2008年7月30日水曜日

鮫の三浦仲さん春の叙勲・旭日単光章





美容業一筋道の三浦仲さんが六十年の女の細腕繁盛記で、栄えある勲章を頂戴。そもそも勲章には旭日、瑞宝、宝冠の三種類があり、そのおのおのが六つに分かれる。
 旭日は国家または公共に対し功労がある者の内、功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた者に対して授与される。瑞宝は公共、公務等に長年従事し、成績を挙げた者に授与する。宝冠は皇族女子及び外国人女性に対する叙勲など特別な場合に限り授与される。
 三浦仲さんは旭日単光章、美容業で青森県の組合理事長を務めたことが評価された。皇居の宮殿は七つから成る。正殿(せいでん)、豊明殿(ほうめいでん)、長和殿(ちょうわでん)が主なもの。この豊明殿で勲章を授与された。
 仲さんは天皇陛下の真ん前に立ち、お声を直接聞けたと感激。陛下が入殿された瞬間、周囲の空気が変わったそうだ。仲さんは八十二歳、これ以上叙勲が遅れれば自分の足で豊明殿に立てなかったといわれる。昨今は足腰が弱ったとおっしゃる。長い間、櫛一本、鋏一丁を友として美容道を歩んでこられた。
 信念の人、いつも燃える瞳が輝き、発する言葉に重みがあり、言う事とする事がいつも一致。有言実行だけに周囲は圧倒される。
 仲さんの母親は神さんで、周囲の人を明るく元気付けた。あるとき、家に皇居から馬車が来るから、紅い絨毯を用意しろと言ったそうだ。この母親は心臓病を患って亡くなられたが、仲さんを東京の美容学校に送りだした。
 花の都東京だもの、仲さんは帰りたくない。新宿伊勢丹のそばで免許を取って働く。今でも新宿は全国の若い人の憧れの場、この広大な東京で腕を磨き、店を開きたいと心を膨らませる。
 ところが、母親が若い娘一人でいるのを心配して、帰れ帰れと声を大。泣きながら東京と別れを告げ八戸の鮫に店を出す。ここらの話は「はちのへ今昔」に詳しい。ブログにも掲載しているので読んでくれ。
 母親が予言した通り、馬車で皇居から迎えは出なかったが、叙勲の運びとなった。母親にはそれが見えていたのに違いない。仲さんは家庭の事情で満足に学校へも行けなかったが、立派に自分の道を切り開き、美容業界のためにも貢献された。
 東京に店は出さなかったが、アパート経営で夢を果たした。美容の腕も確かでいくつもの賞を得たが、叙勲がそれを証明。そして、平成二十年七月二十八日、八戸プラザホテルで祝賀の宴が開かれ百三十余名が参加。それはそれは盛大でした。
 仲さんは滝沢もとめ県議を応援される。この人は神仏を大事にし、菩提寺、下田阿光坊聖福寺に真っ先に勲章を持ち込み、母親の墓前でその報告をされた。同様な心が仲さんを突き動かし、滝沢県議の初めての選挙では、鮫の蕪島神社にお百度を踏まれた。そして、見事に滝沢氏は当選。この恩を忘れないのが滝沢氏の偉いところで、仲さんを母と慕う。
 それが祝賀会で発揮され、森進一の「おふくろさん」を壇上で仲さんを傍らに歌われた。こんなおふくろさんの歌は初めて聞いた。プロの森進一も歌いながら涙した。それは、森の母親が押しかけで嫁になりたいと言う女の言葉を断れず、その問題がこじれて自殺。それを悲しんで森は落涙。
 滝沢県議も力強く応援、後援される仲さんの努力を身をもって体験されるだけに、仲さんを母とも姉とも慕うのだ。そして歌いながら落涙。仲さんの叙勲を心から喜ばれたのだ。
 美容業界で後輩が先を越し叙勲されたのを見ても、仲さんはしょうがない、実力が私に無かっただけだと笑っておられた。その念願が八十二歳でかなった。なに、逆さから読んでごらんヨ。二十八歳で貰えたんだ。まだまだこれから、これから。昨今耳が少々遠くなられたが、嫌な話を聞かずにすむ。これもまた有難いと思えばいい。世の中は楽しみ方、毎日が楽しい人間が最終の勝利者。有言実行の人には物足らなく見える世の中だが、仲さん、最後は「仏の仲」と呼ばれるように、鋭く見える眼を捨てて、言葉を発せず、いつもニコニコだよ。腹が立つことを見ても、堪忍の袋を常に胸にかけ、破れたら縫えの精神が大事。
 たまさか、この世でご一緒できたことが、これも有難い。仲さんの魂に触れられて、滝沢県議も「はちのへ今昔」も深く感謝しています。最後になりましたが、叙勲、本当におめでとうございます。