2009年1月10日土曜日

悪ガキばんざい パート5



風の又五郎


「戦争でわが国の落下傘部隊が大活躍したらしい」
落下傘。(らっかさん)いまではだれもこんなふうには呼ばない。パラシュートと呼ぶ。当時は敵国語なので「英語は使ってはならん」と教育されていたのだ。
14歳になった悪ガキのレッテルを貼られている万兆(まんちょう)は早速これを真似してやってみたくなった。空から地面にふわりと降り立ってみたくなったのだ。
悪ガキとよばれるような、人に迷惑なことは働いている覚えが毛頭ないのだが、万兆の名はニックネームだ。夢が万も兆もあり子供ながらに話が大行なことから、皆はこのように呼ぶ。
万兆の活躍は病気でも戦争でも死なず生き延びたことでここに知ることができる。
どんな老爺も老婆でも只、時を過したものなど誰ひとりとして存在しないのだ。
人生は曼荼羅(まんだら・諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏・菩薩および神々を網羅して描いた図])模様、あたかもペルシャ絨毯やこの地方の菱刺しのように織り成していて、色彩と模様はそれぞれに美しいとおもうのである。どちらが縦糸かどちらかが横の糸になっているのかわからないが、ひとり一人が異なり、シンプルだったり、複雑であったりで、どれひとつとして同じ模様はないのだ。なかには苦労の塊のような模様もあり、それはそれでとても美しい。
人生を織り上げたその作品に歩を緩(ゆる)めて、振り返って眺められるのはなによりの至福ではなかろうか。
愈々(いよいよ)人生の終末となるとき、それを再度振り返り、少しばかりでも納得をし、そして逝かなければ、とても成仏できそうにもないと私は考える。折角にこの世に押し出されウロウロとした記憶を、である。
太平洋戦争たけなわの時代に入る前、わが国の経済は諸外国にくらべてみてもそんなに劣悪というほどではなかったであろう。          
庶民の暮らしは少ない収入を何とかやり繰りをして凌(しの)ぐ。働けばどうにか生活ができる。そんな時代であった。ただ農民は自然を相手にする訳だから天候や冷害にあうと凶作と言う大敵が潜んでいる。そんなときには悲惨だ。
もし、天候に恵まれてそこそこに豊作となってもこんどは、国家という強い天敵に根こそぎ収奪されてしまう。たった「お国のために」の言葉の魔術に騙されてなのである。
ここの土地では幸いにと言っていいのかわからぬが、海から魚介を獲りそれを生活のための糧にした。獲物は離れた山間地に運べばそれだけ高い値で売れた。多くの人間はこうして自然の恵みをうけて暮らした。言ってみれば金が、銭が海の底に沈んでいる。只それを引揚げて来るだけなのである。いま思えば、そのように思って暮らしていた人々のいかに多かったものか。
本当は多くの命と引き換えは毎年なのだが。海で死んだものなど数え切れないのだ。浜の寺をみればその数に驚かされる。
獲れ過ぎて消費が間に合わないと言っては口にもせず肥料にすればまだしも、海に捨てた。冷凍技術もままならない時代、電力事情も悪化していた時代のことであった。それも魚が捕れるうちだけで、現代では遠い外国へ捕りに行くだけでなく輸入をしてまで食している国家になってしまったが、だいじょぶか?この国はよ。
時代は「産めよ増やせよ」の国家の政策であったので子供だらけ?の賑々(にぎにぎ)しい社会となっていた。そして、大人も子供も生活は戦時色ひとつになっていた。
大人は毎日のラジオ放送や新聞の報道の戦果に狂喜し、国の迷走に気のつく者は少なかった。今思えば、これが報道の恐ろしいところの一面であろうか。
1942年2月15日、街は堤燈行列をした。私は4歳を過ぎたばかりだったが、なんでおめでたいものかどうかもわかってはいなかった。戦争はどんな理由があろうとも、罪悪に変わりは無い。そして、とてつもなく高くつく。戦果はシンガポール陥落であった。
日本国民はテレビもない時代で性能の良くないラジオに齧りつくようにして聴いていた。いわゆる、大本営発表で、これらは後に事実と大きくかけ離れ、改ざんされた報道であった。戦争が終わってから国民がすべて騙されていたのがわかったのだが、後の祭りとはこのことであろうか。
現代の新聞もテレビも人のうわさ話と同じで、とんでもない偽りの情報が満載している。と私は今これらを鵜呑みにしないようにしているのだ。
前置きの話がながえーてばー。
堪忍、もうちょっとガマンしてけさぃ?(下さい)社会がそうであれば、おのずと子供の遊びもそれに染まる。子供は白紙だ。そして若い樹だ。汚してはならぬと思う。汚い色で書き込めば白い紙も見苦しくなり、また大事な若い芽を掻いてしまえば花も咲かず実もならぬことになる。
国家はそれを知っていながら政策をたてる。わが悪ガキ軍団もその戦法にすっかり乗った。
確か、爆弾三勇士なんて、勇ましい戦争美談もあったっけな。これもほとんどつくり話であった。
そのころ、落下傘の素材はたしか絹でできていると聞いていたが、この時代には絹は高級品、生産されたほとんどの生繭は諸外国に外貨獲得のためにほとんど輸出されていた。国内では一般には出回らず軍用、すなわち落下傘用になっていた。家業の商品で扱っている洋品の生地もすでにまともなものは消えていた。人絹、いまで言う人造絹糸のことでいわば化学繊維だ。間に合わせに碌なものがあろうか、すぐに擦り切れ破れる生地であった。スフと言うのもあった。これも同じだ。ガキたちは落下傘の現物は見たこともないわけで、どんな大きさなのかどんな造りになっているのか、皆目、見当もつかないのだ。大人の話や新聞や少年雑誌などの挿絵や写真からしかわからない。
万兆は「紙だったらすぐにぶっちゃけるがな?」商品の輸送用にハトロン紙や丈夫な渋紙などは今で言うリサイクルで幾度も用いるので大事に保管をされていた。それを持ち出し、大きな三角形に切りニカワで貼り風袋を造った。傘の化け物だ。
戦後、だいぶ後になってから知ったがこのあたりは、敵であるべき米国ではナイロンなる合成繊維がデュポン社で発明をされ驚異的な丈夫さと軽量さのこの素材を採用していた。負けるはずだ戦争でなくともだ。
悪ガキ万兆の造っている落下傘は紙でありそして、すこし大きめの唐傘のようなものであった。傘の部分はどれほどあれば、飛ぶ人間の体重を支え安全に地上に降りられるのか?などと言う、理論も計算もするわけではない。簡単な実験はオモチャとして売られている薄い透けて見えるような紙ハトロン紙で出来ているものでやっているだけである。人のぶら下がる部分に重量の変化をつけ傘の開き方や落下するスピード、などを観察する。これだけでなにが判ろうものか・・・?
紙は柿渋のひいた渋紙とよばれ、破れにくいものだが、すこし厚手のもので重量が増えるがこれを用いた。これは長年大事にもちいられ貴重品の部類になっていたものだ。渋紙は古くから広く用いられ、衣服から雨がっぱなどにもちいられた。接着剤にはわらびのりや蒟蒻のりがもちいられたが、この地方にはこれらの方法は伝承していない。正麩のりでは強度 が得られず貼っても直ぐに剥がれるのだ。ニカワがよい。正麩のりはでんぷん。ニカワは当時、豊富な馬の骨の髄(ずい)を使っている。ニカワのりの作り方は祖父から聞いた。祖父の栄一は若い時分から釣りが趣味で釣りざおまで作っていた。物資の不自由な時代にも色々な方法をあみ出して楽しんできたのである。ニカワは簡単にできる。茶色の細い棒になったものも売っているが馬肉を扱っている肉屋から骨を安い値で買ってくる。それを鍋でぐつぐつと煮込む。ニカワは骨の髄のたんぱく質でこれが強烈な接着材となる。ただこの煮るときに発生する我慢ならぬ悪臭には子供ながらに「おーえっ」と吐き気をもよする。そのニカワで渋紙を張り合わせた。紙を小撚りにした紙紐を沢山結び、ズボンのベルトに括りつけるように工夫をした。直径一間半(3メーター弱)のものができた。
子供は経験も無いし技術もない知識だってこの世に出てきてからの時間がすくないのでいたし方ない。まあ、大人だってそんなものよな?高々100年ほど生きたところで大した物も作れず、エラそーにしてる奴だってものも知らずに死んで逝く。すべて未熟のままである。そんな意味では成熟した人間などはおらぬ。「大人気ない」などと口にする奴こそ子供のままよな?所詮(しょせん・詮ずる所。つまるところ。結局)、人間なんて、子供のまま死んでしまうのだ。それが人間のいとおしいところかも知れぬがな。ちょっと仙人の口調になったかな.?は、は、は、は、許せ!。「出来た、出来たー」噂は大人ばかりか子供の間にも広がるのは速い。近所ばかりか遠い町内のガキ連中までが集まってきた。噂は知らぬ間に尾ひれがつき膨らんでいた。「直径が五間(一間約1.8メートル)もある落下傘を作ったらしい」「わも飛んでみてぃな」「おらもだ」どこの悪ガキも好奇心いっぱいで興味津々なのだ。自転車に括りつけて広場を走り回り落下傘の広がり具合を確かめているところへ上隣の町内の石松と言うガキ大将が5人の子分を引き連れてやって来た。「あら?すこしチイせぃなー」「これで大丈夫か?」万兆は、大丈夫かどうかわからないのでテスト中なのである。
「なにへってるけーわがるってが?」万兆は口のなかでふつぶつ。
「どら、わさ貸せ」どこの大将も親分も無理とスタンドプレーが好きだ。猿山も人間の社会もなーんも変わりない、同じだ。「梯子持ってこー」国民学校六年生の石松親分はエバリくさっていた。腰には真田紐を巻き、それに100本ほどの紙紐を結わえた。この銀行の裏の広場の両側に大きな倉庫がある。軒先は4メーターほどの高さがあり、身体の大きいものにとっては、地上からみる限りたいして高さを感じない。元気よく屋根に登ったガキ大将、庇の雪の滑り止めの金具にしがみついている。地上では子分どももほかの連中も凝視していのだ。カラ元気は誰にもあるが、見栄まで張ってしまえばこんなもの。見物人のガキが10人ほどであったものが20人にもなってしまった。「飛ぶぞー」「飛ぶぞー」「こんな筈ではなかった」高さがこんなにもあろうとは。これほどの高さは橋の欄干から新井田川に飛び込んで遊んでいるのでへいちゃらの筈であったが、硬い地面が相手では、やはり「おっかねー」よな。とうとう始まった。景気付けの軍歌が。♪ブンブン荒鷲ぶんと飛ぶぞー ♪「飛べ飛べたってとべるかぁ」口にはだせない。親分は口が裂けてもくちに出せないのだ。次は軍艦マーチの大合唱だ。♪守るもーはーねるもクロガネのー ♪あらあら、替え歌にして、「早く飛び降りろ」ということだ。隣の町内のガキ大将はすっかりすくんでしまった。軸がぬけたのだ。梯子を上っていくときはあんなに元気があったに、どうしたことか?。いまでは考えられぬが町内が違えば業種もガラリと異なった。子供でも日頃、力を要する仕事をさせられているものは腕力もあり身体も大きい。隣の町内のガキ連中はわんどより一回りも大きい。腕力では到底勝てない。漁業、農業、運送業が多い。泣きべそ半分の悪ガキの親分 石松。名が石だからさぞかし重かろうよ。だけど軽石ってのもあらぁね。飛ばなきゃ損損。飛んだ!いきなりとんだ。親分の威厳をかけてだ。本当は「カッコいい――」となるところだが物事、そーはいかぬのが常。どっしーん! にぶい音だ。飛んだのでなく落ちた。傘は開かず、ガサガサと後で落ちてきて頭にかぶって しまった。しーん。誰も言葉はない。落ちた石松親分は声もない。動かない。子分たちも駆け寄るわけでもなくただ傍観者になってしまった。勇気のある一人がすっぽりと頭にかぶっていた落下傘の紙をめくって見た。親分は白目をむいて鼻からはぶっとい二本の青洟があごの先までへばりついていた。「息してねーど」死んだか?「まーさか」「なーにナマコしてるのえ」なんて言ってる場合ではない。ナマコとはふざけて冗談をしている様を言う。落下のショックで失神してしまったのだ。やはり名の通り落下傘は落下したのだ。何の不思議もない。体重に比べ傘が小さく、また高さも十分でないことは、ふんわりと地上に降り立つことなど無理なお話なのだ。「おーい、いしーまつー」頬を叩いて背をさする。見よう見真似の柔道でよくやる「活」を入れる。背中に膝を当てて両肩を引くと肺が膨らみ空気がとり込める理屈だ。「ふーっ」呼吸が始まった。「あーよがった」皆安堵したが立ち上がれない。腰がぬけたのだ。幸いにここは草地になっていて土がいくらか柔らかだったのがよかった。尻には大きな痣ができてしまったが、命あってのもの種。1時間もしたら歩けるようになったので安心した。万兆「だしけぁ・へったべな・わがんねーてよ」石松親分はすっかり意気消沈、二十人の悪ガキたちの堤燈行列ならぬ、消沈行列となってしまった。後日の話では骨折もなく脳?の障害もなく平常の生活をしていた。(もしかして、このショックで正常に戻ったかも???)子分どもの話によれば、その後はエバルもせずにやさしく対等に遊んでくれるようになったとのこと。人間やはり時としてはショック療法も悪くないようではある。この悪ガキ大将の石松は、年齢を重ね後に市会議員を経て県会議員にまで登りつめる。そのような立場になっても、顔をあわせるとバツ悪そうに対応してくれる姿にはなにか人間の魅力を感じるのである。初心を忘れない。悪ガキのころの経験がちゃんと実をむすんだ良き一例であろう。
終(この話は事実をもとにした小説。実際の出来事や名称等異なりますのでご了承ください)