2009年1月29日木曜日

地域公共交通活性化会議1


昨日のバスを考える会合は痛快だった。名古屋大の助教授加藤氏と都立大の助教の吉田氏の話に引き込まれた。共に若い衆だ。
 全国を見て歩いただけあり、物の核心を衝いている。世の中こうした若い衆がいることを知っただけでも生きてきた甲斐を感ずる。「はちのへ今昔」の知人も次々滅びた。世の中、まだ見ぬ子らのために論議を尽くすは大事なことだ。現状がすべて正しい訳がない。
 勝海舟が咸臨丸で日本人の威信、(日本人ばかりがそう悲壮に思い込んでいただけだが)サンフランシスコに着いたとき、移動は馬車だった。モーツァルトの時代は、この時よりも百年も前だったが、やはり移動は馬車。
 人類が車輪を発明したのは6千年前、それを牛馬が曳く時代が千何百年かあったことだろう。ところが鉄の馬が出た。このことを予想した人がいた。それはベーコン、600年前の学者だ。学者はまだ誰も見ぬことを学問の力で見通すところにこそ、その存在理由がある。
 人々が困惑する事態が出現、それを全国規模で眺め、つまり巨視的、これを具体的に狭隘な地域に押し嵌める。これが有効か無効かは時間が決めることになる。つまり時代の篩だ。
 コミニュティーバスの例を挙げておられた。加藤氏の話でウッ? と思ったのは岐阜だかの例でバス定期の値上をしたら利用が増えたという言葉だ。
 これがあったなと痛感。利便向上なら高くても払う。住民と行政、企業はその地域なくしては立たないという運命共同体なのだ。企業からも応分の負担を求めるという意見だ。
 と、いうことは車社会にしたトヨタからも応分の負担を求めることなのだ。唐突に言い出した根拠を示す。
イギリスの産業革命以後、資材や製品輸送の必要で、タールを敷く簡易舗装路網が全国に建設された。1830年には蒸気機関バスが運行された。時速35キロも出たという。ところが、これに客を奪われた馬車組合が議会と結託し蒸気バスは道路を傷めると課徴金を取った。つまり規制だ。これでイギリスがもたつく間に他国の技術が上回りフランスで独立懸架前輪、二つのV形2気筒エンジンで別々に後輪駆動のバスが開発された。蒸気機関からガソリンエンジンの時代へと移った。ところが電気自動車も当時にはあった。変速ギアがないため簡単で上流夫人連の人気を博するも電池が弱く主流とならず。
勝海舟がメリケンに悲壮な覚悟で乗り込んだ時期は、世界は自動車の萌芽期でもあった。明治維新は1868年、フォードがT型を発売するのが1908(明治41)年だ。ここにメリケンの力が発揮された。何故メリケンが幕末に強大な力を発揮できなかったか、それは南北戦争で16代大統領リンカーンが国を二分し奴隷解放を旗印として血を流した。だから日本に介入できなかった。しかし、その後、猿真似日本人に自動車生産世界一を譲るまで、メリケンは世界の覇王だった。
メリケンには富者は貧者に施しをせよの義務がある。それがボランティアの精神だ。世界一のトヨタは地球温暖化の原因となった炭酸ガス発生についての責任があろう。これに対して金を拠出する義務がある。しかし、それをしない。温暖化の原因が炭酸ガスにあるというのも疑問が残るが、これは間もなく日本が飛ばした監視衛星で解明するだろう。が、本当に自動車に責任があるならば、これは生産者責任を負わなければならない。
つまり、自動車保有台数により県に金を交付する義務がおありだよというのが「はちのへ今昔」の主張だ。
自家用車が交通混雑に拍車をかけた。このため路面電車が追われ、トロリーバスも姿を消した。その責任は車の生産者にあったのだ。便利は不便でしかなかったのだ。
この延長線上に地方都市に悩みがあることを忘れるな。八戸のバスは撤廃することから考えるべきだ。加藤氏がこう言った。これは特区ですと。小泉政権で特区という超法規で地区を再生しようの考えが、小泉が去った現今でも省庁の中に生きている。このことひとつ知っただけでも参加した意義があった。
そして、それを実行、実施できる立場に若い衆の加藤氏がいる。これも目頭が熱くなった。国はけして阿呆ではない。なんとか国民のためになることをしたいと念願すれど、知恵がないのだ。断水時の八戸市と同様の人材のなさを露呈しただけなのだと感じた。それを外部の知恵者が助ける。世の中は知恵と才覚で堂々と渡る時代なのだ。勝海舟がオランダ語から英語に切り替えるように、福沢諭吉も同様な努力を払い、新時代に乗り出して行った。今も同じだった。
世の中を渡るには個々人の努力以外に無い。その必死の努力があれば堂々たる人生を送る。人間は覚悟なのだ。日本人を良くするには、必死に時代を読み解く、見通すだけの能力を要求される。誰に? 百年後のまだ見ぬ子どもたちにだ。
この気概だけが日本人を支える。恥を知ることだ。町人は金のために命乞いをする。侍はそれをしない。自分が信ずる道を走る。それが間違いであったら、腹を斬ることを知っている。ここが武士と町人の違いなのだ。今日本人は町人化した。だから、見えるものも見ようとしない。ゆえに間違いを犯すのサ。
続く