2008年11月15日土曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材8

九月七日付
 穆山和尚の苦行
赤貧を物ともせず苦学すること十年、三十歳の春業なりて一旦帰国したりしに、人柄といひ学問といひ田舎に稀なる御憎と見えければ法類知己皆その去るを惜しみ、故郷にありて住寺せんことを勧めたり、金英も独り心に思ふやう長の歳月若しみて今は一週リの修行をも卒へたれば、暫くは心安く此所に止まりて父母を慰め参らせばやと、我しらずおこたりの心萌せしは危うかりける事共なり、若しその母の無からんには今の名僧穆山は其まま世には出ざりしやも知れず、金英半ばかくと定めて、さてもその母に告げるるに母は涙を流し「泣は何と見らるるぞで、此辺りの御坊等は学問はもとより浅く行修まらぬこと在家よりも甚し、汝も今このままに修業を怠らんには遂には斯る凡僧となり果つべし、父母の汝を棄てて出家せしめし本意は、最愛の汝を当地に留めず再び行脚をすすむるは母の忍ばれぬ情にはあれど、唯汝が初一念を貫かしめんと思へばなり、他日出家の本懐を遂げて後ち、母に手向ける汝が一遍の回向は生前百の孝養にもまさり草葉の影にて最も嬉しくうけ侍らん、老いにし妾の今日の別れ或は今生の別れとならんも知り難けれど、母は露計りもうらまじ」と励ます言に金英に迷いの夢を喚び覚まされ、再び誓を新にして其のまま故郷を立ちいでける
小田原の海蔵寺に月潭とい言老僧ありけり、九州の人にて当時碩学の聞こえ高かりしも性質辛辣にして人に親しまず、諸方より其徳を慕ひ集り来る僧侶等も一年と辛棒むづかしく遁れ帰るが常なりし、金英母の誡めに感じ心を決して上京せしより直ちに月潭に参じてそれより十二年の間教えを受けたり、この間辛酸具に嘗め尽くさずということなく、厳しき寺院に住職たるにも余りぬる学問修行のありながら、樵り水汲み卑しき業に従へて、粗衣粗食を厭う気色露計りも見えぬに感ぜぬものなかりけり、穆山定節介も常に其弟子に数へて「人は長命が第一だから常に慎んで身体を濫りに扱ってはならぬ、四十歳迄学問すると分別も出来てくるから人の為めになることが出来る、六十を超えるとまた信用が身についてくるからのう」と云えり、成功を急る人のためには此上もなき誡めなるべし
此頃の事なりき金登態々西国に旅立ちで三十三の霊場に詣で其土を負ひ帰りて一半を登龍和尚の墓に捧げ、一半を故郷の母に送りけり、是れ其母の一度は西国の霊場に詣りたしと常にいひ居たるを以てなり