九月六日付
穆山和尚の苦学金英仙台に留ること一年、思はしからぬ侭に再び江戸へと志し、若き雲水の身も軽るくと一朱の金を懐ろに小笠草鞋に出で立ちぬ、頃は徳川の御代尚盛りに、奥州街道も諸侯の参勤交代忙しく、汽車や汽船の便りなく旅人の徒歩くものの多きままに、酒よ餅よと商う家の女中の襷いそいそと中々に賑はしきものなりき関宿よりは便船して十日計にやうやうと花の都につきたる頃、一末の旅背はなお昼飯の料をあましぬ、愛宕下に叔父なる人ありければ一先此所に落ち付き其の志を物語るに、叔父も只管之れを感じ、当分は僅かの学費を手伝はんとの事に駒込の栴檀林に入寮したり、風呂は八文、髪剃り二十四文、お蕎麦が十六文という其の頃なれど法衣すら買うこと成らず、三百文にて漸く調へたる古衣一枚にて数年の間凌ぎしと云うにても金英の赤貧思ひ遣らる、兎角するうち叔父の貢絶えければ、日々托鉢して其の日其の日の食料を得、書物は池の端の書肆に請ひて借覧し、托鉢の帰りの遅くなれば夜ぴて書を読みて明したることも度々あリ「今日の衛生法から考へれば病気にならぬが不思議の様だが、其の時は学問のおもしろみに悉皆心を奪はれて居ったので痍気の附入る隙がなかつたのだらう」と今も自ら語らるることとなり、其頃檀林の近傍に菊池竹庵という儒着ありけり、初めは信川松本の藩主に仕へて藩学の教授なりしも性質磊落にて立居窮屈の勤めできぬに職を辞して江戸に来たり、弟子を集めて教へ居たれど此所にても余りの無頓着に人気を失ひ、不行儀先生といはれて百名心ありつらん檀林の憎侶誰れ一人其の門に入るものなかりしかど、金英独り吾は其の行状を師とせず、就て学問を学べば足れりと、日々その家に通い居たり、頃は夏の盛りにて人みな帷子を用うる折なりしが、竹庵先生の住居は座敷も勝手も玄関も兼帯の一室にて熱くるしさいう計なし、先生は例の癖とて「私は暑くて堪らぬから裸で講釈する足下も裸で聞くがいいと云ひながらフト金英の衣服を見るに、袷を着て汗ビツショリの有様に竹庵芝生驚きて「足下はナゼ袷を着てゐる」と訝るに、金英は然々(ささ)と答へ果ては哄然一笑して講釈をつづける裸の先生、袷のお弟子、他人には判じものとも見えしならん、汗じみたる袷は折々洗濯せねばならず、代りに着るべき物もなければ是非なく、夜大風呂敷を羽織りて洗濯すれど袷なれば翌る日ならでは乾かぬより、其風呂敷は蚊帳にも蒲団にも着物にも兼ね用ひられしとはさても調宝なる風呂敷もありけるよ