2009年1月31日土曜日

ふるさとの味八戸せんべい 組合創立五十周年記念座談会


デーリー東北 昭和三十五年二月二十六日
八戸せんべいが四百年以前から、地方人に「ふるさとの味」として親しまれ、明治四十三年に業者が、品質の向上をはかるため組合を作ってから今年で五十年を迎える。組合では三月一日、五十周年事業として「せんべい祭り」を挙行する計画だが「せんべい」が我々の生活にあまりにも近いため、無関心にすぎている面があるようだし、ようやくその雅味ある味覚が全国的に認められ、みやげ品として折り紙つけられているが、その反面、生産に販売に多くの困難があるようだ。この機会に八戸名産「八戸せんべい」について、その過去や現状、あるいはこれからのことなどについて関係者からいろいろ意見を聞いてみた。
出席者
八戸物産協会長      牧浦好之助
同協会せんべい部会長   宇山博明
同協会事務局長      加藤一夫
業者
八戸せんべい組合長    坂本幸一郎
             岩館作太郎
             山下福太郎
司会   角田本社編集局長
九割は地元で消費
生産量も昔より減る
司会 まず八戸せんべいの現状について坂本さんからアウトラインを。
坂本 八戸地方現在の業者は組合加入者六十八人、未加入者を入れて百人ほどです。焼き方も進歩してきて、二枚型機械が十四、五業者、ハネ型が十業者、残りは手焼き式です。年間生産量は消化小麦粉二十二キロ入りの粉袋で三万袋ほど、製品の販路は地元消費が九割、残り一割が県外へ出ています。
司会 組合創立当時のことを
坂本 創立は明治四十三年組合員は六十八人、全業者は百十二人で、当時の生産量は現在よりも多く約四万袋もあった。当時八戸といっても人口八千人ぐらいの町だったから、相当食べられていたことがわかります。そのころのせんべいは今のより厚く形も大きかった。いまの人はわからないかも知れないが「せんべい汁」というのがあって毎日のように食べていたようです。
司会 機械焼きが始まったのはいつごろからですからですか。
岩館 ハネ型が早かったが二十五年から三十年前です。
司会 そのころでしょう、機械焼きは味が落ちると言われたのは。
山下 機械化という新しいやり方び抵抗するためにそういう話も出たことでしょう。実際に機械焼きはせんべいが空気にふれないため、重曹が発散しにくいことは考えられる。しかし今でも手焼きでなければ…という人もいますが、機械焼きも進歩しているから、味はむしろよくなってるとおもいます。
坂本 当時の組合は業者も多かったので競争も激しく卸売りのダンピングを防ぐためと、あとから進出してきた日本、日清製粉の大会社に対して業者の小資本力をカバーする動きもあった。せんべいの中に「八戸名産」の文字を入れること、厚さは三分以内とするなど細かなことまで規約に載っている。
司会 八戸以外で作られている南部せんべいとの関係はどうですか。三戸せんべいや弘前、盛岡などの「南部せんべい」について。
山下 三戸で作られている「流しせんべい」などは八戸せんべいとはつながりはないと思います。
坂本 盛岡のは八戸から持っていったもので、こちらの分家だ。今でも焼き型や機械などは八戸で研究して作ったものを盛岡へ持っていっている。南部の本家なので、せんべいも本家だと思っている人がいるが間違いだ。
山下 せんべいを焼いているところはほかにもあるが、機械を研究しているのは八戸だけだ。ひとつの型を作りだすのに十年近い期間研究している。携行食料にも試作
浦山さんは県外販売の恩人
司会 地元だけでなく、県外へ販路を広げたのはいつごろですか。
岩館 本格的に始めたのは山内市長の時だったでしょうか?軍隊の携行食料にしようと非常に力を入れたのもそのころ、焼き型を市長が作って業者に与えたほどだ。
司会 物産展などへの出品は…
山下 神田市長時代の少し前に、三越へ出したのが初めじゃないですか。もう三十年以上前です。
坂本 そのためか、東京へ持っていくときは他のデパートより三越でやった方が売れ行きが良かった。最近は上野の松坂屋が一番よく出る。
岩館 ここの出身者で、元代議士だった浦山助太郎さんが電気協会の副会長をしていたころ、大阪や東京にこの「八戸せんべい」を自費で宣伝してくれ、販路開拓に尽くしてくれた。いま大阪に持っていって売れるのはそのためです。八戸せんべいにとっては恩人の一人です。
県外にも伸ばせる
小売の利益を増せば
司会 東京などで組合で共同して作業場を作ったらということを言う人がいますが。
坂本 ちょっと無理です。利益が低いし、東京で買う人は今のところほとんどが地元からの出身者で数が限られている。この前、大阪の大丸で現地焼きをしてみた。しかし、現地の水や木炭に対する研究が十分でなく、いい味が出なかった。
加藤 十分な研究期間があれば良いものは作れるんでしょう。現在、機械焼きの燃料としてガスや重油の使用が研究されている。
司会 業者もなかなか容易でないことはわかったが、その点の解決にこれからどうしたらいいでしょう。
坂本 利益が低いので製造者が小売するという方法で、いくらかでもカバーしたい。現在の業者は駅通りを除いて、表通りに面していながら、店舗を飾ろうとしない。小売に対する意欲がないからで、この天の改善からしなければ…
司会 南部せんべいという名が一応通っているのはどのへんまでですか。
岩館 大阪あたりまででしょう。
山下 業者は小売値はどこでも同じでなければという気持ちから、高い送り賃がかかって利益もない所へ宣伝してまで売る必要もないという考えだ。
加藤 いくら宣伝しても、小売値を地元と大差なく全国の都市で売ろうとすれば、利潤の薄さ(二、三%)から小売店は扱わない。そこでこの間、大丸では適当なマージンを見込んで現在の二割高の試験価格で販売。物産協会の特製マークを入れて百円は百二十円、持っていった三百筒は二日間で全部なくなった。これで値段を変えても売れるということがわかった。
宇山 今までの地元と東京、大阪などの小売値が同じでなければいけないという考え方が間違いであって、輸送すると送料もかかるし、破損も見込まなければならない。小売店の利益もみて、新しい小売値を決めていい。全国で小売すれば地元五割、県外五割くらいは伸ばせる。
包装に新趣向を
土産品として魅力も

司会 盛岡や弘前の「南部せんべい」の影響は。
宇山 どこで作っていてもいい。良いものが最後まで残る。地元の製品のよさを認めて貰う方法として、包装や品質の改善などが必要だ。
司会 業者が今までそういう改善に積極的であなかったというのは、どうかこうかやってゆけたからではないですか。
坂本 たしかにそれもありますね。
宇山 せんべい業界でつぶれたというのは聞いたことがないし、蔵を建てたというのも聞かない。
坂本 せんべい業者はほとんどが、夫婦二人で焼く小企業だから。
山下 今でも各業者の焼き方は秘伝として公開されない一種の名人気質があり「○○屋のせんべい」の観念が強く、組合のせんべいとして一本にまとめられることをきらうことも、組合への未加入者が多く、呼びかけがすぐ行われない一つの原因だ。
岩館 戦争前、味自慢の業者たちがグループを作って共同で県外販売をしたことがあった。戦争でつぶれたが、今は共同でやるわけにはいかない。その原因は二つある。一つは原料粉の問題。昔はまじり物のない粉を使うために、業者が石臼や水車小屋などで製粉するほどだった。現在、大会社の粉はほとんど外粉が混じっているため、業者は各自で質の良い粉を探して使っている。第二はゴマ。この地方は良質のゴマがとれていたのが現在タバコにくわれてしまって、ほとんど作付けされない。茨城などから来るゴマは質が落ちて、混じりものがあり信用して使えない。業者は各自で質の良いゴマを見つけるためや、混じりものを除くために苦心している。そんな状態だから、使う粉やゴマを画一的に押し付けるわけにはいかないので共同作業は望み薄だ。
司会 せんべいも何十年もの間にいくらかづつ変わってきたと思いますが、その変わりぐあいを一言でいうと。
宇山 非常に上品になった。よくこれまでになったとびっくりするほど品が良くなった。このあとどこまでいけるか楽しみですね。どうでしょう。どんどん県外へ販路を広げるという意味で、新しい型のせんべい、たとえばバターせんべい、するめせんべいなどの珍種も作って県外販売に力を入れるというのは。
坂本 しかし、いろいろなものは線香花火みたいにほとんど消えていく。やはり最後まで残るのはゴマせんべいだ。
加藤 北海道へはゴマ、関東、関西では豆せんべいが良く売れる。そういう各地の好みの違いがあるから、その地方にあわせた物に力を入れて売り出す研究も必要である。
司会 最後に牧浦会長さんから一つ。
牧浦 新聞紙の袋に入れて売っていたころからみると包装も一段と良くなった。しかし、八戸名産のみやげとして売り出すにはまだ弱い。他の弘前や盛岡で作っているのも南部せんべいだけど「南部八戸せんべい」の良さは何回か食べているうちにわかるだろう。その味がわかる前には、やはり買いたくなるような包装が必要だし、買いやすい駅売りなどに良い物を出して早く良さを認めてもらわなければならない。八戸名産として全国に宣伝され、みやげの一枚のせんべいから八戸のことが語られるようになるとき、それは八戸を盛り立てる大きな力となる。そうなるためにこれからも組合長や部会長を中心に大いに研究してもらう。
司会 このへんで。