五戸は藩政時代に代官所があった。山坂ばかりの妙な町だが、気風が八戸人とは微妙に異なる。我は我、他人(ひと)は他人のような矜持(きょうじ・自分の能力を信じていだく誇り。自負。プライド)を感ずる。
この五戸人たちが金を出し合い、八戸の小中野まで、いや、更に種差海岸まで鉄道を敷こうと努力した。昭和二十五年の話だ。
株主数二千五十三名、五戸が千百五十二名、三戸が三百二十名、田子が百七十三名、上北が百六十六名、八戸はわずかに百四十四名。いかに五戸人が熱を入れていたかがわかる。しかし、五戸でも政党に二分し、反対側は一円も出さなかったそうだ。
どうも、青森県全体、あるいは三八地区がそうなのかは明言できぬが、狭量なところを見受ける。俗に言う足ひっぱり、八戸では筆者は何度も体験、いや、その連続の中で生息している。他人が気づかぬことを喋ると、「それはワも考えていた」と同調なのか、自己顕示(じこけんじ・自分の存在をことさらに目立たせること)なのか、八戸では至る所でこの言葉を聞く。他人がすると面白くない、足を引っ張るだけでは足りなくて、蹴倒す、踏みつけるは当たり前、狭隘な地で、誹り罵った相手とも顔を合わせる。すると、その場はうまく繕う。妙な奴らだと思ったのは八戸地区だけに許可の下りた、地域限定の携帯電話、米屋と車屋だけがうまいことやろうとワに相談もしないで始めた。誰が加入するものかと、回状は回さないが、言葉が次々に伝わり、時代が全国型携帯電話になったこともあるが、加入者伸びずに閉塞。
人生はただの一度の場、やりなおしは利かない。考えただけでは糞の役にも立たない。それを実行するかしないかが問われるのが娑婆世界。ご託を並べて、やれない理由を挙げるが、人生は言い訳、自己弁護、自分に同情する場ではない。
するかしないかが大事なのだ。出来た出来なかったは、その精神の発露の結果だ。
たしかに鉄道は小中野まで行かなかった。だが、それを成そうとした精神は尊い。歴史に、もし、はないが、もし、尻内(八戸駅)から小中野まで鉄道が通っていれば八戸は大きく変わっていたことだろう。時代を読み、手 を打つことは誰にも許されてはいない。それをなしながら完成に至らなかったことは残念の極み。
南部バスに勤務された五戸の安藤さんの案内で、今回は南部鉄道に勤務された浪打泰さんからお話を伺った。鉄道・バスの切符は浪打さんが所有されているもの。
五戸の人々にとって南部鉄道は心のふるさとに間違いはない。その証拠は東奥日報の二千年十月二十日夕刊に南部鉄道の歌が地域住民に歌い継がれているとある。
人間の思いというのは不思議なもの、父母を偲び先祖を尊び墓石に頭を下げる。盆や彼岸には供え物をする。心の発露が形に現れる。なくした物はいとおしい。だからこそ、南部鉄道の歌がいま持って歌われる。
蒼前ケ丘の朝早く
気は澄み渡る大空に
一気は高く汽笛こそ(ひときわ高き汽笛こそじゃないの)
五戸鉄道停車場よ
鉄道はなくても、名こそ流れてなお聞こえけりってなもの。
さて、今回南部鉄道の話をしてくださった浪打さんは昭和十年生まれ、昭和二十九年に南部鉄道に入社。新人は車掌が最初の仕事。
なんてったって、南部鉄道は十二キロ、尻内からは国鉄に繋がる。この国鉄の切符も販売していたから、売り上げは大変なもの。この売り上げはいったん南部鉄道が管理し、それが締め支払いで国鉄に送られる。一円でも合わなければ公金横領になる。なにしろ国鉄は官営、国鉄の売り上げは公金な訳。
浪打さんは車掌の次には、この公金を扱う調査課で活躍。南部鉄道の切符は硬い券、昨今はヘナヘナした切符の柔らかい券に変わったが、昔はこれ、この硬い券に駅ごとに違った鋏を入れる。だから、発行駅と違った鋏が入ると、違法をしたことが判明。
昔、国鉄が省線と呼ばれていた時代があった。そこの駅員は津波のごとく押し寄せる乗客の切符に鋏を入れながら、定期券の日付と区間を見定める。体を斜めにして、鋏をリズム良く動かし、視線を手元にやるしぐさは、いまの若い者に見せたいほど。まさに職人技。名人達人の部類に入ったネ。
いまは自動改札で棒が降りるが、あんなのは押し通ればいい。ブーだのピーだの鳴るのは機械の勝手。無理に通れば無賃乗車、タダノリだ。
「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」藤原俊成を師とした歌人、平の忠度(ただのり)は勅撰集(ちょくせんしゅう・天皇の命令で詩歌、漢詩を集める文集)に私の和歌が選ばれることがありましたら、と、師に歌集を手渡す、難をおそれて詠み人知らずとして千載集に前の句。一ノ谷の戦いには箙(えびら・矢を入れて携帯する容器)に和歌をしたためた短冊を結びつけていたという。その句は「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」
この忠度は薩摩の守だったため、タダノリを洒落て薩摩守という。渡河のため船に乗った僧侶、船賃請求され、薩摩守と応える、その心はと問いかけられ、タダノリと答える。川守も洒落たもんだネ、フウーンとただで通す。風流を解する人がいたもんだ。それを真似て捕まる坊主が狂言に描かれる。忠度は風流人、昔も今も戦争は嫌だ。アメリカは日本の徹底抗戦に原爆で対抗、無辜(むこ・辜は罪の意・罪のないこと。また、その人)の広島、長崎の民を二十万人も殺戮(さつりく・むごたらしく多くの人を殺すこと)。この原爆は台風何個分に当たるかという言い方がされたことがる。いまアメリカはたった一個の台風で七千人が死んだと大騒ぎ。広島・長崎は一瞬で二十万人が融けた。自分のしたこと忘れ、やられたことだけは忘れないのが強者の論理。戦争は嫌なこった。
さて、南部鉄道の切符は名古屋にあ った日本交通印刷が製造。金券だけに粗雑な扱いはできない。南部鉄道には無人駅があり、車掌は車内で切符を販売。
尻内・五戸間は百円、昭和四十三年当時の百円は高価。日本一高い料金だったかも知れませんヨは安藤陽三さんの弁。浪打さんは総務から営業畑へと転じ長距離バスを東京へと走らせる。時代が大きく変わったんだ。国がレールの代わりに道路を施設し、バス会社がそれを利用し、狭隘な地域路線から大都市への輸送手段となった。南部鉄道は十勝沖地震で路線が寸断され、鉄道を廃止、バス部門だけになった。自動車社会になり、庶民がみずから車を運転するようになった。そして交通戦争で年間一万人を超す死亡者を出すようになった。庶民が加害者の側に廻る恐ろしさを発生。運転はプロに任せるのが安心。だが、バスは乗らない時によく来るが乗りたい時はなかなか来ない。これが不便なところ。ところが、自分で運転する車社会になって人の気質が変わったように思 う。まず待つこと忘れた、次に我勝ちになった。一時停止は守らない、速度違反は平気でする、恐ろしいのは飲酒運転。歩いててさえヨタヨタする、それなのに車を運転するは狂気の沙汰(さた・しわざ)。
上の写真は川村文雄さん提供、父君が志戸岸駅の駅長を務められた。機関車の前に積まれているのが、関東方面に移出されるマサ、瓦屋根の下に敷かれる屋根材。五戸からは材木、木炭、肥料などの需要があり、貨物部門は結構稼いでいたそうだ。
ところが、材木は輸入、マサは新建材に代わり、木炭は昭和二十年代後半に出てきたプロパンガスに押され次第に需要減少。時代が旅客、貨物共に悪い方向に向かった。それでも鉄道の赤字をバス部門で埋めながらなんとかくるが、とどめを刺したのが十勝沖地震。
昭和四十三年五月十六日午前九時四十九分、南部鉄道は盛土部分が崩れ、全線運行停止。当時の東奥日報は南鉄、地震と経営難で廃止、地震のため路盤決壊、土砂くずれで全面的不通となった八戸市尻内―五戸町間の南部鉄道(三浦道雄社長)は、線路がずたずたに寸断され、被害は予想以上に大きく、開通のメドが立たず、赤字路線だけに再開は危ぶまれており、このまま廃止の声も出ている。被害の大きいところは七崎―五戸間の三・五㌔で山腹を縫うように走っているため地滑りをまともに受け志戸岸駅近くでは数カ所に渡って線路が宙吊りになっている。被害は二億円と計算されるも、赤字のため合理化対策を検討中の被災。年間九十万人の足がなくなると混乱を招くおそれもある。
結局、南部鉄道は廃止になった。
志戸岸駅近くの宙吊り線路
当時の鉄道員の服装、使用された切符など、後になってしまうと皆目検討がつかなくなることどもも、当時の従事者たちの努力で少しづつ判明。まだまだ、様々な史料があるとおもうが、この「はちのへ今昔」を見て、こんなのもあると出された時は、追加として読者諸兄にお見せしたい。一応はこの2で南部鉄道の話は終了。
大正十五年二月二十一日、五戸鉄道株設立
昭和四年尻内―上七崎間開通
昭和五年尻内―五戸間開通
昭和六年自動車旅客運送開始
昭和十一年商号を五戸鉄道と改称
昭和十二年三本木、五戸間旅客自動車業買収
昭和十六年三戸、八戸間旅客自動車業買収
昭和二十年南部鉄道と改称
昭和四十五年南部バスと改称。
川村文雄さん提供の写真を見ていただく。
今は昔、五戸人の心のふるさと、南部鉄道花盛りの頃、
この五戸人たちが金を出し合い、八戸の小中野まで、いや、更に種差海岸まで鉄道を敷こうと努力した。昭和二十五年の話だ。
株主数二千五十三名、五戸が千百五十二名、三戸が三百二十名、田子が百七十三名、上北が百六十六名、八戸はわずかに百四十四名。いかに五戸人が熱を入れていたかがわかる。しかし、五戸でも政党に二分し、反対側は一円も出さなかったそうだ。
どうも、青森県全体、あるいは三八地区がそうなのかは明言できぬが、狭量なところを見受ける。俗に言う足ひっぱり、八戸では筆者は何度も体験、いや、その連続の中で生息している。他人が気づかぬことを喋ると、「それはワも考えていた」と同調なのか、自己顕示(じこけんじ・自分の存在をことさらに目立たせること)なのか、八戸では至る所でこの言葉を聞く。他人がすると面白くない、足を引っ張るだけでは足りなくて、蹴倒す、踏みつけるは当たり前、狭隘な地で、誹り罵った相手とも顔を合わせる。すると、その場はうまく繕う。妙な奴らだと思ったのは八戸地区だけに許可の下りた、地域限定の携帯電話、米屋と車屋だけがうまいことやろうとワに相談もしないで始めた。誰が加入するものかと、回状は回さないが、言葉が次々に伝わり、時代が全国型携帯電話になったこともあるが、加入者伸びずに閉塞。
人生はただの一度の場、やりなおしは利かない。考えただけでは糞の役にも立たない。それを実行するかしないかが問われるのが娑婆世界。ご託を並べて、やれない理由を挙げるが、人生は言い訳、自己弁護、自分に同情する場ではない。
するかしないかが大事なのだ。出来た出来なかったは、その精神の発露の結果だ。
たしかに鉄道は小中野まで行かなかった。だが、それを成そうとした精神は尊い。歴史に、もし、はないが、もし、尻内(八戸駅)から小中野まで鉄道が通っていれば八戸は大きく変わっていたことだろう。時代を読み、手 を打つことは誰にも許されてはいない。それをなしながら完成に至らなかったことは残念の極み。
南部バスに勤務された五戸の安藤さんの案内で、今回は南部鉄道に勤務された浪打泰さんからお話を伺った。鉄道・バスの切符は浪打さんが所有されているもの。
五戸の人々にとって南部鉄道は心のふるさとに間違いはない。その証拠は東奥日報の二千年十月二十日夕刊に南部鉄道の歌が地域住民に歌い継がれているとある。
人間の思いというのは不思議なもの、父母を偲び先祖を尊び墓石に頭を下げる。盆や彼岸には供え物をする。心の発露が形に現れる。なくした物はいとおしい。だからこそ、南部鉄道の歌がいま持って歌われる。
蒼前ケ丘の朝早く
気は澄み渡る大空に
一気は高く汽笛こそ(ひときわ高き汽笛こそじゃないの)
五戸鉄道停車場よ
鉄道はなくても、名こそ流れてなお聞こえけりってなもの。
さて、今回南部鉄道の話をしてくださった浪打さんは昭和十年生まれ、昭和二十九年に南部鉄道に入社。新人は車掌が最初の仕事。
なんてったって、南部鉄道は十二キロ、尻内からは国鉄に繋がる。この国鉄の切符も販売していたから、売り上げは大変なもの。この売り上げはいったん南部鉄道が管理し、それが締め支払いで国鉄に送られる。一円でも合わなければ公金横領になる。なにしろ国鉄は官営、国鉄の売り上げは公金な訳。
浪打さんは車掌の次には、この公金を扱う調査課で活躍。南部鉄道の切符は硬い券、昨今はヘナヘナした切符の柔らかい券に変わったが、昔はこれ、この硬い券に駅ごとに違った鋏を入れる。だから、発行駅と違った鋏が入ると、違法をしたことが判明。
昔、国鉄が省線と呼ばれていた時代があった。そこの駅員は津波のごとく押し寄せる乗客の切符に鋏を入れながら、定期券の日付と区間を見定める。体を斜めにして、鋏をリズム良く動かし、視線を手元にやるしぐさは、いまの若い者に見せたいほど。まさに職人技。名人達人の部類に入ったネ。
いまは自動改札で棒が降りるが、あんなのは押し通ればいい。ブーだのピーだの鳴るのは機械の勝手。無理に通れば無賃乗車、タダノリだ。
「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」藤原俊成を師とした歌人、平の忠度(ただのり)は勅撰集(ちょくせんしゅう・天皇の命令で詩歌、漢詩を集める文集)に私の和歌が選ばれることがありましたら、と、師に歌集を手渡す、難をおそれて詠み人知らずとして千載集に前の句。一ノ谷の戦いには箙(えびら・矢を入れて携帯する容器)に和歌をしたためた短冊を結びつけていたという。その句は「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」
この忠度は薩摩の守だったため、タダノリを洒落て薩摩守という。渡河のため船に乗った僧侶、船賃請求され、薩摩守と応える、その心はと問いかけられ、タダノリと答える。川守も洒落たもんだネ、フウーンとただで通す。風流を解する人がいたもんだ。それを真似て捕まる坊主が狂言に描かれる。忠度は風流人、昔も今も戦争は嫌だ。アメリカは日本の徹底抗戦に原爆で対抗、無辜(むこ・辜は罪の意・罪のないこと。また、その人)の広島、長崎の民を二十万人も殺戮(さつりく・むごたらしく多くの人を殺すこと)。この原爆は台風何個分に当たるかという言い方がされたことがる。いまアメリカはたった一個の台風で七千人が死んだと大騒ぎ。広島・長崎は一瞬で二十万人が融けた。自分のしたこと忘れ、やられたことだけは忘れないのが強者の論理。戦争は嫌なこった。
さて、南部鉄道の切符は名古屋にあ った日本交通印刷が製造。金券だけに粗雑な扱いはできない。南部鉄道には無人駅があり、車掌は車内で切符を販売。
尻内・五戸間は百円、昭和四十三年当時の百円は高価。日本一高い料金だったかも知れませんヨは安藤陽三さんの弁。浪打さんは総務から営業畑へと転じ長距離バスを東京へと走らせる。時代が大きく変わったんだ。国がレールの代わりに道路を施設し、バス会社がそれを利用し、狭隘な地域路線から大都市への輸送手段となった。南部鉄道は十勝沖地震で路線が寸断され、鉄道を廃止、バス部門だけになった。自動車社会になり、庶民がみずから車を運転するようになった。そして交通戦争で年間一万人を超す死亡者を出すようになった。庶民が加害者の側に廻る恐ろしさを発生。運転はプロに任せるのが安心。だが、バスは乗らない時によく来るが乗りたい時はなかなか来ない。これが不便なところ。ところが、自分で運転する車社会になって人の気質が変わったように思 う。まず待つこと忘れた、次に我勝ちになった。一時停止は守らない、速度違反は平気でする、恐ろしいのは飲酒運転。歩いててさえヨタヨタする、それなのに車を運転するは狂気の沙汰(さた・しわざ)。
上の写真は川村文雄さん提供、父君が志戸岸駅の駅長を務められた。機関車の前に積まれているのが、関東方面に移出されるマサ、瓦屋根の下に敷かれる屋根材。五戸からは材木、木炭、肥料などの需要があり、貨物部門は結構稼いでいたそうだ。
ところが、材木は輸入、マサは新建材に代わり、木炭は昭和二十年代後半に出てきたプロパンガスに押され次第に需要減少。時代が旅客、貨物共に悪い方向に向かった。それでも鉄道の赤字をバス部門で埋めながらなんとかくるが、とどめを刺したのが十勝沖地震。
昭和四十三年五月十六日午前九時四十九分、南部鉄道は盛土部分が崩れ、全線運行停止。当時の東奥日報は南鉄、地震と経営難で廃止、地震のため路盤決壊、土砂くずれで全面的不通となった八戸市尻内―五戸町間の南部鉄道(三浦道雄社長)は、線路がずたずたに寸断され、被害は予想以上に大きく、開通のメドが立たず、赤字路線だけに再開は危ぶまれており、このまま廃止の声も出ている。被害の大きいところは七崎―五戸間の三・五㌔で山腹を縫うように走っているため地滑りをまともに受け志戸岸駅近くでは数カ所に渡って線路が宙吊りになっている。被害は二億円と計算されるも、赤字のため合理化対策を検討中の被災。年間九十万人の足がなくなると混乱を招くおそれもある。
結局、南部鉄道は廃止になった。
志戸岸駅近くの宙吊り線路
当時の鉄道員の服装、使用された切符など、後になってしまうと皆目検討がつかなくなることどもも、当時の従事者たちの努力で少しづつ判明。まだまだ、様々な史料があるとおもうが、この「はちのへ今昔」を見て、こんなのもあると出された時は、追加として読者諸兄にお見せしたい。一応はこの2で南部鉄道の話は終了。
大正十五年二月二十一日、五戸鉄道株設立
昭和四年尻内―上七崎間開通
昭和五年尻内―五戸間開通
昭和六年自動車旅客運送開始
昭和十一年商号を五戸鉄道と改称
昭和十二年三本木、五戸間旅客自動車業買収
昭和十六年三戸、八戸間旅客自動車業買収
昭和二十年南部鉄道と改称
昭和四十五年南部バスと改称。
川村文雄さん提供の写真を見ていただく。
今は昔、五戸人の心のふるさと、南部鉄道花盛りの頃、