2009年1月18日日曜日

八戸及び八戸人11 ミノル商機 関口稔氏



五戸の上市川に川村って大工がいて、その四男坊が稔さん。幼い頃から物作りが好きで、親父の材木をのこぎりで挽いては、箱に車をつけた、今の台車や本箱作成。
 そんな四男を大工にでもしようかと楽しみにしていたのだろうが、人生は一寸先は闇、その親父がポックリ亡くなり、母親は女の細腕一本で子供たちを育て上げる。先立たれた不幸を嘆く暇なし、淀の川瀬の水車、転がり廻って乾く間もなしで、必死に働くうちに何とか子供たちが成人するんだ。
 なんぼか田畑があったことも幸いしたのだろう。稔さんは食えない辛さは知らずに育つ。有難いネ、親の恩。
 この稔さんは昭和十五年生まれ、中学生の時は理科が好きで、物作りに興味あり。中学卒業して歯科技工士になれと勧める人があって、面接試験 を受ける。物作りが好きなので自転車屋も受験、そこが8月号で紹介した三浦輪業。ここで即採用となり、技工士蹴っ飛ばして自転車屋の小僧になったナ。
 時期がいい。パタパタの自転車改良の発動機から、メーカーが本格的バイクを開発しだす。トーハツって船外機の会社がある。この会社の創立は昭和十四年、タカタモーター企業社が東京発動機となったもの。当時は板橋区小豆沢に工場を新築移転し、陸軍に野戦用発電機などを納入。
 昭和二四年には消防ポンプ、これが大当たりして今でも会社の稼ぎ頭。昭和二七年にバイクに手を出し、三一年には日本最初の船外機を販売。稔さんは三浦輪業のもちろん下っ端。じっと先輩の仕事を見て覚える。エンジンはこうなってピストンがああなってと、頭にたたき込む。ある日先輩たちが忙しく出歩いているときに、エンジン不良のバイクが持ち込まれ、稔さんが習い覚えた腕を発揮。見事に動くように修理。簡単に技術の習得 はできませんヨ。住み込みだから皆が寝入ったときに、コツコツとエンジンを組む作業をしていたんだ。夜になりゃ誰だって眠たい。ところが、それを押して努力する奴が出る。
 偉くなりたいからする? 金儲けしたいからする? 違う。今置かれている立場を全(まっと)うしたいからやるんだ、誰に言われるのでもない、自分の体の中のゼンマイが弾けるんだ。
 こうした男の存在は隠しても出てくるもの。同じようなやる気の塊の男が、自分に似た体臭をかぎとるようなもので、周りに人が集まってくる。いい腕をもつ技術者に、より力の出るバイクに改良してもらいたいとレースに出る者たちが集まった。類家さんがその一人、八戸ホンダの技術者でレースに自分もハンドルを握る。シリンダー、着火点の位置、排気をいかに逃がし、また押さえて逆流の渦を作るか、皆が知恵と技術を絞る。
 大会でいい成績を収めるようになると、メーカーのトーハツは惜しみなく部品を無料供給。メー カーも町の技術者たちを支援。その結果、稔さんのトーハツランペットは50ccでも100㌔出たとヨ。毎日が面白い日々。
 人間なんてのは金もっても使い方知らなければ、タダの番人。その金チマチマ使うは、金に人生を支配されてるんだ。そんな人生はみじめ、人生の達人は毎日が面白いと思える奴。傍(はた)からどんなに妙だと言われようが、変人、キチガイと誉(ほ)められようとも我が道を行く奴だけが最終勝利者。ホメイニって人がいた。執念の人だった。目つきがちがった。国外追放を受けても信念を貫いた。稔さんも人生の達人。銭はあとからついて来ると恬淡(てんたん・心がやすらかで無欲なこと。あっさりしていて物事に執着しないさま)。ここまで来るには色々経験。まず、力を入れていたトーハツが突然オートバイ部門から撤退。三浦輪業の主力だった新明和(「二式大艇」や「紫電改」を製作した川西航空機(株)が前身。兵庫県西宮市の会社。バイク製造は昭和三十七年 頃に終了)も撤退。さて困った。三浦輪業の社長も困るが、従業員とても同じ。そこで知恵を出し、八戸でヤマハの代理店をしていた店の権利を買い取ったそうだ。こうした機転が利いたのが三浦輪業の二代目。
 稔氏の言うには、二代目は時代を見る眼のあった人だった。四輪全盛を予感し八戸ダイハツを経営し、これを直営として手放すが、決して損をした訳ではない。時代は建築だと、住宅関連の仕事を模索している時に交通事故で没した。実際、マンション経営にも手を染めていた。
 稔氏は独立を描いており、二代目も了承していたが、突然の事故で構想はオジャン。二代目のおかみさんと善後策を検討。稔氏は技術も営業も得意。持ち前の飄々(ひょうひょう・超然としてつかみどころのないさま)とした所が客の信頼感を呼んだのか、宮田の自転車、ヤマハのバイクを売りに売ったそうだ。
 そして三年経ってようよう独立。小中野にミノ ル商機を立ち上げた。そこで十年、今度は夢の大橋下の浜辺に移転。
 と言うのも、ヤマハもトーハツも船外機で水産関係に食い込んでいた。陸と異なり海でエンジンが止まったら大騒ぎ。泳いで帰る道もない。なんたって水の上だもの。
 陸を走る仕事は他人に任せ、長い年月修得した技術を生かし、海の仕事で生計を立てるようになった。海の親父たちは稔氏の技術を高く評価、小中野の陸じゃ船を修理するのも難儀だと、浜辺につれてきたようなもの。
 浦島太郎じゃないけれど、助けた亀に連れられて竜宮城に来てみれば、絵にも描けないおもしろさ。と言うのも動かなくなった船を修理してくれてありがとうと、どっさり魚を届けてくれるんだ。
彼らは魚のいる所は知ってても、エンジンがどうして機嫌を損ねているかがわからない。
 そこで技術者の登場となるわけ、持ちつ持たれつというところだ。船となると、バイクと違って 船体からペンキから、昨今はFRP、グラスフアイバーの修理と何でもござれ。身軽に船に飛び上がり、ああでもなければこうでもないと、知恵と技術を絞り出す。誰が手伝う訳でもない。一人で全部こなす技術者魂。小向かつら屋さんでも見たように、今は世の中、年寄りだらけ、結構毛だらけ、猫灰だらけ、尻の周りは○だらけって、風天の寅さんがいうけど、確かに年寄りが多く、そして達者。いい技術を持ち、顧客も多いが、後継者に悩んでいる。このミノル商機さんも、後継者がいない。若者で根気と元気のある人は、ミノル商機に弟子入りだ。
 漁師の親父に感謝され、浜の空気を胸一杯に吸い込んで元気と勇気の溢れる仕事だ。
 青年諸君、間違った道を進んじゃいけない、額に汗して労働する喜びを感じ味わうことこそ大事だ。明日の日本は君たちが背負うんだヨ。(ここは風天の寅の口調で読め)
 この稔氏がどうして勝手気ままに仕事が出来 るようになったか、また、川村からどうして関口になったかが疑問として残るところ。大きな声じゃ言えないけど、小さな声では聞こえない。
 実は、この男を支えた素晴らしい女房がいたんだ。八戸のグランドホテルの近くでチカコ美容室を経営していた若手美人ナンバーワン。九戸村の関口床屋の娘が、このチカコさん。東京の山野美容学校卒業、当時の美容界はメイ牛山と山野が二分、しかし山野が八割で牛山は二割ほどか、圧倒的に山野優勢。また全国に山野の優秀な技術者が散ったんだ。
 なんでまた、こんな美人と稔氏が結婚したか不思議だろう。筆者もそう思うが人生は一押し、二に押し三に金って言う。図々しい奴にはかなわない。いえ、別にアメリカの稔さんの話で、今回の話に関わりはあり……ま~す。
 世の中は面白いようよな、憎たらしいよな、不思議な所では、ハイ、ありますな~。
そんなこんなで、川村から関口になりまして、嫁 さんが九戸村で美容室を開業するようになりまして、哀れ惚れた弱みで八戸まで毎日通う有様。
 結婚式の仲人は三浦輪業の二代目夫妻。この九戸村の美容室も後継者がどうなるやら。お孫さんが跡継ぎになりそうの話もあったりするけど、この稔氏も不思議な糸に導かれる、と、言うのも、家付きの婿、九戸の家を子供たちが新築してくれて、これまた、苦労もなく綺麗な家に住めるという、すまれた(八戸弁でうらやましい)人生、家だけにすまれたカ。
 今月号の八戸及び八戸人は二人とも勝手な人生送り、女房がともに美容室経営、俗に髪結いの亭主って言葉があるが、妙な号になったもんだ。こう見てみると、美容師と結婚するのもいいもんだなァ。これから結婚する人は、こんな人生もあるなァと参考にしていただきたい。
 稔氏の子供たちは立派だヨ。親に新築の家を提供するんだから、イヤイヤ大したもんだよ。若い人の力は素晴らしいもんだ、それにつけても、昭 和十年代も年寄りの部類に知らず知らずになりました。こうなるとジタバタしても始まりません。お迎えの来るまでの間を楽しむ心のゆとりを持たないと、あれもしなければこれをもと、焦るこころの浅はかさ。
 その点、稔氏は人をくったところがあって、ゆとりなのか八戸駅のユートリなのか、はっきりピッシャリわからぬが、今日も人生の達人は、尻からヤニの出るようにタバコプカプカスパスパ吸って、一人コツコツ励む夢の大橋、橋の下、ざぶざぶ波は打ち寄せて、人生の波に揺られて揺れて、エンジン動かし船縁修理、重い重機を取り扱って、家に戻れば女房に取り扱われ、なんとはなしに年取って、今日も額の汗ぬぐい、見上げる先は舘鼻漁港、頭の髪のフサフサもいつしか寂しくパラパラとなれのはての秋模様。自分の人生自分の力で切り開き、漁師の親父に慕われて、これから先も生涯現役、がんばりますと一人呟き磯に寄せたるゴミ蹴飛ばして、ミノル商機は今日も行く。