2007年3月1日木曜日

小中野は女なくしてもたぬ街、その女が消えて灯も消えた 最終回

小中野生まれの三人の人生を記してきたが、いよいよ戦後の話。それにつけても大正生まれの人々の労苦は並大抵じゃない。昨年、五戸のハルピンと言う中華料理屋のバサマを掲載、この人はソ連侵攻、中国内戦に遭遇し、妹、弟と生き別れ、中国人の夫を得るも、必ず生きて日本の土を踏むと決意。暇を見ては生き別れになった場所に、妹、弟の姿を探し求める。

「十年も前です、ここで日本人の妹と弟と分かれ分かれになってしまいました。どうぞ、どんなことでもいい、知っていることがあったら、お願いです、私に教えてください」

地に頭をつけんばかりに、涙をこらえることもできずに異国、中国で哀願しなければならないのは辛い。まるで、氷雨の中、裸足で外に追い出されたるが如き胸中。大地を踏みしめる足もと寒し。

杖とも柱とも頼った母は開拓団の地で自決、父は満州で応召され、死んだか生きたかも不明。姉妹と弟が故国に引き揚げんと必死になって、大人の後を追うが、少し離れ、だんだん置かれ、とうとう姿が見えなくなり、失ったのは日本人たちの姿ばかりか途方。

中国人同士、覇権を争い銃弾飛び交う市街戦の中、日本人の子ども三人が頭を低くしながらさまよう。後を見たら、妹、弟がいなかった。こんな境遇に立ち至り、困惑、困窮せぬ者一人とてなし。

必死に妹がいませんでしたか、見ませんでしたかとの涙声に、中国人たちも袖を濡らす。
人情紙の如しと言う譬(たとえ)もあるが、人として生まれきて、この日本人の姉の姿を認めれば、異国の人も心を動かさぬ者とてなく、額あつめての相談、思案。

そんな時、一人の女が走り来て、ひしと抱きつく。姉の泣き声を聞いて、もしやと思って走ってきたのだ。しばし、抱き合い共に泣けば、中国人たちも分かれた辛さと再会の喜びを分かち合い、涙ののちには歓声挙げて祝福。

遠い日本の親戚よりも、ここ中国の北の街、異国の人々の存在ばかりが頼もしい。そんなこんなの苦労の果てに、一時帰国し、そのまま永住、中国人の夫は怒った、オットそうはいかないと。それでも金を送り続け、二人の男子を日本に呼び寄せ今は幸せに暮らしています。

こんな苦労も今の若い者たちは知らないけれど、これも日本人がたどった道。

ようよう日本に帰った小中野三人組も、食うための努力を開始する。

加藤そば屋の万ちゃんは古巣の教育畑、三戸地方教育事務所で視聴覚教育を担当し、子ども達に映画を見せてあるく。守備範囲は広く、青森県南全域をくまなく歩く日々。映写機ぶら下げて、バスであちこち歩く、巡回映写会担当官。これでオマンマにありついた訳。

こんな仕事なんかしなくたってソバ屋でおまんま食ったらよかべと思うのが素人の浅ましさ。当時、物資は統制経済(国が物資を管理し自由販売をさせない)で、ソバ屋にソバ粉が来ない。ならうどん粉でどうか? うどん粉も外国から来る、アメリカから来るから、アメリケンでメリケン粉、これとて統制品の最たるもの。つまりお手上げだヨ。それで、世を忍ぶ仮の姿で官吏を務める訳だ。

この加藤ソバ屋が、市役所裏の「おきな」ソバ屋と成るのだが、これには少々深い訳。

それは、ある日のことだった、昭和二十九年に統制が解けて、ソバ屋に万ちゃんが復帰した。その時にお袋がしみじみ言った。これからは八戸に出ないと困る時が来ると。
このお袋の洞察力は鋭い。加藤ソバ屋で小中野にしがみついていたら、とうに倒産していたことだ ろう。なにしろ、小中野は二つの法律でぶちのめされた珍しい街。

一つは天下の悪法、売春防止法、これが昨今、幼い子どものあそこを見ようなんて、チンポの立たなくなった爺が、小学校一年生のを覗いた。この男の前職は小学校長だとヨ。聞いて呆れるはこれを指す。

商売で見せるさせるが無くなったのでこうした嘆きが出る。売春は立派な産業、もう一つは二百海里で漁業がダメ、今まで余所の国から盗んだ魚、それが盗めなくなってアウト。これも政府がしっかり交渉すればセーフの筈。

その母親の言を入れて市役所そばの中居写真館の一画を借りて加藤ソバ屋から「翁」へと名称を替えて心機一転は昭和三十七年、ここを中央食堂、島川氏が買って、「翁」は現在地を購入し新築する訳。それからはソバ屋の四代目に納まり鳴りを潜めて商売渡世。

植木さんの場合は、命からがら日本について、さて、何をしようかと思案、こんな時にこそ力を貸すのが友、藤金タクシーの藤田幸三郎氏、この人が駐留軍が高舘の飛行場跡に来た、そこで車の運転手を捜している、直ぐ行ってみろと教えた。金網で囲まれた駐留軍の基地、アメちゃんたちが大勢ウロウロ、何、植木さんはたじろがない。何たってシンガポールで捕虜になり、キングスイングリシュで生活、米国英語は訛がひどい、俺の耳は本場の英語と力むけど、何、植木さんは英語は聞くだけで喋れない。

アメちゃんの将校がテスト、飛行場で運転試験、植木さんはジープに乗り込み、シンガポールで運転してたように、勢いよく車をジー、プーと走らせ合格、なにしろ乗った車がジープ。

そこで今日から働けと、即採用、当日より労働だ。そこにいて、結婚し、今度は市役所で運転手を欲しがっていると長横町の歯科医橋本氏が教えて、市役所勤務。無事に勤め上げると今度はRR厚生会で駐車場の管理人に来てくれと、辞めた当日から引き出され、それもようやく辞めさせていただき、今はすっかり好々爺、男はいつも身綺麗にと、幾つになっても英国紳士ならぬ八戸ダンディー、小柄な好々爺が街をテクテクしてたら声をかけてごらんヨ、必ずそれが植木さんだ。

さて、真打ちは野田さん、消防に勤務したナ。この義侠心に富み人情に厚い、男の中の男一匹という、時代が違えば侠客という存在。

男ぶりはいい、声に凄みがある、腕っ節は立つ、あそこもデカイ。風呂屋のタイルを舐めると言う程、湯舟の近くの奴が湯をこぼすと、入り口近くで身体を洗っていた野田さんが「熱い!」と叫んだそうだ。
小中野三大マラの持ち主、更に凄いのは、昔の侠客が消防士になったから、怖れを知らない。恐いと言う字は我が辞書には無いという根性の持ち主。消防士全体が命知らずの集団、当然、それ火事だとなれば皆装束に身を固めて赤い車でサイサイレン鳴らして飛び出す。水をかけるのが商売。ところがこの消防士が一番嫌なのが電気、水をかければ感電する。なんたって百ボルトじゃない、上の電線は三千三百の高圧、それがトランスで変圧されるが、その前の生の電気が走っているんだ。それが火事になって垂れ下がる。トタンの屋根だと電気が途端に走るぞ。八日町の嵯峨って肉屋があった、八右衛門の所を借りてたらしい。嵯峨の店を探してもみつからない、なにしろ昔の話だヨ。

先着の消防士がオタオタしてる。野田さんが怒鳴った、

「何してる、屋根に上がれ!、上がって値打ちがあるのが消防士とマージャンだ」
屋根に電気が走ってて感電死すると、大声、何、電気ぐらいで震えるなと、梯子を屋根にかけるが、電気でショート、火花が走る、ショートでびくびくするな、俺はサードだよと、平気な顔で屋根にあがり、のたうち廻る三千三百ボルトの黒くて太い(なんだか、どこかで見たようなもの)電線を掴んで放り投げ、勢い良く筒先から水を放って鎮火。

昔はこうした豪傑が消防に居たナ。消防三羽烏と呼ばれたのが一番、野田、二番が西村、三番が福士、この人達は皆刀が趣味、生まれる時代を間違  ってお袋の腹を蹴った人達。世が世ならいっぱし  の親分で渡世したろうに。

当時、小中野に名物男がいた。大久保弥三郎は少し時代が前だが、寺下建設の寺下岩蔵、広田真澄、前者は参議院議員、後者は市議、明治四十四年生まれ、水産高校の教諭から昭和二十二年初当選、連続十期務め平成五年没、この人の選挙は清廉潔白、銭も無いから自転車で外套の襟立てて街頭演説。それでも十期当選、八戸市議の長老、谷地先次郎さんだって六期、いかに凄いかが判明。この寺下、広田両氏が小中野少年野球を育てる。
侠客野田親分は少年野球のための用心棒、グランドにふらふら入り込んで、野球の邪魔をする奴を懲らしめる役。グラウンドの整備に汗を流す。寺寺下が金を出し、広田が智恵を出し、野田が汗を出した訳、この少年野球が日本で二番、つまり準優勝。往時の新聞を見せる。それは昭和二十七年のこと。当時のメンバーは右・佐藤、遊・風張、捕・橋本、一・玉川、左・高橋、三・池田、中・鈴木、PH・中村、二・月館。投・藤本。

全日本少年野球大会優勝戦

八戸インディアンズの敢闘空し

五対三 呉の軍門に降る
全日本少年野球大会は東北代表八戸インディアンズと中国四国代表呉三津田をもって優勝を争ったが、八戸インディアンズは敢闘空しく五対三で西海の雄呉の軍門に降った。この日後楽園球場には数千の観衆が詰めかけ、前日八戸軍と準決勝で一対○と惜敗した横浜代表全西潮田の応援団が「昨日の敵は今日の友」とばかり八戸に応援、少年野球らしい微笑ましい風景を描きつつ午後一時十八分八戸先攻で試合開始、へき頭佐藤(洋)中前安打を放って気を吐いたが頼みとする藤本投手が相手呉代表の三試合にたいし、すでに三試試合を完投しシャットアウトしているだけに、さすがに疲労の色を見せ、立ち上がり悪く、一回表二点を先取され五回、六回また一点づつ、八回さらに一点を加えて五点を奪われた、しかし八戸は七回裏二死ながら満塁のチャンスを逃したあと八回表で田口投手の疲れに乗じ、選球し無死四個の四球を奪って一点をかえし玉川の中前安打でさらに二点四対三にまで迫ったが、その裏で一点を返され、いよいよ最後の攻撃となり、二死満塁一打同点の波乱に富んだゲームを進めたが、頼みの綱玉川の一打捕邪飛に終わり無念の涙をのんだ。

これら八戸野球少年がどうしているかと、野田さんに訊くが、耳が遠くなって判らない、少年たちの中、月館さんは「はちのへ今昔」の編集長の親戚、月金の倅、三年前に亡くなった。後は誰も判らない。読者諸兄で知っている人があったら連絡を乞う。
さて、愛すべき野田さんの消防でのエピソードも色々あるが、年代がハッキリしないので文字にしにくい。判っていることだけ記して終わりにする。 

野田さんは小中野と湊の境、粋な女の通う橋、柳橋の傍で骨董屋を開いた。誰にも売らない、誰からも買わないという妙な店。孫と二人で店番ならぬ孫番で楽しく暮らしたヨ。
この人ほど、夫婦愛、人情愛に溢れる人はいないというゾ。目は霞んで歯は抜けて、耳も少々ならず遠いけど、これは食い過ぎるな、嫌な事を見聞きするなと身体が教えるんだ。この人は手先が器用で何でも作る。それがことごとく一流、彫刻から凧、額、表装と何でも来い。軽自動車を改良し、今のキャンピングカーにして全国津々浦々を漫遊。飯岡の助五郎という嫌な侠客、それと戦ったのが笹川の繁蔵、有名な平手酒造(ひらてみき)て言う用心棒が登場する天保水滸伝、利根の川風袂に入れて、月に竿さす屋形船、玉川勝太郎の名調子の時代に、野田さん生まれてたら、人は死んでも名を残したろうにと残念至極。そんな千葉県にも足を伸ばした。今は奥さんが少々体調不良、それを優しく看護して、病院へ連れて歩く足代わり。それにつけても、大正生まれの人々にご苦労をかけたことです。安倍に代わり御礼を申し述べます。それにつけても小中野の盛衰は烈しかった。この凋落(ちょうらく・花などがしぼみおちること。また、容色がおとろえること。おちぶれること)の原因は女がいなくなったことが最大。昭和四年に八戸市に合併し、八戸の社交場、歓楽街、紅灯の巷(こうとうのちまた・いろまち。花柳界。遊郭。また、歓楽街)として名声を誇ったが、戦後状況が一変、前号で紹介した八戸町を中心とした歓楽街が長横町から新長横町、朝日町へと延伸。中心街に飲食、宴会が移行し、当然、安価な隠れ売春、もぐり淫行が発生。いついかなる時代が来ようとも、売春は絶滅しない。身体検査もしないその手の女の子宮か膣に強烈な黴菌が繁殖し、それが蔓延したのがエイズ。定期的に検査を義務づけないから被害が拡大。

人類最古の職業が売春。これが絶滅する筈もない。インポ爺とメンスの上がった婆が通した天下の悪報、売春防止法を撤廃しないかぎりに恐ろしい黴菌は根絶できない、患者は増加の一途だ。

八戸の爺が筆者に言った。最近英治が恐い。何処の英治だ? あんたも英治じゃないか? 俺は真だ、アンタの英治は何処の英治だ? 湊か? 病気の英治だよ。何のことはない、エイズ。

小中野にストリップ小屋があった。常現寺へ抜ける通り、名前がデラックス東北、弘前、仙台と三軒をダンサーが掛け持ち。近くのアン美容室で髪をセット、ピン一本外すと髪の毛がパラリと落ちる仕掛けにしてくれと頼まれたそうだ。

小中野隆盛の元は八戸市から分離独立し、紅灯の巷宣言をなし、町営のストリップ小屋を経営し、売春宿を復活、県条例の撤廃が必要だが、小泉内閣当時の特区、売春特区を利用するんだヨ。

魚を利用した安価で美味い料理を出す。おいらん鍋、女風呂って名前の料理、金精様を祀って金精煎餅、昔からあったな、鉱泉煎餅てのが、小中野は金精様、色町、遊廓、花柳界で復活する以外にないだろう。つまり、王政復古ならぬ「おう、性復古」だよ。