は商売で中国と取引する為、社名も中国向きに大龍産業㈱としました。同僚の一人に八戸で海産商を手広くやっていた店と関係のある者が居り、八戸に営業所を設ける事になり、たまたま私が独身者で身軽な事から八戸に来る事になりました。
 終戦の昭和二十年秋満三十才の時でした。早速、鮫の宮市に事務所を借り、中国との取引に船が必要だと言う事から、船を買う事になりました。たまたま青森市に売りたい船があるとの情報、船の事に詳しいと言う人と一緒に見に行きました。この船は瀬戸内海で航行していたのを軍に徴用され、北千島に食糧等を運搬する事になったそうですが、船足がおそく青森の造船所で機関をつけかえる為、ドック入りしていたが、青森市も空襲を受け、船も一部焼けて立往生。何と船主が船長でおまけに奥さんも一緒で、とても寒い青森では、大変だから早く船を売って帰り度いと言う事でした。船の事は何も判らず一緒に行ってくれた人が、船底に銅版が張ってあり虫がつかず好い船だと言う事で、早速買う事にしました。東京本社に行き当時百円札で代金拾五万円を受けとり、腹にまき再び青森に行き買取ったのは昭和二十一年一月元旦でした。早速造船所に修理と機関の取りかえを契約し、八戸に帰り宮市の主人とも相談し、鰊の積取りをする事にしました。船長、機関長はじめ乗組員六名も雇い入れ船にのせました。所が青森の造船所が中々手をつけてくれません。
 丁度、その頃から戦争も終り青森地元の人たちも船を使う気運になり、つぎつぎに好条件で修理を発注し始めたのです。青森に八戸から日参し督促したのですが埓があきません。乗組員の食糧の事もあり、秋田へ米を買いにやったり苦労しました。とうとう鰊の積取りが間に合わなくなり、意を決して造船所に船をおろす事を申入れ、八戸に廻航する事にしました。私も始めての経験でしたが、一緒に船に乗り昼頃青森を出港しました。船の事にまだふれていませんでしたが、船名は住若九百トンの木造機帆船、機関は九十九馬力、いわゆるトン馬力という船で、おまけに瀬戸内海航行の船底の平らな船でした。機関つけ替えの為、大湊から一二〇馬力の機関を貰い受け一緒に積んで居りました。知らないと言う事は恐ろしいものですが、当時は知らない為にこわさ知らずに一緒に船に乗り、八戸廻航を決行したのです。しばらく航行して津軽海峡に出る前に、突然機関が止まりました。どうしたのだろうと思っている内、又機関がかかりました。大間のさきあたりに来た時に、船長が気圧計の針が立って乗たので時化になり、岬をかわせないから停船しようという事になりいかりを下ろしました,既に日が暮れ漁村のあかりが見えていました。
 しばらくして船長室からあかりを見ると随分小さく見えました。船長を起し、その旨話すといかりが砂浜できかず流されている。いかりを上げ機関をかけぬと大変だという事で、全員あらしの中で手まきでいかりを上げました。船酔いをしていた私も、必死であらしの中いかり上げを手伝いました。不思議なもので、船酔いも吹き飛びシャンとしました。もう一度機関をかけ浜近く迄船を寄せ、様子を見ました。夜明けにかけ針も下って来たので、もう大丈夫だと岬をかわし津軽海峡から太平洋に出て、岸づたいに八戸を目指しました。大波で船はきしむし、しばらくすると又機関が止まり岸に打寄せられます。あわや坐礁する直前、又機関がかかり沖に向けてはしり、その事の繰返しで夜に入り、一昼夜半でようやく鮫に帰港しました。宮市の主人にも青森を出たまま音沙汰なく、浜は岩がごろごろ転がる大しけの中、どうしたのだろうと随分心配をかけました。機関が止まった理由は八戸でドックに入れ、調べた結果機関の手入れをせず、錆ついて循環水が充分に通らずピストンの熱で動かなくなった為でした。知識の無いと言う事はこわいもので、あやうく命をおとす所でした。
 昭和二十一年春の鰊積取りは、この様な訳で出来ませんでしたが、それから八戸の造船所で船体の整備をし、もう一台の一二〇馬力の機関の買手があり、八万円で売却し鰊積取りの資金も出来、翌昭和二十二年春いよいよ北海道余市へ向け出港しました。運よく鰊を満船し帰港すると言う連絡があり、もう帰る筈だと待っていても、中々帰らず同じ鰊の積取りをして、帰港した他の船に聞いた所、函館に居たという事でした。何しろ船足の遅い船なので、地元の船の様には走れず遅れながらも鮫港に帰港しました。丁度住若丸唯一隻の販売で全部売れました。
 当時は魚の統制販売の時で、魚の鮮度に関係なく鰊の価格は一定でした。地元船は小型船で三〇トンばかりで、スピードも出ますから鮮度がよいのですが、住若丸はスピードが遅く鮮度も悪かったのですが価格は同じで売れました。一〇〇トン積でしたから数量は多く扱え、販売利益は十五万円以上あり、船の買取り価格をカバーしました。船長連はすっかり昧をしめ、もう一度行きたいという。私は船足は遅いし鰊の北上に追いつけないから止めた方がよいと言ったのですが中々聞かず、間に合わない場合は、ホッケでも積取りするという事で、再度出港させました。果して北海道の北端迄行ったが鰊の姿はなくホッケを積んで帰って来ました。所が船足が遅く、おまけにホッケは鮮度が落ち易いため到着した時は、すっかり魚体がとけていました。今なら公害問題で大変でしたが、当時は肥料が少なく農家に連絡、馬車にこえ樽を積んで来て貰い、何とか全量買いとって貰いました。此航海では多少損失を出しましたが、前の利益があり機関の売却益もあり、経営には大きな影響がありませんでした。其後、東京本社で今迄社長には北支那開発時代の先輩をお願いして来たのですが、北支那開発に関係のあった天津で事業をしていた、会社の社長を本社の社長にしたという事でした。おまけに引揚げて来た同僚を収容してきたのを全部解雇したと言う事を聞き、大龍産業設立の目的に反するという事で、その社長をやめさすか、それが出来なければ私はやめると言う事になりました。
一時京都に帰っていましたが、その後、住若丸を秋田に塩辛樽の運搬にやった帰港途中に、時化の為坐礁し函館よりサルベージ船を救援に頼んだ処、住若丸の乗組員は全員たすかったものの、サルベージ船の乗組員が死亡したという事を聞きました。もともと住若丸は、日本海の荒海を時化早い時に乗り切れる船ではなかったのですが、無茶な事をしたものだと悔まれました。私の頼んだ住若丸の乗組員が助かったのはせめてもの幸いでしたが、サルベージ船の乗組員には気の毒な事をしたと、今でも思い出すたびに心がいたみます。
大龍産業の其後は事業がうまく行かず、後任の社長が責任をとり自殺したと言う事を聞きました。大龍産業も運命を共にし終焉を迎えたと聞きました。