2009年5月18日月曜日

ブログ移行のお知らせ

当ブログは、日本救護団に移行いたします。

日本救護団URL:http://kyugo.exblog.jp/

今後とも、よろしくお願いいたします。

2009年5月17日日曜日

盟友岡山矢掛の佐藤征夫さん


明治大学応援団の同期の佐藤氏が病気になった。七ヶ月も入院し、二度手術し、地獄の三丁目から戻ってきた。
 癌だ。37キロまで目方が落ちたそうだ。電話をしても、「オイ、コラ、ペテン師、元気にしておるか」の声が聞こえなくて、情けない思いをした。応援団が整列をする、一番前の列には三年坊、次が二年坊、一番後ろが一年坊で、佐藤氏が一番背が高いので右端、次が「はちのへ今昔」で、次は諸君の知らぬ人とならぶ。
 この佐藤氏は静岡県立富士高校の出身で、明治大学も工学部に籍を置き、応援団一の秀才だ。これが、酒飲みで平気で一升はいける。
 一年生の時の合宿が群馬県の妙高高原、列車から応援団が降りると、地元の群馬県の校友会が待ち構える。そこで駅舎を背に一列に並び、団旗を掲げる。こうしたときに一年坊は団旗を手早く出す者、団旗を掲げる旗手長に鎧のような皮と金具で出来たベルトを体に装着する者、旗棹に竿頭をつけ、あらかじめ旗手長からの指令のある、大団旗を結びつけ、一年坊はそれを三名で捧げて、左端で待ち受ける旗手長に「大団旗よろしくお願いします」と気合のこもった声をかける。団長が列の前に立ち、交友会長らと共に並ぶ観衆に頭を下げる、同時に団旗も地面すれすれまで降ろされる、旗手長の顔には朱が注がれる。大団旗は畳で十六畳もある。棹がしなる。棹は籐で重ねられ、漆黒の漆が施されている。棹の直径は6センチもある、それが旗手長の腕力でグンと引き起こされる。棹の野郎が、その力に負けて、クンと泣き声を上げる、団旗は紫紺、団長が観衆を背に向き直り、さあ、校歌だ。
 日本三大校歌の一つとされる大正九年、作曲、山田 耕筰、作詞は児玉花外による白雲なびく、駿河台、眉秀でたる若人がを、団長の「天下に冠たる明治大学校歌」の腹に響くような声を待って、吹奏のコンダクターのタクトが振られ、三角錐の団旗の竿頭に陽光がキラリと映える。団長の大きく鷲が翼を広げるような明治大学特有な華麗なテクが展開され、おお、明治の時に胸の前でMの字を作る。
 それから、地獄の合宿の開始だ。佐藤氏は体力があり、兎跳びもこなす、腕立てなんぞは三百も四百も平気な顔だ。毎晩、校歌、応援歌指導があり、また、明治大学にはやたらと応援歌がある。第一応援歌「紫紺の歌」、第二が「血潮は燃えて」 第三は「紫紺の旗の下に」 第四は「勇者明治」 第五は学生歌の「都に匂ふ花の雲」、よくもまああるもんだ。それも一番から長いものだと五番もある。
 それを真剣に覚えた時代もあった。合宿の最終日、納会で佐藤氏は酒を飲みすぎて素っ裸にされ風呂場で夜明けを迎えた。酒豪で先輩連も舌をまいた。
 この男は一級建築士をとり、身に過ぎた女房を娶り、岡山で暮らしている。女房は美容院を経営、それが繁盛して、佐藤氏は俗にいう髪結いの亭主、人もうらやむゴルフ三昧。人生六十年を遊んで暮らしている。
 なかなか、こうした人生カードを手にする者は少ない。皆、人生の辛酸にあえぎ、女房子どもの頸木(くびき・人生の自由を奪うもの)に悩まされ、いやいや日々を送るを常とする。ところが佐藤氏は人生を遊んで暮らした。
 こんな話がある。一年を二十日で暮らすいい男、これは江戸時代の相撲とりだ。これより少ない時間で一年を送るのが、一年を三日で暮らす御酉様(おとりさま・酉の市のこと)。おとりさまは、ばくち打ちの神様だ。佐藤氏はその神様の上を行った。一年を遊んで暮らすいい男。それも貧乏たらしく暮らすのじゃない。信号機のある交差点を思い浮かべろ。四辻にビルが建っている。その二ヶ所がかみさんの稼ぎで購入だ。
 そのビルの二階に明治大学の校旗が掲げられている。応援団中毒がここに現れている。ヤクザもテキヤも暴力団も、それがどうしたといえるのが応援団中毒だヨ。
 それでも、佐藤氏はキチンと大学を卒業され、建築事務所を開設されたが、「はちのへ今昔」はいい加減で、月謝が払えず中退だ。応援団も中途半端だが、人生の応援団、「日本救護団」を構成し、その団長になったゾ。
 佐藤征夫さん、地獄の三丁目からの帰還おめでとう。そして、岡山に「日本救護団」の支部を作って一緒に、世間を蹴飛ばして、また、肩を組んで歩こうナ。おお、明治その名ぞ吾等が母校、おお、 明治その名ぞ吾等が母校と大声上げて。

2009年5月16日土曜日

三日町にあった丸光1


丸光の話をする。こう書いたら佐々木聡は、丸光が話をしたと錯覚する。藤川優里市議の話をすると書いたら、藤川優里市議が言ったと錯覚しキイキイ言って騒いだ。
 盲信した佐々木聡は、このことを週刊誌に語り、連休に東京から週刊誌が来た。藤川優里市議から頼まれて書きましたか?
 そんなことはない、「はちのへ今昔」が独自に書いただけだ。この「はちのへ今昔」の文字も来週からは別のブログで「日本救護団」に変わる。今、移動作業中だ。
 さて、丸光だが、八戸に進出してきたのは昭和四十三年六月二十八日。この進出で、二十三日町から三日町に繁華街が移動した。この百貨店の総帥は佐々木光男。創始者は丸山とか丸岡光男とでもいうのかと考えていたが、佐々木だとヨ。どこかで聞いた名だナ。
 この進出年に佐々木は死んでいた。前年に六十三で逝去。
 佐々木はどうして八戸に出店したのか、それを探る。
郡山店を除く他の四店が、いずれも海岸線に沿った都市である。出光興産の出光佐三が敗戦直後の混乱のとき、内地はもちろん外地から引揚げてきた大勢の社員達を救済する手段として、ラジオ修理を全国的組織でやったことがある。その際営業所として選んだ場所が殆んど海岸沿で、業界が再興されたときそれらが全部出光の貯油基地に一変した。
「国策として昭和三十七年制定の全国総合開発計画に基づく新産業都市は有望。都市立地として、港と鉄道を同時に持っている街は発展性がある。東北本線等中央幹線に沿った都市は先ず、中央大手が狙って進出を試みるであろうから先手を打つ意味において海岸通りの脇線を結んで固めておく。」
結果としてみた場合、東北の太平洋岸を貫く国道四十五号線の完成により、丸光は仙台・石巻・気仙沼・釜石・八戸が見事に一本の線に連なった。
 青森県八戸市。東北地方の人々は別として八戸と書いて「ハチノヘ」と正確に読むひとは少ない。しかし、唄に夜明けたカモメの港、船は出てゆく南へ北へ、鮫の岬は潮けむり、のうた(八戸小唄)で名高い三陸漁場随一の港。うみねこで有名な蕪島。名作映画「幻の馬」の出生の地。さらに「忍ぶ川」の作家三浦哲郎の出たところと並べてくるとはっきりしてくる。
 青森県の南東隅に位置する叙情的なこの街も昭和三十九年。新産都市の指定をうけるや俄然時代の脚光を浴び、活気あふるる工業都市へと変貌を遂げつつあった。
 しかし街の急速な発展とはウラハラに、商業面での立遅れが目立っていた。
 既に佐々木の手許にある出店構想には、この都市の部分に赤で大きく二重丸がしるされてあった。
 そんな或る日、ひとを介して耳よりな相談が佐々木のもとに届いた。八戸きっての有力者である金入氏が新しい商業開発に並々ならぬ意慾を燃やし協力者を求めているという話である。
 佐々木が早速社員を現地に派遣して調べさせてみると、噂に遼わず金入氏は熱心な商業振興推進の先鋒であり、しかもそのために八戸きっての繁華街の中心部に在る自らの土地をその場所に提供しても差つかえないという意気込みであった。
 着々と進む新産都市づくりの力強い街の状況と睨みあわせ、商業発展の限りない可能性をみてとった佐々木は一も二もなくこの話を受けた。
 昭和四十一年四月には株式会社八戸丸光を設立。釜石店の完成をみてから僅かに九ケ月目というスピードであった。
 しかし一時はトントン拍子に進むかにみえたこの出店計画も、目抜きの場所によくある土地買収問題で難行した。大部分は金入の土地であったが、佐々木の店舗構想は更に大きなものであったために、隣接の土地をなんとしても手に人れねばならなくなってきたからである。
 父祖伝来の土地であったり、それぞれ長い間商売を続けけてきた歴史もあり、現に発展を目前にして居住者の土地に対する執着は並大抵のものではない。門前払いを幾度も味わいながら牛歩の如くねばり強く、着実に話を進めた。
 山積する難問題対処に、これまでの出店にかつて例をみなかった現地折衝駐在社員を家族ぐるみで常駐させた。当時のもっとも重要な最後の詰めの段階に任に当っていた佐藤功は、田舎における警察官派出所を通称駐在さんと呼ぶが仕事の内容は違っても、その苦労がよく分ると云っていた。
 結局難問題解決し漸く建築敷地面積二、七〇〇平方米、の八戸市はもちろん仙台以北最高最大の百貨店が登場。
 続

大番1

連続テレビ小説といえば「おはなはん」、これは1966年の一年間放映。これで全国に名が通ったのが樫山文枝、ほんとうはこの役は森光子が演ずるはずだったが、運命の女神のいたづらで、森が乳腺炎、代役が樫山に、話の筋立てがよく、大当たり。視聴率は56・4%。脅威の大ヒットだ。
この連続テレビ小説の第一作が獅子文六の「娘と私」。これもいい味を出した。1961年の一年間テレビドラマ。この獅子は劇作家、九州中津の出身、当然同郷の大先輩の福沢門を叩き、慶応大学へ進学。業界小説の第一人者。その獅子が書いたのが「大番」株屋の話だ。これが実にいい味を出しているが、冗長な部分が多い。それを省略し圧縮したものを分割掲載。
大番 1
その年の八月二十八日は、ひどく暑い日で、日盛りの午後一時三十五分に、姫路発の鈍行列車が、東京駅へ入った時には、機関車も、汗みずくで、フーフーと呼吸を喘いでいた。
吏京へ着いたら、職を見つけるのは、造作もないだろうが、それにしても、誰かの世話になった方が早道だろうと、ふと、俵子長十郎の兄のことを思い山したのは、昨夜の汽車の中だった。
 長十郎の兄は、弁五郎といって、東京の日本橋のソバ屋で、働いてるという。ソバ屋という店は、鶴丸町にも、姫之宮市にもないが、ウドン屋のようなものであることは、弁五郎が帰省の時に、本人の口から聞いている。日本橋という場所の、そういう特殊な店で働いているからには、訪ねていけば、すぐわかると、思っていたのである。
 ところが、改札係りは、忙しそうに、「そういうことは、広場の交番で訊きなさい」と、次ぎの旅客の渡す切符に、手を出した。
 広場という語も、交番という語も、彼には、初耳であったが、そのとおり真似て、人に訊くと、駅前の巡査の立ってる場所に、辿りつくことができた。
「え?日本橋の橋かね?それとも、日本橋区かね?」若い巡査だったが、親切に、丑之前の相于になってくれた。
「さア、どがいですやろう」
「日本橋の橋だったら、わかりいいが、日本橋区となると、広いからね。せめて町名でもわからん限り、教えようがないよ」
「なんぼ、広うても、ソバ屋いうたら、すぐ、知れますらい。日本橋の方角を、教えてやんなせ」
「君、東京は、ソバ屋が、非常に多いんだよ。日本橋区だけだって、何百軒あるんだか、知れやしない。それだけの目当てで、訪ねていくのは、ムリだよ……。一体、君は、どこから、何の目的で……」と、巡査は、職務的な訊問を始めた、
 丑之助は、包み隠さず、一切を迷べた。所持金が、八十幾銭ということまで、話したが、家出の原因だけは、ボカして置いた。
「君のような、無鉄砲な男が、時々やってきて、交番を困らせるんだ。どうだね、旅費は、何とかしてやるから、このまま、郷里へ帰らんかね。.肉親も、心配してるだろうし、第一、東京で宿無しになったら、どんな人間でも、不良化するからな。警察の厄介にならんうちに、郷里へ帰り給え……」と、型のような説諭が、始まったが、この陽気な家出人には、無効だった。
 「そがい、いいなはらずと、せっかく東京へ出てきたのですけん、早う教えてやんなせ」
 丑之助は、確信を捨てなかった。日本橋、ソバ屋、俵子弁五郎と三つの条件が備わっているのに、いかに東京が広いといっても、目的を達しない道理がないと、考えていた。百軒近いソバ屋を歩いたが、今日探せなければ野宿してまた、明日探せばいいと考えていた。茅場町裏のあるソバ屋へ入った時に、天プラでも揚げてるのか、芳香が特に烈しく、彼は、まったく抵抗を失い、弁五郎を訊ねることも忘れて、ベッタリ、椅子の上へ、腰を下してしまった。
「入らっしやい」女中が、注文を聞きにきた。
「ウドン、一杯、やんなせ」
「おウドンは、何に致します」
「何でも、かんまんです、十銭のを」
 彼は、ソバ謎を歴訪してる間に、もりかけ十銭という字を、どこの店でも見ていた。
 運ばれたウドンかけを、彼は、驚くべき速さで、食べた。なんという美味であるか。汁まで全部吸ったが、とても、一杯では、我慢ができなかった。三杯、統けて、丼をカラにした。
 八十銭あるわ。もう一杯食べても、何とかなろうわい。
 四杯目を、注文した時に、人ロから、積み上げた空のセイロを片手に、ハチマキをした出前指持ちが、帰ってきた。
「オータ(喘きの間投詞)、あんた、弁五郎はんやないかい!」
 丑之肋は、イスを撥ね飛ばして、立ち上った。
 丑之助は、勝利を味わった。
 見なはれ、やっと見んけれア、わからんもんや。わしア、弁五郎を探し当てたやないか。
 誰にともなく、彼は、心の中で叫んだ。
 ところが、やっと採しあてた俵子弁五郎は、帳場で眼を光らせてる、主人の手前もあるのか、至って非友情的な態度で、
 「お前や、何しに、東京へきよったんぞ」
 と、頭ごなしに、叱りつけた。
 丑之肋は、一向に怯まず、頗る人に会った嬉しさを、満面に表わしながら、大きな声で、出奔の顛末を、話し始めた。ソバ屋の店先きとしては、異様極まる風景だから、二、三の客も、女中さんも、忍び笑いをして、見物している。
「おい、弁どん……」
 果して、帳場に坐ってる主人から、声が掛った。
「お客様のご迷惑だぜ。そんな話しは、裏へ行ってしなさい」
 弁五郎は、ソレ見ろという顔つきで、シブシブ、丑之助を連れて、裏口へ回り、釜場の熱気が、ムーッと流れてくる路地で、立ち話を始めた。
 「なんちゅう、トッポ作かいね。アテもなしに、国を飛び出してきよって……東京はな、今ひどい不景気やけん、職なぞありはせんぞ。量見変えて、早よ、国へ戻れ」
 俵子弁五郎のいうことは、結局、東京駅前の巡査と、同じなのである。
「そがいにいわんで、この店でええから、わしが働けるように、頼んでやんなせ」
 「いけんてや。お前のような田舎者が、自転車乗って、よう出前に歩けやせんわい」
「それでも、弁やんも、最初は、田舎やッつろ」
 丑之助も、負けていなかった。ウドンを三杯食ってから、一層、腹がすわってきたような、気分なのである。
「とにかく、わしア、お前の世話はできん、国へ戻れや」
「ほたら、職は自分で探すけん、それまで、ここへ泊めてやれんなせ」
「阿呆やな。そんな勝手が、雇い人のわしにでくると思うとるんか」
 丑之助のネバリが強いので、弁五郎も、声高に、争ってると、
「弁ちゃ,ん、ザル三つに、冷麦一つ、大急ぎで、xxさん……」
 と、女中が、出前を命じにきた。
「おい、ほんまに、量見変えないけんぜ」
 弁五郎が、店の方へ、立ち去った後で、さすがの丑之助も、これは、容易ならぬ事態が生まれたと、考えずにいられなかった。
 弁五郎、頼むに足らず。
 あの様子では、全然、丑之助を庇護しようとする意志が、ないらしい。彼も、東京へ出るうちに、すっかり、郷土愛を失ってしまったにちがいない。そんな男にすがっても、無益である。この上は、頼める人といったら、東京駅前の巡査だけである。あの巡査も、彼に帰郷を勧めるだろうが、既に販京の上を踏んでるのに、オメオメ、国へ帰ることはない。その決心を、あの巡査に話して、何とか、職業の道をつけてもらおう―
 そう思って、再び、東京駅へ引き返すべく、ズックのカバンを、肩にかけた時に、
 「あの、ちょいと……旦那さんが、あんたを呼んでますよ」
 と、また、女中が、姿を現わした。
 あ、そうか。
 彼は、先刻のウドンの代を、まだ払ってないことに気がついた。その勘定を、催促してきたにちがいない。こうなると、夢中で食ったウドン三杯の代金が、惜しまれるが、今更、仕方がない。
 女中に導かれて、熱い釜前を通り抜けると、帳場にたってる畳敷きがあって、そこに、主人が坐っていた。
「お前さん、何かい、東京で働きたくて、国を飛び出してきなすったのかい?」
 彼は、丑之助の頭から足の先きまで、ジロジロながめながら、訊いた。
 「はい、そうだすらい」
 「体は、丈夫そうだね」
 「はい、病気は知らんですらい」
 「年は、いくつ?」
 「十八だすらい」
 「どうだね、一所懸命、働く気があるかい」
 「はい、働くことやったら……」
 丑之助の瞳が、明るくなった、ソバ屋の主人は、どうやら、彼を雇い人れる気があるらしい。
「弁五郎に負けんで、働きますけん、どうぞ、使うてやんなせ」
「いや、あたしの家は、人手が足りてるんだ。お顧客さんから、小僧を一人頼まれてるんだがね。太田屋さんという株屋だが、大変、用の多い家だよ」
 「用の多いのは、かんまんですが、カブ屋ちゅうのは、何商売だすかいな」
 これには、ソバ屋の主人も、苦笑したが、さて、一口には説明がつかないのに、弱った。近代資本土義の申し子なんて、言葉を、彼は知らない。
「別に、悪い商売じゃないよ。まア、住み込んでみれば、わかるさ。といって、お前さんの仕事は、商売と関係はないんだ。店の掃除と、使い走りの小僧が、欲しいというんだからね」
「それやったら、一所懸命やります。あんた、さっち(是非)世話してやんなせや」
 丑之助は、顛を、ぺこぺこ下げ、そして、懐中に手を入れ、
「先刻のウドン、なんぼだすかいな、お払い申しますけん」
 と、ご機嫌をとるような声を出したが、
「お前さんから、金もとれないよ」と、主人は、横を向いた。
 そこへ、弁五郎が、出前から、帰ってきた。
「お前、こがいな所へ入り込んで、何ぞ」
 と、彼は、丑之助を叱りつけたが、主人は、
「そう、ガミガミいうもんじゃない。国の者の面倒は、見てやるもんだよ……。ところで、弁どん、坂本町の太田屋さんから、小僧を頼まれてるから、この人を世話しようと思うんだがね、あすこの旦耶が、お宅へ帰らないうちがいい、すぐ、連れてってやらないか……」
 その夕から、丑之助は、坂本町の現物店、太田屋に住み込む身となったのである。
 ほんとに、運のいい、丑之助だった。家出人が、東京へ着いて、その日のうちに、職にありつくなんて、滅多にあることではない。それというのも、日本橋区のソバ屋を、一軒一軒、尋ねて歩こうという根気に、運の神様も、根負けがしたのかも知れない。そして、頼りにした弁五郎が、意外に薄情だったことも、彼の好運に味方した。ソバ屋万久庵の主人も、弁五郎が普通の友情を示していたら、惻隠の情なぞ、起しはしなかったろう。
 そして、丑之助が、微々たる現物屋であるが、とにかく、株というものを扱う店に、ワーンジを脱いだということが、生涯の運勢に、関係することになったのである。
彼が、最初の奉公を、乾物屋とか、履物店とかで、始めたとしたら、恐らく、この小説は、生まれなかったと、考えられる。
 しかし、その晩の丑之助が、維からもチヤホヤされた、というわけでもなかった。
 「よし、置いてやるよ。ただし、月給は、五円しかやらないよ」
 太田屋の主人は、ゴマ塩の頭を、角刈りした男だったが、ロクロク、丑之助の身許も訊かないで、雇い入れをきめてしまった。まるで、駄犬でも、飼う時のような態度だった。
 五円の月給というのは、当時としても、低額に過ぎた。女中さんでも、七、八円から、十円の給料だったのである。しかし、そういう相場を知らない丑之助は、何の不服も、感じなかった。知っていたとしても、彼は、東京で、自分を雇ってくれる人に対して恩恵を感じたろう。
「それから、誰か、この男を、湯に連れてってやらないか。何だか、少し、臭うよ、この男は」
 主人は、本宅へ帰るために、履物へ足を下しながら、ニコリともしないで、そういった、店の者たちは、声を揚げて、ドッと、笑った。
 その時から、丑之助に対する軽蔑が、始まった。
「名前、何てえの?」
「赤羽丑之助だすらい」
「国は?」
「四国だすらい」
「モのダスライっていうの、やめねえか。気になっていけねえよ」ゝ
「やめますらい」
「まだ、やってやがら………君、万久庵の弁公の友達らしいな」
「友達の兄だすらい」
「何でもいいや。これから、弁公が働定とりにきても、おれの分は催促しないように、頼んでおくれよ」
「そら、いけんですらい、そがいなことは……」
 やがて、彼は、新どんという一番若い小僧と、銭湯ヘやられた。あんな大きな浴場も、風呂桶も、見たことがなかった。鶴丸町の森家の湯殿を覗いて、立派なのに、ビックリしたことがあるが、その比ではなかった。東京の偉大さを、痛感しないではいられなかった。
「おい、君、氷水飲んでいこう」
 新どんは、氷屋の前を通ると、丑之助を誘った。
「いや、わしは……」
 彼も、一日歩き回って、湯に入ったので、喉がカラカラだが、所持金のことを考えた。
「いいよ、オゴってやるよ」
 新どんは、事もなげにいった。
 二人は、氷アズキを、一杯ずつ食べた。
「わしァ、こがいにウマい氷水を、始めて、食べよりました」
 丑之助は、お世辞でなく、感想を述べた。
「驚いたね、君の国にァ、氷アズキないのかい。じゃア、今度、アイスクリーム、食わしてやらア。この方が、もっと、うめえよ」
 勘定を払う時に、新どんは、小僧服のポケットから、ジャラジャラと、五十銭銀貨をつかみ出して、その一枚を、抜き出した。丑之助は、横眼で、それを見ていて、ドキリとした。
 新どんの年齢は、彼と同じぐらいらしいし、店員のうちの最下位らしいが、それなのに、こんなに、金を持っていて、惜しげもなく、彼に氷水をオゴってくれた。察するところ、よほど、収入があるのだろう。彼の給料は、五円ときまったが、新どんの方は、五十円ぐらい貰ってるにちがいないと、羨ましかった。
 店へ帰ると、大勢いた店員の姿が見えず、残ってるのは、新どんより、少し年上に見える小僧一人だった。
「由どん、鈴木さんや、松本さん、もう帰っちゃったの」
 新どんが、訊いた。
「ああ、みんな、オタノシミだよ。おれは、このところ、大曲り(相場で損をすること)だから、店で飯を食うより仕方がねえや」由どんという小僧も、黒いセルの小僧服を着ていたが、上着は、脱いでいた。どうやら、小僧は、この二人らしく、以前、三人いたのを丑之助で、補充するのであろう。
 いつか、日が暮れて、飯時になった。店の片隅に、チャブ台が置かれ、サバの煮たのと、香の物だけが列んでいた。六十ぐらいの爺さんが、炊事の世話をして、女気はないらしかった。
 丑之助は、二人の間に畏まって、座を占めたが、飯を食い如めると、職を見つけて、安心したせいか、実にウマかった。汽車弁の白米も、ウマかったが、大きな飯ビツに充満している米粒の味は、また別だった。先刻、ウドンかけを、三杯も食ったのに、いくらでも入った。
 翌日から、丑之助は、丑どんになり、小僧の制服を着る身となった。 冬は紺のヘル地、夏は黒いセルの詰襟服で、黒いボタンがついてる。大会社の給仕の服だが、それを、株屋街の小僧さんに、数年前から、一斉に着用させるようになったのも、震災後の興隆気分と、何か関係があったかも知れない。それ以前は、角帯前垂れ姿で、呉服屋の小僧さんと、何の変りもなかった。続

2009年5月15日金曜日

弱者救済実践報告1 長坂保育園の巻

聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため、国・県・地方行政を斬って斬って斬りまくり、生活弱者・障害者及び高齢者の救護にあたり明るい社会を打ち拓く、これを信条として、「日本救護団」を立ち上げた。
 その実践が長坂保育園だ。これは根城にあるそうだ。存在を電話帳で知る程度だが、ここの待機児童が14名。保育内容が評価され、入所希望者が多いところだそうだ。
 これは子ども家庭課からの聞き取りで判明した。51億円が保育料として支出される。乳幼児は一月16万円だ。そうなると、一年間会社に行かず育児休暇で子どもを面倒見て、勿論、自分の子だから当然ではあるが、その間、16万くれてやれば、子どもは育ち、保育園での手荒な保育の心配もいらぬが、昨今の母親は猫より悪く、自分の子を殺すのもいるが、それはさて置き、幾許かの給料をあてにするより、16万円を一年間支払えば、保母の数を乳幼児に何人などの制限もなく、伸び伸びと子を育てられる制度こそ大事だ。
 妙に保育園に巨額な保育料を支払うより、子育て休暇で実母に金をやり、情愛のこもった保育をさせることだ。社会福祉法人の看板の陰で悪辣なことをし放題、野放し状態が現状だ。
 理事会は名ばかり、実体を知らせず理事の印鑑を自前で用意、総会を勝手に一名の参加者もなく開き、利益を国債にし、施設老朽化の立替に備えるは泥棒という。
 立替の原資は給料の中から出せ、この話をしていると今回の焦点がボケるので、これもシリーズで糾明だ。
 さて、長坂保育園は定員90名、この25%増を国が認めた。「日本救護団」団長の小川の友人、小泉が総理大臣をしていた時の話だ。
 90人の25%増は112・5人、それで八戸市役所は112人まで容れた。ところが0・5、これは切り捨てだ。半分でも人間だ。これを切り上げろと噛んだ。
○国からの保育料は25%を超えると出ないのか?
● そうではない
なら、切り上げで一名増員にしてやれ、直ちに今から、その手続きに入れ。明日は長坂保育園に行き、それが実行されたかを確認するぞ。
さて、コケコッコーで夜が明けた。ボツボツ長坂保育園に出向いて確認だ。
狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため今日も楽しく一日を送るゾ。高齢者になって、こうした楽しみがあるとは知らなかった、知らなんだ。

2009年5月14日木曜日

八戸市役所人事異動に異議あり

聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業、庶民の難儀を救うため、国・県・地方行政を斬って斬って斬りまくり、生活弱者・障害者及び高齢者の救護にあたり明るい社会を打ち拓く、これを信条として、「日本救護団」を立ち上げた。
子ども家庭課長の貝吹賢一氏が役所を退職された。身だしなみのいい、腰の低い、そして仕事熱心な紳士だ。この好人物を八戸市役所は失った。
 その理由は市民病院への異動。これに氏はやりのこした、積み残した仕事があると、異動を拒否した。これは当然の権利だ。
 大体、今回の異動の愚かなことは、万年赤字垂れ流しの市営バスの責任者を防災室長とし、嘘ばかり抜かした防災室長をバスの責任者にした。これをデンスケ賭博という、右に左に置き換えて、市民の目玉をごまかした。
 大体、男には二種類ある。男っぽい男に女っぽい男だ。オカマの話じゃない。男の話だ。大木がある。夏には大きく広げた枝の下で、人々は暑さをさけて憩う。にわか雨には木陰で雨宿りだ。遠くから見る人には、ランドマークとして、心の拠り所にもなった。
 貝吹賢一氏はまさにそれだった。この課は51億円の保育園への補助をする、市役所でも指折りの支出が多い課だ。その保育園は社会福祉法人、これらが定期総会もせず、隠した所得で国債を購入、無税を悪用しシコタマ悪銭を貯め込んでいる。
 これらを解明し、不届きな社会福祉法人糾弾の狼煙を上げるのが今、そのための「日本救護団」だ。諸悪を潰し、金の流れを透明にし、庶民の難儀を救う。
 補助金は支出行為にそれぞれ、領収書を添付しなければならない。積年、役所はこれを見過ごし、業者と癒着を繰り返した。
 今までは月刊誌、ブログで糾弾したが、これからは都度、街頭で宣伝カーで糾明していく。もっと、庶民に我々「日本救護団」の運動を知らしめる必要がある。昨日から、「日本救護団」は複数で行動している。佐々木泌尿器科の倅が、「はちのへ今昔」は暴力団と二人で市役所を脅かしていると書いたことがあったが、一人でも世直しが出来ると盲信していただけだ。そんなことで世の中は変わらない。人が嫌がることを徹底して行動し、相手に存在を認識していただかなければ、ゴミ、塵の類でしかない、あるいは無いほうが喜ばれる。ところが、人間の面白いところは自ら行動するところにある。
 相手に認識してもらうことから始まる、それにはうるしさい、面倒だの顔に現れるささいな表情から悟ることができる。相手の認識度が深まったのだ。武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが、おのが稼業で、拡げる努力は並大抵じゃない。
 さて、ランドマークになれるような大樹、大木は台風にも立ち向かう。うまく凌げればいいが、ダメなときは倒れる。ところが柳はナヨナヨして風を受け流し、台風も難なくこなす。これが女っぽい男だ。その場をなんとか取り繕い、その場で生きることに執着する。だから、ああでもないこでもないと、相手に迎合しながら、立場を理解させる。
 大樹は折れるときは倒れる、柳は残る。貝吹氏は大樹だけに折れる。人事異動を再考すべきではなかったのか。人事課の考えに間違いはなかったのか。既定路線を押し通すことで咎めが出た。それが、辞任だった。惜しい人材だった。何十年もかけて役所は人物を育てる。それが最後の最後で折れた、倒れた。いや、倒したのサ。
 総務部長の猛省をのぞむ。

2009年5月13日水曜日

「はちのへ今昔」廃刊

ながらくお見せしたが、間もなく、このブログは閉鎖し、世直し政治結社「日本救護団」を立ち上げる。
 月刊誌、ブログを通じ、行政の矛盾にぶち当たり、これを是正することこそ、己が稼業と知り、政治結社の届けを昨、五月二十一日青森県選挙管理委員会に提出。公認の政治結社「日本救護団」が誕生。
 これからは、「はちのへ今昔」単独の動きではなく、団員ともども行動する。街頭宣伝車を大型ベンツと定め、ただいま工場にて改装中。6月からは街頭にて、主義主張を訴え始める。
「日本救護団」の趣旨は団則の中に記載されている。
日本救護団団則
第1条(名称・所在地)
  本団は、日本救護団と称し、主たる事務所を青森県八戸市に置く。
第2条(目的)
  本団は、生活弱者・障害者及び高齢者の救護を目指し、その実現にむけあらゆる政治活動を行い、あわせて青森県政、八戸市政の発展と県民、八戸市民生活の向上を図り、さらに団員相互の親睦を深めることを目的とする。
第3条(事業)
  本団は、前条の目的を達成するために次の事業を行う。
   1 講演会、座談会等の開催
   2 団報等の発刊及び配布
   3 関係諸団体との連携
   4 その他本団の目的達成のために必要な事業
第4条(団員)
  本団は、第2条の目的に賛同し、入団申込書を提出した者をもって団員とする。
第5条(役員及び選出と任期)
  本団に次の役員をおく。
  団長、副団長、幹事、会計責任者、事務局長、監事。
団長は総会において選出し、それ以外は団長が任命する。役員の任期は2年とする。ただし、再任を妨げない。
第6条(団議の種類・招集)
  団長は、毎年1回の通常総会その他必要に応じ、臨時総会、及び役員会を招集する。
第7条(経費)
  本団の経費は、団費(年額5000円)、寄附金その他の収入をもって充当する。
第8条(団会計年度及び団会計監査)
    1 本団の団会計年度は、毎年1月1日から12月31目までとする。
    2 団会計責任者は、本団の経理につき年1回監事による監査を受け、その監査意見書を付して総団会議に報告する。
 附則 本規約は平成21年5月10日から実施する。
 
趣旨に賛同のかたは45・3344「日本救護団」まで連絡を乞う。庶民の声を国・県・八戸市に必ず届ける。

2009年5月12日火曜日

司馬の東條英機3

日本軍が深刻な砲弾の欠乏になやんだ最後の大会戦である奉天会戦もそうだった。日本車はありったけの兵力を横一線にならべてロシア軍に対し、自分の大を見せた。その実用兵上必須ともいうべき予備隊(後方に控えさせる兵力)まで前線にくりだして横の線をながく大きくした。実際は絹糸のようで、どの部分にも厚味がなく、もしロシア車がその気になれば突きやぶれたのだが、ロシア軍はそのつど幻惑されて後退し、結局はアメリカ大統領による調停によって、戦いそのものを終えた。
 敗者のロシア陸軍はその後、このときの戦訓を研究し、やがてソ連軍に継承され、かれらは「縦深陣地」という新奇なものを考案した。それがソ連の野戦における型になり、ノモンハンの戦場にも、その祖形というべきものが登場し、攻勢主義の日本軍をそのつどくだいた。縦深陣地という野戦陣地は、かつての日露戦争のときのように横一線でなく、タテにふかい矩形なのである。
 タテ長の矩形の陣地内部は縦横濃密に火線が構成され、たとえば攻撃主義の日本軍の戦車がとびこんできても、まず前面のピアノ線でキャタピラーをからめとる。ついで対戦車砲でうちとってしまう。たとえ日本軍がわずかに内部に入ったところで、側防火器とよばれる火力でくだき、また攻撃主義の日本の歩兵部隊が肉弾突撃してきても自動小銃によってなぎたおすというものであった。
 この双方のちがいは、日本陸軍が日露戦争の肯定から出発したのに対し、ソ連陸軍は否定から出発したことによる。すでに日本の参謀本部も陸軍大学校も、日露戦争後、墨守しつづけてきたお家芸の対ソ戦法がなんの役にも立たなくなったことを知りはじめていた。しかしそれを反省するまもなく、二年後にかれらは日本国を太平洋戦争に突入させるのである。
 そういう無思慮集団のたばねとして東條がいた。
 アメリカにはゆらい戦術というものがありません。わが陸軍にはあります。という意味のことを、東條の子分のひとりである軍務局長・陸軍少将佐藤賢了が国会の答弁でいったことがある。
昭和十八年三月一日の衆議院決算委員会での質問に対し、佐藤が、アメリカ軍について詳細なる解剖を加え(「朝日新聞」)て、以下のように答弁した。
 一、米陸海軍は実戦的訓練にとぼしい。
 一、大兵団の運用がはなはだ拙劣である。
 一、米陸軍の戦術はナポレオン戦術にあって、多くの欠陥をもつ。
 一、政略と軍略の連繋が不十分きわまる。
 正常な人間のいうことではない。
 明治時代のある時期まで、陸軍大学校には教科書がないということが誇りとされた。が、その後、教科書ができることで、日露戦後の用兵思想は慣習として集積された。終戦のときの陸軍大臣で、終戦とともに自決した阿南惟幾は、大正七年(一九一八)、陸軍大学校を卒業した。かれは和平原に反対し、あくまでも抗戦を主張し、その理由の一つとして、「わが陸軍はまだ主力決戦をやっていない」といったといわれる。日本陸軍は現実には潰滅してしまっているのに、学校でならったこと(主力決戦)をまだやっていない、というのである。
 東條とは何者か、などということを語る必要もない。繰りかえしいうようだが、かれはたいていの事務所に一人はいる謹直な書記といった資質のひとだった。
 カミソリという異名をもったほどに事務やその運営についてこまごまと遺漏なくやる一方、他人の事務的ミスをめざとく見つけ、きびしく指摘したりした。
 が、独自の世界把握の思想があるわけでもなく、人生観についても借りものでない哲学をもっているわけでもなかった。陸海軍の実勢さえ知らないのに、格別な軍事思想をもっているはずもなかった。とくにあるとすれば、士官学校時代に学んだ。弱気になるな必ず勝つと思え。味方が苦しいときは敵も苦しいのだという素朴な戦争教訓だけだった。
 かれは、卵形の頭をもっていた。メガネと口ヒゲを描くだけで似顔ができ、一種の雄弁家で、鳴る薬曜といった感じでもあった。軍隊には、中隊長(ふつうは大尉)以上の団隊の長は精神訓話という演説をする習慣があり、かれもそのことに馴れていたのか、よく演説をした。
 『東條首相聾明録』(昭和十七年、誠文堂新光社刊)という本がある。
 開戦より六ヵ月前の昭和十六年六月十三日、かれは早稲田大学にまねかれて講演した。ときに五十八歳、陸軍中将で、第三次近衛内閣の陸軍大臣だった。
 このときの演題は、「学生諸君に要望す」というもので、まず世界情勢を説き、欧州においては「大部を席捲したる盟邦独伊は……疾風枯葉を捲くの電撃作戦に成功し」といい、一方において英国は「血みどろの大決戦を展開」し、米国については「授英態度は日一日と硬化しつつあるのでありまして」といったぐあいに平板につづいてゆく。
東條は自分自身について政治家とよぱれることをきらった。が、それなりに政治的能力を発揮した事歴があった。第三次近衛内閣のとき、中国からの撤兵問題が出た.東條は撤兵問題は陸軍の生命にかかわる、絶対に撤兵しない、と主張しつづけて、結果として近衛内閣をつぶした。
 あとたれが首相をやるか。陸軍さえおさえれば国がすくえるという良識をもった要人が多くいたが、ただかれらをおさえるだけの政治力をもった首相適任者はもはやいなかった。前首相の近衛文麿は、皇族しかないだろうと考えたりした。
 ところが、おもいもよらぬことに、東條そのひとに大命が降下してしまった。
 当時、内大臣(宮内大臣とはべつ)というふしぎな職があり、一八八五年以来、政府ではなく宮中に設けられてきた。この当時の内大臣は、木戸幸一だった。大正末以来、西園寺公望がその任を負ってきた。その西園寺が昭和十五年になくなると、内大臣の木戸幸一がその任を負うた。その木戸が、東條を推したのである。
のち、東條は、戦況が悪化するとともに、全国を兵営にしてしまうというふしぎな全体主義を進行させた。また世論を閉塞させるために、本来、陸軍のポリスであるはずの憲兵をかれは政治警察のようにつかい、恐怖政治を布いた。
 東條政権の後半は、不評判だった。しかしながら、首相としてのかれの生みの親だった木戸内府(内大臣のこと)だけはかれをかばい、支持しつづけ、さらには東條を批判する声や意見、あるいは戦況の実態については、いっさい奏上しなかった。
 まことに、木戸は明治憲法国家を滅亡させるための要の役をなした。かれが酋相としての東條を生み、その政権を維持させた。国家も民族もほろびようとしているなかでも東條がその座にいることができたのは、単にそれだけの事情だった。ついでながら、この場合、天皇は、なにをすることもできなかった。
 明治憲法にあっては、天皇は自分自身の発意による政治行動はせず、すべてその衝にある者(この場合、木戸や東條)の輔弼(明治憲法の用語)にまかせるということが、あるべき立憲的態度とされてきた。
 となると、当時の日本をうごかしていたのは、東條という木偶で、それをささえているのは木戸という黒衣だったことになる。こういう形態も仕組みも、明治以来かつてないものだった。戦後、明治をふくめた日本の体制について天皇制国家などと断定されたりもしたが、そういうことは、東條時代だけのことで、他の時代にはない。
 さかのぽったところでせいぜい十年程度で、そのもとはといえば、軍が、統帥権という憲法解釈上の慣習の項に入るべき大権をことごとしく擁し、本来の三権(立法・行政・司法)を超越するものとして魔法の杖のようにつかいはじめてからのことである。
 どのような超法的行為でも、統帥権をもちだすことによって一見合憲的になるなとは、明
治時代、憲法草案者の伊藤博文たちが生きていたころにはおもいもよらないことであった。
 東條は、日本国をヒトラーのドイツに似た全体主義にしたかったのだが、明治憲法が停止されているわけでもないために、臣道ということばをキーにして、国民の一人一人をステロタイプの小さな缶のなかにとじこめようとした。人間を成り立たせている精神的要素のほとんどをとりのぞいて臣道だけに縮小しようというもので、のちに、この時代のことを。天皇制ファシズム’などというのは、そのせいでもあったろう。臣道などというふしぎなことばは、東條以前、近衛内閣のころからつかわれはじめたが、戦時社会における唯一の国民精神の規範にしたのは東條であった。
もはや、東條の驀進を阻む機関も、その非を鳴らす機関もなくなった。
 独裁者はつねに自分の死を質草に入れて成立している。東條が国家と民族をほろぼす、とおもったひとびとにとって他の薬殺がなく、東條の死をつくりだすしかなかった。
 が、東條は他の国のどの独裁者よりも凛然としていた。
 かれは、官邱への通勤にはオープン・カーをつかい、殺すなら殺せというふうに自分を露出していた。
 かれは、一種のひま人だった。庶民の家のゴミ箱をつつくのが大好きで、それをすることで国民が無駄をしていないかどうかを(つまり戦時経済がどうなっているかを)しらべたりした。少尉か中尉がつとめる週番士官のようなことを宰相でありながらやっていた。そのような点検(軍隊用語)をするためにも、オープン・カーをつかった。

2009年5月11日月曜日

司馬の東條英機2

 のちに、戦争の末期、右のような銃さえ十分ではなくなり、東條英機によって民間人の竹槍による訓練が奨励されるようになった。東條は、右の陸軍准尉以上に陸軍准尉的だった。
 たとえば、軍事の専門家なら、東條がいくら陸軍軍人とはいえ、当然、対米戦争を決断するにあたって、日本海軍の成りたちとしての本質や実力も知っているべきだったろうが、ほとんど無知にちかかった。
 当時の日本海軍についてひとことでいえば、長期戦には耐えられなかった。日本海軍には固有の戦法があって、仮想敵国の主力艦隊が日本近海(日露戦争でいえば、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストック港にむかうべく入ってきた対馬海峡)に接近したとき、総力をあげて(連合艦隊を組んで)これを迎えうち、撃滅するというものだった。くりかえすと、日本列島付近でまちぶせして主力決戦をするということである。
 ひろい太平洋で戦うようにはできておらず、従って、連合艦隊は一つきりのセットしかなく、一会戦で消耗すれば、それっきりのものであった。
 もともと、当時の日本としてはそれでよかった。大海軍というのは、国威などという国家的虚栄でもつべきものでなく、地球規模の植民地をもつ大帝国(十六世紀のスペインや十九、二十世紀初頭の英国)にとっての実用品というべきものだったのである。
 植民地大帝国は、世界じゅうの植民地を結ぶ商船隊の保護なくして成立しない。
 ただしアメリカ合衆国の場合は、本国じたいが長大な海岸線をもち、かつ大西洋と太平洋にわかれているために、大艦隊は最低二つのセットが必要だったし、それに二十世紀初頭、フィリピンを植民地にしたために、そのぶんだけ海軍力をふやさざるをえなかった。
 日本の場合、かつてのスペインや、盛時の英国のような地球規模の植民地があったわけではない。
十九世紀末、日露戦争の前段階、ロシア艦隊に対抗するために大海軍を建設せざるをえなかったのである。
 日露戦争でロシア艦隊を沈めることに成功したあと、日本としては二十世紀後半の英国のように海軍を縮小してもよかったのだが、軍の縮小は軍を構成する職業軍人の首切りを意味するため、抵抗が多く、とうてい不可能だった。幸いというわけでもないにせよ、日露戦争の前後からアメリカがフィリピンに対して本格的な統治をはじめたために、日本海軍は、仮想敵をアメリカにかえた。しかもその仮想敵は、日本海軍が思うようなコースをたどって日本列島にやってくることになっていた。
 つまりかつてバルチック艦隊が沖縄の列島沖をへて対馬海峡に入ってきたように、来たるべきアメリカ艦隊も、フィリピンを中継基地として北上してくると見、そうあらねばならぬとしていたのである。
 この机上の仮定は、海軍の存亡を賭けたほどに牢固としたもので、その仮定をマスタープランとして、二十世紀のはじめごろから、建艦をし、戦術をたてた。
 たとえば、潜水艦にしても、ドイツのUボートやアメリカの潜水艦のように通商破壊が主任務ではなく、日本の場合、フィリピンから北上するであろうアメリカ艦隊を、日本への途中、海面下でまちぶせしてすこしずつ艦艇を減らさせ、のちにおこなわれる艦隊決戦のときの敵兵力を軽くしておくというために存在した。
 このように、軍事という一面からみても、戦争というもののおろかしさがわかる。敵が都合よくフィリピンからやってくるなど、妄想のようなものであった。
 しかし妄想を公算の大きさというあいまいな言葉に置きかえられると、いかにも妥当性を帯びる。
 この妥当性の上に海軍の基本戦略がたてられ、予算のかたちで国民に税負担が強いられた。それが、基本としての日本海軍というものであった。
 この基本戦略は、太平洋戦争がはじめられる二年前の昭和十四年でもなお維持されていたことは、海軍大学校に入った知人からきいた。兵棋演習においてくりかえしシナリオが演じつづけられていたという。あたかも、日露戦争の再演だった。
 兵棋演習というのは、駒を進退させているうちにほぼ両者の実勢がわかる。敵味方が。主力決戦をして、日本の損害が四割ですむ場合もあったし、ときに六割の損害をうけて敗北することもあった。つまり勝っても負けても日本海軍そのものが半身不随になるわけで、連合艦隊がそれっきりしかないためにそのあとの戦争の遂行などはできなくなってしまう。
 要するに、日本海軍は、世界を敵にまわして戦うようにはできていなかった。
 ついでながら、兵棋演習を裁定し、評価する戦術教官のことを統裁官という。さきにふれた私の知人の海軍大学校学生が、内心、戦争はその後もつづくのに、この主力決戦で幕というのはどういうことだろうとおもい、あるとき統裁官にきいてみたという。
「これでおわりでしょうか」
「これでおわりだ」と、統裁官はいった、という。さらに知人が質問をかさねると、統裁官は一段と大声で「これでおわりだ」と言いかさねた。おそらく実態を察せよ、ということだったのだろう。
 東條は長年、軍で衣食してきた。たとえ陸軍といえども軍事の専門家である以上、海軍の基本的な形質を知るべきだったとおもえるが、とてもそういう知識をもたなかった。たとえ海軍がその実態を陸軍に教えなかったからといって、この程度の把握は自分の頭でまとめることができるのである。
 結局、かれらは、太平洋戦争をやった。
 日本にとって戦争をする国家としての資格を欠いていたのは石油を産出しない国であるということだった。二十世紀のある時期から、軍艦も陸軍の車輛も石油でうごきはじめるようになっており、このため戦争を継続する以上は産油地である南方のボルネオその他をおさえる必要があった。そのためにぼう大な陸軍兵力を南太平洋の島々に展開せざるをえなかった。
 この大作戦は、日本陸軍の伝統的用兵思想とも相反するものだった。伝統的用兵思想とは、明治三十年前後、陸軍参謀本部でつくられ、かつ日露戦争で成功したため、昭和になってもその用兵上の型が牢固たる習慣になった。
 日本陸軍の型というのは、まず攻勢主義であることだった。
 ついで、兵力を集中して短期決戦によって敵の野戦軍主力を撃滅するという思想だった。短期でなければ補給がつづかない。
 これらについては、日露戦におけるいくつかの大会戦が、その成功例になっていた。この慣習化した思想のためには、敵主力が都合よく一定の戦場に集中してくれないとこまるのである。むろん、海軍と同様、敵がこちらの慣習用兵の注文に応じてくれるわけではない。が、海軍と同じように、それを願望した。
 つまりは、陸軍の場合も、敵が注文に応じてくれるという願望の上に基本用法がなりたっていた。
 さらに、短期決戦であるためには、日露戦争における日本の首脳がアメリカ合衆国の大統領を仲裁役にひきこんだように、いつの場合でも中立的な友好国を用意しておく必要があった。
 中立的な友好国を得るには、世界の嫉妬心や猜疑心あるいは人道主義的世論を刺激することは極力避けねばならないが、軍の謀略による満洲帝国の樹立(昭和七・一九三二年)や、中国本土に兵を入れて四方を駆けまわらせ、中毒患者のようにその事変をやめることができなかったことなどから、日本は国際的に孤立した。
さらには、日独防共協定(昭和十一・一九三六年)を結ぶにいたって、わずかな友人を得て大量の敵をつくった。つねに仲我国を想定しておくという戦略思想は、軍人のほうから忘れた。満洲事変から日独伊三国同盟にいたるまで、すべて陸軍が主唱し、主導した。
 東條やその陸軍仲間が陸軍大学校で学んだ用法は、すでにその実をうしなっているはずだった。たとえば昭和十四年のノモンハン事変のソ連軍の新戦法によって、くじかれた。ソ連軍は、日露戦争の敗北についての戦訓をよく研究し、あたらしい野戦形式をとっていた。
 このことについてややくわしくいうと、日露戦争における満洲の平野での数次の大会戦では、日露ともに鷲がつばさをひろげたように横に展開し、たがいに対峙した。たとえば遼陽会戦では双方二万人以上の損害を出しながらも、ロシア軍が後退してくれたことによって日本軍が勝った。

2009年5月10日日曜日

司馬の東條英機

東條英機(一八八四~一九四八)という名には、滑稽感がともなう。
 むろん、昭和史という暗澹とした時代を、いっそユーモラスにみたいという後人の衝動から出た滑稽惑であって、歴史の惨禍はそれどころではない。
 まして東條その人に諧謔精神があったわけではない。このひとにそんな高度な批評能力をともなう感覚などはそなわっていなかったし、たとえば明治時代の小学校教員のようにまじめで、篤実な小農のように働き者というだけの人だった。
 そういうひとが明治憲法による日本国をほろぼしたことは、たれでも知っている。
 しかし同時に、たれもそうは思っていない。東條が日本をつぶすほどにえらかった、などとは、むかしもいまも、たれもおもっていないのである。
 ドイツの場合、ヒトラー一人に罪をかぶせることができるが、東條はヒトラーほどの思想ももたず、魅力ももたず、また世界を相手に戦争をしかけるにしては、べつだんの戦略能力ももっていなかった。
 その程度の人が、憲法上の(慣習もふくめた)あらゆる権能をにぎって、決断ごとに日本を滅亡にむかわせた、というのが、昭和史の悲惨さである。かれ自身、自分がやっていることが亡国につながるとは夢にもおもっていなかったのである。みじめこの上ない。
 机というものは単に木製か鋼板製の物質にすぎない。ただ、日本では、官僚組織における机が、権限とそれなりの思想をもっている。厚生省某局某課の課長の机がその人の行動をきめるのであって、その机を前にしている個人の思想はさほどに機能しない。
 日本史には、英雄がいませんね。
 といったアメリカの日本学者がいて、じつに的を射ているとおもったことがある。この場合の英雄とは、始皇帝とかアレグザンダー、シーザー、ナポレオンといったもので、強烈な世界意識と自己への崇拝心、旧来のすべてを破壊してあたらしいものをおこす者、さらにはカリスマ性と戦法の一新という要素などをもつ存在のことかとおもえる。
 ともかくも、東條は前述の意味での机にすぎなかった。ただ、かれはある時期以後、首相の机と陸軍大臣の机と参謀総長の机をかきあつめ、三つの机の複合者としての独裁権をえた。ヒトラーの場合、ワイマール憲法を事実上停止することによって国民革命を遂げ、その政権を成立させたが、東條は明治憲法下の一軍事官僚という机にすぎず、その机が明治憲法下での内閣を組織し、明治憲法の手続によって対米宣戦を布告し、戦争を遂行したのである。すべて天皇の名においてやった。
当時、無数の小東條がいた。陸軍はその巣窟だったし、それに迎合する議会人、官僚や言論人、あるいは無数の民間人がいた。
 その種の時代的気分が、寄ってたかって憲法における統帥権の悪用を可能にしたといっていい。
 陸軍に秀才信仰というのがあった。日露戦争の陸戦をなんとか切りしのげたのは、そのおかげだったということを、陸軍そのものが組織をあげて信じていた。当時、各軍の軍司令官や師団長というのは年寄りで正規の軍事教育をうけなかった者が多く、これらに対し、そのそばに陸軍大学校を卒業した参謀長や参謀をつけ、結果として、他の多くの因があったにせよ、勝利をえた。
 以後、陸軍は秀才主義をとり、津々浦々の少年を選抜して陸軍幼年学校に吸収し、さらに中学四年修了者をふくめて陸軍士官学校にかれらを入学させ、卒業のときの成績順をもって生涯の序列とした。カーストのようなものだった。
 さらに少尉任官後、一定年限をかぎって全員に陸軍大学校の受験資格をあたえ、ごく少数を選りぬいて、高級用兵に関する学術を習得させ、参謀と将軍を養成した。この場合の卒業席次も、その後の栄進に影響した。
 東條を成立させたのは試験によるそういう制度だけだったといえる。
 かれは、べつに国家を支配したり、大戦争をやってのけたりするうまれつきの器質をもっていたわけではなく、ただ履歴によってうまれただけの人物だった。大正四年(一九一五)、歩兵中尉のときに陸大を卒業し、以後、その基礎に立って官歴をへた。数度の部隊勤務があ
ったものの、ほぼ中央でのポストを経、昭和十二年(一九三七)関東軍参謀長、その翌年は陸軍次官、昭和十五年、第二次近衛内閣のときに陸軍大臣になり、いわゆる昭和軍閥の頂点にたった。
 かれはあるとき、言葉のやりとりのなかでのことながら、「ヒトラーは兵卒あがりである。しかし自分は陸軍大将である」といったことがある。
 軍人の社会は、一般社会からきりはなされたところで成り立っている。束條がこの官歴のなかで、人間世界の過去と未来、さらにはその交点にあって進行している現代というものを、ときに歴史規模で、ときに国家や人類に責任をもって見つめるという成熟した知性、良識、あるいは哲学などを養った様子はなかった。
 かれは、子供っぼかった。ヨーロッパでいえば、聖歌隊の優良少年のように、教会のすべてを信じるというぐあいで、日本国を一個の聖堂とみて、その神秘をあどけないほどに信じていた。その点、善良ということばをつかいたくなるほどである。
 しかし、軍事専門家としても宰相としても低能に近かった。
 いったい、東條の資料をみると、何を考えて生きていたのかと呆然とする。かれが日中戦争(一九三七~四五年)をはじめたのではないにせよ、陸軍の要衝にいたとき、中国大陸では戦争が泥沼におちいっていた。宣戦もしていないのに、戦争状態をつづけていたのである。
日本は事変とのみ名づけ、このためにぼう大な戦費と兵員を中国大陸に送りつづけており、終わるめども立っていなかった。
 帝国主義は本来、利益計算の上に立っている。
 あなたは、国家としてどんな利益を中国からひきだすつもりだったのですか。と、もしここに東條その人がいるならば、きいてみたいところである。中国からひきだせる利益などなにもないのに、陸軍は、頭脳のない戦争機械のようになって自他の人間を殺しつづけていた。
 その上、中国との戦争を一方でやりながら、その間、関東軍(旧満洲)が独走して、べつな場所でソ連軍とのあいだでノモンハン事変(一九三九年)をおこしてしまった。陸軍は、国力の消耗についての計算など、まったくやっていないようだった。
 ノモンハンでの相手は、ヒトラーとともに、二十世紀が生んだ悪魔ともいうべき、スターリンなのである。かれは西方のヨーロッパ問題にぞんぶんに鼻をつっこむために、東方での後顧の憂いをのぞいておこうという政略判断から、この辺境問題を重視し、当時のソ運でもっとも有能とされるジューコフ将軍を起用し、かれが要求するままにふんだんな兵力と火力と機械力をあたえた。
 ついでながら、ジューコフは兵卒あがりの将軍だった。名将というものはうまれつきのもので学校教育によって生産できるものではないということの典型のような存在であった。
 関東軍はソ連軍についての実態をほとんど察していなかった。当初、軽悔さえしていて、このため兵力の逐次投入という戦街上の禁忌をおこない、死傷七〇%を超えるという惨憺たる結果をまねいた。
 日本陸軍では、関東軍が最強とされてきて、世界一だという自負心まであった。この事変によって、日本陸軍は、自らの装備がおそろしく旧式だということを、敗北によって気づかされた。しかもなんの手もうたずに、さらなる対英米戦争に突入するのである。東條はじめ陸軍の首脳が、正常な軍事専門家だったとはとてもおもえない。
 私事になるが、ノモンハン事変の昭和十四年には、私は旧制中学生で、すでに新聞を読む年齢だったが、この事変についての敗北も実相も伝えられたことがなく、どの記事もなにやら勝ったらしいという印象だった。このことだけでなく、総じて煙のようなリアリズムの時代だった。
 さらに小さな個人的経験をいうと、大阪城にちかい府立清水谷女学校の前の坂をのぼっていたとき、電柱にノモンハンの敗戦を公表せよといったふうな駄菓子っぼい色彩ビラが貼られていて敗戦という文字が私をおどろかせた。日本軍はむかしから不敗であるという神話をきかされていただけに、中世のキリスト教徒が聖母マリアの醜聞でもきかされたように思えた。
 (敗けたのか)
 と、少年の頭にも、そのことがまんざらデマでないような気がした。このときから五年後に、私は当時ノモンハンで凄惨な敗北を喫せざるをえなかった安岡戦車団の後裔の連隊に属するということになり、ようやく日本の戦車団の敗因が、物理的なものであったことを知った。こちらの戦車の装甲が薄く、砲が平射砲でなく、貫徹力がにぶかったことによる。むろん戦車の数が比較にならないほどすくなかったし、さらには、その程度の戦軍団でさえ、戦いの途中で上部の命令によって戦場からひきあげてしまい、あとは裸の兵士たちが草原に残された。兵たちの多くがソ連のBT戦車と火カのえじきになった。軍がこの戦場から戦車をひきあげたのは、全滅してしまえば、せっかく育成されはじめた戦車連隊の種子が絶えてしまうことをおそれたためであった。
 ついでだから、中学生当時のちいさな記憶を述べておく。当時、学校教練というものがあって、現役の少佐一人が配属され、その補助者として、予備役の中、少尉や准尉が歩兵訓練を施していた。そのうちの古ぼけた准尉のひとりが、「よその国には自動小銃というものがあるが……」といった。小銃ではあっても、機関銃のように、引鉄をひきっぱなしで五、六十発も連続発射できるものを自動小銃という。これに対し、日本の小銃は、ボルト・アクションとよばれる構造のものだった。
 一弾ずつの操作で遊底(ボルト)をうごかして弾をこめ、一発うつと、また空薬莢をはね出さねばならない。この日本陸軍の携帯火器の主力をなす三八式歩兵銃といわれるものは明治三十八年(一九〇五)の日露戦争の末期に制定されたもので、ほかにノモンハンの年の昭和十四年(一九三九)に制式になった九九式が併用されていたが、両者は原理も構造も大差がなく、要するに自動小銃の出現によって一挙に古道具になってしまったものなのである。といって、日本はそれを廃棄していっせいに自動小銃にしてしまうような経済力はなかった。
 「そのほうがいいんだ」と准尉はいった。おそらく師団に講習でもうけに行ってきかされた内容にちがいない。
 その理由はだ、一発ずつ遊底操作をすることで心をしずめることができるからだ、とかれはいった。
 いいか、射撃の要は、風なき日の古池の水面のように心がおちつかねばならん、一発ずつの操作があってこそ、それが可能である。自動小銃だと、狙撃のいとまがなく、弾がばらついてしまって効果がない………
 要するに、日本の小銃のほうがいい、と准尉はいう。旧式であればこそ、あるいは弱点をもてぱこそ人間は精神的になりうる、という神学としか言いようのない昭和時代の日本陸軍の思想は、軍隊でない学校教練の場にもあらわれはじめていた。

2009年5月9日土曜日

司馬の土地所有観

さて、奈良時代の仏教のことをのべねばなりません。
 隋・唐は、国家仏教でした。なにしろ大乗仏教は小乗仏教とちがい、金がかかるのです。造寺造仏を伴います。結局は国家仏教になるわけで、これに帰依しますと、帝王といえども三宝の御奴として仏教の下に入るのです。僧は官僧として国家公務員であり、鎮護国家という国家的原理を背負っていますから、ときに俗官俗吏を圧倒します。
 その上、平城京に巨大官寺が集中し、弊害が多かったろうと推量させます。
 奈良朝国家がわずか七十年余で奈良をすてて、のち京都とよばれる平安京にうつった、その主要な理由は、おそらく鎮護国家という大それたものをふりかざす仏教から脱出したかったのでありましたろう。奈良仏教は、ソ連や中国における共産党のようなものでありました。
国家の上に立ち、それを鎮護する形態においてです。
 この機微については、あたらしい平安京(京都)にあっては、官寺を置かせなかったことで察しがつきます。さらには、新しい都では、最澄と空海に、国家よりも人間を救済する新教義をひらかせました。かれらの寺も、叡山と高野山といったように、都から遠ざけました。以上で、仏教についてのことは、とどめます。
 平安京にうつると、律令制がくずれてきます。律令制、つまり公地公民であるべきことをたてまえとしつつも、荘園という貴族や大寺などの私有農場がふえるのです。
 平安期は、荘園という私領の時代であります。そのくせ、官制だけは、名のみの律令なのです。
 明治維新までそうでした。日本史は、こういう体制の基本的矛盾を平然とかかえてきました。
 平安後期ごろから、おそらく鉄が安くなったせいか、農業器具がふえ、各地で力のあるものが浮浪人をあつめて荒蕪の地を水田化する開墾、墾田ということが流行しました。とくにその流行は、坂東(関東地方)に集中しました。
 それらの農場主を、武士とよぶようになりました。
開墾すれば、その水田は、貴族や社寺の荘園に組み込まれます。この天の下に私有地はな
いという律令のたてまえは依然生きていて、いかに自ら開墾したからといって私田はゆるさ
れないのです。このために貴族や社寺にさしあげて、その土地の荘司などにしてもらいます。
管理人であります。しかし所有権は不安定で、京都の荘園領主からあの土地は汝の叔父のものだ、といわれればそれまでです。
 この不安定さに耐えかねて起ちあがったのが、十二世紀末の坂東武士の反乱でした。かれらは源頼朝を擁して鎌倉幕府をつくるのです。
 武士の世になりました。全国の土地に守護・地頭を置き、日本国を支配しました。余談ですが、鎌倉彫刻におけるリアリズムは、時代の風でありました。武士たちにとって、自分、もしくは自分の父親が開墾した土地が、やっと自分のものになったのです。律令という絵空事の世は去って、じかに手触りのある世になったのです。
 鎌倉の世がいかにいきいきした時代であったかは、その後の日本仏教が独自のものになり、武士をふくめた民衆のものになったことでもわかります。法然、親鸞、日蓮、道元という独創的な思想家が簇出したことでも、この時代の元気が察せられます。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
革命というのは、一つの民族の歴史で、いちどやればこりごりするほどの惨禍をもたらすもののようですね。江戸時代の大商人のほとんどが、潰滅しました。たとえば、江戸時代、大坂の大商人は、諸大名に金融をしていたのですが、かれら金融資本家は革命のために一夜で路上にほうりだされ、乞食同然になりました。
 農民も、大きな損害をうけました。江戸時代、農民は現金で租税を支払わず、コメで支払っていました。
 それが、明治四年(一八七一)、西洋なみに現金で支払えということになったのです。金納制とよばれています。それまでの農民のくらしの原則は自給自足的で、現金をもたないということが倫理にまでなっていました。このため農民の一〇パーセントほどは現金をどう手にいれていいのかわからず、現金をもつ大農民または醸造業者などに頼んで、みずからの田地を無料で譲りわたし、いわば志願したようにして小作農になりました。むろんこれらの変化をきらって各地で農民一揆がおこったりしました。

2009年5月8日金曜日

小中野芸者総覧

80年前は小中野、鮫は八戸ではなかった。小中野は八戸に編入されずとも、十分ひとり立ちできた。
それは紅灯の巷(こうとうのちまた・花柳界)で稼ぎに稼いだ。一葉の美文体の小説の中にも、吉原に向かう人力車の音で夜も眠れぬほどとある。
金を生み出す仕組み、つまり制度を発明した奴らは、市に編入され、折角の財源を浪費され、自分の町を守る方策を無くすことをおそれた。
結句、市制80年は鮫、小中野を無人の巷とした。合併など美名に酔い、実を無くした、あるいは無くさせたのは無能な官吏と、自分さえよければの政治屋たちだ。
小中野には教員上がりの広田という政治家がいた。市民から住民票の請求を受けると、自転車で役場に走った。その時間を生業にあてて欲しいの念願がそうさせた。
こうした立派な政治家は滅びた。今の政治屋たちは自分たちが食うことだけを考えている。市議の報酬を十分の一にしろ。だれも選挙に立たない。したい人よりさせたい人にだ。
小中野は人力車が走り、料理屋の窓からは歌声や三味線の音が響いた。銭さえ払えば股ぐら立てて蔵たてた女たちがいた。
くだらねえ女におべっか使って金使い、一発やりたいで長横丁をウロウロする馬鹿野郎が多いが、そんなのは糞くらえだ。昔の方がよっぽど気が利いている。
銭さえ払えば欲望を満足させられるのと、銭だけふんだくられて泣きべそかくのとでは、どちらが風(ふう・ぶり、物事のしかた)がいい。これは時代が悪い。まして青森県が無策、無能だ。若い女を中心としてシャッター街をなくさせろ。それは女の股ぐら立てて蔵たてるんだ。股を開いてシャッターを開くのサ。
つまり、青森県の風俗を特殊浴場解禁すれば再び小中野は生き返る。馬鹿な80年。八戸市制80年は没落倒産の八十年。長い時間、ひたすら八戸を悪くした。市も県も市民をひたすら食い物にしただけで、援助、幇助の手を伸ばさない。馬鹿野郎が、県であり市だ。八戸も岩手県に編入されるがよかろう。さすれば、八戸は再度にぎわう。
八戸に繁栄をもたらした美人たち、芸者名を記載し往時の匂いでもかごう。
1浪二
2三吉
3才八
4幸吉
5五郎
6丸子
7小奴
8国八
9駒助
10力弥
11桃太郎
12さと子
13小夜子
14きな子
15ちよ子
16梅八
17笑子
18君勇
19駒龍
20粟子
21桃千代
22梅勇
23りせ子
24二葉
25みわ子
26葉子
27愛丸
28八重司
29吉代
30信子
31喜久龍
32牡丹
33蔦丸
34時栄
35梅奴
36万平
37梅幸
38千松
39糸司
40小高
41小梅
42ひろ子
昭和十二年版
芸者解説
割烹料亭は料理人の居る店
料理人がいないのは貸座敷・貸席
芸者には三方あり、立ち方は踊り手、
地方芸者(じかた・立たないで座るから地につくで)音曲・三味線・唄の担当、それもできないのが、寝方芸者・芸がないので女郎まがいで寝る。
男芸者が幇間、幇助罪などの助けるを使うが、間がもてないのをたすけることから
タイコモチは太閤秀吉を持ち上げたことから、たいこもちに転じた。曾呂利新左衛門を祖とする。豊臣秀吉の御伽衆と伝える人物。本名、杉本甚右衛門、また坂内宗拾ともいう。堺の人。鞘師を業としたが、その鞘が刀を差し入れるとき、そろりとよく合ったことからの異名という。頓知に富み、また和歌・茶事・香技にも通じたという。
秀吉のほうびに新左衛門は米を一粒ほしい。ただし、明日は二粒、3日めは四粒で一ヶ月間願うと言った。
10日で512粒。15日で16384粒。20日で524288粒。30日では米俵で450俵、石高で180石。(6万粒で1升)
秀吉が「奥山に紅葉ふみわけなく蛍」と詠み、下句をつけよと命じる。曽呂利はすかさず「しかとも見えずともし火のかげ」

2009年5月7日木曜日

司馬の熊本

肥後のめでたさは、一国が美田でできあがっていることである。
 ただし、難治の国といわれてきた。国人・地侍とよばれる室町期以来の土豪たちが田地と非自立農民をかかえて割拠し、大勢力によって統一されることをのぞまなかった。また自分たちの仲間から大勢力が出ることもきらい、このため無数の小勢力がたがいに揉みあい、凌ぎぎあいをくりかえしていた。ただし、末期のころは島津氏についたり、秀吉に味方したりした。
 豊臣政権の最大の主題は、全国の国人・地侍を一掃することにあった。国人・地侍をほろぼして、かれらがひきいている非自立農民を本百姓として独立させることである。つまり領国大名がその自立農民からじかに税をとる。
 当然ながら、このやり方に反対して、諸国で国人・地侍の一揆がおこり、豊臣政権の成立早々は、その鎮圧に忙殺された。
 肥後の場合は、まことに厄介だった。秀吉は、当初、佐々成政にこの国をあたえたところ、はたして国人・地侍による一揆が暴発し、成政の独力では鎮圧できなかった。ついに成政は失敗の罪をとわれて所領没収の上、切腹させられた。
 このあと、秀吉は肥後を半々にわけ、子飼いの加藤清正と小西行長にそれぞれをあたえ、肥後史は新局面に入る。
 清正の生いたちはさだかでないが、尾張の無名人の子だったことはたしかである。寡婦になった母親が、少年の清正をつれて近江長浜領主時代の秀吉をたずね、子を託したという。およそ、幽斎や三斎のように結構な家柄ではなかった。
 清正は年少のころから秀吉に近侍し、戦場では秀吉の床几まわりで働いた。肥後半国の国主になる前は、わずか三千四百石ほどの給人の身にすぎず、統治経験はまったくなかった。
 それが、肥後においてみごとな統治をしたのは、天成の器量だったというほかない。
 肥後はふるくから、尚武の国として知られていた。
 この肥後人の気質が、武者ぶりのいい清正という入を好ませたのにちがいなく、さらにはかれの人情の深さにもひとびとは服した。たとえば、清正は地元の肥後人を多く召しかかえ、またかつての佐々成政の旧臣三百余人や、その後、関ケ原の敗者になった小西行長や立花宗茂の遺臣たちなどについても惜しみなく家臣団にくみ入れた。
 清正は、関ケ原のあと、肥後一国五十四万石にまで加増された。かれの肥後における治世は天正十六年(一五八八)閏五月の入部からその死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十の死の慶長十六年(一六一こまでわずか二十三年にすぎなかったのだが、治績は大きかった。
 その最大のものは、農業土木による肥後農業の仕立てなおしだった。
 かれは各水系に堤をきずき、堰を設け、治水と灌漑に役だてた。こんにちなお、そのうちのいくつかが、熊本県に恩恵をあたえつづけている。
 それらによってできあがった新田は二万五千町歩という広大なもので、このおかげで農地にありつけた農村の次男・三男は推定何万人という数にのぼったろう。かれらが清正を神のようにあがめたのも当然だったといえる。
 そういう清正の最後の仕事が、熊本城の築城で、完工後、ほどなく死ぬのである。そのあと、子の忠広が繕いだが、結局、幕府によって加藤家はとりつぶされる。三代将軍家光の治世がはじまった寛永九年(一六三二)のことである。
 その肥後五十四万石を、幕府は、豊前小倉(中津をふくめる)三十九万九千石の細川氏にあたえた。
 肥後は、豊臣期から徳川期にかけて、天下を防衛する上での要地だった。
 その理由は、薩摩おさえということによる。
 なにぶん薩摩の島津氏は豊臣初期に七十七万石の小天地におさえこまれたとはいえ、いつ爆発するかもしれなかった。
 薩摩は、風土あるいは言語・習慣・気質からして特異なのである。さらには薩摩人は他地域に対して自負心がつよく、その上、島津氏を擁しての結束力がきわだってつよかった。島津氏がいつかは天下に勢いをひろげるだろうということを、秀吉も家康もおそれていた。
 秀吉が、九州攻めに成功しつつも当の島津氏をその故郷におしこめただけで分割支配をしなかったのは、その場合の反発をおそれたためだったし、また家康が、関ケ原の敗者の立場に島津氏を追いこみながら、その領国安堵という異例の処置をとったのも、おなじ理由による。

八戸の料亭・女郎屋一覧

昭和十二年料亭・女郎屋 経営者 創業年月
小中野浦町 喜月 尼崎市五郎    昭和9 3
小中野浦町 千代の家 森クケ    昭和5 12
小中野浦町 菊水  塩田花代    昭和4 5
小中野浦町 きらく  阿保鶴松   大正13 11
小中野港町 吉田家  吉田タカ   大正13 6
小中野港町 梅之家  音喜多アサ  昭和8 12
小中野浦町 旭楼   熊野スエ   昭和9 12
小中野浦町 島守楼  紬越ョシノ  昭和9 12
小中野浦町 住吉楼  左館きく   昭和9 12
小中野浦町 花月楼  山内あやめ  昭和9 12
小中野港町 千登勢  音喜多熊次郎 昭和9 3
小中野浦町 志賀十  福士とよ   昭和5 3
小中野新地 末広亭  長谷川スエ  大正6 8
小中野新地 小松家  音喜多もと  大正8 10
小中野新地 しのぶ  山下亀蔵   大正15 3
小中野新地 五明様  植木重蔵   昭和9 12
小中野新地 開扇楼  田中いし   昭和9 12
小中野新地 冨貴楼  藤谷キチ   昭和9 12
小中野新地 輪島楼  稲本ョシノ  昭和9 12
小中野新地 花泉楼 佐々木はな   昭和9 12
小中野新地 新菊楼 丸谷とみの   昭和9 12
小中野新地 曙楼  音喜多ウメ   昭和9 12
小中野中條 喜代志 音喜多キョ 4 昭和9 12
小中野中道 藤見楼  佐藤クマ   昭和9 12
鮫  青葉   駿河高子      昭和12 5
鮫  西欧   宮崎マサ      昭和4 4
十六日町 きらく  荒谷クマ    明治40 3
六日町 魚周  沼館周太郎     明治10 5
鳥屋部町 根城家  根城いし    大正12 1
鷹匠小路 君乃家  若松キミ    大正13 8
朔日町  八百万  若松ナオ    明治42 5
八日町  かねやま 千葉得寿    昭和9 5
八幡町  鯉寿   中村得次郎   昭和6 8
六日町 金山支店 千葉しめ     大正11 5
八幡町  川得長春閣 佐藤ナカ   昭和3 8
尻内駅前 吉田屋  吉田孫兵衛   明治24 9

2009年5月6日水曜日

司馬遼太郎の魂魄

中国では霊魂は魂と魄とにわけられる、としました。
 この歴史的中国の魂魄観では、死によって魂は天上にゆきますが、魄は死体とともに地下でくらす、というのです。中国人の墓参は、この意味の中において大変論理的です。生者(子孫です)が、墓という魄の場所に行き、天にいる死者の魂をよびもどします。地下の魄と魂魄一つになったところを、すかさずかれらは拝礼するのです。相当の運動神経が要ります。

ひねり・中国人の墓参
叔父さん、今日はいくら祈ってもたましいが降りてきませんネ
うん、天上の魂はきょうは降りてコン

2009年5月5日火曜日

無能呼ばわりされた山内亮市長


デーリー東北新聞起原 5
昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原をさぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。

小笠原八十美とともに県畜産界の巨頭。昭和十七年八月、神田市長任期満了で一票差で当選。在職中は戦時中で食糧不足、昭和二十一年五月食糧危機突破で辞任。

2009年5月4日月曜日

昭和四十九年の八戸、高齢バス無料証の出た時代 1


磯の真砂と盗人は
の名文句は石川五右衛門が悪行の限りを尽くし、捕まり、そして釜茹での刑になる時の時世の句といわれているが
時代は現代ともなると。
釜茹でどころか凶悪この上なくとも死罪もまぬがれ、のうのうと生き延びる。「俺は殺す気がなかったんた」とぬかせば辯護士たちが寄って集って被告をくいものにする卑劣な所業だ。「もっとイサギのいい生き方はできぬか」と言いたい。殺したら、死罪になるは当然の報い。因果応報のことばも古くからある。釜茹での刑も復活したらどうかと思うがのう・・・・なぬ!君は反対かね?これから将来悪業を働こうとおもっているのかな?なーにその時はカニになったつもりで釜に入るのせー
頃合よく茹であがったらカニだば旨い旨いと食われて喜ばれるが人間はどうにもならぬゴミせぇな。まあ、悪いごとしねぃごったな。殺したり、火着けるなどしたら死罪せ!
昭和四九年一月一一日の
デーリー東北新聞紙から

タラバガニ二億円相当密漁
八戸の漁船、九州で捕まる
大分海上保安部は十日朝、北洋海域で密漁したタラバガニを積んで大分県臼杵湾に停泊していた青森県八戸市、熊谷漁業所有の遠洋底引き網漁船第35浜善丸(三四九トン)=出河尚船長ら二八人乗り組み=を漁業法違反の疑いでタラバガニを押収したうえ、調べている。
 調べでは同船は昨年十一月に八戸を出港、底引き網漁船では捕ってはならないタラバガニ五〇トン(二億円相当)を捕獲した。同船はこれを積んだまま太平洋を回ってカジの修理という名目で、八日から臼杵湾に停泊していた。
 同海保では同船のカジの傷み具合がひどくないため、密漁の発覚しにくい九州で売りさばこうとしたとみて、同船長らを調べている。

盗みで手配の少年、東京でご用
八戸署から盗みの疑いで指名手配されていた八戸市売市鴨ヶ池、無職少年(一八)は、九日午前八時ごろ警視庁池袋署員に逮捕され、同日夜八戸署に押送された。調べによると少年は、昨年十一月二十八日午前七時半から午後五時半までの間に同市城下二丁目、月館アパート内、会社員北城久雄さん(一九)の部屋に侵入、ブレザーコート一着(一万四千円相当)、同山田幸作さん(二七)の部屋からも現金二千円を盗み逃げていたもの。同署で余罪を追及している。

サンルート八戸
一七日にオープン
八戸一の高層に
 ホテルサンルートのチェーンホテルであるサンルート八戸(八戸市六日町)がいよいよ一七日オープンする。
 同ホテルの建設工事は岩徳ビル新館工事として事業費約三億五千万円で建設していたもので、鉄筋コンクリート地上九階(建て面積延べ三千三百平方㍍)建物の高さは三十二㍍余で八戸一の高層建築となる。
 完成した新館ホテルサンルートのテナントは三十二店で合わせて五十五となる。サンルートの施設は一階ショッピング二階飲食店街となり、三階から七階までは客室で八一室が完備されている。このほか施設フロントロビー、会議室、展示室、研修室、宴会場などが設けられている。ホテルサンルートチェーンとしては既に郡山、東京、名古屋、松本、坂出、沖縄で営業しており、八戸は七番目の開業。このほか宮崎、福島、仙台にも建設されており、近日中にオープンの予定。したがって同ホテルは周遊観光基地として利用出来るほかビジネス活動の基地としても気軽に活用出来るわけで期待されている。



大ウケ 映画館、飲食店
八戸繁華街
 三が日の表情
正月休みも終り、再びふだんの生活にもどろうとしているが好天に恵まれたことしの正月三が日八戸地方ではどのようなレジャーが人気をよんだのか!。
とあり連日中心商店街特に三日町を中心に群がった人の波。映画館と飲食店は超満員
どこからこんなに人が出てくるかと思わせるような混雑ぶりを見せた。車道まであふれ交通渋滞の原因になったほど。バス列車などの交通機関はどれも満員、バス路線はいずれも増便を出したくらい。
次ぎの行き先は映画がもてた。
テレビは普及し全盛たがやはり大きな画面の味は
忘れられないらしく洋画、邦画とも入りは上々。「燃えよドラゴン」「日本沈没」「私の寅さん」などが人気のマトで、特に“寅さん”の八戸松竹では大入で恵比寿顔。一方ボーリング場は斜陽化が目立った。
と写真入りで報じている。

途中割愛したが現在とくらべ「古き良き時代」を垣間見て隔世の感がある。

一月一〇日付

八戸平原開発
前途多難の世増ダム
東北農政局が南郷村で初の現地説明会
「犠牲はごめんだ」
水没地域住民が反対意見

 計画だと総貯水量は二千八 百万トン。それにより水没戸数は六十四戸。

平成の現在は「青葉湖」名が付けられ完成している。
一月十三日付
昨夜八戸小全焼
 老朽校舎 早い火の回り
 十二日夕、八戸市の中心部にある八戸小学校が全焼した。風はなかったが、校舎が古かったことなどもあって火の回りが早く全焼はまたたく間だった。同校も冬休み中だったが、来る十六日から始まる第三学期を前に,児童たちはただぼう然としていた。市教育委員会では、三学期は燐接の学校など児童を分散して授業をすることにしている。損害は約四億九千万円。原因については、きょう十三日、八戸署が現場検証をして調べることにしている。
出火原因不明、ろう電、放火でも捜査
出火場所理科準備室付近か
16日市体育館で始業式
市教育委が臨時委開く
学級数は従来通り
松本清治校長、生徒数千五百四十八人

2009年5月3日日曜日

デーリー東北新聞起原 4


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原をさぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
文明堂は三日町にあったレコード店、ヤマハ楽器を販売、千葉校のそばにピアノ教室を出すも、業績不振となり手放す。
昭和十二年の八戸商工案内には三日町は支店とある。十和田にも店があったのでそちらが本店だったのだろうか、昭和五年創業。大変栄えた店で、八戸の文化の発信地、となりの伊吉書院とともに中央の香高い文化が方やインクの匂いと共に、こなたは耳をくすぐると、八戸の中心街華やかなころの記憶あり。
この文明堂は積極広告の店で、デーリー東北新聞を自由に駆使、教育界に絶大の信用、また、八戸の吹奏楽の質の高さもあり、楽器販売高は全国でも有数。創業者の没後、次第に下火となり、平成になり閉店。今はシャッターを閉め、種差海岸の写真で覆う。
広告は時代を映す鏡。

2009年5月2日土曜日

市役所互助会の山車は全額税金?だから受賞も三十回

市役所の職員で構成する互助会、これには全職員が参加している。つまり市長から運転手までのすべて。
ここに市が金を出す。これは職員の福利厚生のため。その金額の決め方に問題あり。この額は誰が決める?
市長でもなければ市会議員でもない。人事課員が勝手に決めた。そして、この金額は毎年適当に加算されたり減算される。何のために? それは裏金の金額の増減のためにだ。人事課員は必死に裏金ではないと言い張るが、それなら帳簿を開示せよと言うとああだのこうだのと言を左右。
職員たちから集めた金が入っているが、その理由だが、オイ、それなら市民の税金も入っているんだ。それを開示しないは不当だ。
人事課員は適正に処理されているという。それなら見せろ。見せない、見せられないは悪ダクミをしていた証拠に外ならない。昭和二十三年からの負担金総額は十九億二千万円。
これを呑んだり食ったり餞別に使った。そして余ったから、いや、もてあましたから市に返した。それも寄付だとヨ。寄付ってのは自分の金を投げる行為をさす。他人の金、それも税金を返して寄付は日本語を知らない。
騙しきれずに戻しただけだ。市民を眼が見えないと思っているんだろう。天網恢恢(てんもうかいかい・天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪い事をすれば必ず天罰が下る意)疎(そ)にしてもらさずだ。
こんな巨額な金を何処に隠していたのか。昭和五十五年十一月に本館、市役所庁舎の右の建物が建築されたとき、互助会は一億五千万円を市に寄付したので地下の職員会館部分は職員のものであると大島市議は筆者に告げたが、一億五千万円の金も、もともと不当に市から貰っていたのを返却しただけだろう。
その言い分が正しければ、地下部分の持分は互助会として登記されなければならない。しかし、そのような登記はない。さらに、地下部分の建築費を寄付したというが、当時の記録を調べると建築費は二十三億二千二百九十七万六千円。六層の建物だから、一層は四億円、互助会は一億五千万しか出してしないので、そんな理論はたわごと、寝言、うわごとは病気になっていうことだ。
二億五千万も足りないのに、よくも図々しく言えたもんだ。それも市からふんだくった金。前ページの市が負担した額を見てくれ。昭和四十九年だ。七千二百万円だ。給料は五万円程度だったろう。そんな時に巨額な負担をさせているが何に消費したのだろう。ここから負担額が急増。市民の暮らしは困窮するなか、市職員ばかり優遇、厚遇されていないか。
市と互助会はどのような契約を結んでいたのかと調べたところ、そのような契約は今までなされていなかったが、今回初めて小林市長との間で締結したとのこと。それが上のもの。
この第一条を見てくれ。ここには①職員食堂の運営とあるが、職員食堂は互助会が生協に又貸ししている。これは前号でも知らせたように、又貸しはできない契約。つまり違反。
②③はどうでもいいが、問題なのは④八戸三社大祭への参加事業とある。これが筆者が表題とした、税金を投入し三社大祭への参加だ。他の山車組は町内の 住民へ頭を下げ、腰をこごめて今年も山車の制作費をお願いして歩く。ところがどうだ、互助会の山車は税金を投入する。これはけしからん。
責任者出て来い。
大阪の漫才師でこう叫ぶのがいた。人生幸朗って芸人。右写真。人生幸朗・生恵幸子は「ぼやき漫才」の第一人者として知られている。「ぼやき漫才」は一般的なしゃべくり漫才とはかなり違い、その時代に話題になっている事柄についてとんちんかんな難癖をつけるというものだ。ほかにこのジャンルを得意としたのは人生幸朗の師匠である都家文雄・静代、東文章・こま代などがおり、前者は主に社会風俗、後者は映画を題材にぼやいていた。人生幸朗・生恵幸子は世相はもちろんのこと、特に当時のヒット曲の歌詞にケチをつけるという面白さで大衆の心をがっちり掴んだ。また、このコンビが活躍していた頃、その歌が幸朗にこきおろされれば歌手として一人前という風潮があったようだ。
1982年の幸朗の他界に伴い、この「ぼやき漫才」は後継者がいなかったため急速に廃れてしまうこととなる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
役所の話もここまで来ると腹が立つどころか、メチャクチャで大阪弁なら「どもこもならん」で、可笑しくなってしまうが、これが現実。筆者が睨んでいる通りだとすると、山車に対しての市民の反感は尋常一様ではなかろう。互助会の山車参加は昭和四十七年から。
職員互助会の三社大祭参加
昭和47年 鎮西八郎為朝 強弓にて敵船を沈める 秀作
48竹取物語 かぐや姫天女昇天    優秀
49 大阪夏の陣          最優秀
50 菅原伝授手習鑑        最優秀
51 かぐや姫            優秀
52 白波五人男           秀作
53 義経八艘飛び          優秀
54 七福神             優秀
55 竹生島             優秀
56  歌舞伎十八番暫     
57 歌舞伎舞踊 女車引       優秀
58 十人石橋            秀作
59 空海入唐            秀作
60 双面道成寺          最優秀
61 新歌舞伎 ヤマトタケル    最優秀
62 国姓爺合戦           優秀
63 五人娘道成寺         最優秀
平成元年 南部発祥八百年 豊年祝の舞    優秀
 2   新・里見八犬伝       最優秀
 3 京鹿子娘二人道成寺       優秀
 4   浦島伝説 乙姫と太郎の別れの場   
5  新・国姓爺合戦          秀作
 6  鮫ケ浦に遊ぶ七福神     努力賞
 7   琵琶湖伝説竹生島      
 8 竜虎相博つ(新)め組の喧嘩    秀作
9   石橋            特別賞
10 菅原伝授手習鑑 車引きの場   優秀
11 西遊記 金角・銀角との戦い    秀作
12 歌舞伎十八番のうち 不動    優秀
13   京鹿子娘道成寺       
14 三貴神と君が代松竹梅      優秀
15   審査なし
16 夫婦愛おしどりの精と山内一豊… 優秀
17  八大竜王・八戸三社大祭…   最優秀
18  歴史浪漫八戸義経伝説…   最優秀
三十五回参加して賞を取れないのが四回 勝率八割八分
協定書にもあるように、五項目のうち金のかかるのは④だけ。つまり筆者の推測の如く、山車の制作費に費やしたのだ。この互助会の帳簿開示を求めているが、職員から集めた金も入っているとグズグズ。四月十日現在。悪く消費していなければ見せられるはず。
市民には山車製作の金を集めさせ、自分たちは高見の見物。金をかければ見栄えのある山車を作れるは自明の理。なにしろ税金、それも自分勝手にチョイチョイと数字をいじって吐き出させる魔法の小槌ならぬ人事課裁量。
どうしてこんな仕組みになってしまったんだろう。不思議と思わぬ神経がおかしい。金銭感覚が麻痺しているんだ。市民の血税を真摯に使う気持ちなくして公僕(こうぼく・公衆に奉仕する者の意) 公務員などの称)とはいえない。悪党、非国民の謗(そしり)、罵(ののし)りを受けよ。
市会議員はこれを知らない。知ろうとする努力もしない。何のための議員か。市民のためより自分の為しか考えていない。
市長は知ってても黙っている。それでも協定書を作ることには同意した。しかし収支報告は見たのかね。第四条に規定しているが。
役人のすることだけに、嘘は書かない。書いた以上責任はある。収支報告はするだろうが、費消した金が不正流用だから返せとは言わない。
今後注意せよ程度。一般社会では通用しない論理と倫理。どうなってる八戸市役所。総員ぐるみの犯行ではないが、歴代人事課長の頭を疑う。
続今年の三社大祭に互助会の山車は参加する資格はない。各山車組に百六十万の補助、しかし互助会は貰ってない。当然だ、これ以上とれば泥棒に追い銭の言葉あり。

2009年5月1日金曜日

デーリー東北新聞起原 3


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。演歌の大道を貫いた作曲家戦後間もなく大ヒットを飛ばした歌謡曲が並木路子の「リンゴの唄」。この人はこれ一発で元祖一発屋と呼ばれた。
戦争が終り、空襲の心配もなくなり、ゆっくりと眠れる当たり前の世の中になり、人々も唄を歌う余裕もでた。
そこでレコード界も新人歌手発掘に注力。こうした流れが青森県にも来た。それが、この広告。キングが審査員に上原げんとを連れてきた。この人は青森県出身。本名・上原治左衛門、青森県西津軽郡木造町生まれ。 
 上原の父は金物屋、楽器やレコードも商い、民謡を拡声器で流す。上原は木造中学時代、マンドリンクラブを結成。二十歳の上原は作曲家を志し上京、郷里の先輩作曲家・明本京静を訪ねるが、門前払い。作曲家になる決心は更に燃えた。チンドン屋、サーカスでクラリネットを吹き、流しの演歌師となり仲間二人で全国放浪、ついには北海道からサハリン(樺太)まで。1937年、仲間の兵役召集により、新たなコンビを組むこのが上野松坂屋の万年筆売り場の岡晴夫、上原が世に出る大きな転機となる。 1939年、最果ての北の国境までさすらった体験をもとに作曲した「国境の春」がキングレコードから、岡晴夫の歌とともにデビュー。「上海の花売娘」に始まる一連の「花売娘シリーズ」がヒット、一躍人気作曲家へと駆け昇った。 美空ひばりの「港町十三番地」、島倉千代子の「逢いたいなああの人に」などを作曲、1965年、全三千曲を遺し、五十歳で死亡。