2009年5月12日火曜日

司馬の東條英機3

日本軍が深刻な砲弾の欠乏になやんだ最後の大会戦である奉天会戦もそうだった。日本車はありったけの兵力を横一線にならべてロシア軍に対し、自分の大を見せた。その実用兵上必須ともいうべき予備隊(後方に控えさせる兵力)まで前線にくりだして横の線をながく大きくした。実際は絹糸のようで、どの部分にも厚味がなく、もしロシア車がその気になれば突きやぶれたのだが、ロシア軍はそのつど幻惑されて後退し、結局はアメリカ大統領による調停によって、戦いそのものを終えた。
 敗者のロシア陸軍はその後、このときの戦訓を研究し、やがてソ連軍に継承され、かれらは「縦深陣地」という新奇なものを考案した。それがソ連の野戦における型になり、ノモンハンの戦場にも、その祖形というべきものが登場し、攻勢主義の日本軍をそのつどくだいた。縦深陣地という野戦陣地は、かつての日露戦争のときのように横一線でなく、タテにふかい矩形なのである。
 タテ長の矩形の陣地内部は縦横濃密に火線が構成され、たとえば攻撃主義の日本軍の戦車がとびこんできても、まず前面のピアノ線でキャタピラーをからめとる。ついで対戦車砲でうちとってしまう。たとえ日本軍がわずかに内部に入ったところで、側防火器とよばれる火力でくだき、また攻撃主義の日本の歩兵部隊が肉弾突撃してきても自動小銃によってなぎたおすというものであった。
 この双方のちがいは、日本陸軍が日露戦争の肯定から出発したのに対し、ソ連陸軍は否定から出発したことによる。すでに日本の参謀本部も陸軍大学校も、日露戦争後、墨守しつづけてきたお家芸の対ソ戦法がなんの役にも立たなくなったことを知りはじめていた。しかしそれを反省するまもなく、二年後にかれらは日本国を太平洋戦争に突入させるのである。
 そういう無思慮集団のたばねとして東條がいた。
 アメリカにはゆらい戦術というものがありません。わが陸軍にはあります。という意味のことを、東條の子分のひとりである軍務局長・陸軍少将佐藤賢了が国会の答弁でいったことがある。
昭和十八年三月一日の衆議院決算委員会での質問に対し、佐藤が、アメリカ軍について詳細なる解剖を加え(「朝日新聞」)て、以下のように答弁した。
 一、米陸海軍は実戦的訓練にとぼしい。
 一、大兵団の運用がはなはだ拙劣である。
 一、米陸軍の戦術はナポレオン戦術にあって、多くの欠陥をもつ。
 一、政略と軍略の連繋が不十分きわまる。
 正常な人間のいうことではない。
 明治時代のある時期まで、陸軍大学校には教科書がないということが誇りとされた。が、その後、教科書ができることで、日露戦後の用兵思想は慣習として集積された。終戦のときの陸軍大臣で、終戦とともに自決した阿南惟幾は、大正七年(一九一八)、陸軍大学校を卒業した。かれは和平原に反対し、あくまでも抗戦を主張し、その理由の一つとして、「わが陸軍はまだ主力決戦をやっていない」といったといわれる。日本陸軍は現実には潰滅してしまっているのに、学校でならったこと(主力決戦)をまだやっていない、というのである。
 東條とは何者か、などということを語る必要もない。繰りかえしいうようだが、かれはたいていの事務所に一人はいる謹直な書記といった資質のひとだった。
 カミソリという異名をもったほどに事務やその運営についてこまごまと遺漏なくやる一方、他人の事務的ミスをめざとく見つけ、きびしく指摘したりした。
 が、独自の世界把握の思想があるわけでもなく、人生観についても借りものでない哲学をもっているわけでもなかった。陸海軍の実勢さえ知らないのに、格別な軍事思想をもっているはずもなかった。とくにあるとすれば、士官学校時代に学んだ。弱気になるな必ず勝つと思え。味方が苦しいときは敵も苦しいのだという素朴な戦争教訓だけだった。
 かれは、卵形の頭をもっていた。メガネと口ヒゲを描くだけで似顔ができ、一種の雄弁家で、鳴る薬曜といった感じでもあった。軍隊には、中隊長(ふつうは大尉)以上の団隊の長は精神訓話という演説をする習慣があり、かれもそのことに馴れていたのか、よく演説をした。
 『東條首相聾明録』(昭和十七年、誠文堂新光社刊)という本がある。
 開戦より六ヵ月前の昭和十六年六月十三日、かれは早稲田大学にまねかれて講演した。ときに五十八歳、陸軍中将で、第三次近衛内閣の陸軍大臣だった。
 このときの演題は、「学生諸君に要望す」というもので、まず世界情勢を説き、欧州においては「大部を席捲したる盟邦独伊は……疾風枯葉を捲くの電撃作戦に成功し」といい、一方において英国は「血みどろの大決戦を展開」し、米国については「授英態度は日一日と硬化しつつあるのでありまして」といったぐあいに平板につづいてゆく。
東條は自分自身について政治家とよぱれることをきらった。が、それなりに政治的能力を発揮した事歴があった。第三次近衛内閣のとき、中国からの撤兵問題が出た.東條は撤兵問題は陸軍の生命にかかわる、絶対に撤兵しない、と主張しつづけて、結果として近衛内閣をつぶした。
 あとたれが首相をやるか。陸軍さえおさえれば国がすくえるという良識をもった要人が多くいたが、ただかれらをおさえるだけの政治力をもった首相適任者はもはやいなかった。前首相の近衛文麿は、皇族しかないだろうと考えたりした。
 ところが、おもいもよらぬことに、東條そのひとに大命が降下してしまった。
 当時、内大臣(宮内大臣とはべつ)というふしぎな職があり、一八八五年以来、政府ではなく宮中に設けられてきた。この当時の内大臣は、木戸幸一だった。大正末以来、西園寺公望がその任を負ってきた。その西園寺が昭和十五年になくなると、内大臣の木戸幸一がその任を負うた。その木戸が、東條を推したのである。
のち、東條は、戦況が悪化するとともに、全国を兵営にしてしまうというふしぎな全体主義を進行させた。また世論を閉塞させるために、本来、陸軍のポリスであるはずの憲兵をかれは政治警察のようにつかい、恐怖政治を布いた。
 東條政権の後半は、不評判だった。しかしながら、首相としてのかれの生みの親だった木戸内府(内大臣のこと)だけはかれをかばい、支持しつづけ、さらには東條を批判する声や意見、あるいは戦況の実態については、いっさい奏上しなかった。
 まことに、木戸は明治憲法国家を滅亡させるための要の役をなした。かれが酋相としての東條を生み、その政権を維持させた。国家も民族もほろびようとしているなかでも東條がその座にいることができたのは、単にそれだけの事情だった。ついでながら、この場合、天皇は、なにをすることもできなかった。
 明治憲法にあっては、天皇は自分自身の発意による政治行動はせず、すべてその衝にある者(この場合、木戸や東條)の輔弼(明治憲法の用語)にまかせるということが、あるべき立憲的態度とされてきた。
 となると、当時の日本をうごかしていたのは、東條という木偶で、それをささえているのは木戸という黒衣だったことになる。こういう形態も仕組みも、明治以来かつてないものだった。戦後、明治をふくめた日本の体制について天皇制国家などと断定されたりもしたが、そういうことは、東條時代だけのことで、他の時代にはない。
 さかのぽったところでせいぜい十年程度で、そのもとはといえば、軍が、統帥権という憲法解釈上の慣習の項に入るべき大権をことごとしく擁し、本来の三権(立法・行政・司法)を超越するものとして魔法の杖のようにつかいはじめてからのことである。
 どのような超法的行為でも、統帥権をもちだすことによって一見合憲的になるなとは、明
治時代、憲法草案者の伊藤博文たちが生きていたころにはおもいもよらないことであった。
 東條は、日本国をヒトラーのドイツに似た全体主義にしたかったのだが、明治憲法が停止されているわけでもないために、臣道ということばをキーにして、国民の一人一人をステロタイプの小さな缶のなかにとじこめようとした。人間を成り立たせている精神的要素のほとんどをとりのぞいて臣道だけに縮小しようというもので、のちに、この時代のことを。天皇制ファシズム’などというのは、そのせいでもあったろう。臣道などというふしぎなことばは、東條以前、近衛内閣のころからつかわれはじめたが、戦時社会における唯一の国民精神の規範にしたのは東條であった。
もはや、東條の驀進を阻む機関も、その非を鳴らす機関もなくなった。
 独裁者はつねに自分の死を質草に入れて成立している。東條が国家と民族をほろぼす、とおもったひとびとにとって他の薬殺がなく、東條の死をつくりだすしかなかった。
 が、東條は他の国のどの独裁者よりも凛然としていた。
 かれは、官邱への通勤にはオープン・カーをつかい、殺すなら殺せというふうに自分を露出していた。
 かれは、一種のひま人だった。庶民の家のゴミ箱をつつくのが大好きで、それをすることで国民が無駄をしていないかどうかを(つまり戦時経済がどうなっているかを)しらべたりした。少尉か中尉がつとめる週番士官のようなことを宰相でありながらやっていた。そのような点検(軍隊用語)をするためにも、オープン・カーをつかった。