2007年10月1日月曜日

八戸小唄全国大会を市が開催しなければ公会堂は滅びる1

唄に夜明けたかもめの港
船は出て行く南へ北へ
鮫の岬は汐けむり
八戸小唄あれこれ
昭和三十六年元旦 デーリー東北新聞
本当の作詞者 法師浜氏から聞く
八戸市の代表的民謡として全国的にうたわれている「八戸小唄」は神田市長と市政記者の合作とされてきたが、実際の作詞者は法師浜直吉氏である。一部の人は知っているが、当の法師浜氏もこのことについて、いままで一度も語っていない。作られた当時のいきさつについても誤り伝えられたりしているので、この機会に覆面を脱いでいただき、当時の事実を明らかにしておくことも意義あると思うので、同氏にお願いして「八戸小唄」について、あれこれ語っていただいた。(聞き手角田本社編集局長)
八戸の宣伝が端緒
発起人、作詞背負わされる
問い これ以上本当の作者の名を伏せておくことは市民感情も許さないと思います。ご無理をお願いするわけです。
法師浜 八戸小唄のことは、こんにちまで名前も伏せてきたのですが、きょうは表面に立って小唄のことを話せと言われますと、いささか恥ずかしいことです。三十年ぶりで覆面をひっぱがすことですね。
問い まず最初に作られた当時のいきさつは?
法師浜 市役所の記録によりますと、唄の発表は昭和七年三月になっているそうですね。私は当時東京日々新聞(毎日新聞)のここの通信部主任でしたが、昭和六年二月三日に鮫の石田家で「八戸を語る」座談会を東日の主催で開きました。まだ埋め立ても魚市場もなく、石田家の座敷の下に太平洋の波がひたひたと押し寄せているころでした。
出席者は神田市長、遠山市議会長、市会議員の石橋要吉さんや経済人三、四人、それに元芸妓の三平(石橋トラ)、芸妓才三(橋本こと)さんたち十二、三人でした。話は市の発展ということになりますと、なんと言っても八戸を世の中に宣伝しなければならない。それには「八戸小唄」でも作る必要があるという話になりました。この日の座談会の記録(東日青森県版の記事)を見ますとこう書いてあります。
菊池(東日青森主任)八戸小唄というようなものを作って、八戸市を紹介するということも必要ですね。
才三 それで私は考えております。八戸宣伝にもなりますし、市になった記念にもなるように、だれか名のある方に願って、名のある方の作曲で、八戸というものがピリっと頭にしみこむような唄がほしいのです。それで計画だけはしておりますが、私どもの手ではどうにもしようがありませんから、市長さん方のお声がかりででもやっていただくように願いたいのです。
三平 実際唄はたいへん宣伝になるものです。
才三 この辺でも、ようやく足が立ったばかりの三つの子でさえ「草津よいとこ一度はおいで」とやります。草津はよいとこか悪いとこかわからなくても、とにかく、歌われるだけ広く知られているのですから。
無名より有名で 神田市長と合作に
その年の夏だったと思いますが、座談会のときの小唄のことがなんとなく気にかかっていたので、神田さん(市長)に話をもとかけたら「よかろう。計画をすすめてほしい」ということです。当時も市政記者クラブがありましたので、その全員の協力をたのんだら、各社もこころよく賛成してくれたから、ある日、市役所の市長室で神田市長を囲んで打ち合わせをしました。記録はありませんが、この時は、工藤有厚(河北)三浦広蔵(奥南)下野末太郎(時事)峰正太郎(奥南)伊藤周吉(朝日)佐々木要市(はちのへ)角田四郎(八毎)、それと私と、ほかにもいたかも知れません。まず、作詞をどうするか、委員を何人かあげて合作にするかなど意見がありましたが、結局一人に任せた方がいいという話になり、法師浜に一任というわけで、発頭人が自ら背負ってしまう結果になりました。
神田市長が作った「鮫の岬」
作詞中のころ、ある朝、市長室に入っていくと、神田さんがニヤニヤしながら和服のたもとから一枚の便箋を取り出しました。
「歌なんて難しいものだね」と、小唄の歌詞の一節が書いてありました。
「これは私にください」と、ポケットに納めました。この中から「鮫の岬が汐けむり」の一行をもらって歌詞に織り込み、第一節にしたのです。才三さんの話ではないが、無名人よりは「名のある方」の方がいいのですから、出来上がった歌詞を市長にもって行って「市長さんの名前も出させてください」と言ったら「フフン」と笑ったんです。その「フフン」を承認と受け取り。のちにレコード吹き込みの時に、作詞神田市長・市政クラブ員と書いたのです。
野口雨情は「歌に明けたよ」
弱弱しいと「夜明けた」にする
問い 何かエピソードでもありませんか
法師浜 歌が完成して間もないころ、毎日新聞の当時の奥村信太郎社長が視察に来八したとき、車で鮫へ行く途中、どっかで八戸小唄の声がしているのを聞いて、案内の者が「社長、あれは法師浜君が作ったものですよ」とへんなところで暴露した。せっかく点数をかせごうとしているのに油を売っている尻尾を出してしまった。社長は黙って小唄を聞いていましたが、「野口雨情くそくらえか」とニヤリとしました。 その後、八戸の文人グループが野口雨情を招き、石田家に一泊し湊の館鼻まで私たちが案内したことがありました。野口さんは縞の着流しでトボトボ歩いていましたが、歩きながらたまたま八戸小唄の話になったら、
「なかなかいい歌だが、僕に作らせると唄に明けたよとするな」と言いました。私もなるほどと思いましたが、実は作った最初は「明けたよ」だったが、ある友人に明けたよという歌がどっかにあった気もすると言われたので、なんとなく気になって、そんな弱弱しい「よ」などよりは、もっと線の太い「夜明けた」に変えたのです。
とにかく、できた当初からなにやかやと話題になる歌でした。こうして歌の完成までかれこれ一年ちかくもかかったでしょう。
後藤氏 尺八譜で口伝
大きい芸妓連の協力
問い 作曲や振りつけなどでも苦心されたとうかがっていますが。
法師浜 そのころは新しい曲の小唄ばやりでしたが、神田市長が
「歌はやはり古い民謡調でなければ長持ちがしない。仙台放送局の嘱託で後藤桃水という民謡研究と尺八で知られている人がいるから頼んでみよう」と言うことでした。後藤氏も引き受けてくれました。この人は民謡の歌い手の上野翁桃君の師匠とかいう話でした。
問い 最初に曲を聞かされたとき、どう思われましたか。
法師浜 曲が出来たというので、後藤さんがやってきました。踊りの振り付けとして吉木桃園という女の人を連れてきました。後藤さんは、ちょっと白いもののまじった長いアゴヒゲを持ち、体格のがっちりした剣道師範のような感じの人で、吉木さんは背の高い袴をはいた学校の先生のような方でした。
この歌をつくるために石田家の主人、石田正太郎さんが一役買って「小唄つくり」の会場を引き受けてくれました。まず鮫と小中野両見番から芸妓代表の人たちにきてもらい、上野君にもきてもらって「小唄のおさらい」をはじめたのです。作曲といってもこんにちのように普通の譜面ではなく、尺八の譜をもってきて、後藤さんが手拍子をしながら歌うと、みんながあとについてまねるといった、あまりにも古典的すぎる方法で、いわゆる口伝練習だったのです。洋楽の譜面などができたのはあとのことです。後藤さんが言うには
「作詞者にまず聞いてもらい、気にいるかどうかで、まずいところがあれば変えましょう」というので私と対座して歌い出しました。一節を聞き終わって、私は正直のところ心の中では直ちに拍手を送る気持ちになれませんでした。せっかくの作曲者のお話でしたから、ちょっと気にかかるところがありましたので、変えてもらいました。
それでOKということで、練習が始まりました。誰もいいとも悪いとも言いませんでしたが、石田さんだけは「ウン、これはいける」と言っていました。だんだん聞き慣れると、波の感じを出していることや、作詞を忠実に表現しようとした苦心などがわかってきて、歌い続けるうちに、みんなの「わが唄」に変わってきました。
これは三味線をつける曲ですから、三味線はさすがに餅は餅屋で、芸妓諸君は後藤さんと協議しながらその場で直に曲ができた。その晩のうちに振りつけもやった。これも芸妓諸君の協力で作りあげたのです。
歌詞は最初四小節でしたが、稽古中にみんなに「四は数がよくないので、五にしてください」と言われ、そのころスケートも加えて欲しいという希望もあったので、その場で、石田家の帳場で第五節をつくって追加し五つにしたのでした。
神田市長仲裁に
売れ行き良好 レコード会社喧嘩
問い さて、出来上がったというので、宣伝にも力を入れたわけでしょうが、どんなふうだったのでしょう。
法師浜 地元の小中野、鮫の料亭の宣伝はもちろん、神田市長はなかなか力をいれ、まず東京日東レコード会社に交渉してレコードをつくらせるし、仙台の放送局からも放送させました。
レコードは会社負担で最初千枚作ったそうですが、のちに数千枚売れてローカル盤としては記録破りと言われたものでした。放送もこんにちのように放送局から出張して簡単にテープに録音するといったわけにはゆかなかったんです。レコードを作るにも放送をするにも、歌、三味線連中を選抜して稽古をしたうえで、大勢で東京や仙台へ出張したわけです。芸妓諸君でさえも、みんなおぼえたつもりでも、いざレコードに吹き込むとなると、ふだん歌っているのと違って固くなるし、なかなかうまくゆかない。「本番OK」まで何回も稽古を続けました。
妙な話ですが「一任」はただ作詞だけのつもりでしたが、踏み出してみると途中でやめるわけにはゆかない。こんなことをしていたら新聞社からクビになりはしないかと、ビクビクものでコソコソと石田家に通ったわけです。
当時中心になっていた見番の人たちは。鮫は才三、かの子、梅太郎、まり子、小中野は三吉、粂八、まる子などといった顔ぶれと記憶していますが、小唄に関しては、たれかれの区別なくみんな熱心にやりました。時にはレコードの売れ行きがいいためか、レコード会社が製作競争してケンカになり、そのシリを市役所に持ってきて、やむなく神田市長が東京へ出かけてレコード会社の仲裁に立ち、おさめたという一幕もありました。
成長ぶりに思わず涙
くずれてきた節だが本場は立派
旅暮らしになつかしい歌
問い 作者である法師浜さんは県外に出られ、そこで八戸小唄が全国的に歌われてゆくのを見ておられたわけですが。
法師浜 私は昭和十三年からは旅に出ましたから、その後の郷土の様子はわかりませんが、思うに郷土のみなさんがみなさんで「わが唄」という郷土愛が大きい力となってひろがって行ったのだと思うのです。
旅から旅に暮らし続けてきた身にとっては、ふるさとの歌を聞くこと、こんな懐かしいものはありません。いつか常磐線の上り列車の中で隣のボックスにいた三人連れの中年紳士が、額を集めて手帳を出し、小さい声で唄の練習を始めました。それがなんと八戸小唄でした。八戸から仕入れてきたばかりの唄を復習しているらしい。すぐ側で見ていて私は思わず一人笑いをもらしました。ときには八戸小唄を聞かせてくれた人もありました。
近年のことですが、コロンビア会社で八戸小唄を作り変えた「つるさんかめさん」問題は当時私は東京にいて郷里の騒ぎをよそごとのように見ていましたが、東京でも話題になりましたし、このとき「八戸小唄」が新たに名を売ったことは事実でしょう。
問い 最近の感想は?
法師浜 歌が出来てから三十年になりますから、最近は節が崩れております。東京の人が吹き込んでいるレコードの中にはひどいのがありますし、有名な歌手も多少の崩れがあります。
私は去年の八月、二十三年ぶりに郷土に戻りましたが、驚いたことには、さすがに「わが唄:だけあって、本場の八戸小唄は立派に育っていると思いました。
去年の秋の運動会のころ、学区運動会前夜祭とかいう踊り大会を柏崎小学校へふらりと出かけてみたら、広い校庭いっぱいに、おとなも子どももそろって八戸小唄を踊る立派さを初めて眼の前に見て、ただなんとはなしに頬の濡れるものがありました。
法師浜氏略歴
八戸市出身、毎日新聞入社、盛岡、新潟支局長、北海道総局長、東京本社地方版編集長、同地方部顧問を歴任、現在同社名誉職員。
この法師浜が著作権を手にし、それを八戸市に寄贈。その時、従来手にした三十万円も出した。わたくしは八戸小唄の著作権いっさいを八戸市に寄付することを表明した。著作権協会では規定によって、その権利を譲渡するには六ヵ月の期間を要するので、その時期を待って四十二年十二月八日、わたくしは唄の著作権を市に寄贈した。同時にそのときまで著作権協会からわたくしに送られた使用料金三十万円もそのまま市に寄付した。そして八戸市長職務代理者助役木幡清甫氏とわたくしは覚え書きをつくり、出版物に八戸小唄を掲載するときは、制作元八戸市長神田重雄、作詞法師浜桜白、作曲後藤桃水とすることをきめた。
(出典・法師浜著、唄に夜明けたかもめの港)
こうした好意で公会堂基金が出来た。その詳細は次号に掲載。基金の主旨、寄付行為の覚書を教育員会に開示請求をかけているので、それを待って紹介予定。
それにつけても教育委員会は妙な所で、仕事をいいかげんにしようと心がける場だ。おいおいその証拠を見せるが、教育長の何たるかを自問せよ。