ワタナベの店も大はやりで、八から十人の若者が段ベットで寝泊り。まるで、カイコ棚のよう。大勢の床屋の技術者がてぐすねひいて客を待つ。店の前は有名なキャバレーみつや、八戸の社交界のナンバーワン。赤い絨毯(じゅうたん)が敷いてあり、郡部から出てきた人が靴を脱いだそうだ。年配者は楽しそうに、銀馬車とみつやの話をする。今はそんな場もなく寂しいかぎり。ここに働いていた美人女給と結婚した八戸経済界の重鎮もいる。にぎやかで女たちが客を送り出す嬌声(きょうせい・なまめかしい声)が塩町でも聞こえたそうだ。今の八日町から想像できる? 世の中変わった、悪いほうに。何故?
市役所のせいだ。理由はおいおい「はちのへ今昔」で解説。
さて、ここで竹原さんは徹底的にしごかれる。床掃除にタオル洗い、洗濯機のない時代、手洗いだから指の皮もむける。ヘア・ドライヤーなどまだ出ない時代。お客の頭を乾かすのに、タオルを使う。それで拭く?
ハズレ、タオルの両端を持ち、バタバタ頭をあおるん (夜の八日町ワタナベ側から・光るところがミツヤ)
だ。風がきて頭が乾くという仕組み。フウ~ンと感心するだろう。昔の人は苦労したもんだ。アイパーなんてのも昔はコテ、これを火鉢で熱して髪を伸ばしたり曲げたり。何本何本も火鉢にさしたもんだ。今は簡単に瞬間湯沸機でお湯を出せるが、昔はこれも弟子の仕事、沸かした湯を天井近くにブリキの湯入れを置いて、その中にいれ、水を足して湯加減調整、床屋の小僧は忙しい。
ここで五年、竹原さんは辛抱。主人の渡辺さんに似て、腕を磨きたいと東京に出る決心。知人が東京の青山一丁目に「ヤング」という店で職人を欲しがってると教える。青年竹原さんは血がジャワメイタ。いよいよ憧れの東京で腕が振るえる、ふるえるような喜びを感じたんだろう。病の床に伏していた父をのこして上京。兄は東京の石油会社に就職、あとには母親だけ。間もなく父は危篤。知らせを受けて竹原兄弟は揃って列車に飛び乗るが間に合わず、その後悔が今につながる。人間てのは、えてしてこういうことに遭遇(そう (師匠の技術大会優勝記念)
ぐう・嫌なことにあうときにつかう)する。でも仕方ないんだ、死んでいく人間は忙しい、生きてる人間置き去りにして旅発つもんだ。
俗に後悔は先に立たずで、必死にがんばる倅たちが間に合わなくとも怨みもつらみもありゃしません。
このヤングには八人の技術者、四国からも腕を磨きにきていた。ここで楽しい東京暮らし。八戸なんぞと違う日本の首都。いゃあ面白い。乙姫さまと浦島太郎じゃないけれど、夢の二年が経った頃、兄が東京の人と結婚。母親一人じゃ心もとない、お前帰れと、勝手な御託(ごたく・自分勝手な言い分)。
気のいい竹原さんは帰郷、すると妙なもので知人が三日町のパチンコ「コンドル」の二階に理美容の店を出すので手伝ってくれと声をかけた。渡りに船と、そこに顔を出す。昔は理容も美容も同じ店内で営業可能だった。今は規制が少々厳しい。けれど竹原さんの店は理容と美容をこなしている。奥さんが美容担当、ご主人と倅さんが理容を担当。おしどり夫婦で仲が良い。筆者などは毎日女房と顔つきあわせてると息が詰ま るが、共に額に汗して働く姿は尊いもの。まして倅も共に働く姿は庶民の鑑(かがみ・手本・模範)だ。昔はこうした店が多かったもんだ。
するてえと、どこで竹原さんは女房と知り合ったか気になるだろう。あせるなあせるな、これから教える。竹原さんの勤めた三日町の店は『白樺』、パチンコ「コンドル」の上、客の数より従業員の数の方が多いという妙な店、店主が新興宗教にこって、店員を折伏(しゃくぶく・宗教にひきいれる)、それが嫌で店員は一人消え二人、店員が折伏できないと、今度は客、客も一人消え二人、とうとう最後は竹原さんと美容の女の子だけ。給料も三ヶ月も貰えずに竹原さんも消える。
だが、世の中良くしたもの、ここで又、お袋さんが登場。前にも言ったが、このお袋は知恵者、若い頃は生命保険に勤務、竹原さんが恩になった名久井さんと同様、このお袋も背中に反物背負って行商、方々歩くのが仕事、いろいろと顔を出しているうちに、土地を売ってくれないかと頼まれる。なるほど、土地は背中に背負うわけではないから軽い、でも持てない。これが性に合ったのか、今度は不動産業、八戸にも顔を出す。当然『白樺』にも来るようになり、そこで竹原さんと一緒に働く美人に目をつけた。その美人は中島ハツエさん。この人が竹原さんの女房になるんだ。それと気づいたんだろう。『白樺』の主人が宗教にのめっているのも知って、ハツエさんに鮫で美容院やらない かとすすめた。
鮫の美園町、「フジ美容院」がそれ、経営していた人が具合が悪くなったかで居抜き。そこでハツエさんが大車輪。当時、夫になる竹原さんは七千円の給料、ハツエさんは大枚の金を手にする。
お袋さんが長根公園近く、今の店舗地を購入していた。そこへ二人で店を出す。開店時の理美容道具はハツエさんが鮫で稼いだ金でまかなった。恐るべきは女の力。
当時、このあたりは連れ込み宿や飲み屋がたくさんあった。役所を挟んで、三日町方面は華やかな飲み屋多し、三八城公園下方面は陰に咲く花、世の中、どんなに時代が変わってもこの区分は厳然としてある。柿は腐る手前が一番美味しいともいうように、この竹原さんの店の周囲は一頃は盛んで、陰や日向に咲く夜の蝶が住むアパートが何軒もあり、出勤前に髪をセット。当時はソフトクリームみたいな頭が流行、髪が長くて手間かかる。女房のハツエさんは休む暇なしの大盛況。弟子も三人も使い飯を食う暇もないほど。
こう書くといかにも亭主の竹原さんは何もしないように聞こえるが、どうして、こちらも大忙し。弟子を二人雇って大儲け。
それは東京オリンピックの昭和三十九年です。市長の給料より稼いだ昔もありやんした。今は人通りもまばらになって、のんびり稼いでおりますが、二代目さんの一仁さん、この人のセンスは八戸でも一と上がっても二と下がらない、腕もいいけど客の雰囲気に合わせた髪形を整える感覚の鋭さあり。これは筆者が眼にしているので間違いなし。 竹原庸彦氏六十六歳、還暦のお祝いはしなかった。よくよく聞くと忙しくて結婚式も…。すれば楽しい話の花が咲く歳祝い。七十の古来稀なりのお祝いは忘れないようにしましょうネ。ついでにお孫さんもいれて結婚式もするといい。忙しさについまぎれて結婚式できなかった人、共に白髪の結婚式てのもいいもんだヨ。技術八戸一のバンブータケハラ理美容室22・8869、今まで床屋の技術に不満を持っていたおしゃれな紳士、一度倅に相談するべし。