幽霊手当てをくれた消防本部と消防団はどのような関係になっているのかを見る。
火消しは江戸の昔は十四ヶ所で町の旦那が金を出した、荒町、十六日、二十三日、六日、三日、朔日、八日、十一日、十八日、寺横丁、二十八日、大工、二十六日、鍛冶町。
これが明治五年、六日、十六日、三日、朔日町、鍛冶町の五つとなり、明治三十四年には公立消防となり新荒町、二十六日、糠塚を一部、二部を十六日、鍛冶町、朔日町、三部を十一日、塩町として九ヶ所となった。
大正十三年五月に八戸大火があり、町内十ヶ所に防火水槽を設けた。大正十五年にガソリンポンプ車を導入。
昭和三十五年に消防自動車を配備。平成十二年に防火水槽を埋める。
日本全体を眺めると、明治14年(1881)1月14日、警視庁が再設置されたことに伴い、警察、消防の事務は一切警視庁に移管され、消防本部は消防本署と改称された。以後、自治体消防制度が発足する戦後までの70年間、わが国の消防は警察機構の中に組み込まれた。
自治体消防署の誕生で消防団は民営となり、屯所の望楼も電話普及で必要なくなった。火事と救急の二本立てとなり消防の役割も増加。さらに平成三年の救急救命士法で消防職員の部分的医師行為が認められた。
消防も民家の不燃、難燃化がすすみ大規模な火災発生は減少、消防車の性能も格段に進み水を運び消化作業をするなど消火能力は飛躍的に向上。
しかし、八戸の消防団の配備は旧態依然として新荒町、二十六日、糠塚、十六日、鍛冶町、吹上、十一日、二十八日、塩町、佐比代、新堀、湊、白銀、大久保、鮫、白浜、大久喜、種差、沼館、売市、新組、田面木、下長、千田、石堂、河原木、高館、小田、日計、八太郎、館前、田中、岩ノ沢、妻ノ神、志民、風張、正法寺、三条目張田、笹ノ沢、一番町、本村、矢沢、大仏、轟木、浜市川、尻引、橋向、新和、桔梗野、高屋敷、八幡、櫛引、一日市、烏沢、上野、永福寺、下七崎、上七崎、滝谷、新井田、重地、野場、黒ケ沢、松館、十日市、塩入、岩淵、町畑で69に増加。八戸市が合併で拡大した分、なんら反省もなく消防分団が増えた。
これは半分でも十分機能する。時代が変わったのだ。町中を大八車に手押しポンプの龍吐水を積んで走る時代ならば、各町内に消防団も必要だが、家庭内の出火も警報機が鳴る時代、五分あれば火事現場に強力な消防車が到着する。隣家からの貰い火も外壁に木材を使う時代は過ぎ不燃材で家を覆うようになった。
更に住宅には火災警報機の設置が義務づけられ、初期消火は一層しやすくなった。この制度を促進するため東京の世田谷区は高齢者、障害者七万戸に無償設置をきめた。消防分団は火災予防に尽力し、全戸に無償設置の促進に協力できないものだろうか。こうしたことにこそ金を惜しむべきではない。
また、消防分団は救急用に使うべきだろう。電気ショックで心肺停止を救う機器が配備される昨今、消防分団は地域住民の健康管理にその力を注ぎ、消防分団は消防車を撤去し蘇生装置を配備。団員は地域住民の緊急病状を把握し救急車の来る前の措置ができるような体制を作り上げるべきだ。
旧来の方法が正しいのでなく、金は必要な所にぶち込むことだ。行政の最大の目的は住民の生命・財産の保護。ここにこそ存在価値がある。だからこそ住民は安くない税負担を必死に支える。
自分たちの町は自分たちが作ることこそ大事だが、我々日本人は役所のすることに不平と不満は洩らすが、積極的に加担し自分たちで作る気概に欠ける。役所が全てではない。「はちのへ今昔」が調査するように、役所の職員は自分たちから行動を起こそうとはせず、右を見て左を見て、そして何もしないのを旨とする。
そんな役人が優遇されると嘆く前に彼らをこき使うことを考えよう、彼らは公僕と呼ばれる。公僕は英語で言えば公の召使ということだ。それの機嫌をとる、長いものには巻かれろは愚かを地で行く。ケネディーが大統領に就任したとき、こう演説した。国が我々に何をしてくれるのかを待つのではなく、我々が国に対して何をできるかを考えるのだと。
小林市長は協動の町づくりを標榜、行政と地域住民との連携を呼びかけるが、馴染みのなさが切れの悪いものにしている。しかし、小林市長の考え方こそ今様なのだ。
消防団は何であるのかと何となく思っていたが、今回の幽霊団員請求事件で歴史の流れを見ることができた。それにつけても消防本部も、こんな消防団の組織変更にも気付かないのだろうか。それとも消防団を傘下に置くことで市会議員の手先になろうとでも思っているのだろうか。
消防団の副団長の市議がスプリンクラーの注入口に車を止め妨害、消防法に違反、その市議が今度は市議会議長だと。世も末だ。こんな手合いしか残っていないのか。八戸市議会も人材不足。
火消しは江戸の昔は十四ヶ所で町の旦那が金を出した、荒町、十六日、二十三日、六日、三日、朔日、八日、十一日、十八日、寺横丁、二十八日、大工、二十六日、鍛冶町。
これが明治五年、六日、十六日、三日、朔日町、鍛冶町の五つとなり、明治三十四年には公立消防となり新荒町、二十六日、糠塚を一部、二部を十六日、鍛冶町、朔日町、三部を十一日、塩町として九ヶ所となった。
大正十三年五月に八戸大火があり、町内十ヶ所に防火水槽を設けた。大正十五年にガソリンポンプ車を導入。
昭和三十五年に消防自動車を配備。平成十二年に防火水槽を埋める。
日本全体を眺めると、明治14年(1881)1月14日、警視庁が再設置されたことに伴い、警察、消防の事務は一切警視庁に移管され、消防本部は消防本署と改称された。以後、自治体消防制度が発足する戦後までの70年間、わが国の消防は警察機構の中に組み込まれた。
自治体消防署の誕生で消防団は民営となり、屯所の望楼も電話普及で必要なくなった。火事と救急の二本立てとなり消防の役割も増加。さらに平成三年の救急救命士法で消防職員の部分的医師行為が認められた。
消防も民家の不燃、難燃化がすすみ大規模な火災発生は減少、消防車の性能も格段に進み水を運び消化作業をするなど消火能力は飛躍的に向上。
しかし、八戸の消防団の配備は旧態依然として新荒町、二十六日、糠塚、十六日、鍛冶町、吹上、十一日、二十八日、塩町、佐比代、新堀、湊、白銀、大久保、鮫、白浜、大久喜、種差、沼館、売市、新組、田面木、下長、千田、石堂、河原木、高館、小田、日計、八太郎、館前、田中、岩ノ沢、妻ノ神、志民、風張、正法寺、三条目張田、笹ノ沢、一番町、本村、矢沢、大仏、轟木、浜市川、尻引、橋向、新和、桔梗野、高屋敷、八幡、櫛引、一日市、烏沢、上野、永福寺、下七崎、上七崎、滝谷、新井田、重地、野場、黒ケ沢、松館、十日市、塩入、岩淵、町畑で69に増加。八戸市が合併で拡大した分、なんら反省もなく消防分団が増えた。
これは半分でも十分機能する。時代が変わったのだ。町中を大八車に手押しポンプの龍吐水を積んで走る時代ならば、各町内に消防団も必要だが、家庭内の出火も警報機が鳴る時代、五分あれば火事現場に強力な消防車が到着する。隣家からの貰い火も外壁に木材を使う時代は過ぎ不燃材で家を覆うようになった。
更に住宅には火災警報機の設置が義務づけられ、初期消火は一層しやすくなった。この制度を促進するため東京の世田谷区は高齢者、障害者七万戸に無償設置をきめた。消防分団は火災予防に尽力し、全戸に無償設置の促進に協力できないものだろうか。こうしたことにこそ金を惜しむべきではない。
また、消防分団は救急用に使うべきだろう。電気ショックで心肺停止を救う機器が配備される昨今、消防分団は地域住民の健康管理にその力を注ぎ、消防分団は消防車を撤去し蘇生装置を配備。団員は地域住民の緊急病状を把握し救急車の来る前の措置ができるような体制を作り上げるべきだ。
旧来の方法が正しいのでなく、金は必要な所にぶち込むことだ。行政の最大の目的は住民の生命・財産の保護。ここにこそ存在価値がある。だからこそ住民は安くない税負担を必死に支える。
自分たちの町は自分たちが作ることこそ大事だが、我々日本人は役所のすることに不平と不満は洩らすが、積極的に加担し自分たちで作る気概に欠ける。役所が全てではない。「はちのへ今昔」が調査するように、役所の職員は自分たちから行動を起こそうとはせず、右を見て左を見て、そして何もしないのを旨とする。
そんな役人が優遇されると嘆く前に彼らをこき使うことを考えよう、彼らは公僕と呼ばれる。公僕は英語で言えば公の召使ということだ。それの機嫌をとる、長いものには巻かれろは愚かを地で行く。ケネディーが大統領に就任したとき、こう演説した。国が我々に何をしてくれるのかを待つのではなく、我々が国に対して何をできるかを考えるのだと。
小林市長は協動の町づくりを標榜、行政と地域住民との連携を呼びかけるが、馴染みのなさが切れの悪いものにしている。しかし、小林市長の考え方こそ今様なのだ。
消防団は何であるのかと何となく思っていたが、今回の幽霊団員請求事件で歴史の流れを見ることができた。それにつけても消防本部も、こんな消防団の組織変更にも気付かないのだろうか。それとも消防団を傘下に置くことで市会議員の手先になろうとでも思っているのだろうか。
消防団の副団長の市議がスプリンクラーの注入口に車を止め妨害、消防法に違反、その市議が今度は市議会議長だと。世も末だ。こんな手合いしか残っていないのか。八戸市議会も人材不足。