人間てのは不思議なもの、誰にたのまれて生まれるのじゃない、誰に願われて死ぬ訳じゃない。実に奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)なところがある。今回の小向さんを紹介してくださったのが理美容の店、バンブー竹原さん。
「八戸にかつら屋さんがありますヨ」
東京の浅草にはカツラ屋が何軒もあった。全国を相手にカツラを商うので、これは商売になるだろうと推測、ところが狭い八戸でかつらだけで商売になるのだろうかと興味津々(きょうみしんしん・非常に興味が引かれるさま)。
城下の店にお邪魔すると所かまわずカツラの山。それが顔の上に載っているのでなかなか盛観。高島田に国定忠治のヤクザ頭、オイラン頭に小姓頭と、そりゃもう大変。そんな頭の並んでいると ころで色々根堀葉堀聞き出すのが、こちとらの仕事。
大阪人じゃないけど、「儲かりまっか」から始めるんだが、「まあまあ、ぼちぼちです」というのが普通。ところが、小向さんはてんから、「儲かる訳がありませんよ」と冷淡。
ものには愛想ってものがあるんじゃないのと思うが、「はちのへ今昔」さんはどうなの?と訊かれるのが嫌で次の質問。
昭和十四年百石生まれ、父親は戦争で北支に行き戦後は三沢の基地で仕事、母親のタカさんが百石で美容室を開業。若いときは八戸の小中野、当時の一流美容師、中道さんで美容の修行、同僚には長横町の新山さんがいた。なにしろ昔の小中野は隆盛な所。今の閑古鳥、ペンペン草の小中野からは想像もつかない。常現寺の前に駅があり、売春宿や芸者置き屋に料亭、見番(けんばん・芸者を次にどこの料亭に行かせるかを決める盤を置き、将棋の駒のように芸者の名を書いた札を、時 間を計る線香をそばに置きながら、指令を出す場所、線香が芸者札一枚で一本立てられるようになるのを、成人のように一本になった、つまり一人前)もあり、東北屈指の不夜城だったんだ。つまり、札幌のススキ野のような所と言えばわかるかナ。当然、芸者衆は毎日頭を結いに来る。中道さんは地毛(じげ・自分の髪―これに対するのがかつら)で高島田などを自在に作る。ここで修行したので小向タカさんの腕前も容易に想像できる。ついでに当時の髪結いさんの古い所を整理。明治三七年創業が糠塚の佐々木スケ、三九年が朔日町の櫛引ヤス、同年鍛冶町の舘合トメ、大正六年が中道の松橋シモ、八年が小中野の中道トメ、此処で修行、十年が六日町の中村貞、十三年が鮫の杉橋アサ、十四年鮫の吉田リサ、十五年長横町、新山はな、小中野の佐々木カヨと続く。小向さんが百石で開業したのは昭和十年とのこと。
栄逸さんが生まれる前から美容室を経営されていた。なかなか美人な母親。
栄逸さんは八戸理美容学校を卒業、剣吉の美容師川村タイさんのすすめで東京浅草の小宮サキさんのもとに修行に出た。これがこの人の一生を決める大きな転換点となる。そのきっかけを作ったのが剣吉の川村さんも、まさか自分が人の一生を大きく作用するとは露ほども思わぬだろう。ひょんなことから人生スゴロクが歩み出すもの。
と、言うのも、この小宮さんは明治生まれで美容界のおしんと呼ばれるほどの苦労の末の大成功者。浅草は花柳界の本場、木場の巽(たつみ)芸者と並ぶ生粋の江戸芸者。そのいずれがアヤメ、花菖蒲といわれる美人そろいから小宮さんに頭を整えてもらわないと気持ち悪くて寝られないと評判をとるほど。だから日本髪では東京一の腕前。小宮さんのお店には全国から二十人も住み込みで働き腕を磨く若者でひしめく。時代が移り、地毛からかつらへと変わるわけだが、ここでも小宮さんは抜群の技量を見せ、関 東一円からかつらの要望が来る。ここでみっちり六年半修行したのでかつら作りは本格派。
そして百石に戻り昭和三八年に結婚。東京オリンピックの前年。新幹線が大阪まで敷かれ、日本が高度成長をする時期。今と異なり高校卒業すれば引く手数多で就職は容易。今は卒業はしたけれどだ。高校の先生は問題解決の先送りで進学をすすめる。だが、大学はそんな場ではないはず。
この頃は夢も希望も皆叶うんじゃないかと思えるほど。若くて元気があっていつも笑顔が絶えない人が多かった。小向さんも熱烈にラブレターを送った相手が応えてくれて、まさに我が世の春。百石の店でかつらを本格的に営業。東京から戻ったばかり、近在の美容室を知ってるはずもない。ところが小向さんの知恵が廻る。理美容材料卸の山道さんに美容室を紹介してもらう。つまり、山道さんの車に乗り込み、ついて廻った。当時は美容室が花嫁さんを作った。現今はホテルが担当。宴会場を持ち、理美容の店をテナントで入れ、若者の増加を視野に入れた商売。ところがこれらの若者が今は爺婆になり、はやっているのは老健施設。これもインチキ、詐欺まがいのところが多く、してもいないことをしたとして国に架空請求し 露見。悪い奴がいたもんだ。そんな老人たちが若い頃、美容室は大流行、今も昔も女は自分を綺麗にみせたいもの。お正月が来るからと地毛で日本髪を結う人もいた。今は正月も関係なく普通の暮らしをしているが、昔は一年の計は元旦にありと、着飾ったもんだ。だから美容室は徹夜の繁盛。
ところがホテルに花嫁取られ、大晦日に頭をセットする人種も滅び、あわれタダの美容室と化した。時代の流れだから仕方がないといえば、そりゃその通り。美容室は一匹狼的な経営者が多く、大同団結ができず、ホテルに対抗する花嫁会館の出現もなかった。美容師はいい腕持ってる人が多いだけに時代を読めないばかりに儲けられることがなかった。
小向さんも花嫁を作れる時代に商売を拡大。頭に関する商売も兼業し、従業員も次第に増加。かつらと髪に関する総合商社をねらった。
かつらも二種類あり。アートネーチャーやアデランスのようなウイッグ、つまり禿げ隠しと日本髪のような地毛で結えないもの。禿げ隠しは着々と伸びた。これらは昭和三十年代後半から出現。つまり小向さんが百石でかつらに力を入れ始めたころ。
人生はチョットしたことで大きく逸(そ)れる場合あり。もし禿げ隠しの部門に力を入れていれば、大儲けのチャンスもあり。バブルが弾けて不動産をいじってた人は大損。ところが小向さんは母親が買ってあった城下に店を出し、地道にかつらを専門に扱う。大儲けはしなかったけど大損もしない。大勢いた従業員をリストラし、今は一人でコツコツと結婚式場の仕事と一座を持つ芸人さんを相手。南部地方は昔から伝統芸能が盛ん。名川には手踊りが幾つも流派を競う。親方は弟子のカツラの心配もしてやる。そのため結構仕事があるとサ。
市の公会堂とか公民館で素人衆が公演をやらかす。それらのかつらはほとんど小向さんが担当。上の写真は昔の百石の小向美容室、母親が亡くなってからはかみさんの次子さんが経営。左のチビちゃんが小向さん夫婦の長女。男の子一人、女の子二人を授かった。子供たちは皆、それぞれの道にすすみ、今はのんびりと焦らずに商売の道を歩む。住居は観音下にあり、かみさんが百石まで通勤。この観音下の土地も母親が買ってくれた所。小向さんは親の遺産を上手に使う人。新築の洒落た家だが、これからは百石に住みたいとのこと。七十年も経営する百石の店には、近所の気のいいお客さんが多い。生まれ育った所がなによりと思えるのは、年とった証拠。古里へ向かう六部は気の弱りって句がある。巧い言葉があるもんだ。小向さん夫婦は子供たちも一人前になりのんびりと夫婦で毎年旅行を楽しむそうだ。この前はハバロフスクに行ったそうだ。昔の流行歌にあったネ。ハバロフスク小唄、近江俊郎が歌った。大した曲じゃないがハバロフスクの連呼。ここの飯は不味かったそうだ。ロシア人てのはジャガイモ食ってるだけでも力持ち。戦争では日本人が寒くて眠れないのに、大地に横になって顔が霜で白くなっても平気で眠るってヨ。
かみさんは今人気俳優の朝鮮人、ヨン様のような優しい面立ち。これからも仲良く暮らしましょうと、夫婦二人の気楽な生活、でも後継者がいない。さて、若者たち、もしかつらや美容に興味があれば、この小向夫婦の所に弟子入りしな。どの道、夫婦は引退する。その跡を苦労なしに手に入れることも夢じゃない。必死に働き地盤を築いても地獄に持っていけません。親の跡取る倅のように、弟子にもいい目が出るかもネ。(終)
「八戸にかつら屋さんがありますヨ」
東京の浅草にはカツラ屋が何軒もあった。全国を相手にカツラを商うので、これは商売になるだろうと推測、ところが狭い八戸でかつらだけで商売になるのだろうかと興味津々(きょうみしんしん・非常に興味が引かれるさま)。
城下の店にお邪魔すると所かまわずカツラの山。それが顔の上に載っているのでなかなか盛観。高島田に国定忠治のヤクザ頭、オイラン頭に小姓頭と、そりゃもう大変。そんな頭の並んでいると ころで色々根堀葉堀聞き出すのが、こちとらの仕事。
大阪人じゃないけど、「儲かりまっか」から始めるんだが、「まあまあ、ぼちぼちです」というのが普通。ところが、小向さんはてんから、「儲かる訳がありませんよ」と冷淡。
ものには愛想ってものがあるんじゃないのと思うが、「はちのへ今昔」さんはどうなの?と訊かれるのが嫌で次の質問。
昭和十四年百石生まれ、父親は戦争で北支に行き戦後は三沢の基地で仕事、母親のタカさんが百石で美容室を開業。若いときは八戸の小中野、当時の一流美容師、中道さんで美容の修行、同僚には長横町の新山さんがいた。なにしろ昔の小中野は隆盛な所。今の閑古鳥、ペンペン草の小中野からは想像もつかない。常現寺の前に駅があり、売春宿や芸者置き屋に料亭、見番(けんばん・芸者を次にどこの料亭に行かせるかを決める盤を置き、将棋の駒のように芸者の名を書いた札を、時 間を計る線香をそばに置きながら、指令を出す場所、線香が芸者札一枚で一本立てられるようになるのを、成人のように一本になった、つまり一人前)もあり、東北屈指の不夜城だったんだ。つまり、札幌のススキ野のような所と言えばわかるかナ。当然、芸者衆は毎日頭を結いに来る。中道さんは地毛(じげ・自分の髪―これに対するのがかつら)で高島田などを自在に作る。ここで修行したので小向タカさんの腕前も容易に想像できる。ついでに当時の髪結いさんの古い所を整理。明治三七年創業が糠塚の佐々木スケ、三九年が朔日町の櫛引ヤス、同年鍛冶町の舘合トメ、大正六年が中道の松橋シモ、八年が小中野の中道トメ、此処で修行、十年が六日町の中村貞、十三年が鮫の杉橋アサ、十四年鮫の吉田リサ、十五年長横町、新山はな、小中野の佐々木カヨと続く。小向さんが百石で開業したのは昭和十年とのこと。
栄逸さんが生まれる前から美容室を経営されていた。なかなか美人な母親。
栄逸さんは八戸理美容学校を卒業、剣吉の美容師川村タイさんのすすめで東京浅草の小宮サキさんのもとに修行に出た。これがこの人の一生を決める大きな転換点となる。そのきっかけを作ったのが剣吉の川村さんも、まさか自分が人の一生を大きく作用するとは露ほども思わぬだろう。ひょんなことから人生スゴロクが歩み出すもの。
と、言うのも、この小宮さんは明治生まれで美容界のおしんと呼ばれるほどの苦労の末の大成功者。浅草は花柳界の本場、木場の巽(たつみ)芸者と並ぶ生粋の江戸芸者。そのいずれがアヤメ、花菖蒲といわれる美人そろいから小宮さんに頭を整えてもらわないと気持ち悪くて寝られないと評判をとるほど。だから日本髪では東京一の腕前。小宮さんのお店には全国から二十人も住み込みで働き腕を磨く若者でひしめく。時代が移り、地毛からかつらへと変わるわけだが、ここでも小宮さんは抜群の技量を見せ、関 東一円からかつらの要望が来る。ここでみっちり六年半修行したのでかつら作りは本格派。
そして百石に戻り昭和三八年に結婚。東京オリンピックの前年。新幹線が大阪まで敷かれ、日本が高度成長をする時期。今と異なり高校卒業すれば引く手数多で就職は容易。今は卒業はしたけれどだ。高校の先生は問題解決の先送りで進学をすすめる。だが、大学はそんな場ではないはず。
この頃は夢も希望も皆叶うんじゃないかと思えるほど。若くて元気があっていつも笑顔が絶えない人が多かった。小向さんも熱烈にラブレターを送った相手が応えてくれて、まさに我が世の春。百石の店でかつらを本格的に営業。東京から戻ったばかり、近在の美容室を知ってるはずもない。ところが小向さんの知恵が廻る。理美容材料卸の山道さんに美容室を紹介してもらう。つまり、山道さんの車に乗り込み、ついて廻った。当時は美容室が花嫁さんを作った。現今はホテルが担当。宴会場を持ち、理美容の店をテナントで入れ、若者の増加を視野に入れた商売。ところがこれらの若者が今は爺婆になり、はやっているのは老健施設。これもインチキ、詐欺まがいのところが多く、してもいないことをしたとして国に架空請求し 露見。悪い奴がいたもんだ。そんな老人たちが若い頃、美容室は大流行、今も昔も女は自分を綺麗にみせたいもの。お正月が来るからと地毛で日本髪を結う人もいた。今は正月も関係なく普通の暮らしをしているが、昔は一年の計は元旦にありと、着飾ったもんだ。だから美容室は徹夜の繁盛。
ところがホテルに花嫁取られ、大晦日に頭をセットする人種も滅び、あわれタダの美容室と化した。時代の流れだから仕方がないといえば、そりゃその通り。美容室は一匹狼的な経営者が多く、大同団結ができず、ホテルに対抗する花嫁会館の出現もなかった。美容師はいい腕持ってる人が多いだけに時代を読めないばかりに儲けられることがなかった。
小向さんも花嫁を作れる時代に商売を拡大。頭に関する商売も兼業し、従業員も次第に増加。かつらと髪に関する総合商社をねらった。
かつらも二種類あり。アートネーチャーやアデランスのようなウイッグ、つまり禿げ隠しと日本髪のような地毛で結えないもの。禿げ隠しは着々と伸びた。これらは昭和三十年代後半から出現。つまり小向さんが百石でかつらに力を入れ始めたころ。
人生はチョットしたことで大きく逸(そ)れる場合あり。もし禿げ隠しの部門に力を入れていれば、大儲けのチャンスもあり。バブルが弾けて不動産をいじってた人は大損。ところが小向さんは母親が買ってあった城下に店を出し、地道にかつらを専門に扱う。大儲けはしなかったけど大損もしない。大勢いた従業員をリストラし、今は一人でコツコツと結婚式場の仕事と一座を持つ芸人さんを相手。南部地方は昔から伝統芸能が盛ん。名川には手踊りが幾つも流派を競う。親方は弟子のカツラの心配もしてやる。そのため結構仕事があるとサ。
市の公会堂とか公民館で素人衆が公演をやらかす。それらのかつらはほとんど小向さんが担当。上の写真は昔の百石の小向美容室、母親が亡くなってからはかみさんの次子さんが経営。左のチビちゃんが小向さん夫婦の長女。男の子一人、女の子二人を授かった。子供たちは皆、それぞれの道にすすみ、今はのんびりと焦らずに商売の道を歩む。住居は観音下にあり、かみさんが百石まで通勤。この観音下の土地も母親が買ってくれた所。小向さんは親の遺産を上手に使う人。新築の洒落た家だが、これからは百石に住みたいとのこと。七十年も経営する百石の店には、近所の気のいいお客さんが多い。生まれ育った所がなによりと思えるのは、年とった証拠。古里へ向かう六部は気の弱りって句がある。巧い言葉があるもんだ。小向さん夫婦は子供たちも一人前になりのんびりと夫婦で毎年旅行を楽しむそうだ。この前はハバロフスクに行ったそうだ。昔の流行歌にあったネ。ハバロフスク小唄、近江俊郎が歌った。大した曲じゃないがハバロフスクの連呼。ここの飯は不味かったそうだ。ロシア人てのはジャガイモ食ってるだけでも力持ち。戦争では日本人が寒くて眠れないのに、大地に横になって顔が霜で白くなっても平気で眠るってヨ。
かみさんは今人気俳優の朝鮮人、ヨン様のような優しい面立ち。これからも仲良く暮らしましょうと、夫婦二人の気楽な生活、でも後継者がいない。さて、若者たち、もしかつらや美容に興味があれば、この小向夫婦の所に弟子入りしな。どの道、夫婦は引退する。その跡を苦労なしに手に入れることも夢じゃない。必死に働き地盤を築いても地獄に持っていけません。親の跡取る倅のように、弟子にもいい目が出るかもネ。(終)