2008年11月3日月曜日

羽仁もと子、西有穆山を訪ね取材2

八月三十一日付け
 穆山和尚の生立(一)
 現代の名僧西有穆山師の事に就いては去る二十五日の本紙一面に其発端を掲げ置きたるが、是れより引続き其幼児よりの来歴行状を記し楽しき家庭の読物となさばや 星川清子
一夜千里の汽車ありてすらなほ近からぬ心地する奥州の一僻地、八十年の昔は如何なりけん、花の御江戸の様などは女子供の夢にも通はず往み馴れし我郷をまたなさ世界と思ひなし悠々と世渡る中にも浮き世の風は音信れて不如意はここにも免れざりき
八戸の市街を北に半里許川に沿ひ海にも近き「さびしろ」といふ(湊村の内)小ささ町に親子五人暮らしにて、幽かに其日を送る一家ありけり、父は仏長次郎といはれて性質慈悲深く、三人の子あり、兄なるは先妻の子にて、後妻の総領を万吉と呼び即ち今の穆山師なり、その母は教育こそなけれ名僧ともなるべき子を持てる丈ありて心様凡々ならず、家の生計を身一つに引受け貧しさ中にも子の教育に心を用ゐ、夫は心善きのみにて働きと云ふものなく、嫁いりし頃は借財さへ少なからずありけるを、女の柔弱き細腕に痩所帯を切て廻し、数年の後はおごり高ぶる債主に責めらるる事絶えてなき迄に至りぬ、仏と云はるる長次郎は北国の寒空に哀れにもこふ乞食などの門辺に佇むこともあれば、わが飲み居る酒をなみなみと茶碗にうつして「寒からう」と慰めて自らすすむる事もあり、また或時は着換とても数あらぬ我身をば打忘れ着たる着物を袖乞にぬぎ与ふる事ありき、性質互いに異れる夫婦の中には賢き子供の生るると云ふなるに、斯る父母を持ちし穆山師も其一例にやあらんずらん、母親の実家西村氏に子なかりければ遅そ生れの万吉はやっと乳ばなれし三歳の時祖父母の家に引取られ、叔父叔母の手に養はる、何処も同じ祖父母の愛に無事に三とせの春秋を送り早六歳とはなりにけり、然るに万吉の来りて程もなく叔母は一子を挙げたるが、祖父母が万吉の方のみ多く愛しむとて彼是れと近隣の人に物語るを聞き、利発なる万吉は小供ながらも此所に居る事の心苦しく、三つの歳に朧気ながら覚え居る父母のゐます所へ帰らんものと心を定め独りソート養家をぬけいでたり、八戸町よリ湊へは遠き畷のへだたりて最と淋しき道なるに、ひとり泣く泣く辿りゆく幼子の誰が目にもとまりけん、可笑げに手拭いかぶり鯛よ蝶と臆面なく大声に売りあるきて今帰り行く此の辺の女子ら目早く見附け、仏長次郎の子と分りて涙拭ひやり手をとりてその家につれ行き斯く斯くと話すに両親驚き犬方ならず、そなたは両親を如何して知って居たと云ふに、私しは独で知ってゐましたと答へつつ嬉しげにも彼方此方を見まわす様のいぢらしきに父母は互に顔見合せて暫時言葉もなかりける